旱の下に影は焼き付いて
いつもありがとうございます。それではごゆっくりお楽しみください。
扉の先に広がっていたのは、網膜に張り付くような闇だった。
それは液体、固体となって、呼吸するヴィオラの身体の中へと入り込み、五感を澱ませる。
何1つとして音は聞こえてこない。
ワイナリーであれば、それも当然だろうか。
ただ、肌の上をなぞるような冷気が鳥肌を立てながら流れていく。
彼女は軽く後頭部を掻いて息を漏らすと、それから躊躇なく前へと踏み出した。
「……!」
ガクン、とヴィオラの身体が下がる。
否、片足が、穴のような何かに飲み込まれ、姿勢を崩しかけたのだ。
「ヴィオラさん!?」
穴の中で、嫌な音が鳴る。
それは、何か柔らかいものが、不意に潰されてしまったかのような。
ブーツ越しでは、更にこの光を吸収するブラックホールのような暗黒の中では、それが何かははっきりしない。
ただ、ヴィオラにとって、単なる不快でしかないその穴は、かろうじて、無視できるものだった。
「……大丈夫だ。ここに穴がある。足元に気をつけろよ」
或いは、ブーツを履いていたことは、幸運と言えるかもしれない。
何が入っているかも分からない、堀にもゴミ溜めにも思える浅いそれを避けながら、再び足を前へと進める。
そして、無音だと思っていた空間が。
真っ黒で、何も見えないように思えていた空間が。
闇夜の外套を剥ぎ取られ、その裸体を露わにする。
「ひ——」
「……」
背後から、耳をつんざく様な悲鳴と、それを必死に両手で押し込むような雑音が聞こえてきた。
ヴィオラは立ち止まる。
その表情は、あたかも描かれて動かすことのできないものであるかのように、微動だにしていない。
視線の先で、黒い影が蠢いた。
「————————————————————————」
声、ではなかった。
それを声と認めるのは、影が生命体であることを認めるようなものだ。
呼吸、とも表現し難い。
それを呼吸と形容するのは、影が生きていると解釈するようなものだ。
ならばそれは、無意味な音に過ぎない。
だが、現実から眼を背けることを是としない彼女は、真っ直ぐにその黒い塊を見つめた。
「〜〜〜!〜〜〜!」
「はぁっ……はぁっ……」
衝撃と嘔吐感のあまり、過呼吸になるニーナ。
一抹の理性で、夜空に轟かんばかりの鳴き声を抑え込むエイラ。
その横から、水色の青年が進み出る。
「……ヴィオラさん、これは」
彼は見た。
その、靄にも思える影は、人間であった。
どれくらいだろうか、決して広いとは言えないワイナリーの中に、2つ、3つ、4つ……一度数え始めれば、気が狂ってもおかしくはない。
黒い人影は、樽や、葡萄の入ったカゴや、無意味に開いた溝、穴、堀の近くで横たわり、しゃがみ込み、もたれかかり、這いずり回っている。
それらの行動にさしたる意味はなく、ただ、垢だらけの身体に砂が纏わりつくのを待つばかり。
希望となる灯火など与えられない閉鎖空間の中、まともな衣服すらなく、苦痛、諦め、絶望、仄かに鼻をくすぐる腐臭と葡萄の芳香をその胸の内に抱きながら、ありとあらゆる悲哀を露わにしている。
そして、ヴィオラは不意に、それらが黒いのは、暗いからではなく、単に汚れを落とす機会に恵まれなかったからだと悟った。
或いは、穴の中に詰め込まれた果実の色が、そうさせているのか。
芳しい甘い香りが尚のこと、込み上げてくる吐き気を助長する。
緩慢な死が部屋中を包み込み、それこそが視界を潰しているのだと気がつくまで、そう時間はかからない。
「……最悪だな」
水分を失って萎み、レーズンのように皺だらけになった葡萄の実を親指と人差し指で摘み上げる。
「悪趣味ってのは、こういうことを言うんだろ」
微かに地面が揺れる。
ヴィオラはじわりじわりと力を籠め、僅かに残った果汁を感じながら、指の腹で葡萄を擦り潰した。
こんな場所は、ワイナリーなどではない。
かつてワイナリーとして運用された過去もあるのかもしれないが、少なくとも、今はそうではない。
ここは、近隣の山々の中で拉致された人々が強制的に収容される牢獄であり、独房であり、地獄の深層であった。
彼らは本来、この世とあの世を繋ぎ止める蜘蛛の糸から、不意に手を離したに過ぎないのだろう。
あまりにも大きな精神的負担と、疾病、飢餓に身体を巻き取られ、地に立つ両足の存在を忘れて冷たい床に倒れ込んでいる。
ある者は、ただ手紙をゴール村へと届けに来ただけだった。
ある者は、旅の中途で宿を借りただけのことだった。
ある者は、山中で火を焚き、暫しの休息を味わっていただけだった。
過ちがあるとすればそれは、失踪者が出たとしても、さしたる扱いを受けることのできない環境に生まれたこと。
そして、不運にも、ゴール村が因習の底に沈んでいることを知らないどころか、この大陸に存在する苦難を忘れ、何がしかの対策を打たなかったことだった。
それらは理由さえ明確でない内に連れ去られ、幽閉されたのだ。
全ては、その身体を世界樹に捧げ、太陽の安寧と廃帝の再臨を希う為に。
「しかし、事実はこれで確定しました」
マーキュリーの手元で、微かな光が灯った。
七の弾丸、アンティグラフォ。
シリンダーの中の弾に視界が記録され、代わりにこれまで彼らを導いてきた地図がその姿を消す。
「僕たちの記憶が、然るべき裁きの拠り所となるはずです」
「……おい!この中で生きてるってヤツは、声を出せ!」
ヴィオラの、腹の底から吐き出された声が空気を震わせた。
仮に、ここで1人でも返事をしていれば、彼女らはその人を救っていただろうか。
否、救えていただろうか。
この、地面に根を張ってしまったかのような、枯れ木の欠片たちは、どうすれば救えたのだろうか。
無論、声は返ってこない。
足元では、生きているのか、死んでいるのかも分からない、骨と皮ばかりになった誰かが、落ち窪んだ瞳を虚空へと向けている。
髪もまばらで、どれ程悲惨な仕打ちを受けたのかは想像もつかない。
「……ヴィオラさん」
「分かってるさ。戦争と同じようなもんだ。コイツらは、どこにでもある悲劇の、ありふれた被害者の一例に過ぎないってな」
だが、その自然と伸びていく手を止めることはできない。
この、眼前に佇む、両膝を抱えて、膨らんだ腹を地面へと垂れ下げ、その間に頭を挟み込んでいる人々に対して、何ができるだろう。
よくあることだからといって、それは何もしない理由になどならない。
そして、このような非道が当たり前に行われていること、更には彼女らが知らぬ間にも行われ続けていただろうことは、自然と不思議な感情を……それは俗に、悔いと呼ぶのかもしれないものを思い出させる。
ふと、遥か向こうに横たわっている、恐らく二十歳にも満たない少女の首に、小綺麗なスカーフが巻き付いているのにマーキュリーは気がついた。
「彼女は確か、伝令役の……」
「はぁ?」
「それでは何故、我々の報告は……まさか……」
彼は顎に手を当て、天井へと眼をやる。
シミだらけの、茶色い天井が厳然として見下ろしていた。
「ふむ……残念ですね」
「!!!」
不意に、嗄れた老人の声が扉の向こうから響く。
「ニーナ!エイラ!」
「は。はいッ!」
杖が石畳を叩く音が、階段の向こうから部屋の中へと入り込む。
そして、微光の差し込む彼方から、彼は姿を現した。
何事もなかったかのように、飄々と。
それでいて、その眼はこれまでに見た彼の姿の中で、最も残酷な光を帯びている。
「仮にこちらを見つけられていなければ、厳重注意に留める選択肢もあったというものですが。直接眼にされては、致し方ないというもの。特に……」
老人は立ち止まり、視線を落とした。
マーキュリーの双銃の撃鉄が、かちりと音を鳴らす。
「アテュ、というのですよね」
「お前……」
「何と不敬なことでしょう。神に認められてのことであればいざ知らず、あろうことか樹より力を簒奪し、己が物として振るっているとは」
瞬間、お世辞にも背が高いとは言えない老人の眼が、ぐりんと音を立ててながら独立して動き始める。
凡そ自然界にあってはならないような、強制的に生命体を成長、或いは進化させているかのような、細胞と細胞の擦れ合う悲鳴が轟いた。
「わたくしが為さなければ。わたくしが、為さなければ!教父様の理想の為、わたくしが成し遂げるのです!」
「教父……ハッ。自ら正体を現したな、ケダモノが」
「ケダモノ……?何を口にするかと思えば」
骨が肉と皮を突き破り、外骨格のように老人の身体を包み込む。
見ようによってそれは、節足動物のようであり、昆虫のようであり、少なくとも人類が許された造形の範疇を越えていた。
そして、無限にも思える変態と進化の後、黄土色にくすんだ粘性のある液体と共に、背中から羽のように6本の脊髄が飛び出し、穴だらけの地面を捉える。
本来、マルセル=ブルトンであった身体は、抜け殻のように垂れ下がり、大仰な化物の動きに振り回されて風鈴のように揺れ動いた。
「これこそ、祝福を得て再臨した姿!簒奪者でしかない皆様では立ち入れない境地なのですよ!」
「祝福?簒奪者?便利な言葉で誤魔化すなよ。お前は、ただの異常者だ。疑いようもなくな」
何も特別なことなどない。
ヴィオラは銃を構え、ナイフを引き抜き、不可視の刃が胸の前で微光を放つ。
無数の葡萄が赤黒い瘴気を漂わせる。
ニーナとエイラの前には、銃を構えながら、低く腰を落としたマーキュリーが立っている。
状況は整った。
少なくとも——存分に、積もり積もった鬱憤を晴らす為、この思い上がった化物をサンドバッグにする準備はできている。
「自らの罪すら自覚できない馬鹿者に、優しい説教なんて野暮だよな?ま、死んでも忘れられねぇような教えをくれてやるよ」
ヴィオラは不安定な地面を踏み切り、暖かなヴェールでその身体を包む。
迎撃するように横なぎにされた丸太程の腕は空を切り、ダリウスの戦斧が如く振り上げられた踵が、天蓋を覆う脊髄へと衝撃波を纏いながら叩き込まれた。
*
黒衣の剣士は、奇妙な感覚に囚われていた。
振り払った剣が、炎の幕と衝突する。
彼の操る刃とは、薄く、鋭く、あらゆる鎧の隙間を縫って急所を貫くことができるような不可避の一撃だ。
故に、その身体の強固さを誇る豪傑程、不意を突いた剣撃により、重く致命的な傷を負う……はずだった。
「……」
刃が、炎の向こうへと入っていかない。
何か、拒絶されているかのように弾かれ、打ち込んだ以上の力で以って、彼の身体を襲う。
「……そうですか。期待以下です」
太陽が下ろしたのではないかと疑いたくなる程に眩い柱が途切れ、火の粉が次々と消え去っていく。
幕の向こうを見つめると、そこには、先程まで相対していた少女とは似ても似つかない、機械仕掛けの何かが立っていた。
身の丈程もあった青と橙の炎を二重螺旋に纏う槍は、最早銛のように短く見える。
「身共が、あなたをここに留める勝負になると思ったのに。これでは逆ですね」
彼女は軽々と地面から槍を引き抜くと、その鋒を黒い外套の刺客へと向けた。
燻る炎が揺れ、冬の夜に陽炎を呼び起こす。
「ナンダト……?」
「まだ分からないんですか?」
鉄仮面越しの声が、身の毛もよだつような威圧感と共に木の葉を震わせる。
《戦車》の駆動体。それは、相手を轢き潰す為だけに存在する破壊兵器。
《恋人》のように、誰かを抱くことはできない。
《吊し人》のように、機転を効かせることもできない。
単純明快に、ただ1つのタスクを課されたそれは、青い炎を棚引かせて暴力的なまでの力を振るう。
「あなたが身共を止められるかどうかだと、言っているんですよ」
瞬きすら許されない、一瞬の出来事だった。
剣士は、声が眼前からではなく、背後から響いていることを感じ取る。
しかし、それでは遅かった。
触覚が危険信号を発するよりも早く、白亜の長槍が男の胸を貫き、次いで双色の炎が吹き出す。
「グゥ……」
身体の中からフランベされる感覚は、如何に痛みに慣れていようと、鈍い体質であろうと、苦痛であるらしい。
串刺しにされ、炙られ、それから空中へと放り投げられた彼は、サッカーボールのように山肌へ向かって蹴り飛ばされる。
それは、彼の反応速度を越えて繰り出された一撃だった。
知らなかったわけではない。
《戦車》のオルガン。
その戦闘力は、“十人衆”のみならず、あらゆるオルガンの中で比べても指折りのものだ。
しかも、これでいて、彼女は未だ真の姿を手中に収めていないらしい。
舞い上がる塵の中で、口端から垂れ落ちる血液を拭いながら、刺客は立ち上がる。
黒い剣は依然として固く握られていたが、肉が焼け焦げるような不快な香りは、彼の鼻をついて離れない。
「痛いですか?でも」
陽炎のように砂煙の中で輪郭を揺らしながら、サリナは一歩一歩を確かに踏み締め、歩み寄る。
「ニーナさんとエイラさんの方が、ずっと大きな痛みを感じていたんですよ。元凶であるあなたには、しっかりと清算してもらわなければなりません」
彼女は無造作に剣士の頭部を右手で掴み、持ち上げる。
ギチギチと万力のように締め付けられ、頭蓋が不快な悲鳴を上げた。
負けじと歯を食いしばりながら、黒塗りの剣を振り上げて、甲冑の首元へと滑り込ませる。
傷口を負ったからなのか、衝撃に反応するように吹き出した橙色の炎は、彼の手を剣ごと焼き尽くし、茶色く焦がした。
しかし、それでも尚、刺客の双眸は過たず、機械仕掛けの鎧の向こうにある少女の瞳を捉えている。
「フク、シュウ、カ」
「……。それは、身共の全てであり、最も大切な感情です」
今にも潰れ、ピンク色の体液を巻き散らすであろう寸前のところでサリナは、不意に力を緩めると、感情の赴くまま握りしめた肉塊を地面へ叩きつけた。
ヒビ割れた地面からは青い炎が吹き出し、纏う外套ごと肉という肉を焼き尽くす。
そして、追い討ちをかけるように彼の身体を二度、三度と繰り返し岩肌へ打ち付けてから、再びボロ雑巾のように放り投げた。
背中から樹の幹へと衝突した黒衣の剣士は、そのヴィオラでさえ対処しきれなかった身体を誇るように再び立ち上がる。
しかし、次の瞬間、月光を反射する鉄の拳が下腹部にめり込み、内臓という内臓を破裂させると、くぐもった声を漏らしながら、力が抜けたように片膝を突いた。
「マサ、カ、コレホドトハ……」
「……でも。身共は、あなたを殺すわけにはいかないんです」
「ゴウモン、デモ、スル、ツモリカ?」
その一歩一歩が地面を割るに足り、足跡が1つ1つ刻まれる度に、肌を灼く炎が燃え上がる。
見上げれば薄紫色の光が、甲冑の向こうから覗く、覚悟に満ちた少女の眼光が、彼を標本針で縫い留めていた。
「そうかもしれません。でも、そうするには、この仮面が邪魔ですよね」
「ナニ……」
鈍色の大きな手が、彼の顔を。否、それを包む面を掴む。
「申し訳ありませんが、拒否権はありません。お話はそれ、か……」
しかし。幾度の衝撃を受けたそれは、ヒビ割れ、朽ち、彼女が力づくで引き離すよりも前に、欠片となって散っていく。
黒衣の剣士を正体不明とした所以。
声を変え、顔を変え、振る舞いを変えさせる第二の顔が、無惨にも剥がれ落ちる。
「……まさか。あなたが……?」
ともするとそれは、黒衣の剣士にとって非常に幸運な出来事だったかもしれない。
サリナは見た。
両者の瞳が交差し、暫しの逡巡を生む。
その隙があれば、彼にとっては充分だった。
「なっ……待て!!!」
急激に存在が霧散し、闇夜の中へと溶けていく。
咄嗟にサリナは槍を振り下ろすも、貫くべき肉体は既にそこには存在しなかった。
ただ虚しくも、鋒は大木の幹に突き刺さって、灰になるまで燃え上がらせる。
「……」
少女は、二色の炎を機械仕掛けの体躯から吹き上げ、感情を抑え付けるように残酷な夜空を見上げた。
歯車が回り、離れ、暴虐を象徴とする戦車の鎧が溶けていく。
その脳裏には、仮面が剥がれ落ちた後の彼の表情が。感情の入り混じった、それでいて確かな敵意に満ちた顔だけが、強烈に焼き付いていた。
不意に吐き出された息が白く濁る。
火炎の熱は風の前の塵のように消え去り、ただ凍えるような冬夜の乾風が、降り積もった灰燼を巻き上げて、笑うように彼方へと消えていった。
お疲れ様でした。
遊戯王ZEXALのベクター並みに、衝撃の真実ゥ!という感じの1話でした。
とはいえ、どのような光景が広がっているかは、これまでの断片的な情報でなんとなく想像できたかもしれませんね。
幽閉され、放置され、まともに口にできるものはブドウだけ。
未来の見えない生活の中、精神を壊してしまう、あるいは命を絶ってしまう、同じ部屋の中に居る人々に当たってしまう……様々な悲劇が、行われたことでしょう。
ヴィオラたちはこれから、このような深い因習を外に広め、中央へと伝えなければなりません。
そしてそのためには、まずこの変態した村長を打ち倒さななければならないでしょう……。
後半は、刺客とサリナの戦闘シーン、と見せかけて単なるサリナの鬱憤晴らしという感じでしたね。
流石に力量が違いすぎました。
サリナちゃんはこれまで、物理が効きにくい敵だったり、何度でも平気な顔で復活する敵だったりと、なんだか苦手寄りなキャラばかりを相手にしていて可哀想だったので、これくらいのご褒美はあってもいいでしょう。
仮面の裏に隠された顔とは、なんだったのか。
これについては、また後のお話で。
最後になりますが、感想やレビューなどいただけると本当に嬉しいです。
執筆の励みになりますし、1つ1つじっくりと読まさせていただきます。
それでは、りんどうでした。




