第18話 帝王の誘いと、小さな椅子
1962年。ニューヨークの夜は、ウェス・モンゴメリーという名を知らぬ者はいないほどに熱狂していた。
ヴィレッジ・ヴァンガードの楽屋は、煙草の重たい煙と、演奏を終えたばかりの熱気に包まれている。
ウェスはギブソンL-5を丁寧に拭きながら、いつものように控えめに椅子に座っていた。
その時、楽屋の重い扉が、音もなく開いた。
入ってきたのは、仕立てのいいイタリア製スーツに身を包み、鋭い眼光を放つ男だった。
ジャズ界の帝王、マイルス・デイヴィス。
彼が歩くだけで、周囲の空気が凍りついたように静まり返る。
マイルスは、驚きに固まる周囲を意に介さず、まっすぐにウェスの前まで歩み寄った。
「……いい音だったぞ」
掠れた、囁くような声。
だが、その一言には絶対的な権威が宿っていた。
マイルスはポケットから煙草を取り出すと、ウェスの目を見据えたまま言葉を続けた。
「あのアダレイ(キャノンボール)の連中とつるむのは、もう十分だろう。ウェス、俺のバンドに来い。俺のトランペットと、お前の親指。それだけで、新しいジャズの歴史は完成する」
楽屋にいた誰もが息を呑んだ。
マイルス・デイヴィスのバンドに入る。
それはジャズ・ミュージシャンにとって、神の隣に座ることを許されるのと同義だった。
世界中のあらゆるギタリストが、全財産を投げ打ってでも欲しがる、最高峰の椅子が今、ウェスの目の前に差し出されたのだ。
ウェスはゆっくりと顔を上げた。
マイルスの瞳の奥には、未知の音楽の荒野が広がっているように見えた。
そこに行けば、今よりもっと遠くへ、誰も見たことのない景色へ辿り着けるだろう。
「……マイルス、光栄です」
ウェスの口から出た言葉は、重く、慎重だった。
「ですが、あなたのバンドに入れば、俺は一年のうち何百日を旅の空で過ごすことになりますか?」
マイルスは薄く笑い、煙を吐き出した。
「音楽に魂を売るなら、家の鍵なんて川に捨てちまえ。お前が弾く場所が、お前の家だ。世界中が、お前の親指にひざまずくんだぞ」
その瞬間、ウェスの脳裏をよぎったのは、世界中のステージのライトではなく、インディアナポリスの自宅のリビングに並んだ、七つの小さな椅子だった。
夕食の時間が近づくと、子供たちが競い合うようにして座る、あの傷だらけの木製の椅子。
自分が一週間家を空ければ、ロバートの背は少し伸び、娘たちの笑い声は少し大人びてしまう。
マイルスの言う世界の広さに比べれば、あの家のリビングはあまりに狭い。
だが、ウェスにとっての真実は、常にその小さな空間の中にだけ存在していた。
「マイルス、俺にはその才能はないかもしれません」
ウェスは穏やかに、しかし岩のような固い意志を込めて答えた。
「俺のギターは、家族の飯を食わせるための
道具なんです。俺が世界を回っている間に、あいつらの成長を見逃すわけにはいかない。
俺の居場所は、ニューヨークの王座じゃなくて、インディアナポリスのあの窮屈な食卓なんです」
周囲のスタッフは耳を疑った。
帝王の誘いを、あろうことか家族との夕食を理由に断る男など、かつて一人もいなかったからだ。
マイルスは無言のまま、じっとウェスの顔を観察した。怒るかと思われたが、帝王の唇がわずかに歪んだ。
「……おめでたい男だな、お前は」
マイルスは背を向け、扉へと歩き出した。
「だが、その『窮屈な食卓』とやらが、お前の音をあんなに温かくさせてるんだとしたら……。勝手にしやがれ」
マイルスが去った後の楽屋に、再び静寂が訪れた。
オルリン・キープニュースが駆け寄り、信じられないという顔でウェスを見た。
「いいのか、ウェス。一生に一度のチャンスだったんだぞ」
ウェスは、ケースに収まったギターを愛おしそうになでた。
「いいんですよ、オルリン。俺は王族になりたいわけじゃない。ただ、立派な父親でありたいだけなんです」
その夜、ウェスは一人で安ホテルのベッドに横たわった。
窓の外には、ニューヨークの果てしない可能性を象徴するネオンが輝いている。
だが、ウェスの心はすでに、千マイル先にあるインディアナポリスの小さな部屋に飛んでいた。
彼は目を閉じ、暗闇の中で家族の笑い声を聴こうとした。
その親指は、世界を手にすることを拒み、ただ愛する者たちを支えるためだけに、明日も弦を弾くことを選んだ。
それがウェス・モンゴメリーという男の、不器用で、しかし一点の曇りもない誇りだった。




