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第29話 ロード・ソング:美の終着駅

1968年5月。ニュージャージー州イングルウッド・クリフス。


深い森の中に佇む、ルディ・ヴァン・ゲルダ―のスタジオ内は、張り詰めていた。


エンジニアのルディは、糊のきいた真っ白なラボ・コートを纏い、無機質な精密機器の前に立っている。


本業が検眼医である彼は、スタジオ内を診療所のように清潔に保ち、マイクの角度が数ミリずれることさえ嫌った。


彼の手には常に白い手袋があり、高価な機材に指紋が付くことを許さない。


その無機質な空間の真ん中で、ウェス・モンゴメリーは愛器のギブソンL-5を抱えていた。


ウェスの大きな体からは、連日のツアーの汗と、安煙草の匂いが漂っている。


ルディが用意したドイツ製のコンデンサーマイク「ノイマンU67」が、ウェスの親指にある

岩のように硬い胼胝たこの動きを捉えようと待ち構えていた。


ルディは鋭い眼光でメーターをチェックし、

一言も発さずに調整を終えた。


ウェスの胸の奥に、また鋭い痛みが走った。


彼はルディの冷徹な視線を感じながら、ギターの指板に目を落とした。


かつてインディアナポリスの夜を、仲間と笑いながら弾き明かした日々。


あの頃の音は、酒の匂いと熱気にまみれ、次に何が飛び出すかわからない危うさと力強さに満ちていた。


だが今、自分を取り囲んでいるのは、誤差を許さぬ最新鋭の機材と、計算し尽くされた静寂だ。


「ウェス、準備はいいか。まずはストリングスのセクションを一度流す」


アレンジャーのドン・セベスキーが、譜面台から顔を上げて合図を送る。


ドンが書き上げたスコアは、複雑な対位法を用いたバロックスタイルだ。


ジャズ・ギタリストにとっては異質な、数学的な美しさを持つ譜面だった。


ウェスは譜面を見ない。代わりに、閉じたまぶたの裏側で音を聴いていた。


スピーカーから流れるチェンバロと弦楽器の調べ。


ドン・セベスキーは、ウェスがこの複雑な構成を一度で理解できるのかを注視していた。


だが、録音が始まった瞬間、ドンの疑念は消え去った。


ウェスの親指が、オーケストラの隙間に音を置いていく。


一度聴いただけの旋律を、ウェスはまるで以前から知っていたかのように完璧に捉え、その音の連なりに血を通わせていた。


譜面を読み解くのではなく、ウェスは音の重なりの中に流れる法則を、耳だけで完全に掌握していた。


ルディ・ヴァン・ゲルダ―もまた、コンソール越しに圧倒されていた。


真空管を通したウェスの音は、もはや単なる波形ではなかった。


ノイマンの繊細な振動板が捉えていたのは、ウェスの肉体が発する最後の熱量そのものだった。


ルディは検眼医としての観察眼で、ウェスの顔が蒼白になり、額に不自然な脂汗が滲んでいるのを見ていた。


しかし、そこから放たれる音は、驚くほど澄み渡っていた。


ルディは機材のノブを微調整する手を止め、ただじっとウェスの演奏を見つめた。


完璧主義者のエンジニアは、余計な操作を放棄した。スタジオにはウェスの弾く音と、それを刻み込むテープの回る音だけが充満していた。


彼は、ウェスが今、何かを振り絞るようにしてこの音を出していることを感じ取っていた。


(……美しい)


ウェスの心に、かつてない純粋な喜びが灯った。


これまでの「適応」は、時に生きるための術でもあった。


だが今、このクラシックな旋律の中に、自分の親指が奏でるオクターブ奏法が溶け込んでいく。 


その融合は、彼に新しい視界をひらかせた。


「美というものは、本当に色んなやり方で表現できるんだな」


ウェスは独り言のように呟き、弦を弾いた。


ジャズかポップスか、芸術か娯楽か。そんな二元論はどうでもよくなった。


適応の果てに辿り着いたのは、あらゆる境界線が消え、ただ美だけが純粋に残る場所だった。

録音が終わった。


『ロード・ソング』。


その旋律は、彼の生涯で最も優しく、透き通っていた。


レコーディングを終え、ブースを出たウェスは、コントロール・ルームにいるプロデューサーのクリード・テイラーを呼び止めた。


「クリード。……みんな、僕がレコードと同じように演奏するのを聴きに来るんだ」


ウェスは少し疲れ切ったような、だが穏やかな苦笑いを浮かべた。


「何か新しいこと、自分だけの即興を始めようとすると、彼らは席を立ち、出ていってしまう。誰も聴こうとはしない。それが僕のジレンマさ」


クリードは黙ってウェスの目を見つめた。


これまでウェスに商業的な成功という厳しい適応を求めてきた男も、今の演奏を聴いた後では、かけるべき言葉が見つからなかった。


ウェスは続けた。


「ときどき、自分が演奏している機械の一部になったような気がするんだ。……でも、今の演奏は違った。」


クリードはウェスのたくましい肩に手を置き、静かに口を開いた。


「ウェス、最高の録音だった。……今はゆっくり休んでくれ。故郷で待っているだろう」


「ああ。ありがとう、クリード」


ウェスはギターをケースに収め、最後にもう一度だけ、清潔な白衣を着たまま自分を見つめるルディ・ヴァン・ゲルダ―に頷いてみせた。


スタジオの重い防音扉が閉まり、ウェスの姿が消えた後、クリード・テイラーはコンソールの前に立ち尽くしていた。


手元の灰皿では、火を消し忘れた煙草から細い煙が一本の線となって立ち昇っている。


だが、今のウェスの背中は、これまで見送ってきたどの音楽家とも違っていた。


クリードの胸に、言いようのないざわめきが広がった。


それは、一つの偉大な仕事が完遂されたことへの安堵ではなく、砂時計の最後の砂が落ちていくのを黙って見届けてしまったような、冷たく鋭い予感だった。


(彼は、すべてを置いていったのではないか)


先ほど録音された『ロード・ソング』のマスターテープが、棚の片隅で出番を待つように収まっている。


その中に刻まれた音は、もはやヒットチャートを狙うための商品などではなかった。


それは、自らを限界まで追い込み、家族への愛と芸術への誠実さを天秤にかけ続けた男が、最後に辿り着いた祈りそのものだった。


クリードは、ウェスが語った「機械の一部」という言葉を反芻した。


ウェスは機械になったのではない。


彼は、自分を愛するすべての人々の期待を背負い、その重圧をたった一人の親指で支えきったのだ。


そして今、その指をようやく解いた彼の背中からは、表現者としての執着がひとかけらも感じられなかった。


「……まるで、最初から決まっていた帰り道へ向かうようじゃないか」


クリードは誰に言うでもなく呟いた。


窓の外、スタジオの敷地を出ていく一台の車が、初夏の緑の向こうに消えていく。


その光景は、あまりに美しく、それゆえに二度と取り戻せないものの象徴のように、彼の網膜に焼き付いた。


スタジオの中は、再びルディ・ヴァン・ゲルダ―が管理する完璧な静寂に包まれた。


しかし、クリードの耳の奥では、まだあの優しく透き通った『ロード・ソング』の旋律が鳴り止まなかった。



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