第36話 遺作、そして届かなかった完成盤
ウェス・モンゴメリーという一人の男がインディアナポリスの土に還ってから、数週間が過ぎた。
主を失ったモンゴメリー家のリビングは、まだ現実味のない静寂に包まれていたが、ニューヨークのクリード・テイラーのオフィスでは、止まることのない時間が冷徹に流れていた。
クリードのデスクの上には、刷り上がったばかりの一枚のLPレコードが置かれていた。
そのジャケットには、演奏者の姿はどこにもなかった。
ただ、夕闇が迫る一本の道と、遠ざかっていく車の赤いテールランプの光だけが、物言わず写し出されている。
タイトルは、彼の不器用で誠実な歩みを象徴するように刻まれていた。
『ロード・ソング(ROAD SONG)』
それは、ウェスが最期の録音で魂を振り絞り、ついにその完成を見ることなく旅立った遺作となった。
クリードは震える手でそのジャケットに触れた。そこに本人の顔がないことが、かえって彼という男の本質を物語っているように思えてならなかった。
ウェスと一緒にスタジオで音を練り、冗談を言い合い、時には家族の生活を支えるための商業的な成功を求めて、厳しい注文をつけた日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「……ウェス、君はついに、この道の先へ行ってしまったんだな」
クリードは独り言を漏らし、針を落とした。
スピーカーから流れ出したのは、あのニュージャージーのスタジオで、ウェスが誰のためでもなく、ただ美しさのためだけに奏でたあの旋律だった。透明で、あまりにも澄み渡り、聴く者の魂を浄化するかのようなギターの音色。
その音は、まるでウェスがこの世を去る前に、自分を愛してくれたすべての人々へ遺した最期の挨拶のようだった。
1968年8月。
『ロード・ソング』が全米のレコードショップに並ぶと、それはこれまでのどの作品をも凌駕する社会現象となった。ラジオからは昼夜を問わずウェスの温かいオクターブ奏法が流れ、ジャズ・チャートだけでなく、ポップ・チャートまでも席巻した。
人々は、ジャケットに描かれた「孤独な道」を見つめながら、その音に耳を傾けた。
これほどまでに優しく、穏やかな音楽を遺して去っていった男の、その指先に宿っていた強靭な意志。
批評家たちは、かつて自分たちが彼を商業主義と切り捨てたことを恥じるように、その芸術性の高さを改めて称賛した。
だが、この大ヒットという報酬を最も必要としていた主は、もうどこにもいない。
インディアナポリスの自宅に、クリードから短いメッセージを添えた完成盤が届いた。
セレーヌは、夫が命を懸けて持ち帰ったその成果を、震える手で受け取った。ジャケットに写る「道」は、かつて夫が飛行機の恐怖に耐え、家族の元へ帰るために幾千回、幾万回と走り抜けたあのハイウェイそのものに見えた。
子供たちが集まってくる。
父親が最後に職場で何をしていたのか、彼らはこの黒い円盤を通じて初めて知ることになった。
セレーヌがレコードに針を落とすと、リビングにあの日、パパが奏でてくれたのと同じ、優しいさざ波のような音が広がった。
「あ、パパの音だ……」
赤い靴を履いた次女が、目を輝かせて呟いた。
ウェスの肉体はもうそこにはない。
だが、彼が家族を養うために、己の信条と戦いながら紡ぎ出した音は、たしかな形となってそこにあった。
このレコードの印税は、ウェスが最後に願った通り、七人の子供たちの学費となり、家族がこれから生きていくための揺るぎない礎となった。
彼は、死してなお、その右手の親指一本で家族を守り抜いたのである。
レコードの溝に刻まれたウェスの音は、本人のいない世界で独り歩きを始め、海を越え、国境を越えた。
働く人々の疲れを癒し、孤独な魂に寄り添い、そして新しい世代のミュージシャンたちに、真の美しさとは何かを教え続けた。
ウェス・モンゴメリーという男は、もうここにはいない。
しかし、彼が遺した『ロード・ソング』のジャケットに描かれたあの道は、今も続いている。
彼が辿り着いた美の終着駅の風景を、そして一人の父親が走り抜けた誇り高き道の跡を、今も色鮮やかに伝え続けている。
それは、適応の果てに、一人の男が命を賭して勝ち取った、永遠の自由の証明だった。




