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忙しく動き回っていたいが、そんな日ほど暇だった。帰宅する従業員たちを見送ってリゼが工房を出たのは、珍しく日暮れ前だった。
いつもの停車場で馬車を降りる。考えずとも足が自然に動いた。自宅前に近くなって、それに気づいた。玄関までの階段にもたれるように立っている人物がいる。
(キッド)
いち早くリゼに気づくと彼は手を軽く振った。思わず逃げ出そうかと考えた。彼の目的が何なのかどうでもいい。接触することが嫌だった。
(でも、逃げてどうなるの?)
どこかで逃げるのは自分ではないはず。そんな意地もある。
やや歩を止めた後でリゼは自宅へ進んだ。微笑んでキッドは彼女を迎えた。いつからここにいたのだろう。普段の彼女の帰宅はもっと遅い。空気が冷え出す時間だ。長く待っては身体に触るのに、とお節介が口から出そうになる。しかし、別れる前は彼との夕食を遅らせないため急いで帰宅していた頃だ、とも思い出す。彼はそれを覚えていたのだろう。そんなに長く戸外にいたのでもないようだった。
この日は昨日ほどだらしなさを感じさせない装いだった。帽子もありシャツにタイもある。ただどこか崩れた印象なのは、記憶が昨日の彼を引きずっているからかもしれない。
キッドは杖を持った手をさすった。
「中に入れてもらえないだろうか」
「何のご用?」
「外では話しにくい。頼むよ。長居はしない」
メイドもいることを考え、リゼは「玄関ホールでなら」と許した。来訪の目的も読めていたからなのもある。
出迎えたメイドに下がってもらい、玄関ホールで向かい合った。椅子に座ってすぐキッドは口を開いた。
「内装を変えたのかい? 随分雰囲気も変わったね」
と鼻を鳴らした。離婚後、父の代からの重厚な雰囲気があった装飾を軽やかな女性向きなものに変えてある。キッドの趣味ではないようだ。彼のご機嫌をうかがう必要はないからどうでもいいが。
リゼが用の向きを促すと彼はやや気まずそうに咳払いをした。
「少し用立ててもらえないかい? 金のことで妹とも揉めているんだ。空いた部屋を貸し間にするはずが、僕たちがいてそれが出来ないと不満なようだ。その分を支払ってくれとせっつかれていて困ってるんだ」
彼の妹は幼なじみでリゼはよく知っている。家族を捨てた母を責める妹とその母との交際を断たない兄とは仲が悪かった。そんな妹をキッドは敬遠していたからリゼも結婚後はつき合いがなかった。離婚した今、その仲が改善したとは考えにくい。
「本を書く計画はどうなったの?」
「ああ、書いているよ。ただ環境が悪くてあまり捗らない。それも気の滅入る原因だ。集中したいのに幼い子が騒いでは迷惑だ。その都度叱りつけてやるが、たまったものじゃないよ」
実家を継いだのは妹だった。そこへ出戻ったのは兄のキッドだ。しかもフランを伴ってなのだから、生活を乱されて迷惑なのは妹家族の側のはず。
「見たところ暮らしも順調そうだね。……これは一つの考えだが、僕たちが夫婦であった期間に君は工房でかなり儲けを出しただろう。もちろんそれは君の頑張りだとは知っている。だが、それが叶ったのも僕が家庭を守って君を支えてきたからとも思うんだ。一つの考えだがね」
キッドはそこでリゼを見た。薄く笑いつつ彼女の表情をうかがっている。彼女は黙って視線を逸らした。彼がやってきた目的はすぐに見当がついていた。
(お金)
それ以外ない。昨日彼女に再会後、この申し出を思いついたのだろうが、その心の動きは相変わらず身勝手で一方的だ。彼からはついぞ詫びはない。彼女を裏切ったことの責任も彼からは感じられない。やや卑屈に見えるのは今優位なのはリゼの方だから。そこにおもねっているだけだ。
リゼは吐息した。昨夜からこればかり。
もし、キッドの態度がうなだれて哀れを誘うものだったら、彼女は幾ばくかの小切手を切ってやっただろう。それは彼のためではなく自分の心の安定のためにだ。彼の存在で自分に鞭を打ち頑張れていたのは自覚していた。キッドの言う「家庭を守って君を支えた」のとは違うが、彼女にとっての発奮剤であったのは間違いがないから。
(でも……)
「幾らか用立ててくれることで、君も罪悪感が薄れるのじゃないかな。快適な住まいから僕を……、身体の不自由な僕を追い出したことへの」
「キッド、あなた間違ったわ」
薄ら笑いを浮かべる彼が彼女を見返した。リゼは立ち上がり、内玄関のドアを開いた。手で外を示し、「さあ」と彼へ促した。
「帰って」
唖然とする彼を追い立てるように大きく告げた。
「早く出て行って」
「待ってくれ。急にそんな……、まだ用も済んでない」
「あなたに支払うお金はないわ。出て行かないのなら、メイドを呼ぶわ。二人して追い出すから」
リゼの剣幕にキッドは驚いて急いで立ち上がった。渋々と杖を使いドアから外へ出て行った。最後に彼女を振り返ったがその頬へ追い打つように、
「二度と来ないで」
と突きつけた。
追い出してしばらくは動けずにいた。腕を抱きそのまま立ちすくんだ。不快な時間を噛み締めながら、
(これで良かった)
と苦い思いを飲み込んだ。
しかしどうであれ、彼が困窮していたのは事実だ。杖が必要な身体でここまでやって来たのに。それを手ひどく追っ払った後味の悪さは堪らない。ドアの外へ叩き出した衝動は怒りだったとわかるから。それができた自分の冷淡さにも嫌悪感が湧く。
今更こんな思いをさせるキッドを恨んだ。
(裏切った上、謝りもない。それなのに正義漢ぶって、わたしばかり悪いみたいに……)
どれだけそうしていたのか、ドアを叩く音がした。リゼは顔を上げ腕を解いた。キッドだろうと思った。ここまで来て手ぶらでは帰れないからと粘るつもりなのか。彼へのいらだちが頭を占めていた。ドアを開けてすぐ、
「あなたは絶対に正しくて、わたしだけがいつも間違っているの? 自分中心の勝手な理屈をもうわたしに押し付けないで!」
と突きつけた。口にしながら目尻には涙が浮かんでいた。こんなことを別れた今になって言わせる彼を憎いと思った。
返事が遅いと感じた頃だ。目に映るのはキッドのタイとは違い上着も上質なものだ。違和感に顔を上げる。そこに立つのはキッドではなかった。
(エル……!)




