2012/ 8/ 8 (4)
これが、遺書に綴られていた、おおよその人生。
ベルは、ただ、すべてに疲れてしまったのだ。
みんなの中には、この遺書を読み、彼女が孤独に苛まれ命を絶ったのだと考える人がいるかも知れない。
だが私はそれを否定する。孤独はただの結論にすぎず、決して根本の理由ではない。
私は彼女の人生が、一心に漕ぎ続けた舟のようだったのではないかと思う。
昔の追い風に背中を押され、「漕ぎ続ければ必ず岸に辿り着ける」と信じて疑わず、彼女は際限なく櫂を振り下ろし続けた。
だが海には風が止む時も潮が逆らう時もある。そのことを見落とした彼女は、腕が疲れ、心の燃料が尽き果てた。その瞬間、初めて自分の信じていた方角が誤っていたことを悟った。
そうして、舟はどこにも着かず、ただ海の真ん中で時間を溶かしていった。
やがて彼女は櫂を握ることすら放棄し、海に漂う木片のように身を委ねた。その無為の漂流こそが、彼女を静かに沈めていった死の原因だったのだ。
思考をすること。それは人間の義務である。
この営みを放棄することは、悪であり、罪であり、やがて人を内部から蝕む毒となる。
この日記を見ているみんなに、知っていてほしい。
答えを急ぐ必要はない。
努力に身を削る必要もない。
前を向くことにさえ、必然性はない。
正しき答えなど、そもそも存在しないのかもしれない。
それでもいい。ただ、ほんの少しずつでも、手探りで構わない。
どうか、考えることだけは決してやめないでほしい。
思考を手放したその瞬間、人はもはや「人間」ではなくなってしまうのだから。
これが私の捉える、彼女の遺書の意味である。
ありがとう
Name: 田中理華子
彼女はしばしば「思考とは人類に課せられた義務である」と口にした。
生きている限り、人は己と対峙せねばならず、それを放棄するならば、もはや死を選ぶ方が潔いそう信じていたのである。思えば、彼女の思想の源泉は、まさにこの作品にあったのかもしれない。そして今、僕はその言葉を胸に、改めて思考を巡らせている。彼女の死と向き合い、思考、死因、価値観、そのすべてを理解する。それもまた、僕に課せられた義務なのだろう。
この活動を選んだことは間違いではなかった。少しずつではあるが、確かに彼女を理解しつつある。その実感が、静かに胸の内に広がっている。




