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第27話 黄金の境界線

1967年3月2日。ニューヨークの喧騒を閉じ込めたナッソー・コロシアムの空気は、シャンパンの泡のように華やかで、どこか刺々しい緊張感に満ちていた。


会場を埋め尽くすのは、贅を尽くした夜会服に身を包んだ音楽界の巨頭たちだ。


クリスタル・シャンデリアの光が、選び抜かれたワイングラスに反射して、無数の鋭い火花を散らしている。


司会を務めるジミー・ディーンが、まばゆいスポットライトの渦中で、ゆっくりと封筒を開く。


その紙が擦れる小さな音さえ、ホール全体が固唾を呑んで見守っているように感じられた。


「……第9回グラミー賞、最優秀ジャズ・インストゥルメンタル賞。受賞者は——」


一瞬の静寂。


ウェス・モンゴメリーは、円卓の端で自身の大きな両手を見つめていた。


それは、昼夜二交代の工場勤務で油にまみれ、深夜のクラブで弦の摩擦に耐え抜いてきた、労働者の手だ。


親指の付け根にできた岩のように硬い胼胝たこが、目の前の純白のテーブルクロスや、繊細な銀食器の上では、場違いな異物のように感じられた。


「ウェス・モンゴメリー! 『ゴーイング・アウト・オブ・マイ・ヘッド』!」


その瞬間、隣にいたセレーヌが弾かれたように立ち上がった。


「ああ、ウェス!」


彼女の歓喜の叫びは、ホールに鳴り響く華やかなファンファーレさえも一瞬かき消すほどの熱量を持っていた。


セレーヌは溢れ出す涙を隠そうともせず、ウェスのたくましい肩を力の限り抱きしめた。


彼女の震える指先が、あつらえたばかりのタキシード越しに彼の背中を強く叩く。


それは、インディアナポリスの冷え切ったアパートで、電気代を惜しんで毛布にくるまりながら、「いつかきっと」と語り合ったあの夜から、いくつもの過酷な季節を共に越えてきた二人にしか分からない、勝利の抱擁だった。


セレーヌは顔を真っ赤に染め、周囲の拍手に応えるように何度も何度も大きく頷きながら、夫をステージへと押し出した。


誇らしげに彼を見送る彼女の瞳は、どんな高価な宝石よりも眩しく輝いていた。


爆発するような拍手。


しかし、ウェスはステージへ向かう歩みの中で、会場のあちこちから投げかけられる視線が、冷たいナイフのように背中に突き刺さるのを感じていた。


その視線の主たちは、ジャズの純潔を信奉する者たちだ。彼らの沈黙は、雄弁にウェスを糾弾していた。


「裏切り者」

「ポップスに魂を売った男」


——その無言の合唱が、足元のレッドカーペットを重く沈ませる。


「……おめでとう、ウェス。新しい時代のジャズだ」


司会者から黄金の蓄音機を受け取った瞬間、フラッシュの白い光が網膜を焼いた。


ウェスはマイクの前に立ち、短く控えめな感謝を述べる。


その姿を、最前列に陣取った批評家たちが苦虫を噛み潰したような顔で見上げていた。


彼らにとって、この『黄金の蓄音機』は、芸術が商業に屈した敗北の証に他ならなかった。


ステージを降り、熱気と虚飾が渦巻く舞台裏へと戻ると、待ち構えていた数人の記者がハイエナのように一斉に彼を取り囲んだ。


「ウェス、今の気分はどうだい! 純粋なジャズ・ファンからは『裏切り』だと騒がれているがね」


「クリード・テイラーの言いなりになって、ただのイージーリスニングを弾くのはどんな気持ちだ? ジャズの誇りはどこへ捨てたんだ?」


矢継ぎ早に浴びせられる言葉のつぶてに、ウェスは静かに立ち止まった。


彼は手にした黄金のトロフィーを落とさないよう、分厚い手で、まるで壊れやすい小鳥を保護するようにしっかりと包み込む。


「気分がいいかって? ああ、光栄に思っているよ。だが、君たちが何を言いたいのかも分かっている」


ウェスは、執拗にメモを取る若い記者の目を真っ直ぐに見つめた。


その眼差しには、ハーフ・ノートの闇で見せたような、鋭く深い光が宿っていた。


それは迷いではなく、深い思索の果てに辿り着いた哲学の輝きだ。


「こうしたレコードを作るにあたって、自分自身を合わせる必要があったのは確かだ。否定はしない。でもね、そこから学ぶことは多いんだよ」


記者が皮肉げに口角を上げた。


「学ぶ? 天下のウェス・モンゴメリーが、甘ったるいポップスのメロディから何を学ぶというんだ? 難しいコード進行を捨てて、何を掴むというんだ?」


「いいかい。もし、世界の方が僕に合わせなければいけないとしたら、そこには学びなんて何もないんだ」


ウェスの声は、喧騒の中でも不思議なほど明瞭に響いた。


「誰かが僕のやり方に合わせるのを待っているだけじゃ、僕は一生、インディアナポリスの小さな部屋から出られない。だが、僕の方が適応しようとするなら、物事のやり方には、これほどまでに豊かな、色んな方法があるってことが分かるはずだ。僕は今、それを学んでいる最中なんだよ」


記者のペンが止まった。


周囲の野次馬たちも、彼の言葉に含まれた重圧と、その圧倒的な謙虚さに、思わず息を呑む。


ウェスにとっての適応は、屈服などではなかった。それは、未知なる領域へと踏み出し、自分を更新し続けるための、最も誠実な戦いだったのだ。


ウェスはそれ以上何も語らず、ただ一度だけ深く頷くと、重い扉の向こうへと消えていった。


外に出ると、夜のニューヨークには冷たい春の雨が降っていた。


手の中にある黄金の重みは、新しい世界へのパスポートか、あるいは自由を縛るかせか。


彼はその答えを出す代わりに、まだ見ぬ譜面——ビートルズの『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』の、あの壮大なクレッシェンドを、頭の中で鳴らし始めていた。








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