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5    少女の過去

こんにちは。


第5話です。

 白髪の少女は少し暗く硬い表情でゆっくりとその重い口を開いた。


「……わ、私は、元々、ムーンライト島に住んでいました……」




 白髪の少女は今から十年ほど前に、トワイライト諸島のうちの一つであるムーンライト島で生まれた。少女は皮製品を作る職人だった父親と母親の間にできた一人娘だった。少女の生まれた町は周辺の町と比べると比較的幼い子供が多くおり、少女は早くから近所に住んでいる子供たちとよく遊んでいた。


 少女の家は決して裕福ではなく生活は苦しかった。だが、愛情あふれる両親のもとで少女はすくすくと元気に育っていった。


 少女が生まれて少しして、父親はこれまでよりも大きな依頼を受けた。それは《竜の鉤爪(ドラゴンクロー)》空域内でかなり規模の大きい商会からの注文であった。どうやらその商会の幹部のうちの一人が以前少女の父親に一度製作依頼を出した客だったようで、その製品の質が良いということで商会内で見せびらかして回っていたという。そこから父親の話が商会主の耳に入り、商会の総意として注文を出すことに決まったのだった。


 はじめ、少女の父親はこの依頼を断ろうとした。なぜならば、商会から注文された数があまりにも多かったからである。父親はどこかの工房に雇われているわけでも、また、誰か従業員を雇っているわけでもない。ずっと、仕入れから完成までのすべての工程を一人でこなしてきた。だから、一つの製品を完成させるのには何ヵ月もかかるのである。


 だが、商会から注文されたのは仕入れも製作も一人でやっていたら何年かかるかわからないような膨大な量であり、その依頼を受けるのはとても現実的とは思えなかったのだ。ずっとその作業にかかりきりになってしまえば、他の依頼を受けることができず、給料も入らない。そうなれば製品を完成させる前に家族ともども息絶えてしまう。


 そう考えた父親は商会の本部に赴き、正式に辞退したいという趣旨の申し出をした。本部で彼を担当した職員は少し渋い顔をして、上の者に伝えると返答した。父親はそれでこの件についてはもう終わったことだと考え、家への帰路についた。



 父親が商会の本部に行って仕事を断った翌日。彼が家に帰ってみると、家の前に見慣れない馬車が停まっていた。それは2頭立ての天蓋付き馬車であり、見るからに高価だと分かる細かい金の細工や腕のいい職人が彫ったのであろう彫刻が施されていた。彼はもちろん、その馬車に見覚えはなかった。そもそも、この町にこのような馬車に乗っている者は一人もいないのだ。見覚えなどあるはずもなかった。


 首を傾げつつ彼が家の中に入ると、家の奥の方から微かに話し声が聞こえてきた。片方は妻の声だ。しかし、もう片方は誰の声か分からない。どこかで聞いたことはあったような気がするものの、思い出せなかった。


「ただいま」

「おかえりなさい。…ちょうど帰ってきたようですよ」


 妻の声が聞こえた後、廊下に妻が現れた。


「あなたにお客さんが来ているわよ」

「客?新しい注文か?」

「さぁ?それはあなたから聞いてみたら?」


 そう言って妻は居間に戻っていった。妻の姿を追って彼が居間に入っていくと、そこにはシワひとつない背広を着た恰幅の良い紳士が彼の方に背を向けて椅子に座っていた。彼はその背中を以前どこかで見かけたことがあるような気がした。


「こんにちは。私に要件があるということですがなんでしょうか?」


 彼は声をかけつつ背広の男性の前へと回り込んだ。そして、そこに来てようやく目の前に座っている人物が誰なのかを理解した。


 その人物は、以前彼に皮製品の製作を依頼した例の商会の幹部だった。彼が商会の注文を断ったと聞き、説得にやってきたのである。


「こんにちは。以前はご注文ありがとうございました。お気に召していただけたようでなりよりでございます」

「ああ、久しぶりだね。そんなに堅苦しくしなくても良い。君に作ってもらったあの皮細工は大事に使わせてもらっているよ。細かいところまで手が込んでいて、肌触りも良い。とても気に入っている」

「ありがとうございます。勿体ないお言葉です」


 彼は客に背筋を伸ばし敬礼して応対する。


「早速本題に入りたいのだが、その前にもう少し楽にしたらどうかね。ここは君の家だ、座ってゆっくりと話そうじゃないか。」


 その言葉を聞いた父親はそろそろとゆっくり向かいの椅子に腰を下ろした。その隣の椅子に妻が腰掛ける。


「私が今日君を尋ねたのは他でもない、商会の注文の件だ。どうして君が今回の依頼を断ったのか教えては貰えないだろうか。報酬は悪くないと思うのだが」


 彼は商会幹部のその言葉に頷く。


「ええ。報酬には全く不満はありません。私の仕事以上の申し分ない額だと思っています。とてもありがたい話です」

「そう言うのならば、なぜ君は今回の話を断ったのだね。断る理由などないはずだが」


 商会の幹部は不思議そうに言う。


 彼の発言はもっともである。職人にとって申し分ない報酬が提示されているのであれば、その話を断る理由など普通なら存在しない。断っても職人の損になるだけだ。幹部にとっては父親の行動は理解できないものだった。だから、こうして職人の家に自ら出向いたのだ。どうしてなのか、自分自身の耳で聞きたかった。


「もちろんです。普通ならば断る理由がありません。私もできることなら今回の依頼、受けたかったですよ」

「ならば、なぜ」

「……私は、皮製品作りの職人ではありますが、製作だけではなく材料の選定、仕入れ、商談、販売のすべてを一人で行っています。ですから、貴方様もそうだったとは思いますが、一つの製品の注文を受けてから納品するまでには数カ月の時間を要するのです」

「そうだったな。依頼してから品物を受け取るまでに半年以上待ったはずだ」

「はい。それだけの時間がかかるのです。私は基本的に報酬は品物の受け渡しの際に受け取るようにしておりますので、品物が完成しないかぎり家には全く金が入りません。私に注文して頂いた方々は私の働きに見合った額をきちんと払っていただける方々なので半年収入がなくてもなんとか家族全員で暮らしていくことができています。これまでは一つずつ依頼を受け、納品してきたのでそのサイクルを繰り返してきていたわけなんです」


 商会幹部は目で先を促す。


「ですが今回の商会さんからの依頼の場合、注文の量がこれまでよりも遥かに多いのです。仮に私が今から二十年生きるとしても、生きている間にすべて作り終わることなど到底できません。そもそも、製品を一つ作り終わった頃に家の金が尽きてしまいます。そうすれば家族全員路頭に迷うことになり、製作などできなくなってしまいます。私は一人の皮職人でありますが、それと同時にこの家の大黒柱でもあります。この家を守り支えていく義務があるのです。達成不可能な依頼を受けることはできません」


 申し訳ありません、と言って父親は商会幹部に対して敬礼をした。父親としては、今回の商会の話はとても魅力的だった。これまで受けてきた製作依頼とは比べ物にならないくらいの高額な報酬が提示されていたのだから当然だろう。もしその金額が手に入れば家族三人で一生遊んで暮らすこともできたはずである。それほどの大きな依頼だった。もし彼が結婚しておらず子供もいなければ迷いなく依頼を受けていただろう。しかし、彼は家の大事な収入源である。いつ終わるかわからず収入が入る日が何年も先になるような依頼などできるわけがない。苦渋の決断ではあったが、依頼内容が変わらない限りは覆せない話だった。


 腕を組み静かに彼の話を聞いていた商会幹部は、少々の沈黙の後、組んでいた腕を解いた。


「……では、数を減らせば受けてもらえるのか?」

「……はい?」


 これだけ話せば商会側は諦めて引き下がってくれると考えていた父親は、幹部からの思いもよらぬ問いかけに思わず聞き返してしまった。


「今、なんと……?」

「注文数を減らせば受けてもらえるのか?と言ったんだ」


 父親は困惑した。注文の量が減るならば受けられないことはない。だが、父親ができる限りの力と速さで製作を進めてもせいぜい年に三、四個が精一杯である。それしか製作できないのにこのような大きな商会の店先に並べてもらって良いものなのだろうか。父親はそこに自信が持てなかった。


「……」

「駄目なのか?なにか他にも理由があるなら教えてもらいたいのだが」


 教えてもらいたい、と言われても本当に言って良いものなのか。父親は僅かな逡巡の後に口を開いた。


「理由、というわけではないのですが。もちろん注文数を減らしてもらうことができれば依頼をお受けすることもできます。ですが、私が製作できるのは年間にせいぜい三、四個程度です。それでは商会さんのほうが採算が取れないのではないですか。私はそれで十分採算を取れますが、商会さんはそうはいかないでしょう。宣伝費・土地代・人件費等様々な経費がかかるでしょうから」

「ほう。よく知っているな。だが、そのような心配はせずとも良い。うちの商会は一つの商品で利益が出なかった程度で傾くような柔な組織ではないからな。それに、価格などいくらでも設定できる。最初から利益が出る金額で売ればいいだけだ。販売個数が少なく価格も高ければ、それだけ希少価値が上がる。そうすればより人気になり、買い手も増える。好循環が生まれるはずだ。だから、年に三、四個ほどでも十分だ。この私が保証しよう」


 商会幹部は自身に満ちた声で語った。このようなことは普通の取引相手には話さない。大体の売り手がこのような考えでものを売っていることは多くの人々が知っているいわば「暗黙の了解」なのだが、それを本当に語って手の内を見せてしまうようなことは基本しない。しかし商会幹部は父親に向かってわざわざそのことを語った。ここまで販売者の思考の裏側を語るということがどういうことなのか、父親はそれが察せない人間ではなかった。


 商会幹部の言葉を聞き、父親は決意を固めた。


「……わかりました。そこまでやってくださるのならこの仕事、お受けしたいと思います。どうかよろしくお願い致します。」

「そうか。その言葉が聞けてとても嬉しく思うよ。では、これからも末永くよろしく頼む」


 商会幹部が右手を差し出す。父親がその右手を握り返す。ここに、商会と父親の取引は成立したのであった。



 それから、父親の商品は商会の店頭に並ぶようになった。最初のうちは手に取る者はほとんどいなかった。父親の商品はこの商会で売っている商品の中でもかなり割高な価格設定をされていたので、仕方のないことであっただろう。


 しかし、父親の製品が売り出されてからしばらくして、その製品を手に取る者が現れた。その者はこの《竜の鉤爪(ドラゴンクロー)》空域内でもう一つの大きな勢力を作っている商会の幹部だった。その幹部は他の商会の現状の視察のために様々な店を回っていた。他の店はどのような戦略でどのような商品を販売し、価格はどれほどなのか、どれほど儲かっているのかなどをそれとなく探るのである。


 その途中で幹部は父親の皮製品が並べれれている店に立ち寄った。何気な入った店内を見回し、気になる商品はないかと店内を歩く。


 そして、店の少し奥まったあたりに並ぶ父親の皮製品を見つけた。彼は以前から新しい皮製品を探していたが自らの働く商会にも他の商会の店でもめぼしい品を見つけられずにいた。しばらくは探し続けていたのだが、欲しいと思う商品はなかなか見つからず最近は皮製品の購入を半ば諦めていたのである。


 しかし、彼が欲していた商品がそこにあった。洗練されたシンプルでかつ高級感のある外装。丁寧に処理されていて光沢のある滑らかな皮。使用者のことを考えて作られていることがよくわかる機能性のあるデザイン。そのすべてをこの製品は十分すぎるほどに満たしていた。


 彼の手は迷わずその商品に伸びた。ちらりと確認した値札には彼の収入一ヶ月半に相当する高値が記されていたが、それがその商品を買わない理由にはならなかった。別に彼は一生かけても使い切れないほどの資産がすでに手中にあるので、この程度の額は痛くも痒くもないのだ。


 こうして彼が手に入れた皮製品は丈夫で使い勝手が良く、彼のお気に入りになった。そして、できることならこの商品を自分の商会でも売りたいと考えるようになった。これだけ質の良い商品ならば必ず売れると思った。逆に、なぜこれまでほとんど売れておらず、見たことも聞いたこともなかったのかが彼にはわからなかった。


 しかし、製作者に関する情報は極めて少なかった。購入した皮製品にある刻印以外手がかりはなかったのである。売られていた店にもう一度行ってみたが製作者については特に何も情報はなかった。店頭にいた店番にも訊ねてみたが、店番は何も知らないようだった。


 流石に刻印だけでは製作者の所在は分からない。どうしても製作者をみつけて取引をしたかった彼は、商会の幹部という立場と有り余る金とこれまでに作ってきたコネをできる限り活用して製作者を探した。人を雇い、商品の流れを遡っていった結果、皮製品の製作者である少女の父親にたどり着いた。


 その報告を聞いた幹部は早速父親のもとへと向かった。


 しかし、父親は訪ねてきた幹部の商会に商品を売ることを承諾しなかった。長い時間をかけて話し合ったが、父親は一向に折れなかった。いくらでも望み通りの額の金を出すと言われても、永年契約を保証すると言われても父親は頑なに拒んだ。


 なぜなら、最初に契約を結んだ商会とその幹部を裏切りたくなかったからだ。ずっと一人で細々と皮製品を作り続けていただけの自分に個人的に依頼を出してくれた人物に、うちの店で製品を売らないかとわざわざ声を掛けてもらったことに彼は大きな恩を感じていた。その商会との取引が続いているのにも関わらず、他の商会との取引に乗り出すのは裏切りの行為に他ならないと考えたのだ。加えて、単純に他の商会に品物を卸せるほどの個数を作ることができないのだ。年間にたった数個作るのが限界であるのに二つの商会に品物を卸せる訳が無い。


 このことを事細かに説明された他商会の幹部は肩を落とし、馬車に乗って帰っていった。



 この件があった翌々日から、父親の作る皮製品の売上・予約は大幅に増えた。商会の店頭に並べられている商品は瞬く間に売り切れ、数十年待ちという程の人数が父親の皮製品を予約した。人気が出るのはもちろん良いことではあるのだが、あまりにも唐突過ぎる変化に商会の店頭で店番をしていた店員も、商会で父親の商品を売ることを提案したあの幹部も、そして父親自身もなぜここまで人気に火がついたのか理解できなかった。


 ここまで一気に人気になったのには、前々日の他商会の幹部の訪問があった。


 他商会の幹部は豪華に飾り立てられた馬車で父親の家までやってきた。そして父親の家の前に馬車を横付けした状態で父親の家に入り話し合いに臨んだ。そこは最初の商会の幹部と同じである。何が違ったのかといえば、それは話し合いにかけた時間だ。他商会の幹部との話し合いはかなりの時間を要し、終わった時には既に日が沈んでいた。それだけ長い時間馬車が家の前に停まっていれば誰かしらの目にとまる。見かけた者はすぐに知り合いにこのことを話そうとする。それが更に近所の人に共有され噂話となり、口伝てに話が広がっていく。要は、噂好きの近所の住人が馬車を見かけ、それを何処かのお貴族様のものだと勘違いし、あの皮職人はどこかの貴族の御用達に任じられたのではないか、という話を広めたのだった。


 噂というものは、水面に投げ入れた石の周りに発生する波紋のように全方向に一気に広がっていくという特性をもつ。そしてそのスピードは雷のように速い。一日も経つと、この噂は《竜の鉤爪(ドラゴンクロー)》空域全域に広がった。そして、その噂を信じたか、あるいは真偽のほどを確かめようとした者からの注文が殺到したというのがことの顛末である。


 経緯はどうであれ、父親の商品はこの出来事を境によく売れるようになり、注文が途切れることは無くなった。安定した儲けも出るようになり、少女の家は少しずつ金銭的にゆとりができるようになってきた。食事も満足するまで食べられるようになり、家庭の雰囲気もだんだんと明るくなっていった。家族の顔にも笑顔が増え、自然と明るい話題も増えていった。



 しかし、幸せは得てして長くは続かないものである。何事にも始まりがあれば終わりがある。物事は慣れてきたころに突然終焉を迎える。この家とて例外ではない。



 少女が生まれてから四年の月日が流れた。


 父親の皮製品販売は以前と変わらず好調で、今では定期的に購入する固定客も現れて人気を保ち続けていた。


 この年は《竜の鉤爪(ドラゴンクロー)》空域のうちの七割ほどの島で疫病がはやり、死者が前年よりも大幅に増加していた。この事態に、町の医術師や空域内の国の医術師たちが総力を挙げて疫病の予防・撲滅、患者の回復のために動き回っていた。しかしながら疫病の拡散力は凄まじく、医術師たちの手が届かないような辺境の島にまで罹患者が広がっていった。


 その疫病とは、これまでにも何度も流行が確認されている”黒死病”であった。


 黒死病には予防法も治療法もない。感染するかしないかは誰にもわからない。運のみである。そして、一度罹ってしまえば致死率は百パーセント。苦しみながら死がやってくるのを待っているだけだ。医術師たちにできることなど何もないと言っても過言ではない。それでも医術師たちは罹患した者たちを健康な者たちとは別の建物に集めて隔離し、更にもといた場所は酒精で念入りに消毒し、できる限り感染が広がらないようにした。患者たちには解熱作用のある薬草を煎じて飲ませ、初期症状である発熱だけでも抑えようと試みた。


 結果として、医術師たちの努力は何も成さなかった。


 彼らが可能なすべての処置を行っても黒死病は無情にも拡大していった。そして、今回黒死病が発生した島から遠く離れたムーンライト島にもそれはやってきた。


 最初は少女たちの住む町から少し北に離れた港町で罹患者が確認された。それは《竜の鉤爪(ドラゴンクロー)》空域の島々を周回する飛空艇を運転している船頭だった。彼女が他の島から飛空艇を運転してきてムーンライト島に停泊しているときに症状があらわれたのだ。彼女は島についてから症状がでるまでの間に既に何人かの町民や商人と話しており、感染の拡大が懸念された。町に住んでいた医術師によって迅速に隔離・消毒が行われたものの、その時にはもう既に手遅れだった。


 一人目の患者が確認されたあと、感染は爆発的に広がっていった。一日に数倍のペースで町に黒死病患者が増加していった。ムーンライト島の他の町からも応援の医術師が駆けつけたが、患者は彼らの手には負えないほどの数まで膨れ上がってしまった。


 そしてついに、黒死病の魔の手は少女たち家族の住む町にも襲いかかってきた。


 この町で一人目の患者は毎日町の近くの森に入っている狩人だった。野生動物を猟り、解体して肉や毛皮、内蔵、骨などを売って生計を立てていた。彼の毎日入っている森というのが町の北側に位置しており、例の港町に近づいていたために黒死病に罹ったと推測された。


 初の罹患者が出たという報を受け、港町に応援に行っていたこの町の医術師が早馬で戻ってきた。医術師は目の下に濃い隈ができ、出発前よりも少しやつれ、誰の目にも疲労が溜まっていることが分かる姿をしていたが懸命な感染対策・患者の看病を行った。


 しかしそんな努力も虚しく、黒死病は狩人と取引のあった者たちを中心にして拡がっていった。


 少女の父親もこの狩人と取引のあった者のうちの一人だった。さらに、父親は狩人が症状を訴える前日に会っていた。黒死病に感染している可能性があるため、医術師によって消毒が行われた。


 父親とその家族はとにかく黒死病に罹らないように祈った。今は家族の誰も症状は出ていない。全員このまま元気なままで流行を切り抜けたいと、そう願い夜を越えた。


 翌朝、父親はベッドから起き上がることが出来なかった。体から湯気が出るのではないかと思うほどの発熱と鼠径部及び腋の腫れが原因だった。そしてその症状は黒死病の初期症状そのものだった。


 父親の様子を見た母親は急いで医術師を呼びに行った。その母親に連れられてやってきた医術師はすぐさま診察を行い、父親が黒死病であると断定した。父親は直ちに町の公会堂に他の罹患者と共に隔離され、家に少女と母親が残るなかで消毒が行われた。


 母子は父親の帰りを待った。母親はこの黒死病という病は一度罹ってしまえばその先に待っているのは死のみであることを知っていた。しかし、父親の帰りを望む幼い娘を前にしてそのような希望を潰すことは言えるはずがなかった。何より、母親自身が自らの夫の帰宅を待ちわびていた。お互い惹かれ合い好きあって結婚した相手の死など見たくも聞きたくもない。そもそも結婚してまだ五年ほどしか経っていないのだ。ここで永遠の別れを迎えるなど早すぎて受け入れられない。母親は生まれて初めて、真剣に「神」というものに祈った。


 だが、そんな母子の祈りはどこにも届かず、父親は倒れてから二日後に隔離されていた公会堂で死んだということが応対した医術師から知らされた。たった数言の報告と謝罪だけを残して家から医術師が去った後、少女は大声で泣きじゃくり、母親はしばらく放心状態になり何も手につかなかった。


「うああああああああぁぁぁ!!うぐ、ひっく、う、あああああああ、う、ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!ぐずっ、うっあああああああ、ああああああああああ!!!」

「……………………………………………………」


 その日は母も娘も一日中動くことができず、夜がふけると二人はいつの間にか疲れて眠ってしまった。


 次の日からは母親は努めていつも通りの振る舞いをするように意識した。いつも通り朝食を作り、いつも通り家事をこなし、いつも通り娘と接するように心がけた。娘はずっと暗く沈んだ表情をして過ごすようになり、それまでの笑顔は一欠片も見られなくなった。口数も明らかに減り、家の中が静寂に包まれる時間がこれまでよりも大幅に長くなった。それでも母親はなんとか娘を元気づけようと試みた。


 父親が死んでから三日後、父親に最初に取引を持ちかけた例の商会のあの幹部が母子の家を訪ねてきた。


「奥様、お久しぶりでございます。この度はどう申せばよいか……。本当に、ご愁傷様でございます」

「お久しぶりです。ご丁寧にありがとうございます。うちの夫が長い間お世話になりました。このような形で契約を破棄してしまうこととなってしまい申し訳ございません。いくらお詫びしてもしきれません」

「いや、奥様が謝られることはございません。病など、誰であっても罹る可能性があるものですから。我が商会では病が原因で亡くなったという事案については契約破棄とは致しません。契約が満了するまでの契約金は必ずお支払い致します。これを彼へのせめてもの弔いとさせていただきたいと考えております」

「そんな、ご丁寧にありがとうございます。私の記憶ではかなりの長期間契約が残っていたと思うのですが、それでもよろしいのですか?」

「もちろん構いません。契約はあと七ヶ月残っております。この間、こちらからの一方的な契約破棄は一切しないことをお約束いたします。これは商会の総意でありますゆえ、ご心配なく」

「本当に何から何までありがとうございます。そこまで夫を買っていただいて、彼もきっと喜んでいると思います」


 その後生前の父親のことについて話し、商会幹部は帰っていった。幹部の乗った馬車が見えなくなるまで見送って家に戻ると、母親は玄関で崩れ落ちた。


 夫を喪った哀しみが溢れて止まらなかった。これからも何十年も続くと思っていた日常が突如として奪われた衝撃。お互いに支え合って生きていくと決めたのに結局最後まで夫に頼りきりで助けることも支えることもできなかった遣る瀬なさ。これまでの生涯で最も愛した人にもう二度と会うことができない悲しみ。それらの重みが彼女の心をを押し潰した。


 辛かった。夫がこの世を去ってからのこの数日間、彼女は初日に放心していた以外は気丈に振る舞っていたが、内心はすべてを放り出してずっと泣きじゃくっていたかった。何もせず、ただ夫のことだけを想い、夫のためだけに泣いて過ごしていたかった。しかしそれをしなかったのは夫との間に授かった命があったからである。夫との唯一の子供を守り、これからも育てていくために、彼女は自分の心のうちの想いを封じ込めようとした。できる限り夫のことは考えず、少しでも考えそうになったら何か他のことをして気を紛らわせていた。


 しかし、大切な者を喪った哀しみはそう簡単に癒えることはない。ふとした瞬間に頭をもたげ、心のすべてを支配しようとする。なんとかそれも押しとどめていたが、商会幹部と夫のことについて話をして、心にしていた蓋は壊れてしまった。幹部の前で泣き崩れるのは必死に堪えたが、幹部がいなくなってしまうともう彼女の哀しみをおさえるものは何もなくなった。


 玄関に入ってしまうと、彼女はもう立っていることすら苦しかった。その場から一歩たりとも動けず、ただ涙を流すことしかできなかった。床に丸くなり、スカートに顔を埋めて声を押し殺して泣いた。どれくらい時間が経ったかはわからないが、しばらくすると母親の泣き声を聞きつけた少女が母親のもとにやってきた。そして泣き続ける母親を背中から抱きしめ、少女も一緒に泣いた。


 それからまたしばらくして、涙が涸れて泣くことすらできなくなった母親が何時間かぶりに顔を上げた。顔には涙の流れた痕がいくつも残り、メイクはぼろぼろに剥がれ、目は虚ろになっていてしばらく焦点が合わなかった。その後やっと正気が戻ってきた母親は、今も背中に抱きついたままの娘に言葉をかけた。


「ごめんね」

「……ううん」

「頼りないよね、こんなママ」

「……ううん」

「悲しいのはママだけじゃないのにね」

「……うん」

「お腹空いた?なんか食べたい?」

「……うん」

「わかった。じゃあ何か作るから背中から降りて待ってて」

「…………ママ」

「どうしたの?」

「……」

「なにかあるなら言っていいのよ。思ってること、ママに教えて?」

「……ママ」

「うん」

「……きょうはごはんいらない」

「いらないの?どうして?」

「……このままいたい」

「…………わかった。じゃあ、もう寝よっか」

「……うん」


 翌日から母親はムーンライト島内にある居酒屋で働き始めた。夫を喪った哀しみを忘れようとするかのように、また、悲しんでいる姿を娘に見せまいとするかのように、母親は一心不乱に働いた。これまでの蓄えやこれから支払われる夫の皮製品の売上があるので今すぐお金が必要なわけではなく、困窮もしていなかったが、それでも母親は働き続けた。毎日日中は娘とともに過ごし、夕方からは居酒屋で働くという日々が続いた。


 黒死病は父親が死んで一ヶ月ほど経ったころから拡大の勢いが衰えはじめ、父親が死んでから一年もすると患者はほとんどいなくなった。黒死病の影響で減っていた島や空域の間での交易も以前と同じように再開され、やがて黒死病などもとからなかったかのように元通りの生活に戻っていった。



 父親が死んでから三年が経った。母親と少女は変わらず二人で過ごしていた。最近は少女が料理を手伝うようになり、母親とともに台所に立って一緒に食事を作って食べることが増えた。母親は居酒屋での接客の評判が良く、最近になって少し給料が上がった。


 二人で支え合ってこの三年過ごしてきて、二人とも平穏な生活というものは唐突に終わりを迎えるものであるということを忘れていた。不幸はそういう、忘れた頃にやってくる。


 この日も母子は台所に立って二人で料理を作っていた。母親は前日にまでに合計一四七連勤しており、更に前日は珍しく残業していた。家に帰って来たのは夜明け前で、母親はこの半年くらいほとんどしっかりと寝ていなかった。


 少女は野菜と魚の煮物を作ろうと、かまどに薪を焚べ、火をつけた。そのときにその上に鍋を載せたところで母親に火の番を頼んでトイレへと向かった。


 数分ののち、少女がトイレから台所に戻ってくると、そこに母親の姿はなかった。先程まで台所に一緒に立ち、食材を切っていたはずの母親が忽然と姿を消していた。台所の奥まで探しても姿は無く、おそらく水を汲みに行ったのだろうと少女は結論付けた。


 そうしてしばらく少女は台所に立って料理を続けていたのだが、母親は一向に戻って来なかった。不審に思った少女は井戸に行ってみることにした。


 しかし、井戸のところにも母親はいなかった。水を汲むための桶が置いてあるだけだった。家の他のところも探してみようと井戸に背を向けようとしたとき、少女は井戸の向こう側に何かを見た気がした。もう一度井戸の周りを注意深く見てみると、井戸の裏側の草むらに見覚えのある靴が落ちていた。それは母親がいつも履いていた靴だった。


 嫌な予感がして少女が井戸の裏に回り込むと、そこには母親が意識を失って倒れていた。


「ママ!!!」


 呼びかけて体を揺さぶってみるが反応は無い。


「ママ!起きて!!ママ!!!」


 いくら叫んでも母親は目を覚まさない。


 そこに、叫びを聞きつけた隣の家の住人が何事かと駆け込んできた。そして倒れている母親とその横に膝をついて叫び続けている少女の姿を見つけた。そこで、これは危ない状況だと気付いた隣人は少女に医術師に見せるよう提案し、少女と隣人で一緒に町の医術師もとまで運んでいった。


 しかし、医術師のもとについたころには既に手遅れだった。母親はもう息をしておらず、その場で医術師から死亡が宣告された。


 少女は最初はなにかの間違いだと思った。まだ生きているはずだと信じている少女は、もう一度診てほしいと医術師に懇願した。


 だが、結果は変わらなかった。母親は既に息を引き取っていた。何度肩を揺さぶっても「ママ、ママ」と呼んでみても反応はなかった。時間が経つにつれてだんだんと母親の体は冷たくなっていき、人間のあたたかみが消えたところでようやく少女は母親が死んだことを理解した。


 母親の死がわかると、少女はふらふらとおぼつかない足取りで医術師のもとを離れた。そして、うなだれてゆっくりと家の方へ向かって歩いていった。


 家の近くまでやってくると、少女の耳には木が爆ぜるような音が聞こえてきた。それに気づき生気が抜け落ちた顔を上げると、少女の目には信じられない光景が飛び込んできた。


 そこに建っていたはずの少女と母親の家が赤々と燃えていた。家族の思い出が詰まった木造の家は天まで灼き尽くそうとするかのような巨大な火柱へと変貌していた。黒い煙が立ち昇り、隣の家まで飲み込もうとでも言うかのような勢いで激しく燃え盛っていた。


 少女はただ呆然と火に包まれた家を見上げていた。全体が火に包まれた家は、しばらくすると柱が倒れて一階部分が崩れた。そして落ちてきた衝撃で二階部分の柱も折れ、屋根の重みに耐えきれず潰れてしまった。それでも火の勢いはとどまることを知らず、よりいっそう盛んに火を上げた。




 少女が覚えているのはここまでである。その後はどうなったのか、少女にはわからない。気がつくと彼女は誰かに捕らえられ、檻に入れられていた。


 捕まってから三年ほどが経ち、劣悪な環境に耐えきれなくなった少女は一緒に捕らえられていた子どもたちとともに脱走を計画した。食事のときに配布されるスプーンとフォークを使って檻に穴を開け、看守たちが目を離した隙を狙って全員で檻から逃げ出してきて今に至る。


「……ですから、その、私に家は無いんです……」


 エリンは少女の話を黙って聞いていた。口を挟むこともせず、時折言葉に詰まる少女を急かすこともなく、ただ聞いていた。というか、言葉を挟むことができなかった。話の内容から察するにわずか十歳の子供が経験するにはあまりにも壮絶過ぎる――大人でもおそらく耐えられない――話に何も言うことができなかった。何を言っても薄っぺらい言葉にしかならず、余計に少女に辛い思いをさせてしまうだけだということを感じ、言葉が出てこなかった。


「…………ごめんね、辛いことを思い出させちゃって」

「いえ、そんなことは……」


 否定しつつ、少女は暗い顔をしてうつむいた。お互いに言葉が出てこない時間が続いた。それを打開するようにエリンがこんなことを提案した。


「ねぇ、君がもしよかったらさ、今日からうちと一緒に旅しない?」

「……えっ……?」


 少女は驚いた顔をした。そのような提案をされるとは考えてもみなかったのだろう。


 エリン自身もなぜこのような提案をしたのかわからなかった。親がいない、という似たような状況にいる少女に親近感のようなものを覚えたのかもしれない。


「そ、そんな、だめです……」

「どうして?」

「ど、どうしてって……それは、その、私は今、追われているんです。きっと、また、さっきみたいな人たちが来ます。そしたら、また、迷惑をかけてしまいます……」

「大丈夫。君もさっきの戦い見てたでしょ?うちそんなに弱くないよ。またああいうのが襲ってきたらうちが守ってあげる。一人でいるよりも二人でいた方が心強いと思わない?」


 エリンの言葉を聞いた少女は一瞬納得した表情を見せたが、またすぐに首を振って否定した。


「他にもなにか理由があるの?」


 少女は再び口を噤んだ。しばらくの後、少女は今にも泣きそうな顔をしていた。


「……私が大切だと思った人は、もうみんないなくなりました。私が、大切だと思った人は、みんな、死んでいくんです。私の、せいなんです。私がいるから、みんな、いなくなるんです。もし一緒に旅をして、剣士様が私にとって大切な人になったら、きっと、剣士様も死んでしまいます。そうなってしまったら、私は、もう、耐えられません……!」


 少女は話しているうちに泣き出しはじめてしまった。これまでに家族を二人も失い、家も失くし、三年もの間捕まっていたことが少女にとっての心の「枷」になっていた。


 少女の思い悩んでいる様子を見て、エリンはしゃがんで少女と目線の高さを合わせ、少女の肩に手をおいて語りかけた。


「違うよ。それは違う。君のせいじゃない。誰も、君のせいで死んだなんて思っていないよ。誰だっていつかは死んじゃうんだよ。誰と一緒にいたって、何をしていたってそれは変わらない。変えられないの。みんな、死んでしまう運命がやってきたのが他の人たちより少し早かっただけ。そこには理由なんてない。辛いかもしれないけど、きっとそれは”偶然”でしかないんだと思う。君に理由があるわけじゃないよ」

「で、でも……!」

「うちもね、親がいないの」

「……!」


 エリンのその言葉に少女は息を呑んだ。


「お母さんはうちを産んですぐに死んじゃったの。だから、うちはお母さんの声も顔も何一つ知らないんだよね。で、お父さんはうちが五歳のときに失踪。それからはずっと一人暮らしで、最近お父さんを見つけるために旅にでたところなんだ。うちは一人になったばかりの頃は親に捨てられたんだと思ってた。二人ともうちに愛想を尽かしていなくなったんだって。けど、今は二人ともうちのせいでいなくなったわけではないと思ってる。理由なんてわからないけど、たぶん二人にはそれぞれ何かしらの事情があって、それでいなくなっちゃったんじゃないかな。多分ね。それに、うちそんなにすぐに死ぬつもりないからね?まだ旅し始めたばっかりだもん。絶対にお父さんを見つけるまでは死なないんだから。だから、心配しなくても大丈夫。君より先には死なないって約束する。だからさ、一緒に旅しない?」


 泣きながらエリンの言葉を聞いていた少女は目のあたりをこすり、顔を上げた。少女の目にはもう涙は光っていなかった。


「……はい。よ、よろしくおねがいします」

「うん、よろしくね」


 二人はお互いに手を取り合った。それは新しい旅の始まりにふさわしい光景だった。


「あ、そうだ、君、名前は?」

「え、えっと……ミーア、です。ミーア・スカイガーデンといいます」

「ミーアね。よろしくね。うちはエリン・ローズクロイツ。エリン、とでも呼んで?」

「わ、わかりました。えっと、その……剣士様、と呼ばせていただきます。よろしくおねがいします」

「様なんかつけなくていいよ。うちそんな偉くないし」

「じゃ、じゃあ……剣士…さん、とお呼びしても……?」

「うん、いいよ。まあ、好きなように呼んでくれていいから」


 二人は肩を並べてトワイライト島の中心街へと歩いていった。

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