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「動かないで下さい。もう少しで終わりますから」
画家の声にリゼは落ちかけた手を何とか支えた。工房売れ筋商品のジャムを持つ立ち姿をもう十五分も続けている。これは新聞に記事と共に載せるためのスケッチだ。
新聞に取り上げてものに自身の絵など要らないと告げたものの、「ご婦人の絵があると記事が華やぐから」と記者にごり押しされた。照れ臭いが、工房前でポーズを取れば『カンパネラ』の工房名が入る。宣伝のためと受け入れた。
「もういいですよ」
画家が鉛筆を置いたので、リゼはほっと息をついた手を戻した。
「あら、きれいに描いてもらえてるじゃないですか」
「上手いものね、そっくり」
「どうせなら他所行きを着なさったらよかったのに。新聞に載るのに普段着なんてもったいない」
スケッチブックをのぞき込んだ従業員らが好き勝手言い合う。茶菓子の接待をしながら取材を受けた。新聞には三日後に載るという。
「小さな記事ですが王都の新聞です。反響は大きいですよ。お楽しみに」
そう告げられれば、リゼの期待もふくらむ。
新聞取材の後で果実の下拵えを手伝った。皮を剥き、剥いたものはシロップに漬け込んでおく。ここまでを鮮度のいい届いた日のうちに済ませておくと味にくっきりと差が出る。先代の時からの大事な手順だ。
量が多く皆が総出でかかる仕事だ。
「若社長、帰らなくていいんですか? もう暮れてますよ」
「いいの。最後までつき合うわ」
以前はこの作業をゆっくり手伝うことができなかった。家で待つキッドが気がかりで気もそぞろに工房を後にしていた。しかし、看護人のフランが融通の利く人で、遅くなる時は夕食を出せば残業も構わないと請け合ってくれている。
「フランが頼りになるの。少しくらい遅れても平気。気の利く人で一緒にいて主人も楽しいみたいよ」
「その人、前に言っていた新しい看護人でしょ。元貴族の出だとか」
「そうそう。でも偉ぶったところのない人よ。いい人が来てくれて助かっているの。家庭教師もしていたから頭のいい女性よ。だからキッドと話も合うみたい。わたしは高尚な話はついていけないけど」
リゼは手際よく皮を剥いていきながら朗らかに答えた。時間のゆとりは気持ちの余裕も生む。少々の出費の効果は期待以上だった。キッドも日々楽しそうにしているし、それを見ると家庭に時間を割けない彼への罪悪感も薄らぐ。
「通いのメイドさんは何時までいてくれるんですか?」
「メイドは三時までよ。後はフランがいてくれるから、お茶とか簡単な用事はしてもらえるの」
「そのフランって人、独身?」
「結婚歴はあるけれどお子さんはいないの。それで自由が利くみたい。美術館や催しにも付き添ってくれるから、キッドは重宝しているの」
「都合がいいからって、あまりそのフランって人にご主人を任せない方がよくないですか?」
「そうそう。聞けば一日べったりのようだし。奥さんの社長より長く一緒にいるなんて、ちょっとどうかしら」
「ねえ」
リゼには意外な意見が返ってあっけに取られた。工房がありキッドに割ける時間は限られている。そのための不自由を適した誰かに補ってもらうのは悪いことなのだろうか。今もこれからも、自分たちが幸福に快適に暮らしていくために資金はできるだけ多く蓄えておきたい。
(キッドが求める高価な本や品のいい暮らしを保っていくには、わたしが外で働くしかない)
彼女はそれが愛情だとも思う。
「いい人が来てくれたって安心なさるのはいいけれど、まだ一月二月でしょ。上っ面くらいしか見せてないでしょうよ」
「そんな……。きちんとした女性よ」
フランは質素な身なりだが上品な挙措の美しい人だ。話し方も落ち着いていて理性的な人柄がうかがえる。大事につき合って長く家にいて欲しいと思ってきた。伝聞の情報のみで中傷されては気の毒だ。
(フランだって、同じ働く女性なのに)
そんな思いが顔に出たのか、ベテランがおどけた調子で、
「まあ、うちらは先代の頃からここにお世話になってるから、互いの裏の裏まで知り合っているからね」
と言った。
「裏の裏なら表じゃない。確かに毎日同じ顔を見飽きてるけれどね」
誰かが返し笑いが起こった。
新聞に掲載されたことで工房は注目を浴びた。商品の問い合わせが来るのは大いにありがたく、反響を皆で喜び合った。
記事に添えられた画家の手によるリゼの絵も評判で、あちこちから招待状が舞い込んだ。最初、宣伝になると勢い込んで出席したものの、ある昼食会では息子の嫁に品定めされたり、あるお茶会では後妻にどうかと持ちかけられなどして辟易した。
「仕事につながりそうなもの以外は出ないわ」
招待状を渡す秘書のネロリにも宣言した。工房の経営者は別にいて、リゼは看板娘的な役割だと誤解されているのも驚きだった。取材を受けた際にあれほど「経営者として……」と工房の理念や目標などを語ったのに。
「婦人の経営者は珍しいですし。しかも若くて美人となれば、注目を浴びますって」
「それは絵がいいの。画家の腕よ」
「そうかしら、よく似てると思いますけど」
ネロリは壁に飾られた絵を見た。記者が取材時のリゼの絵を額に入れ贈り届けてくれた。リゼ自身は恥ずかしくて隠しておいてほしかったが、周囲はせっかくだから飾ればいいと譲らなかった。玄関脇や作業場内にあるよりましで、オフィスにならと認めた。
掲載の余録は他にもあって、営業先でも「あの新聞のご婦人」と扱いが変わった。仕事がやり易くなったのは確かで、照れ臭さは微笑んでのみ込むことにも慣れてきた。
新聞掲載のことはキッドには告げなかった。忘れていたのもあるし、彼女の中では大した問題でもない。
しかし、ある晩彼がその件を持ち出した。やや気分を害しているのは落ちた声の調子でわかる。
「フランに聞いて驚いたよ。君が新聞に出て話題になっているとね。聞けば、絵を印刷したハガキが売られているらしいよ。雑貨屋でも買えるらしい」
「本当?」
それは初耳でリゼが驚いた。新聞社に文句を言いたいが、話題のある今売って金になるのなら売る理屈はよくわかる。
「僕は恥ずかしい。自分の妻の姿がハガキになってあちこちで買われるなんて……。母がこれを知ったらどう思うか。考えても情けないよ」
「ごめんなさい。こんなことになるなんて思いもしなくて。小さい記事になるだけだと……。工房の宣伝のためだったのだけれど、あなたに相談すべきだったわ、本当にごめんなさい」
キッドは手をさすりながら深いため息をついた。気分も症状に影響があると彼から聞いているから、なおのこと申し訳なさが募った。
「僕に相談したとしても、工房の為なら君は利益の出る方を取るだろうね」
「そんなことはない。あなたが嫌なら絶対にやらなかったわ。それに工房のことだって、あなたとの将来を考えて頑張っているの。今後も憂いなく今のような暮らしをしていきたいから。ただお金を儲けるのが目的なんかじゃない」
「金を稼げないのなら黙れ、ということか」
「違う。そんなこと一言も言っていないわ」
気難しくなることはあっても、家にいる現在の暮らしを彼は望んでくれていると思っていた。健康のために職を辞してきたのも彼の判断だった。進んで自ら「家のことはできることは僕がやるよ」と主夫を買って出てくれたのも彼だった。
リゼは椅子から立ち、キッドの側に膝をついた。彼の膝に手を置く。今に至った判断に納得し満足してくれていると考えてきたのは、浅はかだったかもしれない。それがやむなしの、苦渋の選択だったかもしれないのに。
(穏やかに過ごしているのは、気遣わせないための彼のわたしへの思いやりだった……)
「仕事をしている」「稼いでいる」「養ってやっている」……。気づかない間にキッドにそんな圧をかけていたのではないか。そんな気はなかった。思い遣っていたつもり。
(でも、きっとゼロではない)
自分の驕った部分に気づき、悔しかった。それがキッドを追い込んで苦しめた。彼女は彼の膝に額を押し当て泣きながら謝った。
長く黙った後で、キッドは彼女の髪をなぜた。
「もういいよ。実際負担をかけている。これは僕の罪だから…」
「負担なんかじゃない。そんなこと……、言わないで」
「……ハガキの件で冷静になれなかった。でも僕はもういい。ただ、今度母に何か言われたら、上手く散り繕ってほしい。母は古い人だから理解できないかもしれないからね」
リゼは頷いた。易いことだ。それにハガキのことをキッドがこれほど不快に思うのは、自分への愛情に違いないと心が温かくなる。夫がさする手に彼女は唇を置いた。
後日、姑を訪問する機会があった。家の補修の援助を頼まれていて、その件でだ。強風で屋根の壊れた箇所を何とかして欲しいという。放っておけば雨もりにつながりかねない。
「うちの人は家の修理にお金を出したくないって言うのよ。それなら教会に寄付するって。だから、あんたに助けてほしいの。キッドも口添えしてくれたし」
リゼの見たところ、そう大掛かりな補修でもなさそうだ。大工仕事は詳しくないが、工房の修繕の経験から費用の見当がつく。
「ええ、カンパネラに請求を回してくれるよう伝えて下さいね」
「話が早いわ。あんたみたいないい嫁もらって、幸せよ。そうそう。リゼ、あんたハガキになったのだって? うちの人が「キッドの嫁じゃないか、ジャム屋の」なんていうから」
姑は引き出しから例のハガキを出してきた。
「ほらこれ」
リゼも目にするのは初めてだ。新聞はモノクロだがハガキは彩色してあり可憐な美しい仕上がりになっている。金髪が傾げた小首に揺らめいて緑の瞳も鮮やかだ。照れはあるが見てちょっと嬉しくなる。
何と話を持っていこうか、と言葉に悩むうち、
「いいじゃない。すごくきれいよ。これをあんたのジャムにくっつけて売れば男にも好評よ」
と朗らかに言われたので、曖昧に笑うだけでやり過ごせた。