第10話 鋼鉄の街から、ジャズの聖地へ
1959年、冬。ニューヨークの街角に立つウェス・モンゴメリーは、相変わらず着慣れないスーツに身を包み、右手に重いギブソンL-5を提げていた。
吐き出す息は白く、摩天楼の影はどこまでも長く伸びている。
この日から、彼の人生を決定づける濃密な一週間が始まろうとしていた。
彼をこのジャズの聖地へ呼び寄せたのは、リバーサイド・レコードのプロデューサー、オルリン・キープニュースだけではない。
アルトサックスの巨人、キャノンボール・アダレイがウェスの才能に惚れ込み、「この男を世に出さないのは罪だ」と熱望したことが、すべての引き金だった。
しかし、世界で最も華やかなこの街の灯りは、ウェスの目にはひどく冷たく映っていた。
「……場違いだな」
昼間のリハーサルを終え、キープニュースが用意した安ホテルの部屋に戻ったウェスは、独り言を漏らした。
部屋に入ると、そこには耐えがたいほどの静寂が待っていた。
窓の外ではイエローキャブがクラクションを鳴らし、眠らない街の喧騒が聞こえてくるが、その賑やかさがかえってウェスの孤独を浮き彫りにした。
この部屋には、薪がはぜる暖炉の音も、セレーヌが皿を洗う音も、子供たちの寝息もなかった。
ウェスはベッドに腰掛け、電気もつけずに暗闇の中でギブソンを抱いた。
「俺は、ここで何を証明しようとしているんだ……」
工場の油の匂いは、何度も洗った石鹸の香りに消されようとしている。
それは彼が労働者から芸術家へと変貌していく証でもあったが、同時に、自らの根幹である
家族から切り離されていくような、言いようのない恐怖でもあった。
孤独に耐えかね、彼はそっと上着の内ポケットに手を入れた。
そこには、旅立つ前にセレーヌが持たせてくれた、家族全員が並んで笑っている小さな写真があった。
写真の端は少し折れ、使い込まれた温もりがある。
ウェスは震える指で写真を見つめた。
「パパ、サンタさんはいつ帰ってくるの?」
去り際にロバートが問いかけた、あのクリスマスの夜の声が耳の奥で蘇る。
「すぐだよ。すぐ、お土産をたくさん持って帰るからな」
そう答えた自分の声が、今はひどく空虚に響く。
今この瞬間にすべてを放り出して、インディアナポリス行きのバスに飛び乗ることは容易かった。
だが、彼を繋ぎ止めたのは、セレーヌのあの日の眼差しだった。
「ウェス、あなたの指は、もう私たちのものだけじゃないんだから」
指の腫れを氷で冷やしながら彼女が言った言葉が、暗い部屋の中で確かな熱を持って響いた。
(そうだ、手ぶらで帰るわけにはいかない。この孤独も、家族のパンに変えなきゃならないんだ)
ウェスはギターを爪弾いた。
アンプを通さない生音のギブソンは、ひどく繊細で、どこか泣いているような音がした。
彼はその音を聴きながら、自分に言い聞かせた。
この孤独こそが、明日、スタジオで鳴らす音の深みになるのだと。
翌朝、ウェスは少しの緊張を抱えながら、マンハッタンのスタジオへ足を踏み入れた。
そこにはすでに、キャノンボール・アダレイがサックスを組み上げながら、満面の笑みで待ち構えていた。
「よう、インディアナポリスの怪物! 夕べはよく眠れたか? ニューヨークの派手な女に現を抜かしてなきゃいいがな!」
キャノンボールの豪快な笑い声がスタジオの壁を震わせ、ウェスの肩に溜まっていた余計な力が、ふっと抜けていくのを感じた。
「いいえ。僕には、ニューヨークの女は少し
刺激が強すぎます。僕はただ、家族の写真と語り合っていただけですよ」
ウェスが少し照れ臭そうに答えると、キャノンボールは彼の肩を力強く叩いた。
「ははは! 違いない。だがなウェス、君が今日ここで鳴らす音は、ニューヨーク中の女も男も、全員を虜にするぜ。さあ、始めようか。俺たちの『ワーク』をな」
ウェスはギブソンL-5を構え、アンプのスイッチを入れた。
真空管が温まる僅かな時が、彼の闘争心に火をつける。
インディアナポリスの名もなき労働者が、ついにジャズの頂点へとその一歩を踏み出す瞬間が来た。




