第7話 旋盤と和音のララバイ
インディアナポリスの朝は早い。
ウェス・モンゴメリーは再び、マロリー社のラジオ部品工場の門をくぐっていた。
朝七時、一斉に鳴り響く始業のブザー。
かつて全米を熱狂させた黄金の親指は今、油の染み付いた軍手に包まれ、冷たい鉄の旋盤を握っている。
「なあ、ウェス。まだ信じられないよ」
隣のラインで作業する同僚のビルが、機械の騒音に負けない大声で話しかけてきた。
「あんた、ハンプトンのバンドでニューヨークの一流ステージに立ってたんだろ? なんでまた、こんな埃っぽい場所でネジを回してるんだ。もったいないと思わないのかい?」
ウェスは旋盤の火花を見つめながら、穏やかに笑った。
「ビル、不思議なもんだよ。ステージで拍手を浴びている時より、こうして機械のリズムを聴きながら、今日の晩飯は何かなって考えている今の方が、ずっといい音が頭の中で鳴るんだ」
彼は本気だった。
華やかな名声は、家族と過ごす一杯のスープの温もりには勝てなかった。
だが、音楽への情熱が衰えたわけではない。むしろ、家族への愛という引き寄せの強い力を得たことで、彼の音楽はより地に根ざした、深い響きへと進化していた。
深夜、子供たちが寝静まったリビング。
ウェスは一人、新しい奏法の完成に挑んでいた。
それは、単音で弾くメロディを、オクターブ上の音と同時に鳴らす「オクターブ奏法」だ。
親指一本で、二本の弦を完璧な精度で弾き分ける。
親指のタコはもはや石のように硬くなり、爪と皮膚の境界が判らなくなるほどに変形していた。
しかし、油断していたその指に痛みが走る。
「……あいたっ」
激しい弦の摩擦に、不意に指先が悲鳴を上げた。
ウェスが指を振っていると、寝室からセレーヌが氷を入れたボウルを持って現れた。
彼女は何も言わず、ウェスの隣に座り、彼の右手をそっと冷たい水に浸した。
「ウェス、あまり無理をしないで。あなたの指は、もう私たちのものだけじゃないんだから」
「……ごめんよ、セレーヌ。でも、この弾き方なら、まるで二人の人間が歌っているような、厚みのある温かい音が出るんだ。いつかお前たちに、世界で一番贅沢な子守唄を聴かせてやりたくてね」
セレーヌは、冷たい水の中で赤く腫れた夫の親指を、愛おしそうに自身の両手で包み込んだ。
「私はもう、十分幸せよ。あなたが毎晩、この部屋でギターを弾いてくれている。それだけで、この家はどんな宮殿よりも豊かなんだから」
その夜、ウェスの親指から溢れ出したオクターブの調べは、暗い部屋を優しく満たした。
旋盤の冷たい鉄の響きと、家族の温もり。
その相反する二つを飲み込んで、ウェス・モンゴメリーだけの魔法の音が、ついに完成の時を迎えようとしていた。




