夏のホラー 2025 リプレイ
——水がしたたる音が聞こえる。
最初に指先が触れたのは、鏡のように輝く、水滴の集まりだった。
頭上から聞こえる音は、規則正しく、一定の間隔で時を刻む。
心臓が動き出す——時計の針の音を思わせるそれは、胸のあたりから響く。
水のしたたる音と、心臓の鼓動は混ざり合い、徐々《じょじょ》に復活の時が近づく。
体の中から、熱い血潮が沸き上がってきた。
呼吸をすると、地下の澱んだ冷たい空気が体に染み込む。
——また、戻ってきた——。
世界が再び動き出した——。
◇
誰にともなく、心の中で呼びかけてみた。
——ねえ、もう気は済んだんじゃないの——?
返事はない。
しばらくすると、その代わりなのか、ホームを駆け抜けていく風の音が鳴った。
薄目を開けて、辺りを見る。
頭上では、カチカチと蛍光灯が鳴っている。
駅のホームは静まりかえっていて、人の気配は無い。
肌に触れた感触は、ホームに点在するベンチのひとつだ。
ツルツルとして硬く冷たい。
疲れた体には心地よかった。
「けほっ」
咳が出て、意識がハッキリとする。
起き上がると、ぐちゃぐちゃになった、腰まである茶色の髪を三つ編みにした束が揺れた。
着ている白い服は、血にまみれ、破れている。
足元を見ると、履いていたサンダルが片方ない。
その片割れは、ホーム下の暗い線路脇に転がっていた。
片方だけになったサンダルを脱いで、雑に放り投げた。
疲れからか、思わずため息が吐いて出る。
「……もー、疲れたー! いい加減にしてよ! ドラマの撮影じゃないのよ。ヒナだから、何回も生き返れるけれど! 普通、命はひとつ!」
ヒナのヤケクソ気味のシャウトが、無人の駅ホームに響く。
声の主は何処にいるのかは、わからない。
とりあえず、天井からしたたり落ちる水を睨みつけてみた。
(……まだ納得いかないんだよ。もう少し付き合ってよ。ね、終夜ひなぎくちゃん)
頭の中に声が響く。
それは男のような、女のような、そのどちらにも聞こえるようで聞こえない——妙にフレンドリーで不思議な声だった。
それよりも——。
——なんで、人のフルネーム知っているの——?
声の正体も、ヒナのフルネームを知っていることも、わからないことだらけだった。
ただ、想像はできる。
——声の正体は幽霊、かしらね?
今の時期は八月半ば、そういう者が出てもおかしくは、ない……と思うの。
◇
何度目かわからないけれど、また、ため息が出た。
何処の誰ともわからない、正体不明な奴にここまで寄り添って、付き合っているヒナは心が広いと思うの。
……だけどね。
「——面倒くさい」
思わず、パパの口癖が出ちゃったのは……本当に無意識だったのだと思う。
これ、悪気はないのよ。本当に。
(そんな殺生なこと言わないでー)
何処からともなく、情けない声が聞こえてきた。
「——もう死んでるくせに!」
疲れも手伝って、ヒナの感情が爆発する。
「ふざけないでよ!」
——こうなったらヤケクソよ! とことん、お付き合いしてあげるわ——!
よくわからない、ヒナの闘志に火が着いた。
◇
どうして、こんなことになったのかしら。
昨夜の出来事が頭の中をよぎる。
今の状況が、地獄の釜の底での現実なら……今から思い返すことは、極楽浄土で見る夢かしらね。
——日が沈み、夜が更け、昼間の熱も下がる夏の日。
ヒナはパジャマ姿で、斉藤さんの自宅キッチンにいた。
周囲の住宅に比べて、大きくて、目立つお家は、キッチンも大きく立派だった。
同居のご両親は、本日は帰省中とのこと。
つまり——今日は斉藤さんとヒナ、ふたりっきり!
テーブルに色とりどりのフルーツとゼリー、白玉が盛られた、涼しげな透明のボウルを置く。
ボウルの中央には空の細長い、具材に埋まった、ワイングラスが鎮座している。
「じゃじゃーん! 今日のデザートは、フルーツポンチでーす!」
ヒナはボウルの横にサイダーのペットボトルと、ラムネの入った手のひらサイズのボトルを置いた。
「へえ。昼間に台所で何かやっていたのはこれか。美味そうだな」
ソファに寝っ転がり本を読んでいた、斉藤さんが起き上がった。
本を置き、喋りながらヒナがいるこちらに向かう。
二人はダイニングテーブルに向かい合って座った。
「で、コレは何のためにあるの?」
斉藤さんは、色とりどりのフルーツ達が盛られたボウルに、埋まるように鎮座する、空のワイングラスを指差す。
「うふふ。まあ、見ててっ!」
ヒナは、サイダーのペットボトルを開ける。
プシュ! っと勢いよく、ガスが飛び出した。
それをワイングラスに、なみなみと注ぐ。
「それから、コレ」
ラムネをひと粒、ワイングラスに落とす。
サイダーに潜り込んでいくラムネは、一瞬だけ表面に王冠を作り、沈んで泡を纏う。
ワイングラスの中身は、たちまち溢れ落ちた。
ボウルの中のフルーツとゼリー、白玉がシュワシュワと音を立て、ワイングラスから溢れた液体で満たされる。
「おおー。見た目が楽しいな」
「でしょでしょ。子どもの頃ね、夏になると家族みんなでよく作っていたの。今ではたまに、ママが作ってくれるけれど」
目を丸くして、フルーツポンチを見つめる斉藤さんに、ヒナはドヤ顔で言った。
◇
テーブル上に空の器がふたつ並ぶ。
目もお腹も満足して、ヒナは斉藤さんをぼんやりと見つめていた。
照明のせいなのか、ジャージ姿に派手なビカビカの金髪が煌めいて見える。
——髪の毛、綺麗、もう格好良すぎ——。
「明日はバイトで朝早いんだろう、もうおやすみ」
斉藤さんはこちらの視線に気がつくと、静かに語りかけてきた。
「うーん。でも片付け……」
眠気も手伝って、ムニャムニャっと舌っ足らずな返事をする。
「俺がやっておくよ。——そういえば」
「ん?」
「駅のホームには気をつけて。最近、出るらしい——」
そう言って、斉藤さんは立ち上がり、お皿を手に持つ。
その言葉と椅子を引く音に、思わずヒナの眠気も、吹っ飛んで行ってしまった。
「何が⁉︎」
「何なんだろうな。それは俺にもわからん。ここから最寄りの駅は最近、人身事故で遅延することが多い」
そう言い終わると彼はニヤリ、と人の悪い笑みを浮かべる。
——ヒナの反応が面白いから、って揶揄うのはやめてほしいわ。
明日は始発の電車を待たないといけないのに——。
彼はキッチンへ向かい、片付けを始めた。
片付けを終え、ダイニングテーブルへ戻る前に、リビングにあるサイドボードの引き出しから何かを取り出す。
それを一旦、ジャージポケットへ入れた。
「そこで、だ。俺から君へ、御守りを渡しておく」
斉藤さんが片付けを終え、ダイニングテーブルへ戻ってきた。
彼のジャージポケットから出てきたのは、シルバーでできた、蝶の飾りがついたヘアゴムだった。
「何これ?」
ヒナはテーブルに置かれた、飾りつきのヘアゴムを指差す。
「俺の母親が若い時使っていた物だ。父親のお手製、魔除けの御守り。ゴムの部分は替えてある」
斉藤さんはヘアゴムをつまみ上げ、ヒナの手のひらに乗せる。
蝶の飾りの裏側には、文字のような何かが書かれていた。
「この御守りの効果は……今ここに、俺がいることが何より証明している」
「——ありがとう。あの……聞いていい? 斉藤さんって何者なの?」
彼は自分自身に対し、呆れたように嗤って言う。
「俺? 俺は俺だよ。ただの人間だ」
——こんなにも説得力のない断言は、ヒナの聞いたかぎりは、後にも先にもこれっきりだった。
◇
——そうそう。思い出したわ。
駅のホームに幽霊が出るって。
次の日は、予定通りに斉藤さんのお家を出発して、蝉の鳴くなか駅にたどり着いた。
そして、始発の電車を待っていたの——。
でも、始発の電車には乗れなかった。
この、声のヤツのせいで!
ヒナの心中を察することもなく、声は心中のお誘いをする。
(ね、ね、次の電車でラストチャンスだから! パーッと派手に散ろうよ!)
——なによ、人のこと、汚い打ち上げ花火扱いしないでよ——。
口を開けば、文句が止めどなく出そうになるので、黙っていることした。
立ち上がると、タイル張りの床に裸足が触れる。
ヒヤリと足裏を通して伝わってきた、身に染みる冷たさに気持ちが引き締まった。
ボロボロの白い服に裸足姿。
髪に手を触れると、その状態に嫌気が差した。
すぐに、ぐちゃぐちゃに乱れた、三つ編みを解く。
ゆるく癖のついた、長い茶髪を、軽く手櫛でとかして整えた。
髪を纏めていた、ヘアゴムは腕時計と共に、手首に通しておく。
シルバーの蝶が鈍く輝いている気がした。
——うーん。これじゃあ、真夏の心霊番組に出てくる幽霊そのものよ。誰かに見られたら、まずいわ——。
キョロキョロと辺りを見渡すが、不思議なことに人っ子ひとりいなかった——。
◇
(——電車が来た)
ホームに流れる空気が風になり、巻きあがった。
暗いトンネルの奥に灯りが見える。
不思議と音は聞こえなかった——。
(さあ、いきましょう、か——)
声と同時に、身体が重くなった。
そのままフラフラと、歩を進める。
ホームの黄色い線を超えると、床がなくなる。
そのまま身を任せ、落ちていく。
電車が迫ってきた。
思わず、目をギュッと閉じる——。
その時、腕に巻いたヘアゴムの蝶が眩い光を放ったことに、この時は気がつかななかった。
一瞬ののち、眼下に先程までいた、ホームが見えた。
体の感覚が無い——。
今の自分がどうなっているのかなんて、まともに考えてしまうと、途端に恐ろしくなる。
——あーあ、バラバラになっちゃった——。
ほんの少しでも、正気でいようと、精一杯の虚勢を張った。
——今回は、それで良かったのだと思う。
意識が落ちる前、最期に見た景色は——光の蝶に囲まれて微笑む、知らない女の子の姿だった——。
◇
「——ヒナ。起きた?」
目を覚ますと、同じ顔をした女の子が視界いっぱいにいた。
背格好、トレードマークの青い瞳は同じで、違うのは髪型ぐらい。
相変わらず、濡羽色の黒髪ベリーショートをヘアピンまみれにしている、頼れる相棒。
双子の姉、終夜詩音ちゃんだ。
珍しく、元気と血の気の無い、青白い顔色をして、ハンカチを口元にあてている。
顔が近かったのは、ヒナを膝枕していたからだった。
「ヒナ、聞こえる? 気分どう?」
「…………」
体中が痛い、声が出ない。そのくせ意識は徐々に戻りつつある。
気分は——。
——最悪——。
目尻に涙が溜まり、流れ落ちた。
これは——哀しみなのか、生理的なものなのか。
それとも、見知らぬ彼女に対する鎮魂の涙なのか。
それはよくわからなかった。
駅のホームは相変わらず空気が澱み、不気味に照明が瞬いている。
なんとなく、天井から規則的に水滴が落ちていくのを眺める。
その水はベンチの椅子の座面に集まり、溢れた液体は静かに床に流れ落ちる。
ヒナの片腕は、床にできた鏡のような水溜まりに浸っていた——。
「それにしても、見事なバラバラ具合だったわね……グロ過ぎ」
詩音ちゃんが、ハンカチを口元にあててえずく。
うわ……詩音ちゃん、ごめんね。
「…………」
声が出せないので、無言で訴える。
不思議なもので、昔から詩音ちゃんとは言葉にしなくても、通じるものがあった。
——双子の姉妹だから、なのかしらね?
「うん……まあしょうがない。……むしろ意識が無くて良かったわよ……あら? いけない、傷が開いているわ」
ハンカチをしまい、詩音ちゃんが言った。
次に、側に置いていた台車を転がし、カバンを引き寄せる。
それから、台車の上にあるカバンの中から、何かを取り出す。
ベリベリと何かが裂ける音が聞こえてきた。
「ヒナ、ちょっと痛いだろうけど。我慢よ」
次に、こちらを向いた詩音ちゃんの両手には、適当な長さに千切った、布のガムテープがあった。
「——⁉︎ 」
身構えたヒナに対して、詩音ちゃんは無言で、ガムテープをヒナの腕に貼り付けた。
慣れた手つきで、ぐるぐると巻く。
——ちょ、ちょっと! 詩音ちゃん! 何してんの! ちょ、痛い! 痛い! ——
よく見ると、腕も脚も胴体もガムテープでぐるぐる巻きだった。
これは——包帯代わりなのね。
「これで良し。さ、帰りましょ」
意外と力持ちの相棒は、軽々とヒナを持ち上げる。
台車に乗せられると、雑にガムテープで体を固定された。
「…………」
「そんな目で見ないでよ。さあ、しゅっぱーつ!」
ガラガラと台車を押す音がホームに響く。
今日は始発でバイトの予定だったのに、見事な無断欠勤でクビになったのは、もう少し後の話。
——後日、斉藤さんから聞いた話によると……。
あの駅での人身事故は、この日以降、ぱったりと途絶えた、とのことだった。
おしまい。
あとがき
お題「水」を意識して、「怖い水」と「楽しい水」の違いを書きました。