第2話 魔法の箱と六本の弦
玄関の扉を開けた瞬間、ウェスを包み込んだのは、工場とは正反対の命の匂いだった。
セレーヌが焼いたコーンブレッドの甘い香りと、鍋から立ちのぼる温かなスープの湯気。
「パパ! パパが帰ってきた!」
廊下を駆けてくる賑やかな足音。
一番先頭を切って飛び出してきたのは、まだ三歳のロバートだ。
おぼつかない足取りで、ウェスの膝に全力でしがみついてくる。
「こらこら、ロバート。パパはまだ油だらけだ。お前の綺麗な服が真っ黒になっちゃうよ」
ウェスは困ったように笑いながらも、黒く汚れた大きな手をそっとロバートの頭にかざした。
触れたいけれど、汚したくない。
その不器用な構えに、家族への何よりの愛情が滲んでいた。
「おかえりなさい、ウェス。今日も大変だったわね」
台所からエプロン姿のセレーヌが顔を出した。
彼女は夫の煤けた顔を見ると、言葉以上に温かい微笑みを投げかけた。
湯気の上がる食卓を囲み、モンゴメリー家の団らんは明るい笑い声に包まれていた。
ウェスは黒い汚れの落ちきっていない手でスプーンを握り、子供たち一人ひとりの顔を覗き込んだ。
「さあ、みんな。今日はどんな『素敵なこと』があった? パパに最高のニュースを聞かせてくれ」
「あのね、今日はお空に大きな入道雲が見えたの。綿菓子みたいだったわ!」
「僕はね、パパみたいに強くなるために、お豆を全部食べたよ!」
「ははは、そいつは素晴らしい! 明日の朝には、ロバートの腕は僕より太くなってるかもしれないな。パパも負けてられないぞ」
ウェスの大らかな笑い声が、小さな部屋を黄金色に染めていく。
工場の騒音も、上司の叱責も、ここには存在しない。
セレーヌはその様子を眩しそうに見守りながら、そっと夫の皿にパンを足した。
彼にとってこの団らんは、明日の旋盤を回すための、何よりの燃料だった。
やがて、満ち足りた顔で子供たちが深い眠りに落ちると、家の中には濃密な静寂が訪れた。
ウェスはそっとリビングの椅子に座り、押し入れの奥から古びたギターケースを取り出した。
中古の、あちこちに傷がついた安物だったが、彼にとってはどんな宝物よりも輝いて見えた。
椅子に腰かけ、ギターを抱える。
慣れた手つきでピックを構えたが、弦に触れる直前でウェスの指が止まった。
(いけない。これじゃあ音が響きすぎる……)
ピックが刻む、クリアで鋭い大きな音。
それは、今さっきまで笑っていた子供たちの安らかな眠りを切り裂く暴力のように彼には感じられた。
壁は薄く、夜は深い。
ウェスは迷った末にピックをサイドテーブルに置き、代わりに右手の親指を弦に添えた。
ボロン……。
親指の柔らかな腹が奏でたのは、これまで聴いたどの楽器よりも温かく、深い響きだった。
暗闇の中で、ウェスの瞳が驚きに丸くなる。
「これだ……。この音なら、みんなを驚かせずに済む」
それは、世界を驚かせることになる伝説の「親指奏法」が、一人の父親の、家族へのささやかな愛から産声を上げた瞬間だった。




