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刻限なり

作者: 天瀬澪

 女は走っていた。

 七時半には家を出なければならないが、目が覚めてみたら七時二十二分だった。不思議と寝坊をした日は目覚めるときに何かの予感がある。この時も、そんな予感がした。

 またやった、

 女の都合など頓着せずに淡々と進んでいく時計の秒針を数刻見詰めて、血の気の引く音とともに一気に覚醒して飛び起きた。

 もはや化粧だスタイリングだなどと言っている場合ではなかった。

 あと八分で一体何ができるだろうと考えながらも、寝巻きを脱ぎ捨てた身体だけはクローゼットに飛びついて、無難な服を探り当ててざっと被った。着古したジーンズに足を突っ込み、そのままの勢いで洗面所に駆け込むとバッと水を出して、おざなりに水で顔を洗い軽く口を漱いで髪を梳かす。ここまでで五分と少し。

 刻々と時を刻んでいく時計を睨みながら、ハンドバッグに手当たり次第に放置してあった化粧ポーチや手帳を投げ入れていく。今日必要な物はなんだったか、めまぐるしく思考する。その間に腕時計をして、携帯電話と財布をバッグに突っ込んだ。

 もういい。

 もうこれでいい、と玄関に走りこむ。靴を履こうとして自分が素足であることに気がつく。瞬間的に激しくイラつき、バッグを放り出して部屋に駆け戻る。七時三十五分のバスに間に合わなければ、業務開始時間に間に合わない。次のバスは十五分後で、それでは朝の交通事情などでギリギリアウトだ。それは既に何度も経験済みだった。

 踵がつぶれたスニーカーに足を突っ込んで勢いよくドアを開ける。

 雨だ!

 土砂降りというほどではないが、団地の廊下にまで振り込んでくる程度には降っていた。

 時刻は七時三十二分。

 泣きそうな気分になって、傘を諦めて素早くドアを閉めた。鍵が上手くかけられない。

 階段を駆け下りて、バス停までの道のりを走る。女が住む団地の目の前には、長い下り坂がある。それは勿論バス停から帰ってくる際には長い登り坂になるのだが、急ぐ朝は駆け下りる勢いがついて、助かる。

 三分足らずで下りられるだろうか。

 考えている暇はない。とにかく走った。雨が顔を叩いて、まともに目を開けていられない。

 いつもこうだ。

 次に遅刻したらクビ、と先日上司に言い渡された。女はそうトシでもないが、そう若くも無い。しかし気楽なフリーター生活をやめられずにいた。今度の職場はそれなりにきっちりとした勤務態度を求められる代わりに、頑張れば正社員への雇用も夢ではない、という人によってはやりがいのある仕事ではあった。女も僅かな緊張感を常に強いられるこの職場で働くうちに、少し、企業で責任ある仕事をしていくことに楽しみを見出し始めていた。

 その矢先だ。

 自分の寝汚なさは重々承知しているつもりで、そのために定職につけなかったと言っても過言ではない。それでも最近は、注意して少し早めに起きるようにしていた。やっと楽しくなってきたこの仕事を取り上げられるのはさすがに惜しかった。

泣きそうになりながら走った。心臓が氷を抱いているようだった。手にはイヤな汗をじっとりとかいていた。

 息が上がり、足は自分のものではないように、意識とは別の所でとにかく交互に振り出されている。膝にかかる負担に気付かない振りをして、坂の下のバス停を目指した。坂の先はT字路になっていて、バス停は突き当たりを右に曲がってすぐのところにある。時計を見ると三十五分丁度だった。女は祈った。大丈夫、遅れてくる日もある。特に今日は雨だ。少し遅れてくるに決まってる。

 その瞬間、目の前を乗らなければいけないバスが横切っていった。


 今、曲がろうとしていたのに。もう、五メートル先がバス停だったのに。


 一瞬呆けたが、次のバス停まで追いかけようとすぐにまた走り出した。けれど歩行者信号が赤になる。構っていられるか、とクラクションを無視して爆走した。

 心臓が破れそうだった。

 いつもこうなんだ。

 どうして自分は、真面目にやれないんだろう。キチンと起きれないんだろう。

 だらしがない、と言われればそれまでで、確かに自分でもそう思う。

 情けない。

 どうしてみんな、そんなにちゃんと出来るんだろう。

 もはや女は、仕事のために走っているのではなかった。

 バスが速度を緩めて次のバス停に止まる。女とバスの距離が近づいた。息が苦しい。それでも足は緩めない。血管がはちきれそうだ。


 あと30秒待って。


 けれど次のバス停には乗客がいなかったらしく、少し寄っただけでバスはすぐに発車した。運転手は、走る女に気付いたのか気付かなかったのか、ただ淡々と仕事をこなした。また女とバスの間が開き、そしてもうそれ以上は縮まらなかった。

 もう走れなかった。

 暴れる心臓を胸の上から押さえて、とにかく呼吸をした。何も考えられなかった。

 間に合わなかった。

 涙が滲んだが、雨に叩かれた顔では涙なのか雨なのかそれとも汗なのか、すべてが曖昧だった。

 まだ荒れる息を抑えて、髪を掻き揚げる。もう、形振りに構っている場合ではなかった。女は、道路を過ぎていく通勤途中の乗用車に向かって、親指を突きたてた。

こんな街中でヒッチハイクも無いだろう、と我ながら馬鹿馬鹿しく思いながら、それでも走ってくる車のすべてに親指を突き立て続けた。タクシーでも通りかかれば。

 結局車は一台も止まらずに、次のバスが来た。酷いなりをしていた。乗客が女を見てさっと視線をそらしていった。怖いものなど無い女子高生のグループだけが、声を出して笑っていた。

 化粧もせず、髪も整えず、しょぼくれた格好で、しかも雨に濡れて。

 アルバイトひとつクビになったところで、なんだというのだ。

 冷えた身体とは裏腹に、熱い涙が染み出して来た。女はゆっくり溜め息をつきながらバッグを探ってハンカチを取り出そうとしたが、見当たらなかった。

 ハンカチを忘れて来た。

 自分らしい、と女は目を抑えて独りで微笑んだ。





 男は、独り日曜の公園のベンチでぼんやりしていた。手には、行く当てのなくなった婚約指輪が、上等なビロードのケースに包まれたまま握られていた。

 プロポーズを断られたのは、これが何度目だろうかとゆるりと考えた。数えようと思えば数えられたが、無意識が拒否をした。それは、ぼんやりと問いのまま漂い続ける。

陽光は眩しく、気温は快く、世界は平穏そのものだ。公園で遊ぶ家族連れを眺めて、その弾けるような笑顔に、男は所在無げな咳払いをひとつ零す。

 男は、家族が欲しかった。

 男の生家はひどく貧しく、家人の心も常に荒んでおり、家を出て自立するまでにかなりつらい思いをした。そのために、暖かな家庭に対する憧憬が大きい。

 本当に貧しい家だった。

 あの環境の中で、男に学問の才が芽生えたことは奇跡としか思えなかった。男は非常に優秀な成績を修め続け、そして自身も学ぶことを愛し、より高い水準の教育を求めて努力した。家の事情は重々承知していたので、特待生として優遇してもらえる学校をとにかく探した。男が出会った教師は様々だったが、それぞれ男の境遇に理解を示し、男が教育を受け続けられるように尽力してくれた。

 絶対に大学に行くと決めて、新聞配達をしながら奨学金を貰い、勉強にアルバイトに奔走した。あの家から離れるためならば、連日の徹夜も苦にならなかった。

 それでも、無事大学に入り込んで自立したと一息ついても、なにかと実家の金銭的な困難は纏わりつき、幾度となく忸怩たる思いを噛み潰しながら、絶対に金に困る生活だけはするものかと、必死で成り上がった。――必死だった。

 めまぐるしい学生生活だった。

 親の仕送りでアルバイトもせずに悠々と遊んでいるクラスメイトに、うらめしい思いを抱かなかったといえば嘘になる。

 絶対に金持ちになってやる、と血を吐くように思い続けて、確かに男はその悲願を達成した。

 既に、輝くばかりの若さ青春は過ぎてしまったが、今からが男の人生の春だと信じていた。欲しいものを我慢しなくても良い。食べたいものを我慢しなくても良い。一流のブランド店で、戸惑うことなく買い物も出来るようになった。

 しかし身に染み付いた貧しさはどんなに裕福になろうとも拭い去れないのか、女達からの視線は一向に冷たいままだった。それでも金があると分かれば、可愛らしい笑顔を貼り付けて、身を摺り寄せてくる。

 真剣に付き合っているつもりだった。

 それでも、男が結婚を持ち出すとみな逃げていってしまう。

「は?本気?」

 どうして笑うんだ。

 どうして、汚いものを見るような目で見るんだ。

 どうして本気になったらいけないんだ。

「何本気になってるの、私たちそんなんじゃないよね?」

 どうして。

 どうして本気で生きたらいけないんだ。どうして、泥臭く駆けずり回っている姿を笑うんだ。

 男はいつも必死だった。

 悠々と暮らす友人たちは、賛嘆するふりをしながら横目で笑っていた。皆が頑張らずともあらかじめ手に入れているものを、男は死ぬほど頑張らなければ手に入れられなかった。

本気になってもいいじゃないか。

 どうして、自分にはあれが手に入らないんだ。

 こんなに、こんなに欲しいのに。それに見合う努力もしているはずなのに。

 今回も無駄になった高価な指輪のケースの滑らかな感触が、心にざりざりと突き刺さる。

その時携帯電話がなった。会社からだ。トラブルだろうか。

男は、指輪を公園のゴミ箱に放り込んで、携帯電話の通話ボタンを押した。

 その背中には、もう迷いはなかった。





 就職も決まった。そこそこの企業だ。8割がた希望通り。恵まれている、とケータイをいじりながら女は思った。恵まれた大学生活だった。サークルもそこそこ活気があり、そこそこ真面目で、そこそこ遊べた。そのサークルで彼氏もゲットした。授業もそれなりにこなして、無難な成績を修め、適度に手を抜きつつ適度に精を出した。アルバイトもしかり。オシャレも楽しんだ。学生らしいことはあらかたこなした。

明日は卒業式だ。袴もとうに決めて、美容室の予約も完璧だ。謝恩会用のドレスも買った。この日のためにかなり頑張ってシェイプアップした。おかげで憧れのブランドのドレスを着れる。

 完璧だ。

 あとは明日に備えてさっさと寝るだけだ。お風呂も入ったし、スキンケアもバッチリだし、早く明日にならないだろうかと、ワクワクする胸を抑えきれずににやける。

友人とのメールのやりとりもこの辺にして、そろそろ寝ないといけない。寝不足はお肌の天敵だ。

 楽しみすぎて眠れそうもない、と矛盾した思いを抱きつつ、丁寧に手入れされ、デザインされたネイルを軽くいじって、ケータイの送信ボタンを押す。「おやすみ、また明日〜(^^)v」もう返信は来ないだろう。これで返信をしてくるような野暮な友人は女にはいなかった。

挫折知らず、と親は心配するが、それが何よりも女の自慢だった。

 完璧だ。

 布団を被る。

 しかしその瞬間、ふと、明日で学生生活が終わりなのだ、という茫洋とした寂しさのようなものが女を捕らえた。今までそんな感傷とは無縁の人生だったので、女はすぐにその感覚を忘れてしまったが、優しくおおらかだった時が終わる、その空気だけはなんとなく肌で感じていた。

「あんたももう社会人なんだから、いつまでも学生気分じゃいられないのよ」

 何故かその瞬間、いつもは右から左へ流れていってしまう母のいつものオコゴトと、渋い表情が浮かんできた。

 しかしこれといった感情も呼び起こされずに、そのまま部屋の電気を消した。それでも今の女には、なにも怖いものなどないのだ。





 重い身体をよっこらしょと気合と共に持ち上げる。自分ひとりの身体ではないから、重いのも仕方ない。ふうふうと息を吐きながら、その時が来たのだと、一瞬天を仰いだ。主人と目が合うと、事情を察したように慌てて走っていった。人が集まって来て、いよいよという段になると、皆が口々に励ましの言葉をかけてくれる。

 痛みに耐えながら、ふうふうと息を吐いて、産みますよーと一声あげると皆が喜びのような苦痛のような激励のような声を上げて拳を握った。

 家族に囲まれてその時を迎えることができる。

 ああ、私は幸せだ。

「ああっ、産んだ、産まれた、産まれたよー!」

「お母さん! ミーシャが赤ちゃん産んだー!」

「はいはいはいはい、早かったね〜! 今タオル持ってくから!」

「お父さん! ちょーちっちゃいよー!」

「ちょっと静かにしなさい、ミーシャの気が散るだろう。」

 か細い仔猫の鳴き声が家に響く。満足げに仔猫を舐める。可愛い子どもたち。どうだとばかりに家族を見遣ると、主人が涙ぐんでいる。

「あー、お父さん、泣いてる〜」

 うちのご主人は、少し涙もろい。





 病院の匂いがすきだ、と言えば大抵のひとが不思議そうな顔をする。けれど少女にとってはそれが世界の匂いだった。

「おはよう。昨日はよく眠れた?」

 ほっそりとした少年が、そっと少女の病床の横に座った。少女がほほえむ。

「うん。昨日、あなたが話してくれたおはなしのおかげで。海で泳ぐ夢を見たよ」

 少年の、色素の薄いとうめいな睛がゆったりと細められる。

「そう、それはよかった。他のリクエストは、なんだったかな。遊園地のジェットコースターはまだだったよね、」

 さらりさらりと、少年の見動きに合わせて、繊細なその髪が揺れる。それを少女はとても好ましいものとして、じっと楽しげに見つめていた。

「――そうね、空が飛びたいな」

 少年はふっと口を噤んで、しんと少女を見詰めた。静かな個室に沈黙が落ちる。床頭台の上の花瓶の花は、しおれかけている。1週間前に友人たちが持って来てくれたものだ。よくもった方だと思う。

「いいの?」

 少年は、囁くように、真摯な睛で言った。それに少女は頷く。

「貴方が来てくれて、本当に良かった。結婚も、出産も叶わなかったけど、悪い人生じゃなかった、と思う」

 コンコン、とノックと同時にドアが開いた。

「検温でーす。お変わりありませんか?」

 入って来た看護師に少女は頬笑みかけて、首を振る。体温計を腋に挟んで、じっと血圧計の数値が出るのを待った。

「ねえ、今誰かとお話してなかった?」

 それにも少女は首を振った。

「そうよね。ごめんね」

 ぴぴっと数値が出た体温計を看護師に渡すと、少しその表情が曇る。血圧計を外しながら、ちょっと冷やそうね、待ってて、と数値を書きこんで看護師は部屋をあとにした。

「……もう、いいの」

 その言葉に、少年は、少女の細い指をそっと撫でた。


 長かった。


 世の中の平均寿命というものからしてみれば、とても短いのだろうとは思うけれども、少女にとっては永遠のように長かった。

「じゃあ、いこうか」

 少女はただ微笑んで窓を見詰め、少年のその華奢な手を握った。




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