第20話 崩れゆく王国
1963年冬。ニューヨークにあるリバーサイド・レコードのオフィスには、かつての活気が嘘のような、冷ややかな空気が漂っていた。
デスクには未払いの請求書が積み上がり、電話が鳴るたびに、スタッフたちは借金の督促ではないかと顔を曇らせる。
ジャズ界の良心と呼ばれたこのレーベルは、今や巨大な負債の渦に飲み込まれようとしていた。
プロデューサーのオルリン・キープニュースは、薄暗い調整室で一人、頭を抱えていた。
目の前のテープには、ウェスの最新のテイクが刻まれている。
これほどまでに美しい音楽がここにあるというのに、それを世界に届けるための血液――資金が、もはや会社には残っていなかった。
「オルリン、少し時間はあるかい?」
不意に扉が開いた。
そこに立っていたのは、インディアナポリスから深夜バスで駆けつけたウェスだった。
その顔には、長距離移動の疲労だけではない、深い苦悩の影が張り付いている。
オルリンは無理に笑顔を作ろうとしたが、
ウェスの真っ直ぐな瞳を前にして、それは歪な拒絶にしかならなかった。
「……ウェスか。すまない、今ちょうど君の音を聴き返していたところだ。素晴らしいよ。今までで一番だ」
「嘘を言わないでくれ、オルリン。君が今、音楽のことなんて考えていないのは分かっている」
ウェスは静かに、オルリンの向かいの椅子に腰を下ろした。
「リバーサイドが危ないという噂は、インディアナポリスまで届いている。……俺への印税が三ヶ月も止まっている理由も、そういうことなんだろう?」
オルリンは言葉を失い、視線を落とした。
ウェスのアルバムは売れていた。
だが、会社の杜撰な経営と、共同経営者だったビル・グラウアーの急死が、すべてを暗転させたのだ。
「……すまない、ウェス。建て直そうと必死なんだ。だが、銀行はもう首を縦に振らない。君に支払うべき金が、他の負債の穴埋めに消えていくのを見ているしかなかった。俺を……恨んでくれて構わない」
ウェスは怒鳴ることも、責めることもしなかった。
ただ、膝の上で自分の大きな両手を見つめていた。
この手で、七人の子供たちの未来を掴み取らなければならない。
セレーヌが家計簿を前にして、夜遅くまで溜息をついているのを知っている。
ロバートの靴のサイズが合わなくなり、娘たちが新しい教科書を欲しがっているのも分かっている。
ウェスにとって、リバーサイドは単なる契約先ではなかった。
無名の自分を見出し、自由に弾かせてくれた、もう一つの家だった。
だが、その家が今、音を立てて崩れようとしている。
「オルリン、俺は君を恨んじゃいない。君がいなければ、俺は今もあの地下室で、一人で親指を鳴らしていただろう」
ウェスは顔を上げ、断腸の思いで言葉を絞り出した。
「だが、俺には帰るべき場所があるんだ。俺がここで芸術家を気取っている間に、家族が飢えるわけにはいかない」
オルリンは、ウェスの言葉の裏にある決意を悟った。
それは、純粋なジャズの世界から、もっと大きな、そして売れることを至上命題とする世界へ、彼が身を投じることを意味していた。
「……君を縛る権利は、今の俺にはないな。君ほどの才能が、金の心配をしながら弾くなんて、あってはならないことだ」
二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。
かつて『インクレディブル・ジャズ・ギター』を録音した際の、あの奇跡のような高揚感はもうどこにもない。
そこにあるのは、夢の終わりを宣告された二人の男の、無残な背中だけだった。
「次は、どこへ行くつもりだ?」
オルリンが震える声で尋ねた。
ウェスはコートを羽織り、少しだけ寂しげに笑った。
「……クリード・テイラーが、俺に会いたがっている。彼なら、俺の音を金に変える方法を知っているはずだ」
ウェスがスタジオの扉を閉める音が、リバーサイドという一時代が終わる弔鐘のように響いた。
表に出ると、ニューヨークの街は冷たい雨に濡れていた。
ウェスは雨の中、家族の顔を思い浮かべながら、新しい適応への第一歩を踏み出した。
王国は崩れた。だが、彼の戦いは、より過酷な場所へと続いていく。




