お茶室
達成感に浸った途端、信ちゃんが座りこんだ。「今度は何なんだよ?!」と駆け戻った。
「どうしたの?」
「のど渇いた」
「あ、そうだね、ほんとだ。えっと、自動販売機はないよね? 社務所に行けば何かもらえるかな」
信ちゃんはゆっくり立ち上がった。
「いい。あっち、井戸があるから」
「井戸?」
今どき?
信ちゃんが歩き出したのでついていった。通り過ぎたときは気付かなかったけれど、池のほとりにはお茶室のような建物がある。
近くの苔むした岩の間に釣瓶が下りていた。信ちゃんは荒縄を引き上げようとしている。
「とおる、手伝ってぇ」
暗い中から丸くきらめく水が上がってくる。縄が軋む。結構重い。小さな桶が姿を現した。
「いいよ、先に飲んで」
横に柄杓はあったけれど、どうやって飲むのか自信がなくて「後でいい」と遠慮してしまった。
信ちゃんは桶に口をつけて、ゴクゴク飲んだ。
「なんだ、それでいいのか」と思って真似をした。
「冷たいね、美味しいや」
「うん」
信ちゃんはお茶室の、池に張り出した濡れ縁に上がりこんだ。足袋を脱いで端に座ると水面を蹴っている。見入ってしまった。
「信ちゃんって何才なの?」
「さあ、知らない、数えたことない」
「ずうっとここに住んでるの?」
「うん、ずうっと住んでる」
「名前は、苗字は何? 何信也なの?」
「知らない。おやしろの信ちゃんって言われるから、『おやしろの』が苗字かな?」
「変なの」
「ヘンだね」
信ちゃんが笑いだして僕も笑った。
「遊んでくれてありがと、楽しかった」
信ちゃんがまた泣きそうになる。
「いつもひとりじゃ淋しいね」
「大丈夫だよ、本田さんもいるし、今度頼んだらキャッチボールしてくれるかもしれない」
「そうだね、師範は、本田さんは優しいから」
「とおるは友達たくさんいるの?」
「友達? いないよ」
「学校にはたくさんいるでしょ?」
「友達はいない……」
「じゃ、ぼくの友達になってくれる?」
信ちゃんは池を見ながら自信なさそうに訊く。
「キャッチボールしたらもう友達なんだよ」
「そう? そうなの? 嬉しい」
信ちゃんは両手を口に当ててウフフと笑った。でもまだ淋しそうに足を引き上げて膝を抱えた。
日が翳っていく。池の向こうを眺めたままで「学校ってどんなとこかなぁ」と呟いた。
「行ったことないの?」
「憶えてない」
「そう」
「今度、学校の話して。ぼくもう行かなくちゃなんないから」
「行くってどこへ?」
「お勤め。ご本を読む時間だから」
「そう……、またきていい?」
信ちゃんは急に顔を振り向けた。
「来てくれるの? ほんとに? また遊んでくれる?」
「うん。学校の話もするね」
「うん、話しに来て、待ってるから。いつも待ってるから」
「うん、友達……だよ?」
「友達……だね。じゃ、約束!」
信ちゃんは明るい目をパチパチさせてから立ち上がり、お茶室の障子を開けて中に入っていった。
西陽が照り返す池を見渡した。
お茶室で本を読むのかなと思い、中を覗いたらもう誰もいなかった。消えてしまったみたいだ。茫然とした。
――えっと、社務所はどっちだっけ? しっかりしなきゃ。
綺麗な夕焼けを背にお社の前に戻った。
鳥居を出たところに社務所があった。師範は机についていた。
「信ちゃん、いなくなりました」
「どこで?」
「お茶室です」
「なら問題ない。今頃ちゃんと『夕のお勤め』してる」
「師範まで訳の分からないこと言わないでください」
「残念なことに、あのひとのことで訳の分かることなんてないよ」
「あのひと一体何なんですか? 幾つなんです? 何であんな、子供の真似を?」
「信ちゃんって言ってた?」
「はい、信ちゃんって呼んでくれって。おやしろの信ちゃん」
「一緒に遊んだ?」
「キャッチボールしました」
「ボール持ってた?」
「柿の実で」
師範はにっこりした。
「ありがとう」
「師範は神憑りだって言いました。気が狂ってるんですか? 子供の霊でも乗り移ってるんですか? 治らないんですか?」
「治るよ、いずれ。ただ、治るまでは誰か見ていないと危ない。怖かったかい?」
「いえ、ただひどく淋しそうで。いつもひとりで、キャッチボールしたことないって、ボール投げ返してくれる人がいないって」
「竹内くんが来てくれてよかった」
「あの、他に相手できる人いないんですか? 僕、学校に行くかもしれないし、放課後なら来れますけど、それ以上は……」
「もちろん、学校の後でも来てもらえるなら助かる」
「信ちゃんと約束したんで、学校の話をするって」
「じゃ、来れたらまずここに顔を出してくれるかい?」
「わかりました。あ、そうだ、綱渡りのつな、緩めてました。落ちたほうが面白いって。真っ暗になる前に見てきた方が……」
師範は大通りのバス停まで送ると言ってくれたけれど、ロープが気になるのでそっちにいってもらった。