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わたしの方が好きでした  作者: 帆々
虚像

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『……戻るのかしら?』


 思いの外はっきりとした声だ。そのまま下の声が聞こえるのではない。屋敷の構造の隙間から響いた声が届くようだ。水音が混じる。耳を澄ませてうかがうと、階下の浴室の音がここにまで流れてきているのが知れた。


 女性の声は間違いなくフランだ。話しているのだから一人ではない。胸が悪くなるような想像が頭をもたげた。息を殺して彼女は耳を傾け続けた。


『「三時に」と言っていた。まだ十分余裕はある。髪も乾くしコウボウに気づかれる心配はないよ』


 キッドの声までが届き喉がひりつくようだった。瞳の奥が熱い。瞼が痙攣を起こしている。


『三時にと言ったのはメイドの上がりの時間だからだ。君を解雇したらメイドには帰宅するまでいてもらわなくてはならないから、その話をするためだと思う』


 その通り、と心の中でリゼは呟いた。そのつもりでキッチンに入ったがメイドは不在だった。それでショパン婦人のところへ来ることになったわけだ。時間だけはずれているが。


『……驚くかしら? わたしたちの関係に』


『驚くよ。驚いてもらわないと困る。こっちの要望を通すにはその隙をつきたい。男まさりに商売なんかしているから小賢しいが、僕の言葉は絶対だ』


『また癇癪起こすのかしら? 朝食の時のコウボウの様子、おかしくて笑いを堪えるのが大変だった……』


『全くだ。君の前では小鼠が騒ぐみたいで、見られたものじゃなかった……』

 

 二人のくぐもった笑い声が淫らな響きを伴う前に、婦人はそっと板を元に戻した。リゼを促し寝室を出た。居間に戻りいたわるように彼女の肩を抱いた。


 静かな時間が流れた。どれほどかの沈黙の後でリゼはうつむいていた顔を戻した。


「いつから……?」


「いつも盗み聞きをしていると誤解はしないでちょうだい。昨日の夕刻だったわ。出かける支度をしていてイヤリングを落としたの。それで床を探っていて板の隙間に気づいたの……」


 リゼは答えに頷きも返せなかった。ただ頭も心も黒い膜で覆われたようで考えも感情も働かない。ついさっき耳にした事柄は本当だったのか、信じ難い気持ちだけが残る。そこから先が怖くて進めない。


「昨日も二人は『コウボウ』って符牒を使っていたわ。あれ、リゼ、あなたのことでしょう。お父様から継いだ『カンパネラ』の工房のことに違いない。聞いて、腹が立って黙っていられないと思ったのよ。人を馬鹿にするにも程があるわ」


 会話から二人が誰のことを話し合っていたのかはわかったが、『コウボウ』が自分を指した揶揄だとはなぜか気づかなかった。


 そうか。


 キッドもフランも彼女が不在の場では、二人して『コウボウ』と嘲笑っていたのか。彼女が「工房」と口にしない日はないから。何度も繰り返して言葉にするたび、二人は彼らにしかわからない合図を送り合い、隠れて嘲笑していた。彼女の入ってこない浴室などで……。


 ちょうどこの階の下で、今二人は密接に触れ合っている。フランに比べれば、リゼは「小鼠」程度の魅力しかない。


 吐き気を催しリゼは口を押さえた。婦人はショールを彼女の手に押し付け、


「いいのよ、構わないわ」


 と背をさすってくれた。かろうじて吐き気は止まったが、代わりに喉を嗚咽が溢れ出した。他人の家で側には婦人もいる。なのに感情は抑えようがなく、彼女は子供のように泣きじゃくった。


 婦人はリゼの好きなだけ泣かせてくれた。その嗚咽の波が波を超えた頃、ため息をついてこぼした。


「あなたのお父様はあなたたちの結婚にいい顔をなさらなかったわ。キッドの母親を警戒していらした。人の家庭を壊した女性とリゼが縁を結ぶことになるのをためらっていらしたのよ」


 その辺りのことはリゼ自身も知っている。父にあきらめられないのかと何度か聞かれた。初恋が実ったことに夢中で、キッドとの将来に浮かれていた彼女は父の懊悩を大袈裟だと思った。確かにキッドの母は夫を捨て、他の妻子ある男性と逃げた。そのこととキッドを結びつけるのは酷だと父をなじった。


 今もその意識は変わらない。彼が母の責任を被り続ける必要はないと思う。


「お義母様のことは関係ありません」

 

「小さくなっていろと言っているのではないの。それなりの態度もあるということよ。キッドはお父様に遠慮するでもなし、なあなあであなたの家に母親を出入りさせてきた。それでは世間は通らないわ」


「……お義母様がいらっしゃるのはわたしが認めていたからです」


「あなたの愛情につけ込んだ驕りですよ。そんな増上慢があるからこそ、尽くしてくれるあなたにこんな卑怯な裏切りができてしまうのよ。汚らしい。外道の所業よ。明るい中から嫌らしくておぞましいったらないわ。人でなしよ」


 婦人が口を極めて罵ってくれるおかげか、リゼは涙が止まった。悲しみというより心に真っ黒な何かを詰められたようだ。感情もどこか麻痺してしまっていた。


 婦人のショールをたたみながら床下から届いた二人の会話を思い出している。


『驚くよ。驚いてもらわないと困る。こっちの要望を通すにはその隙をつきたい』。


 キッドの言葉の意図は何だろう。彼の要望とは? リゼを驚かせて何をのませたいのか。確信を持った語調だった。フランを前にその計画に得意になっていたようでもある。


「お別れなさい。悪いことは言わない。元から結んでいい縁ではなかったのよ」


 婦人の言葉を待つまでもなかった。キッドの裏切りを知って夫婦ではいられない。元にはもう戻れない。感情がぼんやりしてまだ痛みもないが、思考は働いてくれる。彼とはもう終わりだと割り切ることができた。そればかりは冷静にわかる。


 今階下に降りたら、昼の情事を楽しんだ二人とかち合うことになるかもしれない。思いがけず現れたわたしの姿にフランは勝ち誇った笑みを浮かべることができるのか。キッドも「僕の言葉には絶対だ」と自信を保っていられるのだろうか。


「わたし、今朝フランに解雇を告げました。急だったからお詫びも込めて、お礼金を渡す約束をしました。……さっきの二人の話だと、その時にわたしに何か要求があるようでした。何かしら?」


「そうね。何か偉そうに言っていたわね。でもねリゼ、一人で会っては駄目よ。都合よく言いくるめられる恐れがあるから。ただでさえキッドはあなたを小馬鹿にしている節があったのよ」


「立ち会って下さいます?」


「もちろんお望みなら同席しますとも」


 そこにメイドが現れてお客の来訪を告げた。


 リゼは慌てて立ち上がった。甘えて婦人の時間を無駄にしてしまうところだった。降った災厄のような出来事だが、逃げられない以上立ち向かうしかない。暗澹たる思いで辞去を告げた。ちょっと意固地な気分になる。


「ご迷惑はおかけできません。もう失礼します」


「駄目よ、待ちなさい」


 リゼを押し止める婦人とそれを固辞するリゼ。その二人の前にドアが開き客人が現れた。その紳士を認めて婦人は破顔した。


「エル。あなたリゼにつき合って上げて頂戴」


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