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善悪日記  作者: rikako002
6/7

2012/ 8/ 8 (3)

 そして一週間が経ち、卒業旅行が始まった。


 現地集合という形で、それぞれが思い思いにやって来る。ベルも流れに乗るように参加したが、胸の奥には言葉にできない不安が残っていた。


 ホテルは親友の雪菜と同じ部屋をシェアすることにした。優しく、堅実で、ベルを気遣ってくれる中学におけるただ一人の親友だった。

 だが同時に、クラスの中心でもあった。誰とでも気さくに笑い合い、トークで爆笑を掻っ攫っていく様は、ベルから遠い世界のように思えた。


 そんな彼女にはたくさんの友達がいて、旅行中よく外食に出掛けた。

 共通の友達であればついていくのだが、雪菜だけが中の良い友達も中にはいて、そういう時はたいてい一人で残った。


 こうなると彼女はたいてい一人でご飯を食べる。

 食事に誘う友人が、いないわけではなかった。


 けれども席に着けば、ただ頷き、理解したふりをし、優しさを装う。

 ベルはそんな自分を、ひどく情けなく思っていた。


 他が笑いの渦に包まれている中、話題の糸を必死に手探りするばかりで、口元には作りものの微笑みが貼りつく。

 そのたびに、胸に孤独が滲んだ。

 

 静まり返った部屋の中で、ベルはふと考えた。

 楽しく食事のできない友人を、友人と呼ぶのだろうか。


 挨拶を交わすだけ...

 軽い冗談を口にするだけ...

 それは、本当に“友”と呼べるのだろうか...


 私に、本当の友人なんているのだろうか...


 思考は果てのない環を描き続けた。

 ルームサービスの食事を目の前にしても、どうしても箸を取ることができなかった。


 これまでに費やした歳月の重み、積み上げてきた努力のすべてを思えば思うほど


 誠心誠意を尽くしてきたはずなのに、結局、自分には「真の友」と呼べる存在がいないのではないか。

 その疑念こそが、彼女にとって何よりも痛切であった。


 彼女は、この事実を見て見ぬふりをしようとした。あるいは、どこかへ逃げ出そうとした。


 でも、どうすることもできないから、自身の持つ確かな証拠に気が向かった。


 ベルは卒業アルバムを手に取り、最後のページを開いた。

 そこには、クラスメートの寄せ書きが隙間なく連なっていた。文字を追うにつれ、胸の奥に小さな温もりが灯ってゆくのを、ベルは確かに感じた。


 卒業の日、彼女のために綴られた言葉。

 そこには約百人もの“友達”が、二、三行ずつメッセージを残してくれていた。

 その事実は、確かな価値があったのかもしれないと安堵させた。

 

 その時ふと、アルバムのある慣習を彼女は思い出した。

 卒業生ひとりひとりが、自らの親しい友や恩人など計15人程度に向けて、一ページを割き、感謝を記すというものだ。

 

 ベルはまだ一度も、そのページを開いたことがなかった。

 いや、正しく言えば、開くことができなかった。


 彼女はただ純粋に恐ろしかった。もしそこに、自分の名を記す言葉が一つも見つからないと考えると。


 だがこの瞬間のだけは違った。

 彼女の心には不思議な自信が芽生えていた。白紙の余白を覆い尽くすように綴られた寄せ書きの群れは、思いがけぬほど大きな力を彼女に授けていたのだ。


 ベルは淡い妄想を抱いた。少なくとも五人、多ければ十五人ほどが、自分について書き残しているかもしれない――そんな予感に導かれながら、彼女はそっとページをめくり始めた。




 最初の一頁。心臓は弾むように高鳴った。


 次の十頁。昂ぶりはわずかに翳りを帯びたものの、まだ思いをのせて脈打っていた。


 しかし百頁。心臓は、弾んでいた球が徐々に勢いを失っていくように、弱々しく小刻みに揺れた。


 それから百頁。心臓は落ち着く。1頁1頁、紙の擦れる音が耳を責め立てる嘲笑のようだと感じた。


 最後の一頁。心臓は氷のように冷え、彼女は自分には自身が求めていた本当の友達がいないことを悟った。




 アルバムにはただ一人、雪菜を除き、誰一人としてベルの名前を記す者はいなかったのである。

 そしてその雪菜の文章も、他の五十人近い“親友”たちへの挨拶の一つに過ぎず、内容はあまりに簡潔だった。


『あなたは私が知る人間の中で、最もリスペクトのある。』

 その一行を目にした瞬間、胸の奥に、どうしようもない悔しさがこみ上げた。


 百人もの“友達”がいるはずなのに、自分は誰にとっての“いちばん”でもない。

 いや、トップ15にすら入っていないのだと。


 必死に努力して築き上げた友人関係は、結局、蜃気楼のようなものだったのかもしれない。

 本当の友達など、一人もいなかったのかもしれない。


 そう思わずにはいられなかった。というより彼女はそう確信してしまった。

 その夜、ベルはルームサービスの食事に手をつけず、外へ出た。


 そして、ホテルの近くにあったスラム街の小さな食堂に足を運んだ。

 古びた木製の椅子に腰掛け、名も知らぬ人々と肩を並べ、黙々と飯を食う。


 昼は大勢の輪の中にいながら孤独を噛みしめ、夜は誰とも知れぬ他人の隣で箸を運ぶ。

 その日、ベルは初めて嗚咽に震え、積み重ねてきた努力が一粒の砂のように崩れ落ちてゆくのを感じた。


 胸の奥からこみ上げてきたのは、後悔だった。


「努力は必ず報われる」そう信じて疑わなかった自分への怒りと、不甲斐ない己への悔しさとが、涙となってとめどなく頬を濡らした。

 

 カナダでできたことが、なぜ日本ではできないのか。

 三年の努力が、なぜ報われないのか。

 親しいと思っていた彼らは、なぜ自分の名を書かなかったのか。

 では、あの日々はいったい何だったのか。


 問いは胸の奥から次々と湧き上がり、彼女を苛んだ。

 答えはほとんどが明らかだったが、考えることを拒んでしまった。

 真実があまりにも残酷だと信じこみ、自分には耐えることができないと推測してしまったのだ。


 そうしてベルは、考えることをやめた。


 反応することを諦めた。

 努力することを拒絶した。


 あの旅行の日を境に、瞳からは、生気が静かに失われていった。


 両親はそんな彼女に対し惜しみない愛情を注ぎ、何ひとつ制限せず自由にさせてくれた。

 だが、その“何もしなくていい環境”は、ベルの心をさらに無気力へと追い込んでいった。


 興味は次々と色を失い、感情の起伏さえもゆっくりと薄れていった。


 ときおり「現状」や「友人とは何か」といった問いが浮かびかけると、ベルはそれを自らの意識の底へと沈めた。思考は重く、記憶は遠く、日々はただただ淡く。

 繰り返されていく。


 孤独は深まり、憂鬱は根を張り、生活は意味を失っていった。

 そして、やがて彼女は、自らの生を終えたのだった。

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