表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

1    旅立ち

第1話です。

 《始祖神竜》が創造してから幾星霜の時が過ぎた蒼き天穹の世界。そこの幾億の島々の中には、《始祖神竜》が眠るという伝説が伝わっているところがいくつも、数えきれないほどある。結局、その伝説のどれが本物なのか知る人は誰一人としていないが、一番信憑性のある伝説が伝わっているのはドラグニア島であると言われている。


 そのドラグニア島に、エリンは生まれた。エリンの両親が住んでいたこの島は人口がかなり少なく、住んでいる人間はそのほとんどが老人であり、若い夫婦はたったの二組、幼い子供に至っては一人も住んでいなかった。そんな中でこの島に住み始めたばかりの若い夫婦の間に子供が生まれたということで、島中の住人が総出でエリンの誕生を祝福した。エリン自身にはその当時の記憶はまったくないものの、この時は確かに、エリンたち家族は三人で自他ともに認める幸せな生活を送っていた。


 しかし、三人での生活は長くは続かなかった。エリンが生まれたこの年というのは、ドラグニア島を含む《竜の鉤爪(ドラゴンクロー)》空域全体で伝染病が流行っていた。黒死病、と呼ばれるこの病は、その名の通り皮膚が黒くなって死んでいく病である。様々な空域の様々な島で何回も大流行が発生しているが、未だに発生源も予防法も治療法もわかっていない。それゆえに一度かかってしまえばもう二度と助からない、致死率一〇〇パーセントの疫病なのである。さらに、この病は感染が拡がりやすいのもひとつの特徴である。この病によって村がひとつ地図から消えることなど大流行期にはよくあることで、規模の大きいものではとある島を支配していた国がひとつ滅んだなどという話も残っているほどである。


 そして、エリンの母親もエリンを産んでからおよそ二ヶ月後、この病にかかった。最初は突然倒れ急激な発熱をおこした。そしてそれと同じタイミングで膝の裏側や首の辺りに腫れができ、続いてその部分が痛み始めた。さらにその症状が出た翌日には全身の倦怠感や頭痛、悪寒といった症状もあらわれはじめた。この頃から、エリンの母親は食事を摂ることができなくなっていた。


 発熱から四日ほどが経つと、顔面や手足が蒼白になりはじめ、加えて四肢が急速に冷たくなっていった。更には徐々に意識が朦朧とし始め、喋ることもままならなくなってしまった。食事が取れず、水を飲むことすらも難しい母親の身体は元気な頃の見る影もなくやせ細っており、顔をはじめとする全身の肉が削げ落ちていた。翌日には昏睡状態に陥り、一見したところではほとんど死んでしまったような状態になっていた。かろうじて息はあるものの話しかけても揺すってみても目を覚ます素振りすら見せない。そして手足の壊死が始まった。血が通っていないのがひと目でわかるくらいに黒く変色していき、少しずつその範囲は広がっていった。エリンの父親が寝る間も惜しんで看病していたが、エリンの母親の病状が快復に向かうことはなかった。


 そしてエリンの母親が黒死病の症状をみせてからわずか一週間後。エリンの母親は自宅の寝室のベッドの上で、飢えて乾き弱りきった状態で遺す言葉すらなく、傍らに座り手を握っている夫に看取られて息を引き取った。


 エリンの母親が黒死病になっていたことがわかると他の島民はエリンたちの家にしばらくの間やって来なくなった。心配をしているのか気にかけているのか、玄関先に肉やら野菜やら果物やらが籠にたくさん盛られて置かれていることは頻繁にあったが、言葉を交わすことは一度もなかった。


 しかし、一週間ほとんど付きっきりで看病していたにも関わらず、エリンの父親にもエリンにも奇跡的に黒死病はかからなかった。そして、島内でエリンの母親以外に黒死病にかかった人もいなかった。かなりの幸運と言えることだが、そうなると黒死病の発生源というのは一体どこの何なのだろうか。




 エリンにほとんど自我が芽生えないうちに母親が死んでしまったために、エリンには母親と一緒に過ごした記憶というものはほとんど、というか全くない。彼女の記憶に残っているのは、幼い頃に一緒に過ごしていた父親との思い出だけである。


 エリンの母親が亡くなった後、彼女の世話をしたのは彼女の父親であった。突然家事も育児も一手に引き受けることとなった父親は、初めの頃はいろいろと失敗も多かった。いや、失敗するならまだ良い。失敗などする以前にそもそも何も出来なかった。元々家事は苦手で全てを妻に任せ、自分は外で仕事をして帰ってきたらただ座っているだけであったために彼は料理も掃除もエリンに与えるミルクの分量なども、何一つ分からなかった。しかし、エリンの母親の死を知り、また、黒死病の拡大の心配がないことを理解した同じ島の住人たちに家事を教わり、食材をおすそ分けしてもらうなど、様々な場面で何度も助けられた。そのおかげで、彼はなんとか一人でエリンの面倒を見られるくらいにはなった。


 だが、それまでにはかなりの時間がかかった。彼がエリンの面倒を一人で見られるようになったのはエリンが二歳半を過ぎたあたりのことである。父親が少しずつ成長していた間、エリンははいはいをする時期を脱し、自らの力で立ち上がって一人で歩けるようになり、だんだんと言葉を話すことができるようにもなっていた。それは父親も他の島民も知っていたが、これに加えてエリンは誰にも気づかれることないままめざましい成長を遂げていた。そしてエリンがもうすぐ三歳になろうかという頃、エリンの父親はエリンの衝撃の光景を目にすることとなり、彼女の成長と才能、更には受け継がれる過去の業を思い知ることとなるのだった。




 ある時、エリンの父親が近所の島民の家へと呼ばれた。どんな要件かといえば、果物の収穫をするのだが人手が老人数人だけではかなり心許ない、力仕事もあるのでぜひ手伝ってほしいとのことであった。彼は二つ返事で承諾し、その島民の家へと向かうことになった。この時、エリンを連れていっても相手の邪魔になってしまうと判断した彼は、この島に他人を襲うような人物などいないということで、エリンを一人で自宅に残していくことにした。武器なども作業の邪魔になると考え、置いていくことにした。そのとき、武器を置いたところがもし当時のエリンの手が届かない場所であったならば、あるいはエリンの才能が人目に触れることはなかったかもしれない。そうすれば、少なからずエリンの未来も、エリンに関わる様々な人物の未来も違う結末を迎えることになっていたのだろう。


 しかし、現実、エリンの父親は武器類をエリンにも手が届くような場所に置いて近所の家へと出発していった。


 呼ばれた家は自宅から三軒隣にある老夫婦の家だった。今の時期というのはちょうど柿の実が甘く熟し、美味しく食べられる季節なのである。それ故、毎年この時期には農家でなくとも柿の収穫を行う家庭はかなり多く、ご近所さんたちともに収穫会をするというのが恒例行事化している家もあったりする。今回エリンの父親が呼ばれたのも、この島に何件かある柿の収穫をする家のうちの一つである。


 柿というのは、じつは実だけを単体で収穫するわけではない。基本的には基部の芽のみを残し、枝ごと切って収穫する。なぜならば、今の年に結実した枝には来年の結実は期待できないからだ。それをすることによって、冬季の剪定の手間が省け、また、残った枝に栄養が行き渡りやすくなり、翌年の実が大きく育ちやすいというメリットがある。


 柿の枝というのは折れやすい。枝にまだ葉が茂っている状態は木が柔らかく比較的切りやすいとは言われている。とはいえ、あくまでも木の枝である。老いぼれの弱った握力では、ハサミで枝を切ることは難しいし、斧を振るって枝を落とすには何回も斧を振らなければいけない。なかなかその体力・腕力が残っている年寄りなどそう多くはない。そこで若くて腕力も握力も体力もあり近所に住んでいるエリンの父親が呼ばれたわけである。


 今年の柿はなかなか豊作で、野生の動物たちに傷つけられたり齧られたり盗まれたりもせず、二本の柿の木に三〇〇を超える個数の綺麗な実がなっていた。すべての柿の収穫をして、枝や葉の片付け、柿の分配を終えた頃にはすでに数時間が経過しており、日が傾き始めていた。


 エリンの父親は手伝ってくれたお礼だと言って老夫婦に持たされた柿の実の山を抱えて帰路についた。大量の柿で手が塞がっていたが、直に地面に柿を置くわけにもいかず、かなり苦労して玄関のドアを開け中に入った。そしてリビングに入りテーブルの上に柿を載せて一息つこうとしたとき、ふと違和感に気がついた。


 家を出たときにはリビングにいたはずのエリンがいないのである。出発してから何時間も経っているのでもちろんありえないことではないのだが、親の勘とでも言うのだろうか。なんとなく不穏な予感が彼の胸をよぎった。


 試しに名前を呼んでみたが、どこからも返事は返ってこない。寝室で寝ているのかと思い行ってみた。寝ているだけなのかもしれないと考えていたが、エリンは寝室にもいなかった。ベッドをひっくり返す勢いで寝室中を探しても見つからない。まさか攫われたのかと思いもう一度玄関に戻ってみたが、誰かが侵入した痕跡も出ていった痕跡も見当たらなかった。


 トイレはどうか、と扉を開けてみたが、やはりエリンの姿はなかった。一応便器の中も覗き込んでみたが、そこにあるのは便だけであり、エリンは落ちてはいなかった。


 家中探してもエリンは見当たらず、どうしたものかと思いながらエリンの父親はリビングに戻ってきた。


 ゆっくりと椅子に腰を下ろしたそのとき、一瞬視界に入ったテーブルの上に少し違和感を覚えた。そちらに目を向けてみると、家を出る直前にテーブルの上に置いていたはずの短剣が無くなっていた。正確には鞘だけを残し、剣の本体のみが消えていたのだ。そしてさらに、視線を上にあげてみると、エリンの父親の座っている椅子からテーブルを挟んでちょうど向かい側にある窓が開いていた。


 エリンの父親は驚いて飛び上がった。もしや窓から誰かが侵入してテーブルの上にあった短剣でエリンを脅した挙句、そのままどこかへと連れ去って行ったのではないのかと思い、慌てて椅子を倒しながら窓へと飛んで行った。そして窓から勢いよく出て家の裏にある庭に出てみると、そこには彼には思いもよらなかった光景が広がっていた。




 この裏庭には、エリンの父親が剣術の鍛錬をするために木で作った人形のようなものが置かれている。棒人間が木剣を持って構えているような格好のその人形に対して剣を振るうことで、エリンの父親は対人の戦いをしない間でも剣の腕を鈍らせないようにしていたのだ。様々な場所に剣による傷がついていて今にも壊れそうな様子ではあったものの、折れたり欠けたりすることはなく今朝まではまだそこに立っていたはずである。


 しかしどうしたことであろうか。エリンの父親が裏庭に飛び出したこのとき、人形は無惨にも粉々に砕かれていた。ただ倒れていたのではなく、木屑となって飛び散っており、跡形もなかった。点々と小さい木片は見えているが、原型はまったく分からなくなっている。


 そして、その人形が立っていたはずの場所には父親の短剣を握っているエリンが佇んでいた。そして、帰ってきた父親に気がついて振り返ると、にっこり笑って「おかえり」と言って父親の方へ駆け寄ってきた。


 エリンの父親は驚きに目を大きく見開いて、口が半開きになって閉じなくなり、声も出なくなっていたが、エリンが駆け寄ってくるのを見て我に返り、声を裏返して叫んだ。


「エリン?!何をやっているんだ?!」

「パパのまね!!」

「パパのまね……?」


 エリンの父親は、エリンに剣術の鍛錬の様子を見せたことは一度もなかった。それは、普通に危ないからということと、彼が自分の子供には自分と同じ運命を背負わせたくなかったからなのだが、血脈というのは、特に強い想いがこもった血の繋がりというものは、そう簡単には消えてはくれないものであるらしい。そうはならないでほしいという父親の淡い期待はこのときあっさりと打ち砕かれたのだった。


 とはいえ、謎は残っている。なんでエリンは見たこともないはずの父親の剣術の鍛錬の真似ができたのだろうか。


「いつの間にパパがここでやっていることを見ていたんだ?」


 聞いてみると、エリンは首を横に振った。そして、こんなことを口にした。


「ううん、みてないよ。でも、これのおおきいやつをもってにわにいくパパはみた。きになってさっきここにきたらなんかあったから、たぶんこんなことをしてるのかなってまねしてみたの!」


 エリンはにこにこと笑い、父親に褒められたそうにして顔を見上げている。


 エリンの話によれば、彼女は剣を持って庭に出ていく父親の姿と、庭に立っている傷だらけの木の人形を見ただけで父親がどんなことを庭でやっていたのかを即座に理解し、しかもそれ以上のことをここで実行してみせたというのだ。まだ齢三歳に満たないという子供がそのような所業をしたと言われてもにわかには信じがたい話ではあるものの、この庭の状況というかもはや惨状がエリンの話が全て事実であるということを如実に物語っていた。彼は、娘にも自分と同じ呪いが流れているのだということを今回の件で思い知らされたのだった。


 エリンの剣術をまざまざと見せつけられた父親の心情は今、二つの選択肢の間で揺れ動いていた。二つの選択肢というのは、エリンに対して今までのように武術に全く触れさせずに育てていくのか、それとも武術をできるところまで極めさせるのか、である。


 エリンの父親は、エリンには武術など縁のないものにしたいと考えていた。だからこそ、今までずっと自分の鍛錬の様子を見せず、剣にも触れさせて来なかったのであるが、幼いうちからこのように武術の才を発現させているとなると武術を全く教えないということはもうできない。中途半端に剣が振るえる程度の熟練度であれば、それは自分も他人も等しく傷つける危険な刃にしかならないのである。であれば、きっちりと基礎から叩き込んで武術を極めさせ、たとえ家の呪いに足を突っ込み、それに人生を振り回されることになったとしても、少なくとも自分と自分の大切な人の命は守れるようにすることが、父親がエリンにできる最善にして唯一の道ではあるまいか。


 父親はかくして腹を決め、エリンに剣について教えることにした。エリンが短剣で木の人形を粉砕したその翌日から、エリンと父親の剣術修練の日々が始まった。


 エリンは剣術の才能はあるものの――基礎を教えているわけではないので当然といえば当然なのだが――基本の構えや体さばき、足さばきなどは全くできなかった。ただただ闇雲に剣を振るっていても実戦では基本的になんの役にも立たない。それが大人数が戦う戦場であればなおのことである。適当に振っていては邪魔になるだけであり、近くにいる仲間や自分自身が怪我をするおそれもある。剣術を極めたいならまずはきちんとした基礎の部分を体にしっかりと覚え込ませ、その上で自分の戦い方に合うように少しずつ調整やアレンジをしていくということが定石であり、上達の一番の近道なのだ。


 エリンは、始めてから数日は慣れない剣術の型に戸惑い動きもかたく、あの人形を粉々に壊した人間とは思えないような鈍い剣筋だったが、修練を始めてから十日もすると徐々に型にも慣れ始め、ある程度は力みも取れた状態で剣を振るえるようになってきた。普通なら型が馴染んでくるまでに数ヶ月、長い人になると数年かかると言われるのだから、この習得の速さはかなり異例である。やはりエリンには剣術の才があるのだろうと、父親は改めて感じた。血のつながりを感じられることは親としては喜ばしいことであるが、この一族の者としてはやはり受け継いでほしくなかったという、相反する感情が彼の中に湧いた。そして、静かにそれを噛み殺した。もう決意を固めたのである。今更戻るわけにもいかない。どのみち、剣術を身に着けておいて損をすることはないのだ。であれば、教えられることはできる限り教えるべきだろうし、そうするより他はないのだろう。そう、彼は自分に言い聞かせた。


 エリンは着々と実力を身につけていき、四歳を過ぎた頃にはすっかり戦いの型に慣れ、これまで使っていた短剣ではなく、父親が使っているものと同じような形の細身の長剣を使うようになっていた。剣の長さや重さにも慣れてくると、徐々にエリンは父親と互角の戦いをするようになっていった。父親も本気、娘も本気。平和な空域の平和な島のこじんまりとした家の裏で、誰も知らない凄まじい剣戟が繰り広げられていた。このとき、もうすでにエリンの父親がエリンに教えられることはすべて教えきっていた。これ以上は自分の手を離れて更に強くなっていくだろうと判断した彼は、心の中である一つの決心をした。それは父親にとってもエリンにとってもつらく悲しい選択ではあったが、今の彼にはこれ以外に取れる方針はなく、またこれ以上に最善だと思えるような道もなかった。


 やがて、エリンの五歳の誕生日の日がやってきた。この日もエリンとエリンの父親は質素な木造の家の裏で壮絶な剣戟を展開した。エリンは五歳児ながら、大の大人でかつかなりの剣の名手である父親を少しずつ超え始めていた。たいていは二人の互角の剣戟が続くのだが、ときどきエリンが父親を押す展開になることもあった。いくらエリンに父親を凌駕するほどの才能があるとはいえ、それは傍目から見るとかなり異様な光景であった。


 鍛錬をした後は、珍しく父親がエプロンをして気合を入れて夕食の用意をし始めた。数時間かけて父親を作ったのは、エリンの大好物であるイベリコ豚の赤ワイン煮だ。五歳児とは思えない味覚であるが、実際これが一番好きだと言うのだからそうなのだろう。才能といい感覚といい、エリンは少し他人とは変わっているところがあるのかもしれない。ちなみに、しっかりと火を入れているので酒精は飛んでいる。


 夕食の後、エリンの父親は物置から丁寧にラッピングされた大きな包みを一つ取り出してきた。エリンへの誕生日プレゼントである。期待のこもった表情で受け取った包みを開いたエリンの顔は、中身を見たときさらに明るくなり、とても嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。


 エリンへの誕生日プレゼントとは、新しい剣であった。刃渡り約九十五センチメートル、重さ約一.三キログラム、銀色のガードの部分には薔薇や天使などの細かい装飾がなされており、ガードの両端とポンメルの部分にはそれぞれ赤、紫、水色の宝石がはめ込まれている。剣身はロングソードやナイトリーソードよりは細くレイピアよりは少し太い細身で、刃は鋭く、見た目からも斬れ味の良さがよくわかった。鞘にも上質な皮が使われており、見るからに高価な外観であった。子供に持たせる剣にしてはいささか豪華すぎる外観は、父親の娘への愛情の大きさの現れなのだろう。


 夜も更けてくると、眠気に襲われたエリンはうとうとし始め、数分後には父親からプレゼントされた剣をしっかりと抱いたまま深い眠りに落ちていった。ブランデーを飲んでいた父親はふっと微笑んで立ち上がり、エリンをベッドのあるところまで運んでいき、ゆっくりと静かに寝かせた。そして、テーブルの上に置いてあるランプ以外の火をすべて落とした。




 翌朝、エリンは太陽が昇ってくるよりも早く目を覚ました。いつもなら日が出て明るくなってから父親のたてる物音で目が覚めるので、エリンにしてはかなり珍しいことだった。


 エリンが起きたとき、隣のベッドには父親の姿は無くもぬけの殻だった。もう父親は起きているのだとエリンは思い、ベッドから出て「おはよう」と言った。しかし、いくら待っても返事は何も返ってこなかった。父親の姿は家のどこにもなく、また、家中のランプというランプすべての火が落ちていた。真っ暗な中でエリンは何もできず、しばしの間冷たい空気で満たされた家の中で一人立ち尽くしていた。


 日が出て明るくなってからエリンは家中を隅から隅まで探して回ったが、父親はどこにもいなかった。探し疲れてリビングの椅子に座ったとき、エリンはテーブルの上に置かれた紙に気がついた。身を乗り出して見てみると、そこには見慣れた父親の字で一言だけこんなことが書かれていた。


『すまない』


 エリンにはこの言葉の意味が分からなかった。すまない、と謝られるようなことが何一つ思い浮かばなかった。しばらく書き置きを見つめてようやく、父親がいなくなったという事実だけは理解できた。理解はできても、心はすぐには追いつかない。ましてや、彼女はまだ五歳である。まだまだ親に甘えたい年頃であるにも関わらず、親がいなくなったという事実など信じたくもないだろう。昨日までは確かにそばにいたのだ。手元には昨日父親からプレゼントされた新品の剣もある。何も変わったこと無く一緒に過ごし、一緒に食事を取り、ベッドを並べて一緒に寝て、ずっと一緒に暮らしてきた。エリンの母親はすでに死んでいるから、父親はエリンにとっては唯一の家族であった。それを今、彼女は失った。理由などわからない。一方的に捨てられたのだと、彼女はそう感じた。


 父親がいなくなり、そしておそらくもう二度と帰ってこないことを徐々に理解し始めたエリンは、唇を血がにじむほどに強く噛み締め泣き出した。最初は静かに涙を流していたがやがて声を出して泣き始め、数分後には近くの家にも響くほどの大声で泣きわめいた。泣いて、泣いて、泣いて。なかなか泣き止まないエリンを心配した隣の家の住人が訪ねてきても、彼女はなかなか泣き止まなかった。


 日が少しずつ傾き始めたころ、ようやくエリンは落ち着きを取り戻し始めた。ずっとそばで見守っていた隣の家の老婆になぜ泣いているのかを聞かれ、彼女は何度も言葉につかえながらあったことをありのままに話した。話を聞いた老婆は驚き、少しの間言葉が出てこなかった。


 エリンの父親に対して老婆が抱いていた印象は、真面目で誠実な人物だった。頼りがいもあり、力仕事が増える冬支度の時期などは様々な家の手伝いをしている様子を何度も見かけた。老婆の家も何度も彼に頼り、毎年の冬支度をしていた。わざわざ他人のことも助けてくれるような人だと思っていたから、娘を捨ててどこかに行くなど想像も出来なかったし、信じられなかった。だが、事実、エリンの父親はエリンを残していなくなっており、テーブルの上の書き置きを見てもそれは覆らなかった。老婆はエリンにうちに泊まりに来るかと尋ねたが、エリンは大丈夫とだけ言って首を横に振った。老婆はさすがに数日もすればエリンの父親が帰ってくるのではないかと考え、そのままエリンを残し、自宅に戻った。


 しかし、エリンの父親は数日経っても数ヶ月経っても一向に帰ってこなかった。そして結局、ドラグニア島の住人たちがエリンの父親の姿を見ることはその後一度もなかった。




 エリンの父親がいなくなってから十三年が過ぎた。あの頃はまだまだ幼かったエリンも、今は立派な大人に成長していた。


 エリンは十八歳になったこの日、生まれ育ったドラグニア島を一人で旅立つことにした。これまでの十三年間、エリンは父親がなぜいなくなったのか、鍛錬を続けながらずっと考えていた。そして、ある一つの結論にたどり着いた。


 父親がいなくなった直後はエリンは捨てられたと思っていた。自分の剣が下手だったから見捨てられたのだと。いつまで経っても上達しない自分に愛想を尽かしたのだと。しかし、体も心も成長し、エリンは自分のその考えが間違っているのではないかと思うようになった。きっと、父親はどうしても何かに行かなければならない事情があるものの、それはとても危険を伴うことであるためにあえて自分を連れて行かず、一人で立ち向かうことを選んでエリン自身の命を助けてくれたのではないか。そのような選択しか取れず、最後までエリンを育て上げられなかったことを悔やみ、あの書き置きに「すまない」と書いたのではないか。


 だから、今のエリンは父親を恨んだりはしていない。憎んでもいない。ただ、真相は知りたいと思っている。あのとき、父親はどんな選択を迫られ何を考えて決断したのか、それは知りたいと思っているし、それくらいは教えてくれてもよかったのではないかと思っている。それに、今はどこで何をしているのか、全く連絡が無いのも気がかりである。だから彼女は父親の後を追い、失踪した父親を探すために旅に出るのだ。


 これまで住んでいた家と家の中の家具は全て売った。そのお金と隠し倉庫のような場所にあったお金、それに五歳の誕生日のときに父親にプレゼントされたあの剣を持ち、彼女は家を出た。


 島を出発する前に、これまでお世話になった島の住人たちのもとをまわり、別れの挨拶をした。何軒もの家々をまわり、最後に、あの日一番最初に一人で泣きわめくエリンの様子を見に来てくれた老婆のもとを尋ねた。老婆はあれからも元気に過ごし、八十七歳となった今もしっかりと立ち、歩くことができている。


「おばあちゃん、うち、この島を出ようと思うの」

「そうかい。エリンちゃんももうそんな歳になったのかねぇ」


 老婆は遠くを眺めるような目をしてしみじみとした口調で言った。そして、今は自分の頭よりも高い位置にあるエリンの頭に手を置き、そっと撫でた。


「島を出てどこに行くんだい」

「お父さんを探しに行くつもり。なんでいなくなったのか、今何をしてるのか知りたいなって思ってね」

「そうかい。気をつけてね。辛くなったらいつでも帰ってきていいんだからね」

「ありがとう、おばあちゃん。それじゃあ、うち行くね」


 ドラグニア島には一日に五回、空域を周回する飛空艇がやってくる。エリンはそれに乗って島を発つことにしていた。港に着いてからしばらくしてやってきた飛空艇に乗り込もうとすると、島中の住人が家から出てきてエリンを見送った。船に乗って見送ってくれる人たちに手を振り、エリンは生まれてから今までずっと過ごしてきたドラグニア島を出たのだった。

誤字・脱字・感想等あればお気軽に送っていただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ