犇めく
初投稿です。
このサイトも今日初めてお邪魔させていただきました。
よろしくお願いします。
「乾杯」
数人の男の声。大して整頓もされていない、程よく散らかった1DKの間取りである。
大学の夏休みはことのほか退屈で、こうして同じサークルの仲間たちと夜な夜な集まってはくだらないことを語らう。酒も飲めない年のくせに背伸びしてちびちびとやるのが俺ら伝奇サークルの活動だ。
「女っ気のねえ俺たちの日々に乾杯。どうだ、ここらで一つ、面白い話でもしようか。」
仲間たちはお手並み拝見とでも言うかのように、揃えて口の端を吊り上げて、不快な笑みを浮かべている。
「あれは、俺がまだ小せえガキだった頃の話だ。」
爺ちゃんの家は木造二階建てで、古びた風袋だった。まだ小学生の私が気に入るような道楽も転がっておらず、馴染みを招いたこともなかったが、小学生の頃は母親の口喧しさが際立っていたものだから、思い思いの娯楽を鞄に詰め込んでは足を運んだものだった。何も無い、つまらない家のはずだった。
ただ一つだけ、爺ちゃんが住んでいたあの家には、私の気を引こうとする奴らがいた。
お袋が言うには、爺ちゃんはかつて教師をしていたらしく、小学三年の夏、小学校の長期休暇で出される宿題を例年の如くサボり、この頃から立派に不届き者を演じていた私は、その年の夏休みは半ば島流しのように爺ちゃんの家に預けられることとなった。
それを聞いた私は、彼らのことを思い出していた。
初めて彼らを目にしたのは、夏だった。
さらに一年ほど遡る。
家族で爺ちゃんの家に遊びに行ったときのこと。
夕方、陽が落ちてくる頃、二階の寝室にて、彼らは天井の四隅のうち、私から見て右奥に現れた。
窓から家の中に差し込む赤い陽の光が、彼らをかすかに照らしていた。それでも彼らは黒かった。
因みに、私が彼らを彼らと呼ぶのは、あくまでも、見かけ上人間だと推測できたからだ。有無を言わさぬその外見的な主張が、私の断言を許さなかった。
彼らは小さな子供ほどの体長で、手足と呼べるほど大層なものではないが、それらしい四肢を備えていた。5人くらいで固まっていた。というより、犇めいていた。金属を擦り合わせるような、言葉にならない声を発しながら、ものすごい速度で動きまくっていた。といっても、その場から移動するというわけではない。まるで洗濯機の中で回る洗濯物のように、その場に留まりながら、残像が球体をなして見えるほどの速度で暴れ狂っている。
私はその得体の知れない異様な光景に、ひたすらに目を奪われた。体は動かなかった。身体中で、戦慄と高揚感が取っ組み合いを始めた。冷や汗が首筋を走っていくのを感じる。
今音を出せばどうなるかの想像くらいは私にも容易くできたはずなのだが、愚かにも小さな私は彼らに話しかけてしまったのだ。
「あの」
瞬間、彼らは霧散した。黒いもやのようなものが、一気に室内に充満して、数秒後には気配すら感じなくなっていた。
腰を抜かして後ろに倒れた私は、あることに気づいた。ついさっきまで部屋には夕陽が差し込んでいたというのに、真っ暗になっていた。陽はもう落ちきっていたのだ。
だんだんと現実感を取り戻して来た私は怖くなって部屋を飛び出し、両親と祖父に泣きついたが、訳を話しても信じてはくれなかった。ただ爺ちゃんだけが、何も言わずに黙っていたのを覚えている。
それが彼らとの最初の出会いだった。
とはいっても、その次の日には実家に帰ってしまったので、それっきり彼らのことは見ていない。
今年も会えるのだろうか、などと考えながら、玄関の前に立つ。車で送ってくれた母親はあとは頑張れと言わんばかりに僕を置いていった。
すると、庭仕事をしていた爺ちゃんが気づいて出迎えてくれた。日中は宿題をしたり、爺ちゃんの庭仕事を手伝ったり、アイスやスイカを食べたり、昼寝をしたりと、思いの外楽しかった。
両親は監獄にでも送り込むつもりでいたのかも知れないが、あの口喧しい母親のいるところの方がよっぽど監獄だったのだということに気づいた。なんとも皮肉な話である。
そうこうしているうちに陽も傾いて、あたりは薄暗くなっていた。寝室で一人ゲームをしていた私は、そのことに気づかなかった。ふと天井に目をやる。が、例の黒いのは見当たらない。また怖くなって、私は部屋を飛び出した。
晩飯のときに、私は思い切って爺ちゃんに尋ねた。私が見たものを。あのとき身をもって体験した全てを。
すると、寡黙なはずの爺ちゃんが、ついに口を開いた。
「それには関わるな」
爺ちゃんはそれだけ言うと、食べ終えた後の食器を持って、食卓を後にしてしまった。そのときの爺ちゃんの口調には凄みがあって、変に拍子抜けしてしまった。
何か話してくれると思ったのだが、予想外の返答だった。あの口ぶりでは、彼らがこの家に存在すると言っているようなものだ。しかし、これ以上深く考えることはやめ、明日の自分に全て委ねることにした。
とはいえ、やはり寝室に一人で寝るのは怖くて、一階に寝ている爺ちゃんの懐に潜り込んだ。爺ちゃんは今度は何も言わなかった。
次の日の朝、目が覚めると、爺ちゃんは既に庭仕事をしていた。この日は、私はずっと二階の寝室にいた。胡座をかき、庭に落ちていた名前も知らぬ木の枝を右手に添えて、相対する覚悟を決めて部屋の中央に座っていた。一度爺ちゃんが部屋を覗きに来たが、声もかけずに去っていった。
何も起こらないまま時間は過ぎる。そうこうしているうちに、ある疑問が浮かんだ。私は一年前たしかに彼らをこの家でみた。人間のような見てくれであると私は思った。しかし、あのとき、一度たりとも、顔が見えなかったのだ。どんな顔をしているのだろうか。彼らが人間か、妖の類なのか、この際どうでも良いことだった。
そのとき、私は彼らがどういう顔をしているのかをたまらなく確かめたくなった。至極単純な欲求に私は取り憑かれた。
「出てこいよ。びびってんのか。」
何もあの悍ましい光景を忘れたわけではない。ただ、ふと沸き起こった一つの欲求が私に虚勢を張らせたのだ。
今時刻は午後3時過ぎといったところだろうか、陽は落ちてはいないが、部屋に差し込む陽の光はそこまで多くはない。
出てくるわけないかと思いながら時計の針から目を離した瞬間、全身の体毛が逆立つような寒気を感じた。物音一つしなかったはずだが、いる。天井の隅、私から見て右奥だ。黒い、人間のような生物が一箇所に密集している。配置も外見も全て前回と同じである。
ただ、前回は違うことが一つある。こっちを見ているのだ。妙な話だが、私は五人と目が合っていた。金縛りにあったように体が動かない。呼吸することもできず、何も考えることもできず、見つめ合っていた。その間、彼らは、例の金属を擦り合わせたような、言葉にならない声を発している。
もう限界だと感じた瞬間、爺ちゃんが部屋に飛び込んできて、懐中電灯で彼らを照らした。すると、彼らは想像もできないほどの断末魔をあげて、消えていった。
しばらくして、爺ちゃんはこれ以上ないほど優しい声色で諭すように言った。
「だから関わるなと言ったんだ。でも爺ちゃんも説明が足りなかったな、ごめんな。」
爺ちゃんはそれ以上何も言わず、黙って私を抱擁した。私は泣くことも出来ずに茫然自失としていた。
それから彼らが私の前に現れることはなくなり、私は無事に夏休みを終えた。
「とまあ、こんなもんだ」
各々が思い思いの反応を示す中、仲間の一人がある疑問を呈した。
「その、彼らってのは、一体どんな顔してたんだよ。」
今でも覚えている、彼らの顔。
彼らが結局どういう存在だったのか、爺ちゃんには追及しなかった。だが、今度改めて聞いてみてもいいかなとは思う。そして、私はまずは目の前に突き出された質問に、ざっくばらんに答えるのだった。
「みんな俺の顔だったよ。」