表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/40

第34話 動かなくなった親指

 インディアナポリスの自宅リビングは、数時間前の賑やかさが嘘のように、重苦しい静寂と、鼻を突く消毒液の匂いに支配されていた。


 病院から戻ってきたウェスの亡骸は、彼が愛した家の、いつもの場所に横たえられていた。


 「嘘だ……嘘だよ、パパ……」


 長男のロバートは、父の傍らで立ち尽くしていた。


つい先日前、ツアーから帰った父と、車や将来の話をしたばかりだった。


その父が、今は白い布をかけられ、ぴくりとも動かない。


 末の娘たちは、事態が飲み込めないまま、母セレーヌのスカートの裾を握りしめて泣きじゃくっている。


セレーヌの瞳からは涙が枯れ果て、ただ燃え尽きた灰のような表情で、夫の亡き顔を見つめていた。


 そこへ、激しくドアを開ける音がした。


 ウェスの兄、モンク・モンゴメリーと弟のバディ・モンゴメリーだ。


二人は知らせを受けるなり、すべてを投げ出して駆けつけたのだ。


「ウェス……! おい、ウェス!」


 モンクが床に膝をつき、弟の肩を掴む。


だが、返ってくるのは冷たい沈黙だけだった。


 バディは、ウェスの傍らに置かれたギタースタンドに目をやった。


そこには、主を失ったギブソンL-5が、虚しく佇んでいる。


「……あいつ、働きすぎだったんだ」


 バディの声が震える。


「俺たちが止めるべきだったんだ、モンク。ウェスは、自分の体が悲鳴を上げているのを知っていた。それでも、この家を、この家族を守るために、一度も立ち止まろうとしなかった……!」


 モンクは、静かにウェスの右手を手に取った。


 白い布から現れたその手は、まだ温かさを僅かに残していたが、驚くほど硬かった。


 世界中のファンを魅了した、あの魔法の親指。


 モンクはその親指の腹を、自分の指でそっとなでた。


「見てくれ、バディ……このタコを」


 バディも、そしてロバートも、ウェスの右手を覗き込んだ。


 親指の先は、長年の演奏と、それ以前の過酷な工場労働によって、石のように硬く盛り上がっていた。


それは、彼が一人の男として、家族という巨大な責任を背負い続けてきた「戦いの証」だった。


「パパの指……こんなに硬かったの?」


 ロバートが、震える声で尋ねた。


 セレーヌが、ゆっくりと口を開いた。


「そうよ、ロバート。お父さんはね、自分の指が痛むたびに、あなたたちの笑顔を思い出していたの。この指が動かなくなるまで弾き続ければ、あなたたちは自由になれるって、本気で信じていたのよ……」


 セレーヌの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ロバートは父の手に顔を埋め、声を上げて泣き出した。

 

 窓の外では、夕闇がインディアナポリスの街を飲み込もうとしていた。


 かつて、ウェスが深夜の工場へ向かうために歩いた道。


 かつて、彼が家族の寝息を聴きながらギターを爪弾いた夜。


 そのすべてが、この動かなくなった親指の中に凝縮されていた。


 モンクは、ウェスの手を優しく布の下に戻した。


「ゆっくり休め、ウェス。もう、何も心配いらない。お前が遺したものは、俺たちが……この家族が、ちゃんと守っていくからな」


 その夜、モンゴメリー家には、泣き疲れた子供たちの寝息と、主を失ったギターが放つ冷たい光だけが満ちていた。


 稀代の天才ギタリストは、その重すぎる責務をようやく下ろし、永遠の眠りについたのだった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ