第3話 暗闇のなぞり書き
深夜二時。
インディアナポリスの静寂を破るのは、遠くで響く貨物列車の汽笛と、モンゴメリー家の居間で低く鳴り続ける蓄音機の回転音だけだった。
ウェスは蓄音機の前にかじりつき、ボリュームをごく小さく絞って耳を澄ませていた。
流れているのはチャーリー・パーカーの
『Ko-Ko』。
アルトサックスが猛烈なスピードで空を切り裂き、続くディジー・ガレスピーのトランペットが、夜の闇を突き刺すような鋭い高音を叩きつける。
「……なんて速さだ」
ウェスは溜息を漏らし、膝の上のギターを握り直した。
パーカーが吹く流星のようなフレーズを、彼は自分の指でなぞり取ろうとする。
しかし、ピックを捨てた右手の親指は、あまりにも重く、鈍かった。
ピックなら弾ける。
かつて愛したチャーリー・クリスチャンのように、ピックを使えばこのスピードにも対応できるかもしれない。
だが、近所迷惑を考え、独学で辿り着いたこの「親指奏法」で、この疾走感に食らいつくのは、素手で猛獣に立ち向かうようなものだった。
何度もレコードの針を戻す。
パチパチというノイズの向こう側に潜む音の真実を掴もうと、全神経を耳に集中させた。
ディジーが奏でる『Salt Peanuts』の跳ねるようなリズムが、ウェスの頭の中で弾ける。
彼は親指を激しく上下させ、弦を弾き続けた。
弦が親指の柔らかい皮膚を無慈悲に削り、熱を帯びた痛みが脳に突き刺さる。
ふと、背後に気配を感じてウェスは手を止めた。
「まだ、起きていたのかい。セレーヌ」
台所の入り口に、ガウンを羽織ったセレーヌが立っていた。
彼女の手に持たれたトレイには、湯気を立てる二つのマグカップが乗っている。
「あまりに静かな音が聞こえるから。……指、見せて」
セレーヌはウェスの隣に腰を下ろすと、強引に彼の右手を取った。
ウェスは「なんでもない」と笑って隠そうとしたが、彼女の目は誤魔化せなかった。
親指の腹は赤く腫れ上がり、ところどころ皮膚が裂けて血が滲んでいる。
昼間の工場で鉄を扱い、夜はこうして弦と戦っている。その指が悲鳴を上げているのは明白だった。
「ウェス。そんなに自分を追い詰めなくても、私たちは幸せよ。工場の仕事だけでも大変なのに……」
「わかってる、セレーヌ。でもね、これじゃなきゃダメなんだ」
ウェスは温かいミルクの入ったカップを両手で包み、遠くを見つめるような目で言った。
「パーカーやディジーの音を聴いていると、新しい世界が見えるんだ。この親指がもっと自由に動くようになれば、俺はもっといい音が弾ける。そうすれば、いつかお前や子供たちを、もっと広い、もっと明るい場所へ連れて行ってやれる気がするんだ」
セレーヌは何も言わず、夫の煤けた肩にそっと頭を預けた。
彼女にはわかっていた。この人は家族を愛するのと同じ深さで、この音楽を愛してしまったのだと。
セレーヌが寝室へ戻った後、ウェスは再びギターを抱えた。
痛みは消えていない。
だが、彼女が触れてくれた場所が、不思議と熱を持ったまま硬くなり始めているのを感じた。
それは、後に「黄金の親指」と呼ばれることになる、硬く誇らしいタコの始まりだった。
ウェスは再び針を落とした。
暗闇の中、親指が再びパーカーの背中を追いかけて走り出す。




