包帯の染み
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傾き始めた太陽の下、早くも森には暗い影が落ち始めていた。
木々の間を通り抜けていく風は冷たく、ミニスカートの中に入り込んで地肌を撫で上げる。
エイラは両手に持ったバケツを川のほとりに置くと、その中から血の染みついた包帯を取り出し、恐る恐る両膝を突いた。
「つッ——」
言葉にならない声を上げながら拳を握り、肩をいからせる。
大小様々な砂利の間から染み出した水は、少女の膝を鋭く刺し、紅く染めた。
こんな環境で、サリナとフェルナンドは喧嘩していたのか?
俄かには信じがたい。
「はぁ……ここに洗濯機があればなぁ……」
電力すらまともに通っていない場所に、洗濯機などあるものか。
エイラは口を固く結んで包帯を水に浸すと、石鹸で表面を擦り、泡立てる。
流水に晒された両手指が、じんじんと痛んだ。
血を吸い落とし、褐色になった泡が、川の流れに乗って遠くへと運ばれていく。
「んん……ここ、頑固だな……落ち、ない」
患部が直接当たっていたのか、はたまた溶けた皮膚がくっついてしまったか。
掃除用具の入ったバケツを右手でまさぐり、粗い目のスポンジを取り出す。
肩を入れて思い切り擦れば汚れそのものは落ちたが、それでも染みは残ったままだった。
たった1つの汚れと格闘すること5分。
大きく息を吐き、エイラはスポンジを取り落とす。
川の中に漂う包帯の半分は、依然として血が染み付いたままだった。
「やっと半分。ウチ、少しこだわりすぎてるのかな」
少しくらいなら、汚れが残っていても。
そう、少しくらいなら……。
「ううん。任されたからには、ちゃんと……」
エイラは改めて包帯の両端を持つと、互いに強く擦り合わせた。
こめかみを伝って落ちた汗が、太ももの上を跳ねる。
いつの間にか、川の水の冷たさなど、全く感じなくなっていた。
痛みを通り越して、感覚が麻痺してしまったのだろうか。
いずれにせよ、それは少女にとって好都合だった。
「なんとか、綺麗にできたかな」
乳白色の包帯を水中から取り上げ、いっぱいに伸ばし空に透かす。
石鹸とスポンジしか使えない以上、真っ白とまではいかない。
しかし、それでも、洗ったと胸を張って言えるくらいには綺麗になっていた。
「これでやっと……ふっ」
一本。
包帯がぎゅうぎゅうに詰められたバケツを見て、少女は思わず声を漏らした。
このままでは、夜になっても包帯を洗い続けていることだろう。
それは困る。
洗濯に没頭していたら背中から刺されました、だなんて末代までの恥だ。
至急、応援を呼ばなければ。
「……」
では、誰を?
これから最前線で戦う人々を、こんなことで呼び出すのか?
エイラは濡れ手で自らの腕を掴み、水上で揺れる夕日を見つめる。
「いや。ここはなんとか——」
「だーれだ?」
ふっ、と視界が暗闇に覆われた。
耳元で、聞き慣れた囁き声が響く。
ほんのりと、ラベンダーのような甘い香りもした。
「……フェルナンドさん」
「本気?」
「ううん。だって、答えるまでもないもん」
「ちぇっ」
ニーナは足元の小石を軽く蹴飛ばすと、エイラの隣に進み出てしゃがみ込んだ。
数m向こうの水面で水の王冠が浮かび上がり、水紋をまばらに刻む。
視界の端では、ニーナの青白い髪がふわふわ揺れていた。
彼女は石を拾い上げ、掌の中で転がしながら口を開く。
「ねぇ、何してたの?」
「見れば分かるでしょ?包帯の洗濯。ウチにできることなんて、これくらいだから」
「ふぅん……それが分かってるのに、ここに残るんだ」
「……」
2本目の包帯を掴み取った手が止まる。
「……いつから、ウチのこと見てたの?」
「ふらつきながら、川岸に降りて行った辺りからかな?」
「つまり、最初からってことじゃん。暇なの?」
「そんなわけないでしょ?さっきまでちゃんとお手伝いしてたよ。今は休み時間。だから、趣味に没頭してたっていいの」
エイラは表情を強張らせながら、再び包帯を水中に浸した。
どうやら、感覚が一時的に麻痺していただけのようだ。
改めて触れる川の水は、やはり痺れる程冷たかった。
「ヴィオラさんたちならさ。ちゃんと訳を話したら、許してくれると思うよ?」
「うん……多分ね」
じゃかじゃか。じゃかじゃか。
布と布を擦り合わせながら、エイラはじっと手元を見つめる。
気づけば、少女は包帯を強く握り締めていた。
「それでも。ここを離れちゃダメな気がする。ウチは、ヴィオラさんとサリナさんに助けられた。ニーナと再会できたのも、あの人たちのおかげ。なのに、ウチらは何も返せてない」
「だから、ここに残るの?寧ろ足手纏いになるかもしれないのに」
「そうだよ」
「それだけ?」
「……どういうこと?」
「本当にそれだけなのか、って聞いてるの」
ニーナは、敢えてエイラと視線を合わせようとしなかった。
或いは、水面に反射した彼女の眼を間接的に見ていたのかもしれない。
「少なくとも、わたしの知ってるエイラちゃんは、そんなに強い子じゃないよ。勿論、ヴィオラさんたちに恩返ししたいって気持ちを疑ってるわけじゃないけど」
「……」
「それは、わたしにも隠したいこと?」
「……ウチは、ニーナを守れなかった。刺客に追われている時、錯乱して冷静になれなかった……ウチだって、オルガンなのに」
言葉と言葉の隙間を埋めるように、小川のせせらぎが聞こえてくる。
夕陽を受けて、川面は段々と橙色に染まっていった。
「フェルナンドさんは冷気を操る。サリナちゃんは炎が扱える。マーキュリーさんは色んな銃弾が使えるし、ヴィオラさんだって。なのにウチは、何もできない。大事な親友すら、守れない」
「エイラちゃんは戦えるようになりたいの?」
「分からない。戦うのは怖いよ。でも、また離れ離れになったら……もう、再会できないかもしれない。そう思うと——」
赤髪の少女は言葉を切り、泡立って濁った水をじっと見た。
不意に、包帯に強く押し付けられた石鹸が、エイラの指先で二つに折れる。
飲み込んだ言葉を吐き出すように、エイラは嘆息した。
「はぁ……ニーナは覚えてる?ウチがオルガンになった日のこと」
「うん。覚えてるよ」
「ウチは、あの時言われたことを今でも信じてるんだ」
「……わたし、だって。信じてるよ」
ニーナは思わずエイラから眼を逸らすと、掌中の小石を思い切り放り投げた。
それは放物線を描いて川を超え、対岸の森の中へと消えていく。
柄にもなく、声を張り上げたい衝動に駆られたが、その代わりに、わざとらしく地面を叩いた。
「もう!ほら、包帯と石鹸貸して!あと、スポンジも」
「え?でも、石鹸は1つしか……」
「今折ってたでしょ。その欠片でいいから」
「わ、分かった」
ぐい、とバケツを引き寄せて包帯を取り出しつつ、半分に折れた石鹸をニーナの傍に置く。
いつの間にか、白髪の彼女は腕まくりをしていた。
「あのね、エイラちゃん。頼りきりになってることに後ろめたさを感じるのは仕方がないけどさ。焦っちゃダメだよ?」
「焦ってなんか……」
エイラは顔を上げ、ニーナを睨みつける。
「ほら、図星。だって、そんなの当たり前じゃん。わたしたち、田舎で生まれたただの女の子なんだから。ナイフの使い方すら最低限にしか知らないんだよ?誰かと戦うなんてもっての外でしょ」
「でも……」
「でも、じゃない。これは、わたしにも言えることだけどね。今度、護身術を教えてもらおうよ。恩返しするなら、自分の身くらい自分で守れないと」
「……うん」
頬を微かに赤らめながら、エイラは頷く。
頑固な汚れと格闘している彼女の傍で、器用にスポンジを擦り付けるニーナは、手際よく染みを落としていった。
作業の速度は2倍、いや3倍か。
全てとは行かずとも、半分程度ならば日没までに終わらせることができるだろう。
樹冠の隙間から見える空は、青紫に染まっている。
頭上では早くも、一等星が幾つか輝いていた。
*
水を吸った布というものは、想像以上に重いもので。
エイラは歯を食いしばりながら2つのバケツを持ち上げ、机の上に置いた。
「終わりましたぁ……」
「ありがとうございます!助かりました!」
一方、医療用テントの入り口で迎え入れてくれた審問官は、満面の笑みだ。
そうだろう、そうだろう。
これだけの重労働だったのだから、手間が省けたとなれば嬉しかろう。
「しかし、思ったよりも早かったですね?」
「強力な助っ人が手伝ってくれたので、なんとか」
「助っ人、ですか」
はて、と医療班の女は首を傾げる。
「……お気になさらず」
「ふふ、そうですか」
「今日の仕事は他に何かありますか?」
「いえ、わたくしの方からは特に何も無いのですが……」
彼女の視線がエイラから離れ、テントの奥の方へと向けられる。
医療テントは、中でスポーツができそうなくらいに広く、天井も高い。
「……!」
薄暗い中に鎮座する人影を目の当たりにし、エイラは思わず眼を見開いた。
これだけ分かりやすいシルエットであれば、間違えようがない。
「む?そうか、もう来ていたか」
「フェルナンドさん……」
「いかにも。マノン、彼女の仕事は終わったのか?」
マノンと呼ばれた審問官は、改めて襟を正して頭を下げる。
「仰る通りでございます、団長」
「そうか。では、借りていくぞ」
今朝の戦いの跡はどこへやら、傷1つない軍服を身に纏う彼女は、一切の拒絶を許さない。
エイラは圧倒され、思わずフェルナンドを見上げた。
「か、借り……?」
「ついてこい。少しだけ話をしよう」
「う、ウチとですか!?」
「他に誰が居る。あぁ……そうだったな。失念していた」
ニーナ=トールリン。貴様もだ。
薄布1枚向こう側、テントの中から染み出した声が、そっと逃げ出そうとしているニーナの心臓を鷲掴みにする。
やんぬるかな。
白銀の彼女は、立ち止まって肩を落とした。
「何を項垂れている。嫌なことでもあったのか?」
カーテンを潜りながら、眉を顰めているフェルナンド。
強いて言えば、ちょうど今嫌なことが起きている。
「あの、わたくしに何かご用でしょうか。生贄を欲されているのでしたら、そちらの可愛い女の子を……」
「ふざけんな!生き残るためとはいえ、やって良いことと悪いことが!」
「不心得者が。貴様ら、揃いも揃って我輩をなんだと思っている。取って食いはしない。単なる事情聴取だ」
「事情聴取?」
「貴様ら、太陽派と直に接触したのだろう?それが理由で、月牙泉の傭兵団と邂逅したと聞いている。間違いはないな?」
「……」
エイラとニーナは互いに顔を見合わせて頷く。
その表情に、最早軽々な笑いなど浮かんではいなかった。
「……はい、間違いありません」
「そうか。その記憶が、貴様らにとって根深い恐怖となっていることは、察するに余りある。だが、これも審問団として欠かしてはならない情報収集なのだ。そうだな、この近くにベンチがある。そこで、話を聞かせてもらおうか」
フェルナンドの言うベンチは、テントの裏に生えた木の下、ランプと共にぽつりと設置されていた。
ちょうど、3人か4人が無理なく座れる程度の広さだ。
促されるまま、冷えた木板の上に腰を下ろす。
繋ぎ目が軋み、緩やかにたわんで彼女らの体重を受け止めた。
「余計なことは思い出すな。ただ、我輩の質問に答えろ」
「……分かりました」
「きっかけはなんだ?貴様らは、なぜ奴らに眼をつけられた」
「この村の近くの山道を歩いている時、ウチらは刺客に襲われたんです」
エイラは、まじまじと地面を見つめたままポツリと呟いた。
膝元で握られていた拳に、段々と力が入っていく。
「刺客……ゴール村は、儀式の生贄を通りすがった旅人や伝令で賄っていたのだったな?」
「そう、らしいですね。ウチらは、ナイフを持った人たちから必死に逃げ出して。離れ離れになってしまいました。ウチは、正気に戻った後、心底後悔したんです」
「エイラちゃん……」
ニーナもまた、エイラに倣って俯いていた。
スカート越しに、ひんやりとしたベンチの温度が伝わってくる。
「だから、ウチは必死になってニーナを探しました。その途中で、沢山の人々の声が聞こえてきたんです。もしかしたら、と思って近づいてみたら」
「……」
「ひ、人が。人の身体に、木の枝を突き刺して。周りで、沢山の人が踊って。交わって。みんな、笑っていたんです。もう、何がなんだか、分からなくて。その場から逃げ出しました」
フェルナンドはエイラの告白を耳にすると、深く白い息を吐いた。
背もたれにゆったりと体重を預け、頭上を見上げる。
藍色の空を、ちぢれ雲が行き交っていた。
「……新月の儀式だな。それを目にしたことにより、貴様は一段と追われる身になったわけだ」
「はい……」
「ニーナ=トールリン。貴様は?」
「大体は同じです。でも、エイラちゃんに比べれば、わたしは幸運でした。かろうじて命を繋いでいる状況だったわたしを、カイ——ユルゲンさんが匿ってくれたんです」
ユルゲン=ブルトン。
彼と別れてから1週間程度しか経過していないというのに、彼と過ごした日々は遠い過去のように感じられた。
「ユルゲンに関する事情は、既に報告を受けている。あの男が庇ったとなれば、そう易々と太陽派も手は出すまい。確かに、貴様は幾分か幸運だったようだ」
「はい……」
「だが、1つ解せんことがある」
「何か……?」
「話を聞く限り、貴様らは全くと言って良い程、戦うことができんようだな」
腕を組みながら、フェルナンドは二人を交互に見遣る。
細められた眼の奥で、金色の瞳が顔を覗かせた。
「そもそも、なぜ旅に出た?貴様らが太陽派に関わった事情は理解した。だが、危機に対応する能力がそれだけ低ければ、遅かれ早かれ同様の被害にあっていたことだろう。次も、誰かが救ってくれるとは限らん」
「……それは、答えなくてはいけませんか?」
「ふむ?」
エイラは視線を上げ、フェルナンドと眼を合わせた。
少女の両脚は震えている。
しかし、その声には芯があった。
「ならば、質問を変えよう。これだけの経験をして、旅を辞めようと思うか?」
「いいえ。思いません」
「ほう。白銀の娘、貴様は?」
「エイラちゃんが旅を放棄しない限り、いつまでも」
「……そうか。では——それだけの目的があると、我輩は解釈しよう」
そう言って立ち上がると、制服の裾をマントのように靡かせながら、彼女は振り返った。
背後では、満ちた月が煌々と輝いている。
「その旅路に、幸多からんことを。我輩は、聖職者として貴様らを祝福しよう。だが、認知したからには、見え透いた末路を静観するわけにもいかん」
「末路……?」
「30分後だ。太陽派の襲撃に備えた作戦会議と報告を行う。貴様らも出席するように。相応の戦場を与えよう」
「う、ウチらもですか!?」
「何か問題があるか?」
フェルナンドは、眉1つ動かさずそのように言い放った。
2人は立ち上がる気にもなれない。
「安心しろ。剣を持ち、抗えとまでは言わん。ただ、我輩は貴様らの覚悟に免じ、ただ守られる者ではなく、何かを守る者として扱うと言っているのだ。心せよ」
彼女は踵を返すと、大股で歩き去る。
嵐のような女だ。
エイラとニーナは、その背中を眼で追いかけることしかできない。
ぼうっとしている間に、彼女の輪郭は夜闇の中へと消えていった。
「……守る者、か」
両掌を見ながら、赤髪の少女は呟いた。
ふやけて、皺だらけになっている手。
タコもなければ、傷もなく。
綺麗で、柔らかく、少し小さいエイラの両手。
「逃げられなく、なっちゃったね」
その隣で、ニーナもまた独り言のように口にした。
「……うん。でも、やれることはやろう」
「わたしたち、死んじゃうかも」
「それは嫌だな。まだ、お父さんとお母さんに、ありがとうって言えてないから」
冷たくも優しい風が吹き、髪をさらう。
しかし、切った啖呵には責任が伴うものだ。
30分と示された猶予は、刻一刻と消費され続けていた。
お疲れ様でした。
久々の、エイラちゃんとニーナちゃんに焦点を当てる回でした。
このコンビは、どこか抜けているというか、シリアスになりすぎないので良い。
ここ数話、シリアスに振り切っていた分、癒されますね。
息抜きになる。
女の子が戯れ合っている姿は、健康に良いとされているので、足首の怪我にもいつか効くようになるでしょう。
……いつになったら、筆者の怪我は治るんでしょうね(数話前の後書を参照のこと)。
まぁ、小説を書く分には支障ないですから、これからも頑張っていきます。
次の話は、いよいよ太陽派の襲撃に備えた会議ですね。
ゴール村におけるいざこざは、一気にクライマックスへと向かいます。
どうぞ、次の更新もお楽しみに!
最後になりますが、感想やレビューなどいただけると本当に嬉しいです。
執筆の励みになりますし、1つ1つじっくりと読まさせていただきます。
それでは、りんどうでした。




