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第12話 旋盤を止める日

 1960年、年が明けたばかりのインディアナポリス。


 ニューヨークでの濃密なレコーディングを終えたウェス・モンゴメリーは、何事もなかったかのようにマロリー社の工場へ戻っていた。


いつものように朝七時に出勤し、油の匂いに包まれながら、黙々と鉄を削る。 


彼にとって、ニューヨークのスタジオで浴びたライトの光は、まるで遠い異国の出来事のように思えていた。


 しかし、世界はすでに彼を発見していた。


 ある日の昼休み。休憩室で同僚のビルが、

一冊の雑誌を興奮気味に広げた。


ジャズ界で最も権威のあるダウン・ビート誌だ。


「おい、ウェス! 見ろよ、これをお前のことじゃないのか?」


 そこには、批評家のラルフ・J・グリーソンが寄せた熱烈なレビューが掲載されていた。


「インディアナポリスに、ジャズの概念を根底から覆すギタリストがいる。その指先から放たれる音は、生命の鼓動そのものだ」

という一文とともに、ギブソンを抱くウェスの写真が誇らしげに誌面を飾っていた。


「……ああ、少し録音してきたんだ。でも、俺はただのネジ回しだよ」


 ウェスは照れ臭そうに笑って誤魔化した。


しかし、工場のスピーカーから流れる昼の放送が、ついに彼の演奏を捉えた。


 流れてきたのは『ウェスト・コースト・ブルース』だった。


 彼の肉厚な親指が低音弦を震わせるたび、スピーカーからは地響きのような深みと、大樹の根を思わせる揺るぎない安定感を持った音が溢れ出した。 


作業員たちは一人、また一人と手を止め、スピーカーを見上げた。


金属の削れる鋭い音に代わり、ウェスの紡ぐ豊かなオクターブの和音が、埃っぽい工場の中を包み込んでいく。


「……ウェス、お前、こんなにも美しい音を弾いていたのか」


 同僚たちの畏敬の念に満ちた眼差しの中で、ウェスは自分の音楽がもはや自分だけのものではないことを悟った。


全米中から届く出演依頼、そしてレコード会社からの矢のような督促とくそく


それは、一人の労働者が、神から与えられた才能に身を捧げるべき時が来たことを告げていた。


 その夜、ウェスはリビングでセレーヌと向き合った。


 机の上には、工場の給料袋と、リバーサイド社から送られてきた契約金の小切手が並んでいた。


「セレーヌ。ついに、その時が来たみたいだ」


「ええ。……工場の仕事、辞めるのね」


 セレーヌの声には、生活が豊かになることへの安堵と、夫が遠い存在になっていくことへの寂しさが共存していた。


 ウェスは彼女の手を優しく握った。


「仕事は辞める。でも、俺の温もりはここにあるんだ。どれだけ遠くへ演奏に行っても、俺が帰ってくる場所は、この食卓でお前が淹れてくれるコーヒーの隣なんだよ」


 翌朝。ウェスは最後の日として工場へ向かった。


 十年以上通い慣れた門をくぐり、自分の持ち場だった旋盤の前に立つ。


彼は最後の一本のネジを丁寧に削り出し、機械のスイッチを切った。


 回転がゆっくりと止まり、静寂が訪れる。


それは、彼が二足のわらじを脱ぎ捨て、一人の音楽家として生きる覚悟を決めた、静かな儀式だった。


 ロッカーを片付け、油の染みた作業靴を置き、彼は工場を出た。


 手にはもう、重い工具袋はない。


代わりに、黄金色に輝くギブソンL-5が、彼の誇りとして握られていた。


 背後で閉まる工場の門の音は、新しい時代の幕開けを告げるファンファーレのように、ウェスの胸に響いていた。




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