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Radiancia  作者: n.s.
1/5

1. Nirkinar - (Limbo) - The sky of the earth





             ◆


 これは少年と少女の物語。二人の疎通を描いてゆく。ゆめゆめ忘れることなかれ。


             ◆


 これは幸せを求める物語。目指すのは子どもたち。ゆめゆめ、忘れることなかれ。


             ◆







1. Nirkinar - (Limbo) - The sky of the earth







1-1.




 目の前に広がる、圧倒的な死と残骸。

 内臓と血とそれらの臭気。都市の砂礫が死と混ざり果てていた。今はまだ生きている者たちも砂礫と血に塗れていた。血の流量と死の総数は増え続けていた。

 人が黴菌か癌の様に清浄な宇宙へと増殖し始めようとしたその時から、審判が下されたかのように地球は地獄になるのだと思った。

 しかしそれは自滅であり、地球人が抗うべき敵はどこにもいなかった。

 閉ざされた空を見上げた。

 空から飛来する敵は存在し得なかった。きっと、いつまでも。

 デディゼンドは思考を遊ばせるのを止めた。

 足を重く踏み出した。

 空まで重なる無窮の罪を背負うため、銃把を固く握りしめ、万死の只中へと進んでいった。




 崩壊した都市。大陸の片隅に噴出した地獄。先進科学によって建造された大都市の死滅。

 折り重なった十の死と、積み重なった百の死、道端に打ち捨てられた千の死と、瓦礫と混ざり合って果てた万の死。崩落したビルの中に埋もれている十万の死と、亡者のように地表をさ迷い歩いている一人の命。

 突如発生した十数分間もの激震。未曾有の事態と死者の数。自分ひとりだけが生き残った現実。




 異国の宇宙から飛び立とうとしていた移民宇宙船は画面の砂塵に変わり、ありとあらゆる情報端末が繋がりを断たれ、全ての機器が死んだ。

 故に、まずは不可知の地獄。個人のわずかばかりの知覚が拾うのは苦痛と血と肉。




「おお、神よ」


 数時間後か数日後に死者となる者たちに恐慌と悪意が与えられた。与えたのは現実。幻想への逃避を許さない絶対的な断絶。彼らは消えない無限の苦痛に取り残された。

 彼らを助け得る心優しい人間たちは既に死体に変わっていた。瓦礫の下に埋まっていた。絶対に起こり得ないことが起きたと、終わりだと、残された生存者たちが理解してしまった。




「逃げられない。助け来ない。皆死ぬ」


 そう叫ぶ扇動者に被災者たちが巻き込まれ、最悪のかたちで本能と悪意に喰われた。弱肉強食の法則が顕わになった。


「手を挙げろ」

「話し合おう」

「よこせ」

「お願い」

「助けて」

「ははは」


 残忍になった少数の者たち。暴力に怯えるだけの多数の者たちはなす術もなく殺されたか犯された。




 デディゼンドがその部屋に踏み入った時は既に坩堝。

 黒の頭髪と靴、朱色と緋色の上下の衣服。災害発生後に都市内に入った彼だけが無傷のままだった。鮮烈な姿が汚れに塗れた部屋の中に浮かび上がった。

埃塗れの男たちは一心不乱に女たちを嬲っていたが、初めに出入り口付近の四人の男がふと彼に気付いた。その下の二人の女は虚ろな表情をしていた。


[座標点定義:数位(フェノ)集積経路(ソルタ)内座標空間:座標0001から0018]


〈実行R:照射座標指定:指定数4:参照:座標0001から0004.

 実行Rより0.9704秒:完了〉


 ガン。

 デディゼンドは男だけを撃って殺した。

 地面を向いたままの二丁の拳銃。漆黒の銃身。

部屋にいた男たちの全てが不可思議な炸裂音を聞いて振り向き、女たちの何人かが目を向け、その全員が右手に銃を持つ彼と背から致死量の血液を流し続ける四体の死体に釘付けになったその時。


〈実行R:照射座標指定:指定数14:参照:座標0005から0018.

 実行Rより0.9704秒:完了〉


 ガン。彼は残る男たちだけを皆殺しにした。


[定義破棄:座標0001から0018]


 残響したのは肉と骨の破裂と倒壊。男たちの背が全て同時に弾けていた。

 絶命。

 鮮血が音を立てて撒き散らされ、そのまま四方に無言が崩れ落ちた。

 硬く重い銃声。正確無比な銃撃。しかし、下に向けられたままの死の空砲。




 男たちの心臓の背側半分を透明なエネルギーで打ち抜いた後、デディゼンドは改めて部屋の中を見渡した。この場の男たちはもう誰も生きていなかった。


「ありがとうございます」


 助けられた女性の一人。比較的早く立ち直り、細かく震えながら彼に感謝してきた。気丈そうな若い女性だった。男たちの残した体液や悪臭に塗れていたが、なおも強い意志の光がその瞳に宿っていた。

 デディゼンドは女性の言葉に反応して僅かに頷いた。そして他の女性たちに焦点を合わせていった。

女性たちは夥しい血溜りの中に手足を浸して放心し、体を折り曲げて震え、布切れを欠き抱いて疲労と恐怖を押し殺し、血と命を失った男たちを見下ろし、あるいはその殺人者である彼から目を離せないでいた。

 おそらくは十代半ばから二十半ばまでの若い女性たち八人全員が彼の言葉か動きがなければ動けないでいた。




 デディゼンドは九人目の女性を見つけた。

 部屋の右奥の片隅で蹲る半裸の少女。水色の服を強引に引き千切られ、白い肌着も強引に摺らされていた。

 幼い胸が肌蹴ていた。

 細い足は青いスカートと赤い血溜りの中で行儀よく折りたたまれていた。

 他の女性たちと同じように、彼女も呆然として彼を見ていた。彼だけを。

 少女の傍らには一人の太った男の死骸。彼が正確に殺していた。

 死骸を一瞬だけ確かめてから、彼は少女に視線を注いだ。

 あまりに幼く、そして美しい少女。幼く美しいために男の一人に連れ去られ、幼いが美しいために彼が心惹かれた。




 つい先程、男が急いで彼女を屋内に引き入れていく様子を遠目に見つけていた。遠くからでも何が起きるのかを理解した。直後、瓦礫の海の上を疾走していた。




 デディゼンドは静かに彼女に歩み寄った。

 女性たちは体を引いて彼を通した。足が動かずとも、僅かでも。声無く、向き合う二人を注視した。

 少女の顔は、男の唾液で汚れていた。小さな唇も、口の中も。小さな舌が彼女のではない粘液に塗れていた。絶命している肥満の男を跨ぎ、少女と目線を合わせた。彼女は横倒しになった棚の上に座らされていた。目線は彼とほとんど同じ高さにあった。

 銃を仕舞い、代わりに服の裏で綺麗な手巾を元素(セミノ)魔法系(カル)で作り出した。


「大丈夫か」


 嫌な臭いのする唾液を少女の顔から丁寧に拭き取りながら言った。

 少女はまだ表情を作れず、体も動かせず、彼にされるままになっていた。けれど彼が彼女の口をそっと開けて溜まった唾液を拭い取った時には驚いたように一度瞬きをした。


「うん」


 顔から手を離した時、かすれた声で小さく答えた。

 ようやく彼は安堵した。

 細く滑らかな淡い色の髪の毛が薄く埃を被っていた。細い手足も薄い衣服も同じように白く埃を被っていた。それはやがて全ての骸を覆う死の国の灰だった。ただ、幸運にも男の体液には濡れていなかった。 

 見つめられ、少女はやや深く見返してきた。淡い青色の瞳が彼を映していた。

 何も言わず、少女の胸元に目を落とした。そして肌着を肩まで上げ、千切れかけたボタンを合わせて少女の胸を隠した。


「ありがとう」


 少女は俯き、小さく言った。

 デディゼンドはその言葉と音声が消えない記憶になったのを感じた。




 皆、命懸けならば歩けそうだった。そう判断した。

 女性たちが言葉を作れない間に袂の少女に顔を向けて目を細め、目を閉じた。

 閉じたまま、しかし何もせず。できず。できないまま、部屋の出入り口に引き返そうとし、体を動かした時、ごく弱く、袖を引かれた。

 驚き、目を開けて動きを止め、ゆっくりと振り返った。

 少女が何も言えないような表情で見てきていた。何も言えず。無垢に、純粋に、見つめ。ただ、ただ、無条件に、心を。曝し、手を動かしていた。いつの間にか、目を閉じていた間に、袖を摘んでいた。持っていた。離さないでいた。話せないでいた。


「助けたかったから助けた」


 誰も動けないままの静寂が過ぎた後、小さな声で尋ねた。


「一緒に来るか?」




             ◇




 あまりにも少ない言葉。言葉の少ない、その少年。けれど優しい表情と声音。およそ理解のできない殺人者の振る舞いに対して、しかし少女は恐れなかった。むしろ、遠いどこかで会ったことがあるかような不思議な懐かしさを感じた。


「うん」


 だから、それは心からの頷きだった。




             ◇




 それから、交わされるべき言葉はあまりにも少なく、陵辱の傷跡のせいで一層少なく、皆が静かに顔を見合わせた。女性たちはデディゼンドに何も聞かなかった。何も。

 彼も女性たちに何も聞かなかった。何も。

 少女は彼の傍で佇んでいた。彼の赤い衣服が彼女の細い体と重なっていた。赤く汚れた服と足が赤い彼と重なっていた。

 一つと八つの思いを、彼は量れなかった。量らなかった。

 誰がどう見ても、彼女が唯一汚されていないことと最も幼いことのどちらかが最も重要な事実であり、どちらかが二番目だった。三番目にやっと、偶然、必然、運命、対価、共時性、というような言葉が横並びで現れては消えていった。

 個人的に選別した、ということの責任を彼が負うのは初めてだった。実はそうだった。今までは無差別に助けるか見捨てていた。

 悲痛と絶望を隠せない、今や八人の女性の代表である気丈な女性に目を向けたまま、だから彼は義務的に告げるしかなかった。


「できるだけ早く西のゲートから逃げろ。そこからなら街から脱出できる。救援が来ている」


 そのように、事前に決めていたことしか言えなかった。


「はい、そうします。助けていただき、本当にありがとうございました」


 女性はすぐに頷いた。まるで決めていた言葉をそのまま言ったかのように。憔悴は隠せず、しかし変わることのない強い意思を見せた。




 彼も頷く以外になかった。そして女性たちから視線を切り、少女を連れ、死者と善悪の街へと戻っていった。




 その後、都市の瓦礫の谷間や嶺を二人で歩いた。二人で歩くことになった。彼の行動の当然の帰結として。責任を持たなければならなかった。話をしなければならなかった。あるいは何かを。

 デディゼンドという赤い殺人者はそのことを絶えず考えながら東回りで北へと歩き続けた。そして殺し続けた。右手の銃で、地に向けたままの拳銃で、ガン、という硬く重い音と共に殺戮を生み出し続けた。彼の視界の中で殺人か強姦か暴行を行っている男たちか女たちの心臓を弾き、街路の埃溜まりや彼ら自身の血溜まりへと沈み込ませていった。彼ら彼女らの全てが彼の姿に気付いてから間も無く撃たれた。彼が撃って殺した。一発の銃声を聞くか、仲間の背中で小さな爆弾が弾けたかのような不思議な光景を見た瞬間に周囲の加害者たちも理解不能な殺戮者の存在に気付いた。多くの者は訳も分からないまま怒り狂い、彼を攻撃しようとして、間も無く殺された。ガン。初めから彼や少女を狙って襲おうとした者たちも簡単に殺された。ガン。その光景を目撃した被害者たちは虚ろな目に彼を映していた。驚くことのできる者の方が少なかった。


「できるだけ早く西のゲートから逃げろ。そこからなら街から脱出できる。救援が来ている」


 デディゼンドは繰り返し言い続けた。彼の言葉には有無を言わせない力強さが込められていたので、被害者と被災者の多くは言われた通りにすぐに行動した。助言は全員が移動を始めるまで何度も繰り返された。市民が道の傍の物陰や形を留めた屋内等の少し離れた場所に隠れていた場合も、彼は簡単に見つけ出した。助けるべき者が子どもだった場合は近くにいる加害者ではない大人を見つけ、子どものいる方を指差して言った。


「できるだけ早く西のゲートから逃げろ。そこからなら町から脱出できる。救援が来ている。向こうにいる、青い服を着た子どもを連れて行け」


 同じように、大人たちが子どもたちの方へと向かうまで言葉を繰り返した。彼の後ろを歩く少女は自分と同じくらいの背格好の子どもたちの悲惨な状態を見て全ての言葉を無くしてしまったようだった。彼女にかけるべき言葉を探しながら、しかしいつまでも無言のまま、彼は子どもも襲う加害者たちを冷静に殺し続けた。ガン。ガン。暗い道の隅や瓦礫の隙間、物陰や屋内で動けないでいる子どもたちも何度か見つけた。埃だらけの子、血まみれの子、殴打の痕のある子、裸の子。彼の背後の少女よりも綺麗な女子もいた。ただ、ほとんどの子どもが声と足を亡失していた。泣くことしかできない子どもも多かった。一人で歩ける子どもは極めて少なかった。子どもを助ける場合だけはほとんど南へと逆行することもあった。彼は透明な目と耳を使って見聞きし、助けるべき者の場所も優先順位も分かっていた。歩いては通れない場所を迂回し、子どもなら通れる場所を通り、加害者を殺し、被害者や被災者を助けた。ただし、重傷を負って命の間もない者は助けず、無言で通り過ぎた。稀に、瀕死の人間の最期を看取ったこともあった。そうして、元は街の車道だった瓦礫の川を遡行した。少女を連れ、東側の内壁に沿って北へと進み続けた。




「止まれ」


[座標点定義:数位(フェノ)集積経路(ソルタ)内座標空間:座標0001から0004]


〈実行R:照射座標指定:指定数4:参照:座標0001から0004.

 実行Rより0.9704秒:完了〉


 ガン。屈強な男が拳銃を片手にしてデディゼンドの前に現れてそう言った一秒後にはもう撃ち殺していた。物陰に隠れていた者たちは一斉に彼の背後に躍り出そうとしていたまさにその瞬間、一人目と同時に殺された。同じ銃声で殺されていた。彼には加害者の場所や殺すべき機会も分かっていた。


[定義破棄:座標0001から0004]


 一撃複数の銃撃で終わった殺戮の後、デディゼンドは浅く溜息をついた。緩慢に下ろされたままの手にその銃は収まっていた。

 全ての殺人で銃口を地面に向けたまま撃っていた。殺された者たちは狙われていたことすら知らなかった。

 しかし、後ろを黙って歩いていた少女はもう知っているはずだった。彼女はいつしか彼の下向きの銃ばかりを見ていた。地面に黒い穴を見せる銃身を見つめていた。


「大丈夫か」


 少女に聞いた。聞いていた。彼女の方に顔を向けていた。結局、それだけが彼女に尋ねられることだった。


「うん」


 単純な返答。彼女は銃へと下ろしていた目線を緩慢に上げ、彼に焦点を合わせてから答えた。




             ◇




 言葉について考えた。彼の言葉について考えた。私の言葉について考えた。

 行為について考えた。彼の行為について考えた。私の行為について考えた。

 壊された街を二人で歩き、多くの死体と被害者を後ろに残してきた。彼は理解できない方法で犯罪者を殺し、被害者に街から逃げる方法を伝えてきた。どうしても助けられない被害者はそのままにしてきた。私は残されなかった。




「あなたは?」


 そう聞いた。そうとしか聞けなかった。それくらいしか聞けることがなかった。その言葉しかなかった。

 一瞬、彼は何故か辛そうな顔をした。それから表情を消した。表情を無くしてしまうその気持ちを彼女は見知っていた。小さい頃の私と同じだ、と彼女は思った。


「そうか、そうだったな」


 彼は呻くように言った。


「すまない。どうかしていた」




 広い車道から離れ、暗く細い瓦礫の迷路を進んだ。どんな道にも被害者や犯罪者が犇いていてもおかしくはなかった。しかし、彼が案内する道には不思議と瓦礫と死体だけが散乱していた。

 死体。死者。およそ五十万の市民の内の誰か。十万以上の死はうず高い瓦礫の中に隠されていた。無数という名の不可算の死は砂塵の向こうに隠されていた。

 異臭は、感覚が麻痺していたから、濁った海の藻類だった。それに、破滅の時刻から続く、ゴゴウという鳴動。彼女をずっと揺らしていた。

 少女はその頃になってやっと思い出し始めていた。記憶を取り戻しつつあった。都市は長時間の振動に襲われた時からずっと砂塵と鳴動に覆われていた。死んだ街は燃えず、死者たちをその砂礫の中に閉じ込めようとしていた。


「デディゼンドという」


 だから彼に守られていると彼女は分かった。感じた。濛々と立ち込める建築物の成れの果ての海と陰に埋もれ、先程の殺戮の歩みの中よりも、一層。

 彼は不特定多数の被害者の中から彼女を選んでいた。明確に。彼が彼女と二人でいる時間が増えれば増えるほど、その分だけ彼が多くの被害者を助ける時間を失っていた。

 今は、彼女だけが助けられていた。


「デディゼンド。だが、ディズでいい。そう呼んでくれ」

「うん」

「大丈夫か」

「うん」


 言葉の少ない彼。少年。そして私。二人の子ども。どこまでも、あくまでも。

 既にそのことを分かっていた。分かってしまっていた。あるいはそのように錯覚していた。発話を得意としないのは私も同じだと考えながら、先導する少年を見つめた。人を殺すか、助けるか、無視する人を。極めて稀に看取る人を。


「レイディア、イチカ」

「分かった」


 彼女の名を聞き、彼は頷いた。


「お前は賢いな、レイディア」


 名の確認でもあったのだろうか、名を呼ぶ許可の確認でもあったのだろうか、続けてそう言った。他意はなさそうだった。

 少女、レイディアはうまく答えられず、僅かに目を伏せた。

 それから、彼、デディゼンドは砂埃の充満する方向へ視線を転じる、というような動作をした。何かを躊躇しているような仕草だと思った。


「あの男に、あの場所に連れ去られる前に、何かされていたか?」

「ううん」


 その問いには、レイディアは素早く答えられた。


「何も。歩いていたら後ろから掴まれて、そのまま連れて行かれただけ」

「そうか」


 彼の言葉はそれで終わった。

 けれど彼女にはまだ言っておかなければならないことがあった。それをその瞬間に思い出していた。


「連れて行かれる前に、外じゃ危ない、あいつらと一緒ならって独り言を言ってた。それと、途中で、背中から血を流して死んでいる人がいた。それを見てひどく怖がってた」

「それはきっと、俺が殺した人間の一人だな」


 彼は何事もなく頷き、肯定した。

 嬉しいという気持ちだろうか、これは、と彼女は思った。歩きながらではなく、落ち着いて話せたらいいのにと思うことは、と。


「あなたは二度も私を助けてくれた」

「蓋然的なこと、必然的な偶然だった」


 そんな不自然な返答に表れていたのは無感動とは程遠い感情だった、とレイディアは独善的に感じた。これは嬉しいという気持ちだろうと彼女は思った。

なぜなら、言葉の足りない人ではあっても、語尾を、優しく発音していた。してくれていた。それはきちんとした発語だった。


「助けてくれて、ありがとう」


 だから、自然に言えていた。

 デディゼンドは立ち止まり、振り返ってきた。子どもが持てるものではない双眸を向けてきていた。初め、彼女に裾を引かれた時のように。


「ああ」


 彼はほんの少し笑い、そう言った。子どもを相手にする大人のように。




             ◇




 レイディアは反応を返せないようだった。俯いて幼い謙虚さを示していた。デディゼンドはその仕草を理解して見逃さず、追求しないことで見逃した。


「すまない。初めから安全にこうして歩くべきだった」

「私は大丈夫」

「そうは見えない」

「分らなくなっているのかも」

「分からない?」

「うん。こんなことになって。今も、感覚がよく分からないような気がする。現実じゃないみたい」

「それは、そのままでいい。大丈夫だ」


 少女はくすくすと笑った。


「何がそんなにおかしいんだ?」

「あなたが、私が大丈夫って言った時にそうは見えないって言ったのに、すぐに大丈夫だって言ったから」

「ああ、そういえば、そうだな」

「これから」

「どうした?」

「ううん、なんでもない。ごめんなさい」

「いや、聞いていい。気になって当然だ。これからのことか?」

「うん」

「今は夕方の少し前だ。もう少し歩いたら休もう」

「暗くて、もう夜みたい」

「埃が舞っているから、ここまで光が届かないんだ」

「ここはどうなってしまったんだろう。こんなことになるなんて、思ってもいなかった」

「誰もがそうだ。今は考えなくていい」

「うん」

「大丈夫か?」

「うん。大丈夫。まだ歩ける」


 予告なく、彼は少女を背中に抱え上げた。


「え、と」

「いいから」




             ◇




 そう言われた途端、デディゼンドの背中は幼いと言ってもいい程の年齢のものになった。十二歳の自分とほとんど同じ身長の男の子がレイディアを背負う人だった。

 もちろん、初めから彼はそうだった。子どもの姿で大人を殺していた。分かっていた。けれど、彼女はそのことの本当の意味を正しく認識できていなかった。どうしてこの人はこうなのか、ということを。彼女は混乱した。把握できなかった。


「どうして」

「聞きたいことはたくさんあるだろう。だが、今は静かに休んでいてくれ。お前は自分が思っている以上に疲労している」


 大人の口調で彼は言った。子どもの声帯で。しかし無邪気さのない、低く褪せた声色が届いてきた。

 少年の足取りは軽く、自分と同じくらいの体重をまるで負担に感じていないようだった。まるで大人のように、微塵の揺らぎもなく彼女を背負っていた。

 レイディアは混乱した。混乱していた。あらゆることが考えられた。何も考えられなかった。


「うん」


 結局、大人しく答えた。けれど、出来心で、その後すぐ、ほんの少し、反抗したくなった。


「お願い」

「何だ」

「あなたのしたいことをして。私は大丈夫だから」

「分かった。そうする」


 自分の言いたいことをすぐに察してもらい、彼女は安堵した。そして、あれらの行いが彼のしたいことだという言い方を否定しなかったことに、もう一度安堵した。


「一つだけ、つまらない質問をしてもいい?」

「なんだ?」

「あなたは、天使か悪魔なの?」

「はは」


 少年、デディゼンドは笑い声を零した。

 定型句のような質問を聞いて怒らず、愉快に思っているようだった。そうしながら、不意に空中に浮かび上がった。歩いては越えられない巨大な瓦礫の山を飛び越えた。彼女は突然重力を無くし、言葉を失った。

 そんな超常的な現象についての説明はなく、彼はそのまま地面に着地して再び歩き始めた。背中の様子に気付いていないはずがなかった。


「そんな単純な生き物だったら、どれだけいいだろう」


 そして、そのまま、呟くように答えた。


「人間だ。生い立ちは特殊だが、この地球の暦で十二年前の二月に地球上に生まれた人間で、天使でも悪魔でもない」

「私も。十二年前の一月生まれ」

「同い年だな」

「うん」


 その頃にはもう、麻痺という安心が、絶対的な安堵があった。それは彼から伝わってくるように感じられた。闇が、闇が、闇が、彼の闇と闇と闇が。彼は決して天使ではなく、それと対立するものでもないと分かるほどの闇が。闇が、彼だった。分かっていたはずだった。分かるはずだった。十二歳の男の子の姿をした彼に最もふさわしい言葉を見つけた。


「死神の神さま?」


 空気に溶かすように言葉にした。懐かしさを感じてしまうのは私が死に近づき過ぎているからかもしれないと思った。

 そしていつしか闇の安堵に飲み込まれ、眠りの場所に落ちた。死神でも構わないと彼女は思った。

 連れて行って、と願っていた。




             ◇




 レイディアが眠るように気を失った後、デディゼンドは救助と殺人を再開した。決して多くはないが少なくもない加害者たちを殺しながら歩いた。そして被害者や何もできないでいる被災者には「できるだけ早く西のゲートから逃げろ。そこからなら街から脱出できる。救援が来ている」と助言を繰り返した。片手を彼女に添え、もう一方の片手に空砲の死の銃を握り、今も高く聳える都市内壁を横目にして北を目指し続けた。一人一人殺しながら。一人一人助けながら。




             ◇




 小さな背と暗闇を覚えていた。無明の闇を見ていた。果てしないほどに長いまどろみの中、小さいけれど柔らかな揺れの中にいた。

 憶えていた。闇の中を進み続けているのを感じていた。時折闇を叩くような銃声が起こり、近くにいる誰かに同じ言葉が繰り返されるのを聞いていた。それは何度も何度も繰り返された。

 果てしないほど繰り返される小さな揺れと大きな銃声と言葉を聞き、いつしか再び眠りに落ちていった。




 雨の音。幕のような雨の音。サー、と地面の上に落ちる無数の雫。塵を洗っていた。砂の埃と血の煙を。

 闇の眠りから目覚めたレイディアの隣にデディゼンドがいた。小さな椅子に座り、薄く目を開けた彼女を静かに見下ろしていた。

 何も言わず、見つめていた。

 意識が外に焦点を合わせる前に、しなければならないことがあるような気がした。朦朧としながら思った。でなければ、破裂してしまうような感覚が、頭の根元の底に、硬くあった。


「気分はどうだ?」


 それを彼がした。

 聞くことで。傍にいることで。見守ることで。闇色の瞳をこの青い瞳に向けていた。それで、彼女は一度目の崩壊の危機から救われたのだった。

 小さく頷いた。

 彼は明らかに安堵した。だから、取り乱した方がよかったのかもしれない、と彼女は意地悪な思考をした。そう思い、自然と安心できた。




             ◇




 安堵した。しかし、それからどう話しかければいいのか分からなかった。

 切れ切れの表象は知覚の空漠の彼方へと消えていた。結局、何も考えていなかった。この子をどうすればいいのだろうと思った。

 けれどレイディアはこの無言を気にしていないようだった。綺麗な毛布の下で安らいでいた。

 その理由を考えた。考えたが答えは出ないままで、結局、そのままの無言をよしとした。するしかなかった。

 その時、彼女が赤い服の袖を摘んだ。出会った時のこと、僅か半日前のことを思い出すには十分だった。




             ◇




「ディズ」

「なんだ?」


 初めて名を呼ばれても、デディゼンドは冷静に答えた。


「ここは、どこ?」

「街の北側の建物の中だ。倒壊する危険はない。少なくとも、この辺りで一番安全だ。当面必要なものもここで揃えられた」

「誰もいないの?」

「近くには誰もいない」

「どうして」


 ふと生まれたその問いは、ある種の義務のようなものだったのだろうか。

 しかし、その破滅性に気付かないまま、レイディアは自分の体を持ち上げた。そしてしばらくの時間を垣間見た。ぼんやりと、今何時だろう、と。少女の表情の静寂を見る少年を見返して、本来ならどこかに人工の明かりが必要であることに気付いた。その時になってふと気付いた。けれど、見回しても二人の周囲には光源はなかった。それどころか、明るい場所は二人の周囲だけで、少し奥の方の雨が聞こえてくる辺り、恐らく窓が割れているところは真っ暗で何も見えなかった。自分のいるところがこれほど明るいのなら本当ならもっと遠くの、少なくとも窓の辺りまではものが薄明るく見えるはずだと思った。また、手元を見ると、自分の手の表も裏も光の中にあり、指の間に影がなく、どこにも、どこまでも、暗く黒い箇所がないままだった。それはとても不可思議な光景だった。生まれて初めて知覚する、奇妙な光の現れ方だった。

 破滅の縁で魔法を見ていた。それは魔法の光だった。


「カル、という、地球で言う魔法の力でこの光を生み出している」


 掌の子細を見つめたままの少女に彼は言った。


「光という現象を周囲に限定的に生み出している。外からここを見ても暗闇があるだけだ」


 そう言いながら、彼は胸元から小さな石を取り出してみせた。楕円形の、滑らかな光沢を持つ乳白色の石。トパーズのように柔らかく煌いていた。


「正確にはこの石が一定範囲の空気中にエネルギーの場を張り、同時に、そのエネルギーを外側に漏れないように光に変化させている。そのように作られている。灯火のエンテルと言う。ここでは最小限のカルしか使うことができないから、ここに来るにはこういう石が必要だった」

「ここに?」

「ああ。俺は外からここに来た。だから、事態の推移はある程度把握している」


 デディゼンドは魔法の石を仕舞い、時間を区切るように言った。辺りは変わらず明るかった。




「生き残った者は少ない」


 限定的で普遍的な明かりを通して向こうの暗闇を見ていた。その言葉で少年へと視線を戻した。赤ん坊のように。

 そして、思い出した。フラッシュバックのように。

 あまりにも長い激震の後、ほとんど全ての建造物が倒壊した光景と、つい先程の自身の疑問と、地獄を。現実と疑問と地獄を。


「この建物は奇跡的に倒壊を免れたが、地上部分には誰もいない。生存者は。倒壊に巻き込まれなかった市民のほとんどもショック死している。揺れと共に市民を襲った、目に見えない衝撃が生き残れるはずだった人間の多くを殺したようだ。その衝撃のせいで、数少ない生存者も正常な判断を取りにくくなっている」


 正午過ぎのことだった。その時まで、私は公園で何もせずに時間を過ごしていた。公園にいた人たちの半数以上が激震の中で一斉に痙攣して死んでしまったのを思い出した。そんな悪夢から逃れるために走り、街の中をさ迷い歩いたことを思い出した。

 崩壊した建物と灰色の光景。この目と耳と鼻と皮膚を侵したむごたらしいもの。生き残った者たちの残虐と被虐。

 血と骨と内臓と糞便と目玉。

 家族を失った現実。

 そして犯罪者たちの叫びや笑いを思い出した。




 レイディアの場合は、心が弾けて壊れそうになった。弾けて壊れかけた。

 必死に耐えた。胸の前で強く拳を固め、背を曲げて俯いた。体中から温度を奪う汗が溢れ出した。体が小刻みに震えた。逆流する胃酸のような涎が止まらなかった。


「どうか」


 必死で耐えた。思った言葉がそのまま口から洩れ出た。

 彼女は死の恐怖を知った。恐怖した。彼女はきっと死んでいた。きっとレイプされて殺されていた。

 それはわずか数分の危機。自我の瓦解に耐え切る現実。

 どうか。


「どうか」




 それはただ耐えることによって。それが彼女の強さだった。強さとなった。強さが示された。そして彼女も示された。

 心の傷は深く開いたまま、体は崩れ落ちてしまうほど疲弊したまま、もう普通ではなくなってしまったと彼女は分かった。朦朧としながら、私は死ぬまでずっとこのままだと理解した。女性たちが犯されていたあの光景が思い出された。無理やり唇をねぶられたことも思い出してしまった。この記憶、この喪失とこの汚れはいつまでもなくならないと知った。それもまた頭を垂らせ、存外に強く心を蝕もうとするものだった。見えるものは絶望という、底なしの泥沼に埋没させる観念だった。耐え続けなければならなかった。いつまでも。どこまでも。この地上こそ真暗闇の奈落だった。今のこの時は、いつまでもどこまでも流れ続けているようだった。そこは無に至る空虚の口腔、死を望遠する断崖だった。だから今まで以上に悪寒が体中を震わせた。何も分かっていなかった。初めて分かった。このまま、独りで、普通でないまま生き続けなければならないことこそ悪夢だった。けれど死ねないということが絶望だった。掌と頭にそれが滲んだ。死んでしまえ、という声が生まれた。

 耐え続けた。きつく目を閉じ、頭を垂らし、喘いだ。

 デディゼンドが見守っていた。黒い髪と瞳の少年が。

 気付き、思い出し、目を開け、彼を見た。

 恐怖と、恐怖と、恐怖が、彼に沈み込んだ。


「あ」


 レイディアは声を洩らした。それはひどくかすれていた。

 闇色の瞳。空漠として不確かな光明。幼い少年の体をしたデディゼンド。

 さらにもう一度助けられたのはその時だった。彼女は無罰で無償の指向性と接触した。

 そして、いつの間にか、本当に耐え切っていた。


「もう大丈夫だ」


 彼は言った。


「ゆっくり息を。横になっていれば大丈夫だ」

「うん」


 死んでしまいそうな声が出た。言われた通りにゆっくりと息をした。横になったまま目を閉じた。

 顔がもう一度拭われたのが分かった。

 ゆっくりと息をついた。それを繰り返した。そうしていると、だんだんと、疲労が下の方へと沈んでいった。

 しかし、もう普通ではなくなってしまったと、朦朧としながら理解していた。私はもう戻れない、と。それもまた頭を垂らせ、存外に強く心を蝕もうとするものだった。絶望という、底なしの泥沼に埋没させる観念だった。それでも、でも、と思った。


「ありがとう」


 倦怠に沈みながら、呼吸を落ち着かせながら、額に滲む汗を拭ってくれる少年を見ながら、でも、でも、と心の中で繰り返し、彼と今の自分を肯定できる言葉を探し続けた。




             ◇




 次に、生理的な苦しみが表出した。水場は同じ階の端にあり、潰れてはいなかったが、もちろん水は流れなかった。デディゼンドは恒体(エンテル)の光が個室の中まで届くところで待った。夜食は彼が飲食店の中から取ってきておいた果物と飲料水だった。レイディアは林檎一つを長い時間をかけて食べた。体の汚れについては、湿らせたタオルで髪や手足を拭いて済ませることにした。

 最後まで、彼女は泣き言一つ言わなかった。


「寝付けないのか?」

「うん」


 沈黙が湧き、そのまま流れ続けた。


「あなたは、寝ないの?」

「ああ」


 彼は沈黙を尊んでいるわけではなく、適当な言葉を付け加えてみることにした。


「お前が眠ったら寝る」


 彼女は頷かなかった。毛布から頭を覗かせ、無言で彼を見ていた。


「なんだ」

「ううん、なんでもない」


 落ちつかなげに身じろぎして視線を外した。瞼を閉じることで。


「大丈夫だ。ここは安全だ」

「うん」

「夜が明けるまで、何も考えずに横になっていたらいい」

「うん」


 今までと比べると少し遅い返事だった。少し寂しそうな声だ、と彼は思ってしまった。即座に自惚れと欲を殺した。

 何かを言おうとして目を開けてみると、彼女はこれから穏やかに息をついて眠りの中に入るところだった。

 程なくして彼女は寝入った。一時間後の夜明けまで、彼も座ったまま少しだけ眠った。




 夜が明けた。


「気分はどうだ」

「大丈夫」


 少女にとって必要なことと、果物と水だけの朝食を終えた。デディゼンドは椅子に座って待っていた。昨夜と同じように、物を口に運ぶことすらしなかった。

 それから、レイディアはデディゼンドの言葉と動作を大人しく待っていた。やはり賢い子だ、と彼は思った。


「何か、聞きたいことはあるか?」


 そう言ってから、これはひどい言い方だったろうか、と彼は思い直した。こんな時、こんな人間に一体何を聞けばいいというのか。


「これからのこと」

「まず、今日中にこの街を出る」


 少女はそれでも聞いてきた。その意志に応えなければならなかった。ならばと、伝えるべき言葉は自然と浮かび上がった。


「そうだな、昨日は何も言っていなかったが、基本的に、俺が何も言わない時でも安全だ。多少離れていても。姿が見えなくても」


 先程、彼女が一人で水場に行く時に何度も不安そうに振り返っていたことを思い出し、先に言っておくべきだったか、と思いながら説明を続けた。


「見えない目で、普通とは違う見え方で周りを見ている。互いに姿を直接見られなくなっても、俺が特に何も言わなくても、危険はない」


 そして、これから少しずつ彼女に話さなくてはならないことと、彼女が聞いてくるであろうことを考え、気分を憂鬱にした。


「これからも話さなくてはならないことが、たくさんある。聞きたいことがあったら、いつでも聞いてくれていい」


 罅割れているであろう少女の心の内を慮り、地獄と地獄と地獄のことを思い、彼女を取り巻く事象と彼女の認識のバランスについて考えた。

 俺は今、笑みをつくれているだろうか、と考えながら。優しく言えているだろうか、と考えながら。


「うん」


 その声。彼の心配を覆すように、彼女は今までで一番力強く答えた。

 彼は感心した。そのことに。このことに。それらのことに。これらのことに。レイディアという、一人の人間のかたちに。




「あなたはどんなことができるの?」


 数十体の死体の散らばる薄暗いフロアを歩いていた。


「光の速さでの移動以外なら、ほとんど何でも。この手では動かせないものを透明な空間のエネルギーや運動エネルギーで動かすことができる。この目や耳では感じられないものを透明な感覚で感じることもできる。空気から水や硝子を作り、火や光を生む。機械のように正確に速く動き、現象を数的に計算できる。体を頑丈することも、体に大きな力を生むことも。そして、ものを完全に破壊することもできる」


「私の心も聞こえるの?」


 それはいい質問だと思った。


「人の心は聞かないようにしている。しかし、そもそも人の心は簡単に聞けるものじゃない。限りなく完全な精度で観測しない限り、聞こえるのは宇宙の雑音だけだ」


 正直に答えた。




「レイディアは今、俺を何だと思っている?」


 今度は彼の方がふと気になったことを聞いた。

 二人は数体の死体の転がる薄暗い階段を降りていた。


「違う世界から来た、死神の神さま」


 なるほど、と彼は思った。




 棚の商品を視線で物色しながら伝えた。


「街から出た後も安全は保証できる。メカナという世界の、イミナミアという場所に行く」


 レイディアは彼の真似をするように、まるでそのような類の物を初めて見るように、左右に陳列されている女子用の衣服に視線を向けていた。

それらのどれもが今着ている服よりも比較的良好な状態なものだった。釦の千切れかけているそれは埃と皺ばかりになっていた。あの男の血にも汚れていた。


「選ばないのか?」


 少女の無言に対し、振り返って聞いた。


「俺にはこういうのは分からない。好きなのを選べばいい」


 このフロアに来る前、同じ説明がされていた。もう平和な社会の規則はどこにもないと理解しているだろう、と判断していた。

 彼女はここに来てから急に感情の波を小さくしていた。沈んでいた。異なる世界についての説明を中止し、歩行を止めなければならないほどに歩調が鈍っていた。


「どうした」

「ううん」


 ううん、か、と心の中でその返答を繰り返した。それは初めて示した明確な否定の言葉だった。その理由を考えたが、分からなかった。いろいろなことが考えられたが、どれもが正しくどれもが間違いであるような気がした。


「こういう服は、嫌なのか?」


 その後の彼女の視線を追った。男子が身に付けるような衣服の陳列棚に辿り着いた。床に折り重なっている二体の死体を隠すように皮製のズボンが整然と垂れていた。


 こんなことでも少女は性について追い詰められていた。


「ん、確かに、こういう服は、実用的ではないな」


 自由に体を動かせる男子の衣服とは違い、この場の女子の衣服はおよそ着飾るためのものだった。彼女が狙われた原因はこのような可愛らしさにあった、と考えるのは容易だった。事実、彼女の着ている服は質素だが可愛らしいものだった。都市内の学校の制服だろうか。

 彼女の方は、尋ねられ、目を落とし、汚れたスカートに手を当てていた。




 十二歳の女子。略取と強姦未遂の被害者。最悪の結果は免れたが、精神的にはほとんど手遅れと言ってもいい。殺人と強姦、夥しい暴力の目撃者。あまりに多くの犯罪を見た。男と女の裸と性器、暴力と血と精液、変形した無数の死体。加害者の怒号と被害者の悲鳴、体液と糞便の悪臭に曝された。更には世界の終わりの生存者。想像もできない圧倒的な破壊、日常と常識の崩壊を体験した。激震が始まった時刻には学校にいたのか? 彼女が生き残った理由は不明。家族や友人の生存は絶望的。略取されるまでの行動も不明。近しい者たちの遺体を後ろに残してきたかもしれない。絶望と地獄。そして今、一人きりで俺といる。一日が経たない内に、彼女は何度でも試されてきた。そして、これからも試され続けるだろう。


「どうする?」


 考えれば考えるほど彼女が非常に危うい精神状態にあると理解できた。慎重に綱渡りをしていたつもりだったが、朝の会話と笑顔はどれほど危ういものだった?

 十二歳の女子。略取と強姦未遂の被害者。殺人と強姦、夥しい暴力の目撃者。世界の終わりの生存者。絶望と地獄。

 どうしようもなかった。どうしようもなくなり、なぜかあの女性たちを思い出した。道端で動けなくなっていた子どもたちを思い出した。殴られて震えていた女性たちを思い出した。心を殺された子どもたちの体と表情を思い出した。撃ち殺した男たちの下にいた女性たちの体と表情を思い出した。それらの表象を目の前の幼い少女に重ね合わせた。思わず、重ね合わせてしまった。

 俺にも汚されたも同然だ、と思い、思考も沈んだ。

 この世が地獄だと知っている。この世が地獄だと知っている。この世が地獄だと知っている。何度繰り返せばいい?

 沈黙していた。二人の間の沈黙は突如として取り繕えないものになっていた。どちらともが何も言えないままでいた。

 やがて静寂に気付き、もう手遅れか、と仕方なく思考を浮かび上がらせた。沈黙したまま考えた。か弱い少女は俯いたままだった。

 そう、さらに絶望的な現実は、ほとんど全て失ったとはいえ、それでも彼女は被害者の一人に過ぎない、ということだった。

 それがどこまでも救われない現実だった。失ったのは彼女だけではなかった。むしろ彼女は無事だった。大多数の市民は瞬く間に瓦礫に埋まり、男は殺され、女はレイプされた。

 生き残ってしまった、という心の叫びは誰にも聞き届けられない嘆きだった。彼女一人の地獄は普通の地獄に埋もれていた。

 年齢は十二歳。孤立した被害者。自我が保たない。

 それがこれからも救われない現実だった。彼女がどれほど強くとも、その自我、精神はもう既に地球の静かな安寧から逸脱してしまっているはずだった。もうどうしようもなかった。

 できるだけ早く、安全な場所で休めるようにするしかなかった。

 可愛らしい服の陳列の中で、少女に被さる埃の膜が異質だった。これはどういう状況だ、と思った。ああ俺のせいだったか、と気付いた。


「レイディア」


 小さく言った。


「着たい服を取ってきていい。何でも」




             ◇




 今度こそ、私の心は壊れようとしている。レイディアは思った。

 でなければ、こんなことを考えるのはおかしい。こんなことを言おうとするのは。

 顔を上げた。彼の表情は寂しげで深刻なものだった。それを自分に照らし合わせると思わず笑みが生まれそうになった。

 いいんだ。決める。決めよう。

 決めた。

 その瞬間、確かに彼女の心の大事な一部分が壊れた。けれど、あまり苦しくなかった。むしろ心が軽くなった。


「ううん。大丈夫。ここの服でいい」


 昨日の夜に続き、ああもう私は、と思ったが、代わりに心が軽くなった。心の他の部分が死なずにすんだ。そして、受け入れる、ということを知った。




 きっと、無意識の内に、その時点で、自分が少女であることを私は理解していた。

 壊れたのは倫理。不確かなものとはいえ、私は一つ目の自由を得た。




             ◇




 彼女は強い、とデディゼンドは思った。泣き言を言わない彼女の強さを評価した。一方で、大丈夫だろうか、と不安になった。

 微笑みと返答内容の理由が分からなかった。不謹慎にも心を動かされた。彼女の心のあり方に興味を持った。


「いいのか?」


 だからそう聞いた。なぜだ、という言葉を飲み込んだ。

 なぜなら、彼女は震えていた。彼は全身を戦かせるそのような立ち姿を不思議に思った。


「うん」


 彼女は震えたまま、微笑んだまま答えた。確かな正気の光を青い瞳に湛えて。

 その時、彼は恋に落ちた。




 その後、早速服選びが始まった。それまでの塞ぎ込みようがまるで嘘だったかのように、レイディアは陳列された色とりどりの服を足取り早く品定めしていった。

 結局選んだ服は三着で、全て簡素なワンピースだった。彼女なりの考えが浮かんだのか、空色、薄黄色、白色の生地の綺麗な衣服を慎重に手に取った。他の場所からも下着や靴下等の必要な衣類が選び取られた。

 デディゼンドはその合間に旅行鞄を探し出していた。一つだけ持って来ていた小さな無色(ロミクァ)恒体(エンテル)を許容範囲内の重さの鞄の中に入れ、風船と同じように常に宙に浮かぶようにした。


「ものを入れすぎなければ、この重さのままだ」

「ありがとう」


 簡単な説明を聞き、彼女は素直に驚き、喜んだ。

 今度は地階に行き、食料品を探し回る彼女の後ろをついて回らなければならなかった。死体の他、実はその場所には数名の生存者が存在していた。

 皆が男で、食料を独占するために薄暗い地下に居座っているようだった。あるいは絶望したまま暗闇から動けないでいた。デディゼンドは灯火の恒体(エンテル)を灯していたが、子どもの足音に気付いたのだろう、まず一人の男が背後から彼女の方に襲い掛かろうとした。


〈実行R:照射座標指定:指定数1:参照:座標0001.

 実行Rより0.9704秒:完了〉


 ガン。

 一瞬後、彼女と多くの男たちが硬い銃声から真新しい死体が作られた光景を目撃し、男たちだけが目を剥いて彼から離れた。ひ、という短い声を出し、暗闇に逃げ込んだ。目撃はしなかった男たちも不可解な事態を察し、忌み嫌うように二つの足音から逃げ惑った。

それからもレイディアは意欲的に動いた。死体や男たちが視界に入っていないかのように怖がらずに辺りを見回し、歩き回った。彼は黙って一緒に行動した。

 彼はそのことについて言語化しようかと思ったが、多くは要らないと言っておくだけに留めた。

 暗闇と恐怖に囚われた男たちには何も言わなかった。レイディアという少女を選んだ彼の、それが善悪の境界となった。




 雨が降り始めたのは旅行鞄を一杯にして出入り口前のホールに立った時だった。


「傘がいるな」


 デディゼンドは呟き、レイディアをその場に残し、階段へと戻っていった。

 彼女は少し不安そうな表情をしたが、おそらくはすぐに彼の言葉を思い出したのだろう、ホールのソファに座って大人しく待つことしたようだった。

 一人になってから、彼はあの少女のことを考えた。恋に落ちた瞬間を思い出した。彼女の体温と言葉と仕草を思い出した。今までの自分を思い出した。どの自分だ?

 彼は苦笑した。突如として彼女のことが好きになった後も彼は前と変わらず冷静だった、筈だった。彼女に会う前と、会った後と、恋に落ちた後の三つの自分は同じような言動を取っていた、と自己評価した。これからも同じように振舞えるだろう、とも。

 だから、胸の内に秘めていよう、と決意した。簡単に。あまりに簡単に。簡単すぎるほどに。

 十二歳の少女。孤立した被害者。自我が保たない。

 少女レイディアについて繰り返し考えた。そしてどうしても、彼女の強さと美しさが繰り返し思い出された。

 彼女が汚されようとしていたことも思い出された。その記憶は存外に彼の心を蝕んだ。彼は内心で驚いていた。慎重に行動しながらも驚きを処理し切れないままでいた。

 冷静に対処しよう、と意識して心を定めた。




 外は雨と瓦礫の砂漠だった。

 二人はその目前、一夜を過ごした建物の外に立っていた。小雨が三歩向こうの外の世界に降り注いでいた。雨は一時止み、つい数十秒前から再び降り出したばかりだった。天候も狂い始めていた。

 瓦礫は簡単には失えない石の渇きをその表面に残していた。レイディアの手には空中の旅行鞄に結んだ紐が、デディゼンドの手には銃と大人用の傘があった。


「体を洗わないといけないな」


 雨の方を見て、彼は言った。


「この雨で体を洗うといい。これからメカナに着くまで、体を洗える機会は滅多に無い。この雨は丁度よかった。拭いただけでは気持ち悪いだろう。服も着替えたらいい」


 彼女は驚いていた。


「雨で体を洗うのは初めてか?」

「うん」


 それもそうか、と彼は思った。地球で普通の生活をしていれば、そんなことをする機会は一度も無いはずだった。


「どうしても嫌だったら、構わないが」

 無論、彼女の真新しい性的な心的外傷を忘れていたわけではなかった。誰にも見られなくとも屋外で裸になる状況は心の傷を刺激しかねないと分かっていた。


 ただ、レイディアの強さを考慮に入れた、提案だった。


「ううん、あなたの言うとおりにする」


 しかし、少女は明らかに無理をしていた。

 冷静であるはずの人殺しの非日常的な言動が幼い被害者を揺さぶっていた。俺は愚かだ。彼は過ちを認め、後悔した。


「その」

「ああ、すまない。ホールの見えないところにいる」


 そして、好きだからだ、と浮かんできた言葉を飲み込んだ。


「誰も近づけないようにしているから大丈夫だ。それでも、何かあったら呼んでくれ。終わった時も。小さな声でも聞こえる」


 考え事をしていたのを気付かれたな、と思いながら。




             ◇




 瓦礫の海の雨に臨み、そっと釦に手をかけた。

 気持ちを落ち着かせた。思われることはなかった。何も考えずにいられた。

 もう使えなくなる自分の服に手を置き、透かして自分の体温を感じ、残念に思い、このままここで脱ぐのは勿体ないと思い、服を着たまま雨の下に歩み出た。

 薄明るい空を仰ぎ見た。思われることはなかった。何も考えずにいられた。

 彼の言葉を思い出し、彼を信じ、服を脱いだ。靴も下着も。全て海底の嶺に捧げた。

 雨が冷たかった。生まれたままの姿になり、海の底に沈み、水が冷たいと感じた。

 自分の裸を見下ろし、女子であることを確かめた。

 彼をあまり待たせてはいけなかった。そう考えると、彼に助けられたことが思い出された。思い出してしまうのはどうしようもないことだった。

 薄明るい空を仰ぎ見た。思われることがあった。睫に雫を作るこの雨について。

 全身を雫が洗うこの時、その現象について考えた。この時、その現実について。冷たい雨に打たれる、今ここ、について。今ここで冷たい雨に打たれる、私、について。

 つまり、(ただ)一つ、ということ。私は()められている、ということ。

 おかしくなるのは仕方がなかった。誰も彼もが。どうしようもなかった。誰も彼もが。泣きたくなった。泣こう、と思った。泣けなかった。その心は失われていた。そうだった、と思い出した。

 そして、彼のことを想いながら小さな体を雨に任せた。




             ◇




 柱の影に背を預け、彼は少女のことを考えていた。けれど新しい言葉は何も浮かばなかった。考えているとは言えなかった。思い出しているだけだった。

 小さな声で呼ばれた時、レイディアはホールの一歩向こうの外で静かにデディゼンドを待っていた。新しいワンピースを着ていた。

清らかな白。柔らかく灰色を切り取って薄闇の中に綺麗に浮かび上がっていた。


「レイディア」


 呼びかけに応えた時まで動揺が続いていた。

 少女は涼やかに見返していた。デディゼンドは彼女の意志の指向性を読み取れた。その瞳は青く澄んでいた。青く澄んだ瞳で彼を見つめていた。

 そして、委ねる、という意志を表わしていた。そう思われた。伝わってくるのを感じた。

 彼は体を熱くした。


「お前は馬鹿だ」


 思わず言っていた。


「うん」


 素直に彼女は答えてきた。動揺することもなく、自然に。


「うん」


 言葉は繰り返された。言外の意味が込められて。決意を読み取ってくれたことへの感謝も込められているように、浸潤に。

 デディゼンドはレイディアの透き通るような淡い金色の髪に気付いた。雨の涼気に浸る体にも。認識した。手を伸ばして触れたいと思った。


「それは幼稚な諦めだ」


 しかし欲を抑え込み、相手の行いを断じた。客観した。客観する言葉を先に吐き出し、主観を言葉にしなかった。

 決意を受け止めない、という表明にも等しかった。お前の決意を受け止めない、という拒絶だった。


「うん」


 しかし、言葉は繰り返された。彼は驚いた。次に少し呆れた。苦笑した。


「うん、しか言えないのか?」


 それには、彼女は微笑みで応えた。

 彼は笑った。彼は笑った。彼女の年齢通りの幼稚さに苦笑し、年齢に似合わない細やかさに可笑しくなった。哀れだとは思いたくなかった。


「私を助けてくれてありがとう。心からあなたに感謝しています」

「俺は人殺しだ。何百も、何千も殺してきた」

「私を助けてくれました」

「人殺しは人殺しだ。どうしようもない人間だ」

「それでも、何度も私を助けてくれました」

「おまえを殺すか、捨てるか、するかもしれない」

「構いません。私はあなたに命を預けます」


 そうして、一言ずつ、丁寧に言った。


「命を返されるまで。あなたに殺されるか、捨てられることも、受け入れます」


 言外の拒絶をものともせず、少女は正しく言葉を失えた。終えていた。全て言えた、というような佇まいになった。

 二人は長い間見つめあった。


「分かった」


 彼は息をつき、幼稚な現実を肯定した。肯定した途端、それらは全て本当のことになった。その現実を受け止めた。

 彼女は喜びを示した。ただ、それは幼い謙虚さではなく、沈黙したまま運命を享受する、真摯な愚者の謙虚さで示された。




             ◇




 二人は一本の大きな藍色の傘を差して小雨の中を歩いていた。傘は彼が持っていた。彼女は旅行鞄に括り付けた紐を引いて彼について歩いていた。紐の先の鞄は時々瓦礫に当たって風船のように跳ねていた。

 衝突の音、小雨の音、そして二人が歩く小さな音がしていた。実際には、彼の歩く音はほとんどなく、彼女の歩く音もささやかなものだった。

 彼の雨の傍のもう一方の手にはあの拳銃が握られていた。彼女の彼の傍のもう一方の手は二人の間に静かに下ろされていた。

 彼の肩は少し濡れていた。彼女の肩はほとんど濡れていなかった。

 傘の外の鞄は空中で全身を雨に濡らされていた。けれどそれを彼女が気にしている様子はなかった。なにより彼女は時々彼を見ていた。彼の横顔を。黒く透明な瞳を。

 彼はきっとその視線に気付いていた。けれど視線の意味を問うことはなかった。黙って前を向いて歩き続けていた。その透徹な表情から内心を窺うことはできなかった。

 周りには誰もいないようだった。死んだ者しかいなかった。二人さえもいないようだった。

 小雨。都市の廃墟。瓦礫の山。見える数万の死と見えない数十万の死。

 藍色の傘。軽い鞄。

 二人の音が、していた。

 雨の匂いも、していた。




 それから、雨の中、デディゼンドは昨日と同じようにレイディアを連れて瓦礫の海を北上した。歩いては通れない場所は空中に浮き上がって飛び越えた。その時だけは彼女の手を握ってきて離れないようにした。

彼は自由に空中を移動できるようだった。そして地上も自由に歩き、死者の傍らを通り過ぎ、ガン、道程の中で犯罪者を殺し、被害者を助け、昨日と同じ言葉を繰り返した。ただし、最後に「できるだけ急げ。まだ間に合う」という言葉を付け加えていた。

 一夜が過ぎ、雨も降っていたので犯罪の多くは屋内で行われていた。彼は無造作に入っていった。犯罪者たちは皆常軌を逸し、一般市民とは思えない凶悪な形相になっていた。集団で犯罪が行われていたことも多かったが、いつも同じように彼は構わず速やかに行動した。ガン。

 どうしても動けない大人と動いただけで死んでしまう者には静かな視線を注ぐだけに留めた。稀に膝を屈めて最期を看取ることもあった。彼の言葉を聞いた者は皆急いで西へと向かった。彼女は黙って彼と共に歩き続け、夥しい殺人と惨たらしい犯罪を見続けた。




             ◇




 間も無く夕刻を迎える頃に街の外れに辿り着いた。雨は小雨のまま降り続けていた。

 震災の被害はここまでも無差別に及んでいた。瓦礫の山の向こうに見える内壁が斑に黒く焦げ、都市を覆う天蓋下部が大きく瓦解している箇所もあった。砕けた巨大なパネルが雨滴の隅に埋もれていた。


「ここで少し休もう」


 道でなくなった道の数時間の徒歩がレイディアを困憊させているのは明らかだった。頷くこともできないほどに疲労していた。途中、彼女が弱音を吐いた時にはデディゼンドはすぐにでも休憩を取るつもりだった。しかし、彼女は懸命に足を動かし続けていた。

 奇跡的に倒壊を免れた集合住宅の、死体の無い居間へと彼女を導いた。暗い陰の中、再び灯火の恒体(エンテル)を灯すと、彼女はすぐに姿勢を不確かにした。


「あとは夜までに街を出ればいいだけだ。ゆっくり休んでいい」


 ただ、休息を許す単純に流れる時間が必要とされた。




 その帰結として、住居を出る時、レイディアが不意に廊下の途中の扉を開けてしまった。その無造作な行いにはデディゼンドですら虚を突かれた。もう、更なる現実を受け止めるしかなかった。

 その居住空間は軽薄な合成素材で整えられていた。床も壁も天井も、窓も戸棚も。踏み歩いた絨毯も身を任せていたソファも淡白にくすんでいた。今は消えている室内の照明も淡白に光るだろう、と彼は思った。改めて見えるものを重要な表象として意識して記憶に留めた。

それから、室内の中央に並ぶ、二台のカプセル状の特殊なベッドに横たわる死者たちを見遣った。

 この家の住人たちが密閉された透明なケースの中で横たわったまま絶命していた。この都市の市民の半数以上が、数十万人もの人間がこのような状態のまま即死し、その大半が崩落した建物の瓦礫に埋まっていることを彼は知っていた。

 おそらく、彼女も。

 おそらく、彼女の家族も。




 レイディアはここまでだった。よく頑張った、と心の中で誉めながら、動かない小さな体をそっと背に負い、部屋を出た。




 印象に残っていなかった廊下も玄関も灰の上に小さな足跡を残して背後に消えた。市民たちを小さな現実の中の仮想現実で生かしていた硬い揺り篭の成れの果てを見上げた。外観を留めただけの脆い箱。箱の中の箱は死者だけを乗せていた。

 デディゼンドは一人きりの生者を背負って死者と瓦礫の隘路を進んだ。

 小さな世界の果ては目前まで迫っていた。




             ◇




 結局、雨は小雨のままだった。天蓋の多機能なパネルから散布される水滴。狂ったように満遍なく都市に降り注いでいた。パネルには太陽を覗かせる青空の映像も黒い雨雲の塊の映像もなく、薄いベールのような灰色だけが全天に渡って表示され続けていた。それは雲の映像ですらなかった。

 風は穏やかだった。雨が穏やかだったように。それもまた天蓋から吹き下りてくる人工の空気の流れだった。この都市は閉ざされていた。空も地平も。十二年前にそのように建造されていた。

 宗教的にも経済的にも孤立する孤高の実験都市。だからこの街への速やかな救援は期待できなかった。都市内の実働の警察組織や消防機関は呆気なく瓦解したに違いなかった。あの激震は街の両方の世界を壊すものだった。

 気付いていた。物質的にはもちろん、電磁的にもこの街の全ては瓦解していた。携帯端末も形を保った街角の映像機器もあの空のように灰色になって死んでいた。だからここまで都市内のあらゆる機能が麻痺し、数少ない生き残りの一般市民は簡単に混乱して逃げ場を失い、本能を剥き出しにした生物学的強者に恐怖し、絶望し、死んでいった。それがこの街の結末になった。

 そのような世界の中、何人かの市民たちが硬く閉ざされたままの北のゲートの下で小さく蹲っているのが見えた。子どもと大人が互いに身を寄せ合い、震え、雫を零し、うな垂れ、様々なものを失っていた。

 それは一つの静かな果てだった。

 その場所で終えていた。そこで終わっていた。彼らの希望は。絶望も。後は苦痛と静けさだけが残っていた。

 命か時の終わりを待っていた。

 本来なら、私もあの中の一人だった。使者を待っていただろう。




             ◇




 ゲートに背中を押し付けて俯いていた青年が最初に二人に気付いた。呆然としていた。もしくは初めから呆然としたまま、突然現れた二人を見つけた。

 デディゼンドは片手で無音の銃を構えた。傘は傍らの空中に浮かばせた。


[座標点定義:数位(フェノ)集積経路(ソルタ)内座標空間:座標0001]


〈実行R:照射座標指定:指定数一:参照:座標0001.

 実行Rより0.9704秒:完了〉


 一万分の一秒単位で指定完了と同時に右手の引き金を引いた。

 絶対破壊の弾丸が真球宇宙より飛来。当該球面三次元宇宙の指定座標に正確に着弾。解放された真空化エネルギーがプランク秒単位で直径4.200メートルの範囲を球形に真空化。その内部にある全ての物質とエネルギーを消滅させる。

 結果、物質は素粒子すら残さず完全に破壊された。質量とエネルギーが完全に零となった。一時的には空間の揺らぎすら停止させる高次空間の圧力が働いた。

そして、最低限の外積(カオン)魔法系(カル)を働かせ、真空への空気の流入の影響を緩和。


[定義破棄:座標0001]


 よって、形而下、彼が銃の引き金を引いた直後、ただ、閉ざされていた扉に大きな風穴が開いた。

 ごくわずかな空気の流れと、ガン、という硬い衝撃の残滓だけがその場の彼らを取り巻いたものだった。




             ◇




 ゲートの壁面が円形に消滅する瞬間を見ていた。厚い隔壁に直径数メートルもの大きな穴が開き、文字通り一瞬で外への出口が作られた。

 デディゼンドの行いだと分かった。

 彼は銃を撃った。これまで人にしてきたように扉にも空洞を作った。彼は今行ったように犯罪者の体に穴を作ってきた。恐らく、正確に心臓を狙って。

 銃は普遍的な効果を持っている。レイディアは思い至り、少しだけ理解し、感嘆した。

 横で物音がした。青年が驚愕の表情で立ち上がっていた。壁に穴が開く瞬間を見てしまったんだろうと他人事のように彼女は思った。

 青年が立ち上がったままでいるせいで、周りにいた市民の何人かが緩慢に青年を見上げ始めた。次に、その視線の向く先へと視線を移し、そして子どもを背負う子どもと扉の大きな空洞に気付いていった。空中に浮かぶ傘と鞄にも。

 彼らは驚き、言葉を失い、まだ下を向く者に声をかけていった。


「おい」

「見ろ」

「あれを」


 次々と持ち上げられていく顔。視線。

 動揺と、恐怖。

 それは、信じられないものを見てしまった者の、現実を喪失することへの恐れ。現実を代償として未来を得てしまいつつある一六個の瞳。

 彼はといえば、今までと同じように静かに被害者を見ているようだった。逃げろ、という、これまで何度も繰り返されてきた言葉はまだなかった。

 レイディアはいつもより少し長く続く沈黙を背中越しに受け取っていた。無力に。彼らに先立って現実を失った者として、否、自ら現実を渡し、現実を知った者として、無力に。




             ◇




 八人いた。五歳位の男児、十代後半位の少年と少女、二十代前半位の青年、三十代半ばの男性、四十代位の女性、五十代位の男性と女性。閉ざされていたゲートで希望を失い、身を寄せ合って震えていた。水滴と血と涙を流し。災害前は無関係だっただろう人間たちのそれぞれが大小さまざまな怪我を負い、疲弊し、その場所から動けないでいた。外に通じるはずのなかった扉の傍から。

 それらに汚された彼ら。人間たち。もう、それら、としか言いたくないもの。繰り返したくない言葉。絶望とか、悪夢とか、地獄とか、もう言い飽きたもの。もういい。この世が地獄だと知っている。この世が地獄だと知っている。この世が地獄だと知っている。何度繰り返せばいい? この世が地獄だと知っている。この世が地獄だと知っている。この世が地獄だと知っている。この世が地獄だと知っている。

 しかし、俺にとっては地獄ではない。知っているだけだ。彼らが地獄にいることを。これが地獄だと。見聞きしているだけだ。体験しているわけではない。俺は地獄を通過しているだけ。傷ついた彼らを見下ろしている。だから感情移入はしない。できない。同情もしない。できない。ほとんど何も感じない。少年の頭が弾けても、少女が犯されても、そうか、としか感じない。被害者が増えた、としか感想を持たない。

 無関係だから。無関係だから、どうでもいい。どうでも。どこでも。誰でも。いつでも。何でも。どのようにでも。心が痛むが、それだけだ。本当はどうでもいい。そもそも、どこにある。どこにもない。どこもない。他者を殺せる地獄はどこにもない。俺を殺せる他者の地獄はどこにもない。

 そして、さらに絶望的な現実は、ほとんど全て失ったとはいえ、それでも彼らは単なる被害者の一部に過ぎないということだった。それがどこまでも救われない現実だった。失ったのは彼らだけではなかった。むしろ彼らは無事だった。多くの男は殺され、女はレイプされた。生き残ってしまった、という心の叫びは誰にも聞き届けられない嘆きだった。彼らの地獄は普通の地獄に埋もれていた。

 だから、彼らの外観には興味がない。特徴にも。物事の外観や特徴には興味がない。形容、修飾は不可欠なものではなく、単にわずらわしいもの。ここまで来れば。果てでは。些事は要らず、状態が分かりさえすればいい。人か、物か。生きているか、死んでいるか。疎通が可能か、不可能か。関与すべきか、否か。


「ここから外に行ける。ついて来い」


 委ねるか、否か。




             ◇




 隔壁内、非常灯の点いた長い連絡通路を進み、デディゼンドが何度も銃を撃って多くの隔壁に穴を開け、遂にレイディアは都市の外の光を見た。

 荒野。赤茶けた大地。

 雨が降っていた。都市の中と同じように。都市の人工雨とは違って本当に自然に、しかし全く同じように弱々しく。

 それが都市の外の世界だった。生まれて初めての外気。生まれて初めて見る地球の地表。大陸の北西部。

 上手く言葉を作り出せなかった。彼女は暗い景色を眺めるしかなかった。生きて動いているものは、見つけられなかった。




 生まれ育った街から、出られただけだった。




 それが感想だった。

 身に降りかかる現象は変化しなかった。新しい言葉を作ることはできなかった。感動はどこにもなかった。

 外の世界に、救いはなかった。求めていたわけではなかったが、赤い荒野はあまりにも寒々しかった。




 けれど、都市の出口から数十歩も離れた時、デディゼンドは足を止め、後ろに振り返った。あまりに巨大な殻の、彼が開けた小さな穴へと体を向け、彼は、待っていた。




 静かに時が過ぎた。小雨が降り続けた。




 青年を先頭にして、八人の市民たちが壁の空洞から出てくるのがレイディアにはっきりと見えた。

 デディゼンドは静かに息をついた。背中を通して、それを彼女は確かに感じた。


「よかった」


 だから彼女の方がそう言っていた。口をついてそのような言葉が出ていた。


「ああ」


 まるで自然に彼が言って応えてきた。吐息のような声だった。

 そして、彼は小さな手を向こうへと差し出した。

 手の平を開いた直後、宝石のように青く透き通る、一片の蝶が宙に舞った。

 蝶は音もなく煌きながら八人の方に舞って行った。雨に溺れることなく、ひらひらと。

 市民たちはまだ蝶にも二人に気付いていないようだった。警戒した様子で周囲を見回し、こちらにも何度か目を向けてはいたが、二人の姿に焦点を合わせることは一度もなかった。


「外に出た時から、体の周りに透明化のカルをかけている。ここからメカナに着くまで、誰かに見つけられることはない」


 心の中で抱いたはずの疑問に答えるように。もう、無言でその言葉を受け止めた。

 やがて、最初に男の子が蝶に気付いて声をあげた。

 その時、蝶を中心にして薄い青色の光が八人を包んだ。

 次の瞬間、彼らはその場所からいなくなった。蝶と共に空気に溶け消えた。

 雨の帳が八人のいた場所を包み直した。


「あの蝶は俺のカルじゃない。自分のために一つだけ渡されていたものを使った。だから、これは偽善だ。これまでのこともそうだ。自分のためではなく、助けたかったから助けただけだ。そもそも、俺はこの街が崩壊した原因を確かめるためにここに来ていた。それが最優先の目的だった。それ以外の行いは偽善と悪だ。レイディアはそのことを忘れないでいてほしい」

「それでも、あなたは助けてくれた」

「助けたかったから助けただけだ」


 デディゼンドはまるで子どものように話していた。見た目通りの少年になっていた。八人もの市民を助けられたことを喜ばず、不機嫌になり、脈絡なく言葉を繋げ、痛々しく独白していた。

 この人を新しい言葉で肯定したい、とレイディアは思った。けれどその時の彼女にはそのような概念を生み出すことは不可能だった。自分自身を単純な言葉で断定する彼に対して、彼女も単純な事実を言うことしかできないでいた。

 それに、私を連れて行ってくれたのは、と聞きたかった。どうしても聞けなかった。

 命に直結するその問題について、それがその時の少女の精神の限界だった。




             ◇




 デディゼンドはレイディアを横に降ろし、傘を畳んだ。小雨に構わず、予備動作なく、背にしている空間に翼を形作った。それは無音の内に行われたので彼女が息を呑んで言葉を失った様子がよく分かった。

 翅翼(ウィルグ)

 メカナの代表的な魔法系(カル)の一つ。

 それは彼の肩甲骨の辺りを支点にして空中に浮かぶ六枚三対の金属の翼だった。薄く細長い虫の一枚羽根の翅。一個の魔法系式(カロン)として定式化された飛行方式。元来は高度な技術が数千年間の最適化を経て普遍的な奇跡になったもの。

 肩甲骨の量子領域(ソラ)に構成されている翅翼(ウィルグ)魔法系式(カロン)集積経路(ソルタ)を起動させれば、後は自動的に翼が物質化し、後方の空間に展開する。

 彼の翅翼(ウィルグ)は蜻蛉の翅をより硬く、より鋭利に作り直したもののように見えるはずだった。流線型の輪郭と幾重かの幾何線形、鋭い白銀の金属光沢。単純であっても悪趣味ではないはずだったが、それが地球育ちの少女にどのように見えるのかは分からなかった。


「翼があって背負えないから、前に抱える。いいか?」


 少女はまだ声を失っていた。月色の柔らかな髪に少しずつ雨滴が重なっていった。


「レイディア」

「はい」


 名を呼ばれ、彼女は意識を取り戻したかのように返事をした。


「前に抱えて飛んでいく。こっちに」


 大人しく従った彼女を抱え、無色(ロミクァ)魔法系(カル)で力場を形成した。

 レイディアは薄く目を閉じていた。そのような彼女について、軽いな、とふと思ってしまった。そう言いそうになり、強く自制を働かせて口を閉じた。


「どうした」


 代わりに、無難な質問を口にした。


「綺麗だから」


 そう答えてきた。無難ではない答えだった。


「虫の翅だ。メカナには花の羽がある。その翼の方が一般的で、綺麗だ」


 レイディアは心地良さそうに目を開け、デディゼンドを見て言った。


「あなたの翼は、彗星みたい。とても綺麗」


 ここでそのような言葉を口にされ、彼は自分でも意外なほど強く驚いてしまった。感動されているのだと分かり、思いもしないほど動揺した。


「飛ぶぞ」


 そう告げ、感情を飲み込んで飛んだ。

 彼女は声を上げなかった。息を止めてはいたが、彼の肩越しに眺めの変わりゆく地上の光景を落ち着いて眺めてすらいた。次第に小さくなっていく背後の都市を見ていた。

 雨ですら音を立てなかった。鞄も傘も大人しく彼を追った。

 銀の翼は薄く重なるように開いていた。鋭い形と光沢が刃のように空を切り裂き、二人と二つを上昇させる力を真っ直ぐに生んでいた。

 一塊の力は空と雨の海の中にいた。楕円の力場に包まれ、溺れることなく天空を目指して飛んだ。雨で瞳が濡れないことが不思議であるかのように彼女は瞬きを繰り返していた。

 やがて雨を湧かす雲に迫り、上昇気流と水滴の集積の巨大さに翻弄されず、彼は落ち着いて雲の波間に滞空した。彼女は轟々とする逆さの海原を見上げていた。

 そして、小さく身じろぎをして地上に視線を戻した。都市の骸はきっと暗い海底の底に沈んでいた。それを見つけようと、じっと息を潜めているようだった。


「私が悪いの?」


 それは破滅の時が訪れる直前の問い掛けだった。


「ディズ、ずっと辛そうにしてる」


 言葉は重ねられた。何のことだ、と彼が聞き返す前に。


「いつから、そう思っていた?」


 彼は否定せず、聞き返した。


「今日の、朝から」


 彼女は答えた。


「辛そうだった。なんだか、ずっと、急ぎたくないみたいだった」

「レイディアは落ち着いていたな。よく見ていた」


 初めて攻撃されていると彼は思った。内心で深く苦笑いをした。


「そして俺を疑っていた。自分の手伝いをしたり、休ませたりしたのは、時間を先延ばしにする口実だったと?」

「そんなことは」

「どうして、自分が悪いと思うんだ?」

「分からない。でも、不安だった。あなたは、どうして」

「俺を疑うのは当然で、間違ってもいない。おまえは悪くない。悪いのは俺だ」

「何の、こと」

「その不安も、正しい」


 デディゼンドはそれだけを言い、口を引き結んだ。

 彼自身が認識するべきその時が、訪れた。


「ディズ」


 絶望的な声を意志の力で無視し、滞空したまま後方を向き、真下の水底にある都市の残骸を簡単に見付け、見定めた。

 目標、拡張型仮想空間実験都市、ニルキナ。

 その観測は、ただ、絶対に目を逸らさないために。

 脳内の数位(フェノ)集積経路(ソルタ)を励起し、携帯型の数位(フェノ)恒体(エンテル)集積情報網(アルグスタ)に接続。特定対象との相互通信を開始。


[デディゼンドです。ニルキナを脱出し、安全域までの退避を完了しました]

[確認しました。これより、炉心の凍結を解除します]


 恒体(エンテル)の擬似的な集積経路(ソルタ)に彼の言葉が表示され、簡潔な返信が0.1秒未満で返ってきた。

 もう逃げ出せただろうか、と彼は思った。つまり、今日と昨日に助けた被害者たちのことを思い出した。女性たちや子どもたちのことを思い出した。

 そして、胸に抱く少女のことを思い出した。

 それまで忘れていた。忘れていた。一日程度とはいえ、数秒程度とはいえ、彼は数々の被害者と被災者、そして守るべき脆弱なこの少女の存在を忘れていた。それが、彼にとっては十分過ぎるこの場での答えだった。


「レイディア」


 それでも言葉は出てきた。感情と翅翼(ウィルグ)を制御しながら彼女に言った。


「これから、あの都市は完全に崩壊する。決められていたことだ。そして、決めていたことだ。俺はその決断に従うと」


 もう一度都市の残骸を見下ろした。楕円の形をしたそれは、恒星間を旅する宇宙船の試作品だった。それは外界からの干渉を拒む堅い殻に包まれていた。それは独りきりで宇宙を旅する、地上に造られた巨大な移民船だった。


「ニルキナは完成していた。あの崩壊現象はあの街の人間には予測できないものだった。不測の事態が起こり、都市を支える電子炉が街中の回路網を巻き込んで暴走したんだ」


 視線をさらに落とした。彼女は現実を失った表情で箱庭の名残を見ていた。


「炉心の暴走にメカナが介入し、融解の直前でその反応を止めた。あの激震や電磁的な衝撃は、介入が行われるまでの崩壊現象の余波だった。

 しかし、ニルキナは最後には崩壊する。本来はそうであったように。今も電子路は危うい状態にあり、もう、自然崩壊以外にエネルギーの均衡状態が消え去る結果はない。魔法も、全能ではない。ニルキナは後戻りできない状況に陥り、様々な要因が積み重なり、限界は刻一刻と迫っていた。そして、今がその時になる」


 デディゼンドはそこまで言い、何かを補おうとし、浮かぶ全ての言葉を自ら消し去り、口を閉ざした。




 沈黙の海に沈んだ。




 やがて。




 二人は滅びの光に照らされた。

 轟音も届いた。

 大気を揺るがす振動が雨雲の海まで伝わってきた。

 レイディアは何も言わずに空白であるかのような光を見ていた。

デディゼンドも見た。

見続けた。見続けた。見続けた。

しかし、彼は彼女のようには震えられなかった。彼女は揺らぐ大気の中で微かに震えていた。それが彼を揺るがした。




 光と都市の殻が消えた後、デディゼンドは無言で視線を切り、さらに北へと針路を向けた。北に向かって飛ぶことを思い出した。レイディアはなお微かに震えながら沈黙し続けた。

 海原の真際の月のように、時と場所が過ぎるのをただ静かに待っていた。




 灰色に滲む空を飛んでいた。雨を落とす暗雲の領域を越えてはいたが、空はいまだに大きな水滴のうねりの海に閉ざされていた。彼女はいまだ小さく震えていた。




 彼女を凍えさせる海を抜けた。地上に舞い降り、柔らかな草地を見つけ、元素(セミノ)魔法系(カル)を使って草から肌理細やかな敷布を作り、彼女をそっとその上に降ろし、横たわらせた。




 レイディアは顔を青白くさせていた。


「ここは、どこ」

「ニルキナの北の平原だ。寒くないか」

「うん」


 彼女は薄く吐息をついた。


「今、夜じゃないの?」

「ああ。日が沈むのは何時間も後だ」

「不思議。どうして?」




 ここでは、青空が見えていた。




 ニルキナでは、その時刻が過ぎていた。




 街の時間が加速していた。何日も過ぎ去っていた。何日も地獄が続いた。

 地下に存在する電子炉炉心の凍結と同時に、その時間の流れそのものが減速させられていた。炉心反応の凍結を極限まで引き延ばすための措置だった。それを可能とする魔法系(カル)が使われた。

 そして、逆に地上の時間を加速させ、時間とエネルギーの均衡を取った。街が崩壊するまでの猶予を作り、デディゼンドが動ける時間を増やす目的もあった。結果的に、地獄が長く続いた。そして、均衡を長く保つため、彼は影響の大きな魔法系(カル)の使用を極力避けていた。その分、地獄はさらに長く続いた。地球では数刻しか過ぎていなかった。




 しかしその過去はもう無意味だった。未来は無価値に成り果てようとしていた。デディゼンドは何も言えなかった。レイディアに触れさせていた手をそのままに、これからいつまでも彼女の目を見続けることしかできないのではないかと思った。




「どうしよう」




 呟きが生まれた。目が静かに閉じられた。

 その言葉と動作に、デディゼンドは光を失う絶望を見た。




「どうしてほしいんだ?」




 彼にとって、彼女のその表情はあまりに明白な表明だった。彼女が投影している彼の役割が、彼女自身に対して全うされることを受け入れる、という姿だった。




「殺せと言うのか? このまま、ここで不条理に殺されてもいいと言うのか?」




「俺が悪いのか? あまりに多くの死を見せてしまったことが。あの街の終わりを見せたことが。それで、もう全てを諦めさせてしまったのか? 生きていくことが無意味になったのか?」

「ううん」


 彼女は瞼を開け、彼を見上げた。薄くくすむ陽の下、明らかな事実を否定した。

 死神に、慈悲を与えた。


「あなたは悪くない。あなたは、私を助けてくれた優しい人」


 それは弱々しい微笑みだった。体を失った者が見せる、途方もない悲しさに染められた笑顔だった。子どものするような表情ではなかった。


「あの時、私は公園にいたの。家を出てから黙って学校を休んで。だから、私だけ。悪いのは私。だから」




 それから、時が流れた。ただ、時が。そして空が。刹那の永遠の後、彼は青空を覗かせ始めた外界へと視線を逃した。




 考えた。彼女の覚悟について。幼いが真摯な覚悟について。この場所で彼女が示した覚悟が無かったことと同じになるのは正しくないと思った。故郷と共に消えようとする悲しさが掬われなければならなかった。このまま連れ帰っても、きっと、もう。

 考えた。彼女の意志について。幼いが真摯な意志について。あの場所で彼女が示した意志が無かったことと同じになるのは正しくないと思った。預かった命をこんなにも早く返すのは嫌だった。しかし、彼女を生かす方法が分からなかった。

 絶望的だった。絶望しつつあった。死は目の前だった。彼が死だった。死神として殺すという不条理が現実になろうとしていた。




 目を閉じて横たわったままのレイディア。デディゼンドはまだ何もできなかった。何も言えなかった。

 彼女を生かすことも死なせることもできない時間が流れた。




             ◇




 言葉を生み出せない飽和が彼女を溶かしていた。死の湖の中、疲労と麻痺がその時の彼女の心だった。なんだろう、と彼女は思った。

 悲しみは指先に。魔法の毛布の外、指先の触れる北の大地の草原に。

 絶望は瞳に。人を形作る全てを映す、見えない半透明の鏡に。

 意味は無限に。彼女ではない余事象に。彼の面立ちに。


「ニルキナで実験運用されていた電子炉。電子の生成とその制御を同時に行う、ニルキナの心臓であり、頭脳。拡張された仮想現実を支えていた、エネルギー生成と情報組成の融合機関。

 その小さな世界の回路が、地球人が独自に造り出せた完全なエンジンだった。空が暗黒に凍えても、大陸が白い海に沈んでも、外の生命が死に絶えたとしても、あの街だけは夜が明けるまで生き延びることができたはずだった」


 拡散してゆく。拡散してゆく。


「ニルキナは地球上で初めて造られた宇宙船だった。薄い電子の大気も持ち、地球に頼っていたのは重力だけで、地球に乗って宇宙を旅していた。それだけでもう、人類の存在は果たされ、示されていた。意義も証明も、輝きも。地球に対して、宇宙に対して。ニルキナを見捨てた俺たちこそ骨と皮の死者だ。後は汚し汚されていくだけの」


 それら全ては沈黙に。青い夜空に。




             ◇




 選んだのは、今の覚悟ではなく、過去の意志だった。それがデディゼンドの秩序となった。




 彼女が示した意志が無かったことと同じになるのは正しくないと思った。彼女という存在がここで死を受け入れたまま消えてしまうのはどうしようもなく間違っていた。

 手を差し伸べた。レイディアはその手を取り、命を振り絞って体を空へと持ち上げた。

 言葉にせずに額を合わせた。一度目を閉じ、少ししてから目を開けた。

 目を合わせた。彼女は何も抵抗しなかった。体の傾きを彼に委ねていた。

 彼女の手の上に手を置いた。額と同じように冷たさに浸されていた。善悪と偽善、そして偽悪の渦が小さな手と心を否定しようとしていた。しかし彼の手は熱く、心は堅く、そしてどちらもが愚かだった。だから何もかもを肯定した。それがつまり、デディゼンドという人間だった。




 そして、彼女が示した覚悟が無かったことと同じになるのも正しくないと思った。それが彼の意志であり、我侭だった。




 デディゼンドはそっと体を傾け、レイディアにキスをした。

 彼女の意志と覚悟と、彼の願いの証を作った。


「生きろ」


 生まれて初めて、心から願った。




             ◇







1-2.




 レイディアにとっての朝が訪れた。あまりにも暗い朝。けれど目覚めた場所には小さな明かりが灯っていた。灯火のエンテル。

 そして暖かかった。デディゼンドがすぐ傍に座り、目を細めて温度を紡いでいた。そうなのだと分かった。


「おはよう」


 だから、言葉を小さく伝えた時、自分の心も伝えていた。無意識の内に。経験した死と絶望を声に乗せ、彼に委ねた。




             ◇



 おはよう、という死と絶望。彼は聞いた。


「おはよう」




 ニルキナから持ってきた日持ちのする食料と飲料水、赤い林檎がささやかな食事だった。林檎は彼が無色(ロミクァ)のナイフで瞬く間に間に切り分けた。

 二つの目が彼の食事を不思議そうに見ていた。


「俺も、ものくらい食べる」


 そう言われた時、彼女は少し顔を柔らかくした。




 再び翅翼(ウィルグ)を背負い、夜空を駆けた。




 空の中で朝を迎えた。東の端から昇る太陽があまりにも眩しかった。




 命を抱えて飛び続けた。石と岩と斑な草地が遠い地平線まで続いていた。静かな朝の鳥の光景だった。時折、わずかな草を食む動物たちが胡麻のように黒く斜面や谷間に置かれていた。その在り様は普遍的なものだった。数万年後の地球のあるべきかたちが見渡す限りに表れていた。表象されていた。

 いつしか、見渡していた。何かがあり、希望のない光景が鳥の眼下に広がっていた。そして後ろに流れていった。あの地球上の宇宙船のすぐ傍に広がる内陸の荒野。知っていたのだろうかと彼は思った。


「これからは俺が」


 そう口にし始めたが、躊躇い、途中で言葉を飲み込んだ。

 死の上空に浮かぶ柔らかな視線が彼を見上げた。

 微笑みを見た。

彼の視線を受け、頬を合わせてきた。甘えるように肌を当て、すぐ近くで嬉しそうに見てきた。そしてまた頬に擦り寄ってきた。

 胸の中の命は彼の中に混濁していた。意識が白濁しているせいもあり、彼を本当に死神だと思い始めているに違いなかった。それも仕方のないことだと思っていた。このか細い命は弱り果てていた。

 飲み込んでしまってもいいか、と一瞬考えた。それが強者の特権であるなら。それは理想的な関係ではないにしても、悲劇的な関係ではないはずだった。信頼され、生きるために身と心を委ねられていた。そして彼は決して身内に無体な行いをする人間ではなく、その選択は間違いではなかった。

 もう一度ここで口付けをすれば、と客観的な心が言った。今でも服従しているようなものだ、抗おうとも思わないだろう、と。




 だからこそ、その時は唇を合わせなかった。額を合わせたまま、そこまではしなかった。抗えないのならば、と逆に思い。


「俺が守る」


 透明な瞳を覗き込み、真摯に伝えた。




             ◇




 きっと、自分自身の感情を考慮に入れないことが彼の一番大きな欠点だった。だからその言葉が一体どのように伝わるのか、その瞬間まで全く考えもしなかったはずだった。彼には言葉と意思が伝わるならそれでいいと思ってしまう悪癖があるに違いなかった。




 優しく、彼は言った。

 だから、レイディアをひどく泣かせてしまった。




             ◇




 弧を描く大地。

 白雲の流下と積層。

 普遍的に青い光を散らす空。

 地球の空は果てしなく広がっていた。




             ◇




 円い地平。

 雲の川と湖。

 どこまでも青い空。

 地球の空は果てしなく広がっていた。




             ◇






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