第22話 波濤(はとう)の向こう側
1965年3月。ニューヨークの港に停泊する巨大客船クイーン・エリザベス号のデッキで、
彼は一人、遠ざかっていく自由の女神とマンハッタンの摩天楼を見つめていた。
極度の飛行機嫌いであるウエスは、他のミュージシャンたちが数時間で飛び越えた大西洋を、五日間かけて渡る道を選んだ。
それは恐怖を避けるための選択ではあったが、結果として、自分自身を逃げ場のない孤独の中に置くことになった。
船のエンジンが刻む重い振動が、デッキの床板を通じて靴底に伝わってくる。
客室の鏡に映る自分の顔は、以前よりも頬がこけ、目つきだけが鋭くなっているように見えた。
インディアナポリスの自宅には、今、六人の子供がいる。
そしてセレーヌの腹の中には、七人目の命が宿っていた。
今回のヨーロッパ遠征は、表向きは華やかな演奏旅行だが、その内実は過酷なスケジュールの連続だった。
ロンドン、パリ、ハンブルク、アムステルダム。
移動の合間には、宣伝のためのテレビ出演が何本も詰め込まれている。
ウェスは、客室の狭いデスクで手帳を開いた。
そこには、今回のツアーで得られるギャランティと、アメリカに残してきた滞納金の数字が書き留められていた。
彼は暗算を繰り返した。
ロンドンの出演料で、差し押さえを免れるためのいくらが払えるか。
次のアルバムが予定通りに売れれば、末の子が成人するまでの生活費を賄えるのか。
彼にとって、ギターを弾くことはもはや純粋な自己表現ではなかった。
それは、家族の未来を一日ずつ買い戻すための、切実な労働であった。
航海二日目の夜。
船が外洋に出ると、波は高くなり、船体は大きく軋み始めた。
ウェスはギブソンL-5をケースから取り出した。
アンプに繋がない生音のギターは、荒れ狂う波の音にかき消されるほど小さく、頼りなかった。
彼は譜面を広げることもなく、ただ指を動かした。
指先には弦の抵抗が重く伝わる。
彼は、自分が巨大な車輪を回し続ける一人の作業員であるような感覚に陥った。
自分が指を止めてしまえば、あの賑やかな食卓は消え、まだ見ぬ七人目の子の未来も閉ざされてしまう。
「……俺は、本当にこれでいいのか」
暗い客室で、独り言が漏れた。
ヴァーヴ・レコードでの商業的な成功は、確かに金をもたらした。
だが、それと引き換えに、自分が何を失いつつあるのかを、彼はこの静寂の中で直視せざるを得なかった。
かつてインディアナポリスのクラブで、夜が明けるまで仲間と火花を散らした、あの自由な即興。
一音ごとに自分が成長していくような、あの全能感。
今の自分には、それらを懐かしむ時間さえ許されていない。
航海四日目、船内のラウンジからは客たちの優雅な笑い声と、ダンス音楽が聞こえてきた。
ウェスはその華やかさから逃げるように、人気のない後部デッキへ向かった。
見渡す限りの漆黒の海。
彼は、自分が今、人生という名の荒波の真ん中で立ち尽くしていることを実感していた。
かつて工場の旋盤を回していた時、彼は「いつかここから抜け出す」という希望を持っていた。
しかし今、彼はここから逃げ出さないという、より重く苦しい覚悟を背負っていた。
「疲れたな……」
誰にも届かない声が、強い潮風にさらわれて消えた。
彼は再び部屋に戻り、ギターを抱えた。
明日、イギリスの土を踏めば、彼は再び微笑む天才ギタリストを演じ、完璧なエンターテインメントを提供しなければならない。
ウェスは、冷えた指先を自らの息で温めながら、夜が明けるのを待った。
その指先には、彼が愛した音楽と、彼が守るべき家族の運命、その両方が血を吐くような重さで託されていた。




