プロローグ
【まえがき】
夜の静寂を切り裂くのは、旋盤の冷たい回転音か、それとも親指が紡ぐ温かな旋律か。
一九五〇年代、インディアナポリス。そこには、昼は町工場の労働者として油にまみれ、夜はジャズクラブのスポットライトの下で、誰にも真似できない音を鳴らす一人の男がいた。
彼の名は、ウェス・モンゴメリー。
楽譜は読めず、ピックすら持たない。ただ家族を養うために、そして己の魂を震わせるために、彼はその親指を血に染め、硬いタコを作りながら弦を弾き続けた。
これは、たった四十五年という短い歳月を、愛のために、そして音楽のために駆け抜けた「黄金の親指」の物語である。彼が遺した音色の裏側に隠された、汗と涙、そして家族との絆の記録を、今ここから紐解いていこう。
1968年6月15日。インディアナポリスの朝は、あまりに静かだった。
ソファに深く沈み込んだウェスの顔には、苦悶の跡はなかった。
驚いたように少しだけ見開かれたその大きな瞳は、窓の外に広がる初夏の青空を映している。
「ウェス、あなた……?」
セレーㇴの震える声が、リビングの空気を震わせた。
彼女は恐る恐る、夫の右手に触れた。
世界中のジャズ・ギタリストが魔法の杖のように崇めた、その親指。
そこには、数十年間にわたる過酷な労働と、終わりのない練習が刻んだ、岩のように硬いタコがあった。
傍らのギブソンL-5が、差し込む陽光を跳ね返している。
主を失ったその楽器は、これ以上ないほど雄弁に沈黙していた。
七人の子供たちの足音が廊下に響く。
いつもなら「パパ!」と飛びついてくるその無邪気な声が、今日だけはウェスの耳に届かない。
彼は、やり遂げたのだ。
工場の旋盤を回し、夜のクラブで指を血に染め、家族のために、ただひたすらに弦を震わせ続けた四十五年。
ウェスの表情は、まるで最後の一音を完璧に弾き終え、観客の拍手が始まる直前の、あの静謐な一瞬に閉じ込められたかのようだった。




