第34話 動かなくなった親指
インディアナポリスの自宅リビングは、数時間前の賑やかさが嘘のように、重苦しい静寂と、鼻を突く消毒液の匂いに支配されていた。
病院から戻ってきたウェスの亡骸は、彼が愛した家の、いつもの場所に横たえられていた。
「嘘だ……嘘だよ、パパ……」
長男のロバートは、父の傍らで立ち尽くしていた。
つい先日前、ツアーから帰った父と、車や将来の話をしたばかりだった。
その父が、今は白い布をかけられ、ぴくりとも動かない。
末の娘たちは、事態が飲み込めないまま、母セレーヌのスカートの裾を握りしめて泣きじゃくっている。
セレーヌの瞳からは涙が枯れ果て、ただ燃え尽きた灰のような表情で、夫の亡き顔を見つめていた。
そこへ、激しくドアを開ける音がした。
ウェスの兄、モンク・モンゴメリーと弟のバディ・モンゴメリーだ。
二人は知らせを受けるなり、すべてを投げ出して駆けつけたのだ。
「ウェス……! おい、ウェス!」
モンクが床に膝をつき、弟の肩を掴む。
だが、返ってくるのは冷たい沈黙だけだった。
バディは、ウェスの傍らに置かれたギタースタンドに目をやった。
そこには、主を失ったギブソンL-5が、虚しく佇んでいる。
「……あいつ、働きすぎだったんだ」
バディの声が震える。
「俺たちが止めるべきだったんだ、モンク。ウェスは、自分の体が悲鳴を上げているのを知っていた。それでも、この家を、この家族を守るために、一度も立ち止まろうとしなかった……!」
モンクは、静かにウェスの右手を手に取った。
白い布から現れたその手は、まだ温かさを僅かに残していたが、驚くほど硬かった。
世界中のファンを魅了した、あの魔法の親指。
モンクはその親指の腹を、自分の指でそっとなでた。
「見てくれ、バディ……このタコを」
バディも、そしてロバートも、ウェスの右手を覗き込んだ。
親指の先は、長年の演奏と、それ以前の過酷な工場労働によって、石のように硬く盛り上がっていた。
それは、彼が一人の男として、家族という巨大な責任を背負い続けてきた「戦いの証」だった。
「パパの指……こんなに硬かったの?」
ロバートが、震える声で尋ねた。
セレーヌが、ゆっくりと口を開いた。
「そうよ、ロバート。お父さんはね、自分の指が痛むたびに、あなたたちの笑顔を思い出していたの。この指が動かなくなるまで弾き続ければ、あなたたちは自由になれるって、本気で信じていたのよ……」
セレーヌの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ロバートは父の手に顔を埋め、声を上げて泣き出した。
窓の外では、夕闇がインディアナポリスの街を飲み込もうとしていた。
かつて、ウェスが深夜の工場へ向かうために歩いた道。
かつて、彼が家族の寝息を聴きながらギターを爪弾いた夜。
そのすべてが、この動かなくなった親指の中に凝縮されていた。
モンクは、ウェスの手を優しく布の下に戻した。
「ゆっくり休め、ウェス。もう、何も心配いらない。お前が遺したものは、俺たちが……この家族が、ちゃんと守っていくからな」
その夜、モンゴメリー家には、泣き疲れた子供たちの寝息と、主を失ったギターが放つ冷たい光だけが満ちていた。
稀代の天才ギタリストは、その重すぎる責務をようやく下ろし、永遠の眠りについたのだった。




