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第30話 帰郷

1968年5月下旬。ニュージャージーでの録音を終えたウェス・モンゴメリーは、耐え難いほどの緊張の中にいた。


彼は飛行機が嫌いだった。


鉄の塊が空を飛ぶという不自然さに、どうしても馴染むことができなかったのだ。


離陸の瞬間、重力に抗って機体が浮き上がるたび、ウェスは座席の肘掛けを指が白くなるほど強く握りしめた。


親指の厚い胼胝たこが、硬い合皮に食い込む。


窓の外に広がる雲海など、彼は一度も眺めようとはしなかった。


ただじっと、閉じたまぶたの裏側で、インディアナポリスの地面を踏みしめる自分の姿を必死に思い描いていた。


(……早く、降ろしてくれ。土の上へ帰してくれ)


額には脂汗が滲み、心臓は乱れたリズムを刻んでいた。


かつてのウェスなら、どんなに時間がかかっても車で移動しただろう。


だが、今の彼にはその時間はなかった。


クリード・テイラーが組む過密なスケジュール、全米から寄せられる出演依頼、そして何より、一刻も早く家族の元へ金を届けなければならないという使命感。


そのすべてが、彼をこの忌々しい空の檻へと押し込めていた。


ウェスにとっての飛行機は、家族を養うために耐え忍ばなければならない、最も過酷な「適応」の象徴だった。


同じ頃、ニューヨークのA&Mレコードのオフィスでは、プロデューサーのクリード・テイラーが、録音されたばかりのマスターテープを前に、腕を組んで考え込んでいた。


卓上のスピーカーからは、ウェスの最新録音『ロード・ソング』が流れている。


「信じられない……」


隣でアレンジャーのドン・セベスキーが溜息をついた。


「ウェスは譜面を一切見ずに、僕が書いた構成をすべて理解し、さらにその上を行く旋律を置いた。これはもう、単なるイージー・リスニングじゃない。純粋な音楽の結晶だ」


クリードは黙って、テープの回る音を聞いていた。


ビジネスマンとして、このアルバムがこれまでの『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』以上に売れることを彼は確信していた。


しかし、それ以上に、この音に宿る不吉なまでの透明感が気にかかっていた。


これまでのウェスの音には、聴衆を喜ばせようとするサービス精神があった。


だが、この『ロード・ソング』には、それがない。ただ、一点の曇りもない美しさだけが、冷徹なまでに鳴り響いている。


「ドン、すぐにプレスの準備に入れ。これはウェスの最高傑作になるぞ」


クリードはそう命じたが、胸の奥のざわつきは消えなかった。


彼は、ウェスがスタジオを去り際に残したあの弱々しい本音を思い出していた。


「俺はただ、静かに家族と過ごしたいだけなんだよ」


その寂しげな横顔を思い返したとき、クリードの脳裏にある予感がよぎった。


(……彼は、すべてをこのテープに置いていってしまったのではないか)


それは言葉にはできない、戦慄に近い予感だった。


表現者としての執着をすべて音に流し込み、抜け殻のようになって去っていったあの背中。


クリードは受話器を取り、インディアナポリスのウェスの自宅へ電話をかけようとして、思いとどまった。


(今は、彼を休ませてやるべきだ。あの飛行機嫌いの彼が、命を縮めるような思いをして帰ったばかりなんだからな)


インディアナポリス。


ようやく地に足がついた安堵感で、ウェスが自宅の玄関を潜ったのは、それから数時間後のことだった。


「パパが帰ってきた!」


子供たちの歓声が響く。


ウェスは重いギターケースを床に置くと、膝をつき、駆け寄ってくる子供たちを一人ずつ力一杯抱きしめた。


「お帰りなさい、あなた。……本当に飛行機で帰ってきたのね」


セレーヌが、夫の青ざめた顔を見て、いたわるように肩に手を置いた。


「ああ。地獄だったよ、セレーヌ。二度と乗りたくない」


ウェスは力なく笑ったが、その笑顔はどこか虚ろで、セレーヌの胸を不安にさせた。


その夜、ウェスは久しぶりに自分の家のソファに深く身を沈めた。


「ねえ、ウェス。もう無理はしないで」


隣に座ったセレーヌが、そっと夫の手を握った。


「あんなに無理をして空を飛び、あんなに遠くまで行って。あなたはもう、十分すぎるほど家族のために尽くしてくれたわ」


ウェスは妻の柔らかい手を見つめ、静かに答えた。


「不思議だな、セレーヌ。あのスタジオで『ロード・ソング』を弾いている時、俺は初めて、誰のためでもなく、ただ美しさのためだけに音を出しているような気がしたんだ。

空を飛んでいる時の恐怖も、批評家の言葉も、その瞬間だけは全部消えていた」


ウェスは、しばらく無言でリビングの壁に掛かった家族写真を見つめていた。


自分のいない間、家の中には新しい家具が増え、子供たちは新しい服を着ていた。


すべては自分の親指が作り出した豊かさだった。


だが、その代償として、自分自身の心臓は、時折おかしなリズムを刻むようになっていた。


(……もう少しだ。次のツアーさえ乗り切れば、本当に引退して、この家で毎日を過ごせる。もう、あの恐ろしい空を飛ばなくても済むんだ)


ウェスは自分に言い聞かせるように、胸の奥の鈍い痛みを無視した。


窓の外には、インディアナポリスの穏やかな夜空が広がっている。


彼はまだ知らない。


ニューヨークの工場では、彼の遺作となる『ロード・ソング』のLPレコードが、何万枚という数で刻まれ始めていることを。


1968年6月。


運命の土曜日まで、残された時間はあとわずかだった。





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