第16話 霧の街の再会
サンフランシスコ、バークレー。
急な坂道と、海から流れ込む重い霧が街を包み込んでいた。
ウェス・モンゴメリーは、愛車をジャズ・ワークショップ『ツボ』の裏手に停めた。
ロサンゼルスから数百マイルに及ぶ孤独なドライブ。
ハンドルを握り続けた掌は強張っていたが、眼光だけは、かつて旋盤を回していた頃の鋭さを取り戻していた。
店内に一歩足を踏み入れると、そこにはすでにキープニュースと、マイルス・デイヴィス・バンドから借り受けた史上最強のリズムセクションが顔を揃えていた。
ウィントン・ケリーがピアノの蓋を開け、宝石を転がすような軽快な和音を鳴らす。
ポール・チェンバースはウッドベースの弦を弾いてピッチを確かめ、ジミー・コブはブラシでスネアドラムの皮を撫でている。
彼らは現代ジャズの頂点に立つ男たちだ。
マイルスという峻烈なリーダーの元で鍛え上げられたその音には、一分の隙もなかった。
ウェスは一瞬、その完成された空気感に気圧されそうな感覚を覚えた。
インディアナポリスの寡黙な職人が、ニューヨークの王族たちに挑もうとしているのだ。
だが、その静寂を打ち破るように、野太く、聞き馴染みのある声が響いた。
「おい、ウェス! その不恰好な親指を温存しすぎて、錆びつかせちゃいないだろうな?」
振り返ると、テナーサックスを誇らしげに掲げた小柄な男が不敵に笑っていた。
ジョニー・グリフィンだ。
1948年、ライオネル・ハンプトン楽団のバスに揺られ、人種差別の色濃い南部を巡った戦友。
黒人専用の宿も見つからず、バスの座席で夜を明かした過酷な日々の中で、互いの才能だけを頼りに生き抜いた仲間だった。
グリフィンの顔を見た瞬間、ウェスの心の奥にこびりついていた冷たい強張りが、ふっと解けていった。
「グリフィン……。お前のうるさいサックスを黙らせるために、わざわざここまで来たんだよ」
二人は固く握手を交わした。
言葉は少なくとも、互いの目を見ればわかった。
今日、この場所で、彼らは商業主義や世間の評価など一切関係のない剥き出しのジャズを、歴史に刻もうとしているのだ。
リハーサルが始まった。
ケリーのピアノが転がるようなリズムを刻み、そこへチェンバースの重厚なベースが重なる。
ウェスは目を閉じ、その巨大な音の渦の中に飛び込んだ。
親指が弦を捉える。
単音からオクターブ奏法へ、そしてブロックコードへと音の厚みが膨らんでいく。
マイルスのリズムセクションは、ウェスを甘やかすような真似はしなかった。
彼らは全力でウェスを追い込み、煽り、高みへと引きずり上げようとしていた。
グリフィンのサックスが、それに応えるように咆哮を上げ、スタジオ録音では決して生まれない殺気立った火花が散った。
キープニュースは客席の隅で、その音のやり取りをじっと見つめていた。
彼は知っていた。
ウェスが一度は音楽から逃げようとしたことを。
そして、この一本の電話に、彼が自分の音楽家としての寿命のすべてを賭けていることを。
「……いける。これはただの録音じゃない」
キープニュースは、移動録音車のエンジニアに向かって、小さく頷いた。
リハーサルを終えた夕暮れ時。
ウェスは一人、楽屋の窓から外を眺めていた。
開店を一時間後に控え、店の前には霧を突っ切るようにしてファンの行列が長く伸びていた。
サンフランシスコの冷たい空気が、窓の隙間から入り込む。
ウェスは自分の右手の親指をじっと見つめた。
旋盤で硬くなった皮膚。
家族を養うために酷使してきた指。この指一本が、今夜、世界を変えるかもしれないのだ。
「ウェス、緊張してるのか?」
グリフィンが、サックスのリードを湿らせながら声をかけてきた。
「……ああ。不思議な気分だ、グリフィン。
工場の機械の音じゃなく、この指の音を聴くために、こんなに多くの人が集まってくれている」
「当たり前だ。お前は、俺たちの誇りなんだからな。さあ、最高の『フル・ハウス』にしようぜ」
店の外では、機材を積んだ移動録音車のハッチが閉まる音がした。
客席はすでに埋まり、テーブルを叩く音や、期待に満ちたざわめきが、壁を越えて楽屋まで届いてくる。
ウェスは愛機ギブソンL-5を手に取り、最後の一本の弦を締め直した。
インディアナポリスで待つセレーヌ、そして五人の子供たちの顔が浮かぶ。
「聴いていてくれ。今夜、俺はもう一度、音楽の中に自分を刻み込んでくる」
1962年6月25日、月曜日。
サンフランシスコの夜気が、最高潮の熱気に変わる瞬間が来た。
ウェスはグリフィンの背中を追い、眩いばかりの光が待つステージへと、確かな一歩を踏み出した。




