第32話 祈りの夜、銀色の弦
1968年6月14日、金曜日。
インディアナポリスに訪れた夜は、驚くほど静かだった。
翌週から始まる全米ツアーを控え、ウェス・モンゴメリーの寝室の隅には、旅支度を終えたスーツケースと、愛器ギブソンL-5のケースが並んでいた。
それは彼にとって、戦場へ向かう兵士の装備と同じだった。
だが、今夜のウェスには、その重々しい荷物を直視する気力はなかった。
家族が寝静まった深夜。
ウェスは一人、リビングのソファに座っていた。
窓から差し込む月光が、使い古された絨毯の上に淡い影を落としている。彼は胸の奥にある、いつもの違和感を宥めるように、ゆっくりと深く呼吸を繰り返した。
それは、もう何年も彼を苦しめてきた疲労の澱だったが、今夜に限っては、その痛みさえも自分の人生の一部であるかのように愛おしく感じられた。
(俺は、よくやったんだろうか)
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
インディアナポリスの暗い工場で、指先に油を染み込ませて働いていた二十代。
子供たちのミルク代にも事欠き、夜通しクラブで演奏しては、朝日を浴びながらまた旋盤の前に立った。
あの頃の自分に、今のこの光景を見せてやりたかった。
広いリビング、立派な家具、そして何より、明日を不安に思わずに眠っている七人の子供たちの寝顔。
ウェスは暗闇の中で、自分の右手をじっと見つめた。
ピックを使わず、親指一本で弦を弾き続けた代償として、彼の指は歪み、皮膚は異常なほど硬くなっている。
だが、この無骨な指があったからこそ、モンゴメリー家の食卓には常にパンがあり、子供たちは教育を受け、妻のセレーヌは安心して笑うことができた。
「……ありがとうよ」
彼は誰に言うでもなく、自分の右手に囁いた。
それは、自分をスターに押し上げた音楽への感謝ではなく、家族を守るための道具として機能し続けてくれた自分の肉体への、労い(ねぎらい)の言葉だった。
ウェスは静かに立ち上がり、壁に立てかけてあったギターケースを、音を立てないように開いた。
指先が弦に触れる。
ひんやりとした金属の感触が、脳の奥に直接響く。彼はアンプのスイッチは入れなかった。
ただ、生音のまま、弦の上で指を滑らせた。
奏でられたのは、特定の曲ではない。
幼い頃に聴いたブルースの断片、インディアナポリスの夜を彩った即興のフレーズ、そしてニュージャージーで録音したばかりの『ロード・ソング』の調べ。
音が、闇の中に溶けていく。
ウェスは目を閉じ、音の響きの中に自分の人生を投影した。
評論家たちが求めた芸術的な純潔と、ファンたちが求めたレコード通りの演奏。
その板挟みになりながら、彼は常に適応という名の戦いを続けてきた。
だが、今この瞬間、たった一人で奏でる音には、何の制約もなかった。
「ジャズだろうがポップスだろうが、どうでもいいさ」
彼は独り言を漏らし、ふっと笑った。
自分の音が誰かの孤独を癒し、誰かの夜を彩り、そして何より、自分の家族の命を支えた。
それ以上に、音楽に求めるべきものなどあるだろうか。
彼は今、かつてないほどの充足感の中にいた。
自分が遺したものは、札束やレコードという形あるもの以上に、もっと切実で、もっと温かい生きた証なのだと確信できたからだ。
「ウェス……? まだ起きていたの?」
背後でセレーヌの声がした。
彼女は寝巻き姿で、不安げにドアの影に立っていた。
「ああ。少し、楽器の調子を見ていただけさ。もう寝るよ」
ウェスはギターをケースに戻し、セレーヌに歩み寄った。
彼はその大きな腕で妻を抱きしめ、その温もりを心臓の奥に刻み込むように、しばらくじっとしていた。
「明日、目が覚めたら、みんなで朝食を食べよう。それから、子供たちと約束した公園へ行くんだ」
「ええ、楽しみね。おやすみなさい、ウェス」
セレーヌの額にキスをして、ウェスは寝室へ向かった。
窓の外、インディアナポリスの夜空には、銀色の星々が瞬いていた。
その光は、まるで彼が長年弾き続けてきたギターの弦のように、静かに、そして誇らしげに輝いていた。
彼が人生で最後に迎えた夜は、これまでのどんなステージよりも静寂に満ち、そして深い愛に満ちていた。




