第26話 魂の値段
1966年。ウェス・モンゴメリーを取り巻く景色は、数年前とは一変していた。
リバーサイド・レコードの倒産という嵐を越え、彼は大手ヴァーヴ・レコードへと移籍した。
そこには、敏腕プロデューサー、クリード・テイラーが用意した新しい道が待っていた。
ニューヨーク、ミッドタウンにある豪華なスタジオ。
かつての煙草の煙と汗が染み付いた地下のクラブとは違い、そこは磨き抜かれたフロアと最新の録音機材が並ぶ、清潔で機能的な空間だった。
ウェスの目の前には、名うての編曲家ドン・セベスキーが書き上げた、分厚いスコア(総譜)が広げられている。
「ウェス、アドリブは短く、メロディは崩さないでくれ」
調整室からクリードの声が届く。
「ラジオを聴いている主婦や、仕事帰りの会社員が口ずさめるような、甘く、親しみやすい音が必要なんだ。君のオクターブ奏法は、そのための最高の『宝石』なんだから」
ウェスは無言で、手元の譜面を見つめた。
そこには、かつてインディアナポリスの地下クラブや『ハーフノート』のステージで、一晩中終わることのないアドリブを繰り広げ、聴衆を熱狂させたあの自由な余地はほとんど残されていない。
代わりに並んでいるのは、ストリングスの海に浮かぶ、美しく整えられた旋律の数々だった。
セッションの合間、スタジオの廊下で、かつてのジャズ仲間と出くわした。
「よう、ウェス。最近の君のレコードを聴いたよ。まるで高級ホテルのロビーで流れているBGMみたいじゃないか。……あの、誰も真似できなかった『怪物』の演奏は、一体どこへ行っちまったんだ?」
仲間は半分は冗談めかして言ったが、その瞳の奥には明らかな失望の色が混じっていた。
ウェスは否定もせず、ただ少し寂しげに笑って、そのまま無言で通り過ぎた。
(どこへ行ったのか……か)
その問いは、ウェス自身が鏡を見るたびに自らに問いかけている言葉でもあった。
かつてチャーリー・クリスチャンのレコードを擦り切れるまで聴き、誰に教わることもなく、旋盤を回すその手で築き上げた「俺だけのジャズ」。
それを愛する者たちから「堕落」や「変節」と呼ばれるのは、芸術家として、心臓を直接素手で握り潰されるような痛みだった。
その夜、ウェスはホテルへ戻らず、深夜バスを乗り継いでインディアナポリスの自宅へと帰った。
家の扉を開けると、そこには静かな寝息があった。
居間のソファには、使い込まれた妻セレーヌの家計簿が置いてある。それをめくれば、かつての赤字続きだったページは消え、教育費や家の修繕費、そして七人の子供たちが不自由なく暮らすための数字が整然と並んでいた。
ウェスはそっと、末っ子のロバートの寝顔を覗き込んだ。
来月には、長女が大学へ進学する。息子は新しい野球のグローブを欲しがり、セレーヌは自分自身のものを何一つ買わずに、家族のために台所に立ち続けている。
「……パパ、おかえり」
不意に、眠りから覚めたロバートが目をこすりながら微笑んだ。
「パパの音楽、この前ラジオで流れてたよ。お友達のお母さんも、とっても綺麗だねって言ってた。僕、パパが誇らしいよ」
ウェスの胸を、言葉にならない熱いものが突き上げた。
仲間から魂を売ったと罵られようと、評論家からイージー・リスニングと揶揄されようと、この小さな命たちが安心して眠り、未来を夢見ることができるなら――。
(俺は、自分のプライドなんていくらでも差し出す。それが俺の『仕事』だ)
彼は深夜の台所で、冷めたコーヒーを飲みながら、クリードから渡されたポップな楽曲『ゴーイン・アウト・オブ・マイ・ヘッド』のメロディを口ずさんだ。
芸術を貫き通し、家族を犠牲にする道もあった。だが、ウェス・モンゴメリーという男にとって、守るべき聖域はジャズの歴史の中ではなく、この狭く、騒がしく、愛おしい我が家の中にこそあったのだ。
彼は翌朝、再びニューヨークへと向かった。
その足取りに、もう迷いはなかった。
譜面通りに弾くのではない。そこに、誰もが振り向くほどの優しさと、かつて夜警として、あるいは旋盤工として家族を支えた労働者としての誇りを込めて弾く。
一九六七年、グラミー賞授賞式の朝。
タキシードを纏い、鏡の前に立つウェスは、かつての職人のような硬い表情を崩さなかった。
これから彼が受け取る黄金の蓄音機は、単なる名誉の証ではない。それは、自分の魂の一部を削り、家族の幸福へと変えた、一人の父親の勝利の証だった。




