第17話 フル・ハウス、奇跡の夜
1962年6月25日、月曜日。
バークレーの『ツボ』の周囲は、霧を押し返すほどの異様な熱気に包まれていた。
週の始まりという静寂を破り、店の前には幾重にも折り重なる行列ができている。
プロデューサーのキープニュースが仕掛けた「マイルス・バンドとの共演」という噂は、またたく間にサンフランシスコ中のジャズ・ファンの足を引き寄せた。
楽屋の鏡に映るウェスの表情は、かつてないほどに引き締まっていた。
彼は自分の右手の親指を、愛おしむように見つめた。
そこには旋盤の熱で硬くなった皮膚の痕跡がある。
インディアナポリスの深夜、家族の寝息を背に一人でギターを弾き続けた記憶が、その指先に宿っていた。
「パパ、頑張って」
夕方の電話で聴いたセレーヌの声が、今は心臓の鼓動と重なっていた。
「ウェス、行くぜ。客が待ちきれなくてテーブルを叩き始めてる」
ジョニー・グリフィンが、サックスを誇らしげに掲げて現れた。
ウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、ジミー・コブ。
すでにステージに向かった彼らの気配が、壁越しに鋭い緊張感として伝わってくる。
ウェスがステージに一歩踏み出した瞬間、地鳴りのような拍手が沸き起こった。
「フル・ハウスだ……」
文字通り、足の踏み場もない超満員。
ウェスは、はにかんだような笑みを浮かべ、愛機ギブソンL-5を構えた。
店の外に停められた移動録音車のエンジニアが、録音開始のスイッチを入れる。
ステージの隅で赤いランプが灯り、運命の演奏が始まった。
一曲目の『フル・ハウス』。
軽快な3/4拍子のワルツが刻まれる。
ケリーのピアノが弾むようなリズムを刻み、ウェスのギターがその上を滑らかに泳ぎ出す。
三拍子の心地よい揺れの中で、ウェスは一音一音を噛み締めるように奏でた。
夜が更けるにつれ、演奏は極限の集中力へと向かっていく。
そして、伝説の『ブルー・ン・ブギー』のイントロが鳴り響いた。
ジミー・コブのシンバルが火花を散らすようなリズムを叩き出し、グリフィンのサックスが、空気を切り裂くような鋭い咆哮を上げる。
グリフィンのあまりに激しく、高速なソロに、客席は息を呑んだ。
並の演奏家ならその気迫に圧倒され、立ち尽くしただろう。
しかし、ウェスは揺るがなかった。
彼は目を閉じ、グリフィンの放つ熱を正面からすべて受け止めた。
そして自分の番が来た瞬間、親指が動いた。
単音のフレーズが、濁りのない清流のように溢れ出す。
それは旋盤が正確に鉄を削り出すような完璧なリズムでありながら、血の通った温かさを持っていた。
フレーズが加速し、音が重なるオクターブ奏法へと切り替わると、音の厚みが一気に膨れ上がる。
アンプから放たれる音は、もはや一つの楽器の音を超えていた。
それはインディアナポリスの夜の静寂であり、家族を守り抜こうとする男の執念そのものだった。
ウィントン・ケリーが、あまりの凄まじさに「イエス!」と声を上げながら鍵盤を叩く。客席からは、もはや拍手ではなく、驚嘆の叫びが上がっていた。
演奏が終わり、最後の一音が夜気に溶けていったとき、会場には一瞬の静寂が訪れた。
直後、爆発したような万雷の拍手。
ウェスは汗だくになりながら、ふっと肩の力を抜いて仲間たちと視線を交わした。
やり遂げた。
録音車の中から戻ってきたキープニュースが、満面の笑みで大きく頷いているのが見えた。
深夜、興奮冷めやらぬ『ツボ』を出ると、サンフランシスコの空には星が輝いていた。
ウェスは一人、海から届く潮騒の香りを吸い込みながら歩き出す。
指先には弦の確かな感触と、やり遂げた者だけが知る心地よい痺れが残っていた。
彼はポケットの中で、家族の写真にそっと触れた。
「セレーン、聴こえたかい。今夜、俺は最高の仲間と一緒に、納得のいく音を刻むことができたよ」
1962年6月25日。
この夜、テープに記録された音は、時代を超えて世界中のジャズ・ファンの心を揺さぶり続けることになる。
ウェス・モンゴメリーという一人の男が、愛と汗を込めて作り上げた、一点の曇りもない実況録音だった。




