2012/ 7/ 30
三年前、理華子と僕が初めて話した時、彼女は僕にフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を勧めた。物語は残酷で、人間の醜さがむき出しになっていたが、不思議と目を離せなかった。登場人物たちは皆、それぞれの苦しみを抱えながらも、狂気のような激情に駆られながらも、神や運命に翻弄されながらも、それでも闘っていた。その混沌とした世界に魅了されたのだ。この本を読んで、死を単なる終焉ではなく、人間の内面を映し出す鏡と感じるようになった。死んでみたくなった。別に僕は、特別自殺したいわけではない。でももし死ぬことがあるのなら、せめてその瞬間は笑っていたいと、この作品を読んでから思うようになった。
Date 2012/ 7/ 30
先週末、先輩が自殺した。
その事実を知ったのは、週が明けた月曜日のことだ。朝のホームルームで先生の放った、劇的な物語は私を興奮させた。
クラスの誰もが、彼女の名を囁きながら、その影を避けるように歩いた。無邪気な憶測が、まるで祭りの飾りのように宙を舞っていた。しかし、内向的であった先輩の事情など、学年の二つ違うクラスメートには検討のつかないことであった。
”いじめられていたのかもしれない”
”写真で脅されていたのかもしれない”
”殺されたのかもしれない”
このような、身の毛のよだつ妄想がいくつも飛び交ったが、いずれの提唱者もみな笑顔で語っていた。
”お気の毒”というセリフほど、表面的な単語はないだろう。
学校は、彼女の死を消しさろうとした。あるいは、無関係な落書きとして、静かに上書きしようとした。
学校側が公式に見解を公表したのは二日たった時のことだった。彼らは彼女の自殺は家庭の事情が原因だと主張した。これといって、彼女と親しかったわけではない私だったが、実にくだらない茶番だと感じた。
自殺とはいけないことだろうか?
特別なことだろうか?
もちろんないに越したことはないが、それは起きたら絶対に隠さなければならないほどの大罪なのだろうか?
自殺は悪なのだろうか?
私はこの出来事以来、帰り道の警察署を見るたびに、このような質疑について深く考えるようになった。彼女の自殺は私にそういう感情を生み出した。自分勝手にも、私は彼女の死にそういう意味を見出した。
日本の法律では、自殺自体を裁くものはないものの、安楽死や自殺教唆など、自殺が重罪として扱われることが少なくない。
自殺を望むどころか、自殺について考えている時点で
”大丈夫?”
と聞かれるくらいには、自殺というのは世界共通で”やってはいけない行動”と認識されている。
しかし私は自殺を悪だとは思わない
勘違いしないでいただきたいのは、私は人が自殺をするのが好きなわけではないし、自分が自殺したいと思っているわけでもない。正確に言えば私も、隙あらば人生を終わらせたいという気持ちがないわけではない。しかし何度自殺しようと試みても、結局死が恐ろしくて堪らなくなってしまう。そのため、私は、自殺をすることができないと言った方が正しいのだろう。
そう、自殺とは恐ろしいのだ。
14の頃、私は自分の喉元を包丁で突き刺そうと決意した、家庭内暴力が原因だった。私は、家族が寝静まった頃、静かに台所へ向かった。静寂の中でそっと包丁を握りしめた瞬間、指先に汗が滲んだ。包丁を喉元に向けると、心臓が嫌な音を立てた。包丁を喉に近づけるほどに、呼吸が浅くなり、視界の端が黒く滲み、全身を駆け巡る恐怖が血の巡りを止めるかのようだった。包丁が喉元にあたる頃には、全身悪寒に包まれ、吐き気が込み上げた。怖がりな私はいつまで経っても死ねないのだ。
私はそういう人間だ。
そういう人間だからこそ、自殺をする人の覚悟がどれほどのものであるか十二分に理解してるつもりだ。だからこそ私は自殺を行う人間を、理性に打ち勝つことのできる人間として尊敬している。敬意を抱いている。彼らは暗闇の中で光を求め、炎をその手で掴んだ人たちだ。その炎が太陽のように人間には手の負えないものだとして、それでもなお前へ進んだ者たちだ。そんな英雄が、誉でないわけがない。
そして私は、そういった覚悟を無視し、自殺をしてはいけないと批判する輩どもが嫌いである。自殺は悪ではない。考え抜いた末の人生の決断である。私はそう思う。
先輩にも彼女なりの人生があり、物語があり、葛藤があり、最終的に自身の部屋で首を吊る選択をした。
何も知らないくせに外野から、自殺は罪だ悪だ決めつけることは失礼であると私は感じる。
もちろん、覚悟もなく突発的な感情と勢いだけで自殺をする人間も一定数いる。
私はそういう人間が大嫌いだ。敬愛すべき、覚悟を決めた人々への侮辱に思えて不愉快極まりない。
私はこういう者たちが自殺をすることを断固として反対する。
覚悟のない、何の変哲もない自殺が、先輩の死を穢していいわけがないのだから。
以上のことから私は自殺を合法にし、その上で管理すべきだと主張する。
自殺を管理し、先輩が笑って死ねる世界を作るべきだと考えている。
異常な自由の制限は、返って自由を求めるきっかけとなるのだから。
自殺を違法として一蹴し、全く管理しない世の中。
自殺を合法化し、さらにそれを管理することで、必要な自殺と不必要な自殺の仕分けができるのである。
年間数千人規模で起きる電車の人身事故も、
精神科に通う患者が世界でも非常に少ないにも関わらず、自殺死亡率が異常に高いことも、
先輩のように誰にも何も言えず、孤独に死ぬ人々が多くいることも、
全て自殺の管理不足が原因である。
自殺を完璧に管理し、その人にとって最良の選択肢を導くこと。それが今の世界には必要であると私は本気で信じている。
なぜ多くの人は泣きながら自殺をしていくのだろう。
なぜ多くの人は泣きながら自殺の後処理を行うのだろう。
私は自殺を管理することによって、自殺が必要な人たちがHappyになりながら死んでいくことを望む。
どうせ自殺をするなら、胸を張って死んでほしい。自分の望むような自殺を手に入れてほしい。自分の人生に後悔が残らないように盛大に死んでいってほしい。
家族に囲まれながら、花に囲まれながら、自然に囲まれながら、音楽を聴きながら、自分のありとあらゆる願望と一緒に自殺をしてほしい。
十人十色の自殺をしてほしい。
自殺は誰にでもできることじゃない。だからこそあなたの自殺をヤってほしい。
私の日記を見ているみんなに、幸せのまま死んでほしい。
そんな世界でいいんだ。
Name: 田中理華子
僕が家の扉を開けた時、鉄のような匂いが鼻を突いた。
駆けてリビングに入ると、首を吊った彼女の死体が無惨にそこにいた。
僕はサイコパスでもなければ鋼の心を持っているわけでもない。だからこそ、最初に死体を見た時に気色が悪いと思ってしまった。しかしこれでは彼女に失礼だと感じ、美しいと思い込むことにした。
一度美しいと思うように努力すると、それは紛れもなく豪華絢爛な作品のようであった。
紅葉したサトウカエデのように、鮮やかな赤が舞い、地面へと滴る血は、まるで並木道に舞い落ちる色葉のようだった。
彼女の腹部には刃物で切られた跡があった。つまり、腹を切った後に首を吊ったのだ。
体は、何もかもが抜け出したように真っ白だった。真っ白だったが彼女の安堵のような表情から、満足して死んだことがよく伝わった。
リビングには家具も何もなく、ただ真っ白な空間が広がっていた。ただ一つの、背の低い机を除いては。その机は彼女の死体の目の前にあった。その上には彼女の日録が置かれていた。僕はこれを彼女の唯一の心残りであり、彼女が残したかったのものだと解釈した。
顔を挙げると彼女の死体が目の前に広がった。死体を間近に見るとそれはあまりにも悍ましく、強烈な匂いに襲われた。
あれからこの時のことを、毎日夢で思い出す。
彼女の死体に、彼女の生き方を実感した。彼女の死体に、命の燃やし方を学んだ。彼女がこのように生きる理由を知りたいと思った。僕もこんなふうに死ねたのなら幸せなのだろう。