第33話 最後の朝、そして暗転
1968年6月15日、土曜日。
インディアナポリスの朝は、抜けるような青空だった。
初夏の柔らかな陽光が、モンゴメリー家のリビングに差し込み、埃が光の粒のように舞っている。
数日後には、全米を回る新たなツアーが控えていた。
昨夜、ウェスは家族との最後の夕食を終えたあと、深夜まで書斎で旅の準備をしていた。
重いスーツケースを閉じ、ギターの弦を丁寧に拭き、最後にもう一度だけ子供たちの寝顔を見てからベッドに入ったのは、日付が変わってずいぶん経ってからのことだ。
そんな昨夜の疲れが残っているのか、朝食を終えたばかりのウェスは、まだ少し眠たそうに、しかし満足げにソファに深く腰を下ろしていた。
使い込まれたソファの沈み込みが、今の彼には心地よい。
足元では、まだ幼い子供たちが、ようやく帰ってきた父を独占できる喜びを爆発させるように、家中を騒ぎ回っている。
子供たちにとって、パパが数日間も家にいて、朝一緒に食卓を囲めること自体が、何よりの特別な休日だった。
この幸せな時間が明日も明後日も続くと信じて疑わない彼らの無邪気な笑い声が、部屋中に満ちていた。
「パパ! 見て、新しい靴。これ、パパのレコードの『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』が売れたから買えたの?」
次女が、ピカピカの赤い靴を誇らしげに見せびらかした。
ウェスは細めた目をさらに細め、大きな手で娘の頭を撫でた。
その指先の硬い胼胝が、娘の柔らかい髪に触れる。
「ああ、そうだよ。みんながパパのギターを聴いてくれたおかげだ。本当によく似合ってるよ、可愛いぞ」
キッチンでは、妻のセレーヌがエプロン姿でフライパンを振っていた。
ベーコンの焼ける香ばしい匂いと、子供たちの屈託のない笑い声。
それは、ウェスがかつて深夜の工場で旋盤を回しながら、そして全米の孤独なハイウェイを走りながら、何千回、何万回と夢に見た光景そのものだった。
自分を極限まで擦り減らし、適応という名の戦いを続けてきた報酬が、今、この部屋に満ちている。
「あなた、コーヒーのおかわりは?」
セレーヌが明るい声で尋ねる。
ふと夫の顔を見た彼女の手が、止まった。
逆光のせいだろうか、ウェスの顔が土色に見えた。
目の下の隈は深く、額には薄っすらと、油のような脂汗が浮かんでいる。
「……ウェス、あなた、顔色が悪いわ。本当に大丈夫なの? 今度のツアー、少し延期できないかしら。マネージャーのクリードに私から話してもいいわよ。あなたは休みが必要なのよ」
ウェスは力なく首を振った。その動作さえ、ひどく重そうに見えた。
「馬鹿を言うな、セレーヌ。契約があるんだ。それに、このツアーさえ終われば、まとまった金が入る。そうすれば、しばらくは家でゆっくりできる。子供たちを動物園に連れて行く約束も、まだ果たせていないからな」
ウェスはそう言って、膝の上に乗ってきた末娘を抱き上げた。
腕の中に伝わる赤ん坊の柔らかな温もりと重み。
一歳にも満たないこの子が成人するまで、自分は指を動かし続けなければならない。
家族の未来を背負うその使命感だけが、鉛のように重い肉体をかろうじて支えていた。
不意に、ウェスの表情が強張った。
彼は抱いていた末娘を、落とさないよう、滑り込ませるようにしてゆっくり床に下ろす。
「……ウェス?」
セレーヌが異変を察して駆け寄る。
ウェスは自分の左胸を、シャツを握りつぶすような力で鷲掴みにした。
呼吸が、肺に届かない。まるで胸の中に熱く溶けた鉛を直接流し込まれたような、凄まじい激痛が彼を襲った。
「パパ……? パパ, どうしたの?」
赤い靴を履いた娘が、怯えた声を出す。
ウェスは答えようとしたが、言葉にならない。視界が急速に狭まっていく。
リビングの白い壁が、子供たちの泣き顔が、セレーヌの必死な表情が、遠くへ、遠くへと遠ざかっていく。
「セレーヌ……気分が、悪い……」
それが、ウェス・モンゴメリーの最後の言葉になった。
巨躯が、音を立てて床に崩れ落ちる。
「ウェス! ウェス!! 誰か、救急車を! ロバート、早く!」
セレーヌの悲鳴が家に響き渡った。
長男のロバートが階下へ駆け降りてくる。
子供たちは何が起きたか理解できず、ただ父親の周りで泣き叫ぶことしかできなかった。
セレーヌは床に膝をつき、動かなくなった夫の肩を激しく揺さぶった。
「目を開けて、ウェス! 死んじゃ嫌よ! まだ子供たちがこんなに小さいのに! あなた、あんなに頑張ってきたじゃない! 報われないままなんて、嘘よ!」
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。
だが、ウェスの意識の海では、もうその音さえ届かなかった。
彼の脳裏には、最後に見たセレーヌの涙と、子供たちの赤い靴、そして……暗い工場で一人, 静かにギターを弾いていたあの夜の、冷たくも優しい月の光が浮かんでいた。
1968年6月15日、午前10時40分。
世界最高のギタリストの鼓動は、愛する家族の叫び声に包まれながら、静かに、永遠に、セレーヌの腕に抱かれて停止した。




