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第11話 親指が刻む「労働」の誇り

マンハッタン、リーヴス・サウンド・スタジオ。


防音扉が閉まると、外界の喧騒は嘘のように消え去り、そこには濃密な沈黙だけが残された。


「準備はいいか、ウェス。曲はナット・アダレイの新作、『ワーク・ソング』からいこう」


調整室からプロデューサー、オルリン・キープニュースの声が響く。


スタジオ内には、アルトサックスを構えたキャノンボール・アダレイ、そしてピアノのボビー・ティモンズ、ベースのサム・ジョーンズ、ドラムのルイス・ヘイズという、当時のジャズ界を代表する名手たちが顔を揃えていた。


ウェスは、おもむろに愛器ギブソンL-5の弦に触れた。


「ワーク・ソング……労働の歌、か」


彼は小さく呟いた。


その言葉の響きは、都会のミュージシャンたちがイメージする囚人の労働といった抽象的なものではなかった。


ウェスにとっての労働とは、深夜の工場で、耳をつんざく旋盤の轟音に包まれながら、火花を散らす鉄と向き合ってきたあの生々しい感触そのものだった。


ドラムが重厚なカウントを刻む。

「・・・・」

「ブォゥーン……」 


親指が叩き出す最初の一音が空気を震わせた瞬間、キャノンボール・アダレイは目を見開いた。


それは、ニューヨークのどのアカデミックな教育を受けたギタリストからも聴いたことがない音だった。


洗練や優雅さとは無縁の、泥にまみれ、油に汚れ、それでも家族を養うために歯を食いしばって働き続けてきた男にしか出せない、生活の重みそのものが音に宿っていた。


ウェスは目を閉じ、インディアナポリスの工場の地下室で、一人練習していたあの孤独な時間を呼び覚ましていた。


アンプのボリュームを絞り、親指だけで弦を弾く。


その動作は、工場のラインで寸分狂わぬ製品を作り出し、旋盤の刃を滑らせるあの正確なリズムと重なった。


彼の代名詞であるオクターブ奏法が炸裂する。


二つの音が重なり、金属的な響きを超えて、まるで一人の男が重い鎖を引きずりながら、それでも天を仰いで叫んでいるような、凄まじいソウルの響きとなってスタジオを席巻した。


「これだ……。この泥臭さ、この圧倒的な説得力だ!」


キャノンボールは興奮を隠せず、サックスのリードを噛み締めて応戦した。


ウェスのギターが吠えるたび、セッションの熱量は臨界点を超え、録音エンジニアは針が振り切れないよう、必死にレバーを操作した。


セッションの合間、オルリン・キープニュースは震える手でメモを取っていた。


「ウェス、君は一体、どこでそんな音を学んだんだ……?」


「学んだわけじゃありませんよ、オルリン。僕の指には、あのアスファルトと鉄の匂いが染み付いている。それを落とそうとしたけれど、どうやらギターの方が、その匂いを気に入ってしまったらしい」


ウェスは少し照れたように、しかし誇らしげに、硬くなった自分の右手の親指を見つめた。



続いて始まったのは、彼自身の歴史的リーダーアルバム、『ザ・インクレディブル・ジャズ・ギター』の録音だった。


超高速の『エアジン』。


共演したトミー・フラナガンは、ウェスの親指の動きを信じられない思いで見つめていた。


ピックを使わずに、なぜこれほどまでに速く、正確に弦を捉えることができるのか。


ウェスの意識の中では、スタジオの壁が消え、いつもの旋盤が回っていた。


(少しでも遅れれば、指を失う。少しでも甘えれば、家族のパンが消える)


その極限の集中力が、ジャズ・ギターの歴史を塗り替える超絶技巧へと昇華されていく。


一音のミスも、妥協もない。


それはまさに、家族のために己の命を削り続けてきた職人の仕事だった。


そして、録音の最後を飾るバラード。


ウェスはそっと目を閉じ、内ポケットの中にあるセレーヌと子供たちの写真を思った。


弦を撫でるような優しい音色は、ニューヨークの冷たい風に凍えた自分の心を温めるための、そして遠く離れた愛する人へ届けるための、音の手紙だった。


すべての録音を終えたキープニュースは、ヘッドホンを外し、深い溜息をついた。


「信じられない……。ウェス、君は今日、ジャズの新しい夜明けを連れてきたんだ。このアルバムが世に出れば、世界中のギタリストが君を目標にするだろう」


だが、ウェスはただ少し首をすくめ、丁寧にギターをケースに収めるだけだった。


「そうですか。……それなら良かったです。これで、子供たちに少しいい土産が買えそうだ」


「ウェス、今夜は祝杯だ! マンハッタンで一番のステーキを奢るぜ!」


キャノンボールが背中を叩いたが、ウェスは申し訳なさそうに時計を見た。


「すみません、キャノンボール。僕はもう行かなくちゃ。今夜の夜行バスに乗れば、明日の朝にはインディアナポリスに帰れる。家族も待っているし、何より、明日は工場のシフトが入っているんです。僕はまだ、ただの旋盤工ですから」


「工場だと……? 君はもう、世界最高のギタリストなんだぞ!」


キャノンボールの叫びを背に、ウェスはスタジオを後にした。


ニューヨークの華やかなスポットライトよりも、彼は家族の待つ家と、自分を支える日常の労働を選んだ。


1960年。一晩のうちに完成した『The Incredible Jazz Guitar』。


自分の才能をこれっぽっちも過信していない、一人の誠実な父親の指先から、ジャズ史上最も熱く、最も美しい伝説が刻まれた。


雪のマンハッタンを走る深夜バスの車窓から、ウェスは遠ざかる摩天楼を見つめていた。










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