私は電話なんかかけたくない
毎日、老いて近所に越してきた両親のもとを訪ねている、私。
毎朝家族を見送ってすぐに、両親の住むマンションに行く。
ゴミ捨て、買い物、掃除、洗濯、電話の対応に集合ポストの確認…ほとんどの家事を、やるようになって…もうすぐ一年。
ずいぶん、慣れたとは、思う。
只今の時刻は、9:04。
イライラする母親のオーラが、私に突き刺さる。
「こんなに遅くなるかね?事故にでもあってるんじゃな「こんなに遅いはずない!!!忘れ去られてるんだわ!!早く電話して催促しろ!!」」
どこかのんびりした父の声を遮るように、怒り心頭の母親の怒鳴り声が部屋中に響き渡り、ザクザクと私に突き刺さる。
最近、老いた父は、週に三回、デイサービスに通う事になった。
月、水、金と、朝8:45に伺いますという事だったのだが、9:00を超えてもお迎えスタッフの来る気配がない。
「とりあえず下で待ってようか。」
「そうだなあ、そうするか。」
暑い時期なので、自宅玄関までお迎えに来てもらう事になっている。体調がいいようであれば、一階で待っていてくださいという話だった。
ここで待っていても母親の怒りは倍増する一方に違いない。自宅を出て、マンションエントランスで待つことにする。
「どうせ来ないわ!!やめときゃ良かったんだ、金ばっかりとっていいかげんな仕事ばかりしやがる!!早く電話して解約して来い!!!だからわしは行政なんて……」
何やら喚いている母親を玄関に置き去りにし、父と並んでマンションのエレベーターへと向かう。
通路から道路を見下ろして見るが…、車の来る気配がない。
「一回目は8:45ちょうどに来たんだ。一番遅くて9:00くらいかな?」
「うーん、初回は早めに来てくれたのかも?」
エレベーターで一階に向かいつつ、尻ポケットからスマホを取りだし、…電話をするかどうか、迷う。
…今週金曜日、病院の予約があるので私がデイまで送りますと伝えてあった。
今日は、水曜日だ。
もしかしたら、金曜と水曜を間違えている可能性も、無きにしも非ず、か。
……電話、した方がいいかな。
月曜、お迎えに来たスタッフさんに金曜日の事は伝えてある。
ケアマネさんにも、通所を決めた時の会議で予定をばっちり伝えてある。
二人が二人とも忘れるとか、勘違いするとか、あるだろうか?
……電話、したら、悪くない?
忙しい時間帯だし、電話に出るのも大変なのではないか?
まるでこっちが信頼してないみたいに思われたりはしないか?
……電話、したくないな。
几帳面な家族だな……って、思われそうだ。
めんどくさい家族だ……って、嫌われそうだ。
一階に着いて、マンション出入り口に立つも、送迎車の気配は……ない。
「俺は一番目の乗客なんだ。あと三人、ご婦人が乗ってくるんだわ。」
「へえ、華やかで、いいねえ。」
父とのんびり話しつつも、私の頭の中は高速回転中だ。
電話を、したら、迷惑かも。
でも、電話を、しないと。
―――早く電話しろ!
―――電話しろって言ってんだろうが!!
―――すぐに電話しないからこんなことになったんだ!!!
私の頭の中で、母親の声がグルングルンと駆け巡る。
一緒に暮らしていたのは四半世紀も昔の事だというのに、幼い日々の記憶がありありと蘇る。
もう、母親の怒鳴り声に従わなくても生きていけるはずなのに、過去の記憶が待ったをかける。
スマホをにぎりしめ、電話帳を開くと…ぽたりと汗が一滴、画面に落ちた。
この汗は、暑さゆえのものなのか、焦りゆえのものなのか。
汗を首に巻いたタオルで拭って、ため息を、一つ、ついた。
―――早く電話しろ!
―――電話しろって言ってんだろうが!!
―――すぐに電話しないからこんなことになったんだ!!!
……いつだって、このパターンだ。
家庭訪問の時間に先生がこなかった時も、私が電話をかけた。
ピザのデリバリーが20分後に来なかった時も、私が電話をかけた。
救急車がなかなか来なかった時も、私が電話をかけた。
電話をかけている最中に先生は到着した。
電話をかけている最中にピザは届いた。
電話をかけている最中に祖母は搬出されて行った。
―――学校には緊急時以外は電話をしないようにしてね。
―――お届け時間は目安ですので、ご理解いただきたいと思います。
―――到着を急がせるくらいならもっと早く救急車を呼んでください!
いつも私が電話をかけて、いつも私が電話をした相手に怒られる。
電話をかけることを躊躇すればしただけ、悪い展開が待っていて私が嫌な思いをする。
―――早く電話しろ!
―――電話しろって言ってんだろうが!!
―――すぐに電話しないからこんなことになったんだ!!!
……マンションの入り口の植え込み前は、日陰になっているというのに、ずいぶん、暑い。
ベンチもないこの場所で、老いた父が、壁に寄りかかって、待っている。
電話する事を躊躇していて、もし。
熱中症になって倒れでもしたら。
倒れた後で救急車を呼ぶことになったりしたら。
救急車を呼んでもなかなか到着しなかったら。
……取り返しのつかないことに、なってしまったとしたら。
―――早く電話しろ!
―――電話しろって言ってんだろうが!!
―――すぐに電話しないからこんなことになったんだ!!!
―――お前のせいでこうなったんだ!!
―――お前が全部悪い!!
―――お前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ!!!
母親は、絶対に、自分で電話をかけない。
母親が電話をするのは、私だけなのだ。
どこかに電話をかけねばならない時は、いつだって私に電話をかけさせた。
どこかに電話をかけなければいけなくなった時は、いつだって私は呼び出されて電話をかけさせられた。
遠く離れて暮らすようになっても、いつだって私は母親の電話を受けては、遠く離れた地から実家近くの警察や救急車を呼ぶため、販売店に苦情を伝えるために電話をかけた。
母親は、電話をかけることはしないが、電話を受ける事は大好きなのだ。
私が警察に電話をして、警察から電話をかけてもらうと、母親は私の愚痴を喜び勇んで口にした。
私が救急車を呼ぶと、確認のために電話をかけてきた救急隊員に、私の大げさっぷりをせつせつと語った。
私が販売店に電話をかけて、販売店から説明するようお願いすれば、私の非常識を延々のたまった。
―――ご心配なのはわかりますが、警察は相談室ではないので。
―――元気な方を搬送することは、瀕死の方を見捨てる事にもなりかねませんので。
―――ものわかりの良いお母様ですね、今後は直接お母様からお電話をいただくことになりましたので。
いつだって悪者は私だった。
いつだって母親は傍観者だった。
電話をかけてしまったら、責任が生じると思っているのだ、おそらく。
電話をかけて、自分の思うような展開にならなかった時に、自分の不手際が発生する事を避けているのだ。
私が電話をかけてうまくいけば、電話するよう進言した母親の手柄。
私が電話をかけてうまくいかなければ、電話をかけた娘の失態。
何度、私は母親の監視のもとで電話をかけた事だろう。
何度、私は母親の自画自賛を苦々しく聞いた事だろう。
何度、私は母親の罵詈雑言に耐え続けた事だろう。
電話を、かけなければ。
電話を、かけたところで。
電話を、かけたとしてもどうせ。
電話をかけるまで続く罵声。
電話をかけている最中も続く罵声。
電話を掛け終わって報告したとたんに浴びせられる罵声。
ここに母親はいないというのに、私の頭の中は、怒鳴り声が鳴り響く。
早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ
「交通状況で遅れることもあるでなあ……。まあ、待っとればええわ。」
穏やかな父の声を聞いて、はっと我に返った。
開いたままのスマホの時間は……9:10、か。
「うん…でも、一応、電話してみるよ。」
……私は、母親に電話をしろと言われたら、電話をせずには……、いられなくなってしまったのだ。
電話をしろと言われたのに、電話をしていないせいで……どんどん、追い込まれてゆく。
早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ
電話をかけたら、この、心のざわめきは、きっと…落ち着く、はず。
『はい、ラブリーデイサービスですが!』
「あ、すみません、今月からそちらにお世話になっている伊藤と申しますが…9:10過ぎてもお迎えがこないので、念のためにお電話させていただきまして……。」
『あら!すみません、確認しますのでお待ちください!!♪~』
「おぅい、来たぞ。」
父の声に、目線をどぶ板から上げると……お迎えの車だ。
中からスタッフさんが下りてこちらにやってくる。
「おはようございます!よろしくお願いします!じゃあ勝さん、お熱測りましょうか!」
「おぅ、たのむわ。」
『すみませんお待たせしました、ケアマネの杉田です、お迎え来てませんか?』
「ご、ごめんなさい、今来ました、お騒がせしてしまってすみません、ごめんなさい……。」
『あ、よかったです、また何かありましたらお電話くださいね、よろしくお願いします~!』
電話の向こうの声は…怒っては、いなさそう?
頭を下げ下げスマホの通話ボタンを押し、あわてて運転手さんのもとへ向かう。
「ご、ごめんなさい、金曜に遅れるって言ってあったので、間違えてるかもって思って電話しちゃいました、すみません……。」
「お迎え時間は8:45から9:15くらいの幅を見て頂けると助かります、何かあったらすぐお電話しますんで……心配かもですけど、お待ちくださいね。」
目の前のお兄さんは…怒っては、いないようだ。
テキパキと父を座席に誘導し、シートベルトを装着している。
「じゃあ、いってくるわ!」
意気揚々と車に乗り込んだ父が、車の窓から顔をのぞかせ、手を振っている。
「行ってらっしゃい、じゃあ、その…よろしくお願いします。」
「はーい、では、出発でーす!」
父を乗せた送迎車は、安全運転でマンション前を出発した。
私はエレベーターに乗り込み、母親のもとへと、向かう。
……今から、私は母親に報告をしなければならないのだ。
「9:15に来たよ。電話したらちょうど来てくれて。」
ドアを開けたら、母親が立っていたので…靴を脱ぎ脱ぎ、報告をする。
「あんたは本当にタイミングが悪いねえ!いつも何かある時に電話ばかりしてて!!こういうのは一生続くんだよ、気の毒にねえ。」
……私は、電話は、かけたく、ないのだ。
私が思うままに、電話をかけないでいれば、タイミングは悪くなるはずはないのだ。
私は、電話などかけたくないのに、かけずには……いられなくなってしまったのだ。
「歯医者の予約の電話して。午前中ね。」
母親の命令に従うためにスマホを開き、電話をかけた。
『はい、長井歯科です。』
「すみません、予約を
ピンポーン!
「ちょっと!電話はあとで良いから玄関出て!ホントタイミング悪い!縁起の悪い…ああ、今日は最悪だ!だいたいあんたは昔から……」
私はスマホを切ることなく、玄関に向かう。
ドアを開けると、馴染みの新聞屋のおじさんがいた。
「こんにちは、新聞屋です、今月分の集金に伺いました。」
『もしもーし?ご予約ですか?診察券番号お願いします。』
「診察券番号18806の伊藤です、午前中でお願いしたいんですけど。…こんにちは、おいくらでしたかね?」
『はい?』
「あ、ごめんなさいなんでもないです。」
「4400円です、ええと?」
スマホに保留音が鳴っているうちに、財布をまさぐり、お金を出して手渡す。
『8月になっちゃいますね、よろしいですか?』
「大丈夫です、よろしくお願いします。」
「ありがとうございました~。」
『それでは8/2の午前11:00でお取りしますね、お待ちしております。』
「よろしくお願いします。」
目の前のドアが閉まったとき、ちょうど電話も切れた。
「歯医者8/2の午前11:00だって
「8/2は眼科にいく日だわ!取り直せ!ホントあんたは物覚えが悪い!そもそも予約とる前に予定確認しないと!あーあー、またひと手間だよ、うっとうしいったりゃない……」
ああ、また、大失敗だ。
母親の催促に躊躇しないで対応すると、いつだってこうなるんだ。
何をどうやっても、私は叱られるんだなあ……。
ぼんやりしながら、再び歯医者に電話をかける。
『変更ですか?じゃあ、翌日の10:00ではいかがですか。」
「8/3の朝10:00でもいい?」
「その日は買い物にいく日だわ!昼からにしろ!」
「すみません、その日の昼からってないですか。」
『昼からだと、3時半がありますよ。』
「3時半でもいい?」
「4時までに帰らんと晩飯が作れなくなるわ!頭悪いね!味噌汁もつくらないかんしトマトも切らないかん、お茶も
「すみません、昼の一時ごろで空いている日はないですかね。」
『うーん、夏休みで混んでいるので…お盆過ぎますけど…。』
「お盆過ぎになるって……」
「遅すぎるわ!わしの歯が全部抜けても良いのか!そんなクソ歯医者もういいわ!やめだ、やめやめ、新しい歯医者見つけてこい!」
……ああ、ここの歯医者も、長く続かなかったな。
「ごめんなさい、予約は…また今度取ります。」
『わかりました、またお電話お待ちしております。』
……新しい歯医者、探さないとな。
「ぐずぐずして!もうスーパーオープンの時間だよ!早く連れていけ!向こうについたらすぐに歯医者に電話しろ!」
電話をしていたら、もう10:00になってしまった。
母親は、スーパーのオープン直後に入店すると決めている。オープンして10分間、入り口に並んで立つ従業員のお辞儀が見たくてたまらないのだ。
「早くしろ!ノロマが!」
「急げば間に合うから。」
エレベーターで一階まで降り、駐車場の車をマンション入り口につけて母親を後部座席に積み込む。
いそいで信号を右折し、スーパーに向かうが…車がずいぶん、込み合っている。
「あーあー、間に合わない、間に合わないよ!あんたのせいで間に合わないよ!はやく、早くしろ!」
早くしろ早くしろって言ってんだろうが早くしないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ早く電話しろ電話しろって言ってんだろうがすぐに電話しないからこんなことになったんだお前のせいでこうなったんだお前が全部悪いお前は本当に役立たずのどうしようもない人間だよ
私は、電話なんか、かけたく、ない。
スーパー駐車場にいくまでの、最後の信号が黄色になった。ここで待ったら、従業員のお辞儀に間に合わない。
私は、思いきり、アクセルを踏み込んで