神主さま
信ちゃんがゆっくりと顔を上げた。右手で頭を押さえている。
「どこだ」
「信ちゃん大丈夫? お社に行こう? ちゃんと横になったほうがいい」
「鏡池か」
信ちゃんはじっと僕の方を見た。目つきが信ちゃんじゃない。
「看ていてくれたのか、ありがとう」
「もしかして、神主さま?」
「ん、何をしていたかな?」
「神主さま」
そう言うのが精一杯だった。
「水をもらえないか?」
「井戸水でよければ汲んできます」
「頼めるか?」
「はい」
信ちゃんじゃない。あのひとは信ちゃんじゃない。信ちゃんは信ちゃんの世界に帰ったんだ。
井戸水を汲んで横の柄杓を満たした。ほんの少ししか入らないけれど、長い柄を両手で支えて大事に運んだ。
「ありがとう」
神主さまは上品に柄杓に口をつけた。水桶に顔を突っ込んだ信ちゃんじゃない。
「君は?」
「竹内徹と言います。本田師範に空手を習っていました」
「本田くんの。世話をかけた。あの笹舟は君が作ったのか?」
「あ、一緒に」
「神憑っていたか。いい友達だったのだな、ありがとう」
「いえ、こういうことは、よくあるのですか?」
「初めてではない」
「僕は信ちゃんにまた会えますか?」
声が大きくなってしまった。
「あ、ごめんなさい」
神主さまはうっすらと微笑んだ。信ちゃんが抜けてこんなに身体がつらそうなのに、また会えるかなんて、信ちゃんに戻ってなんて言っちゃいけないことだ。
「とりあえずお茶室にでも行きましょうか、日も暮れてきました」
「そうだな、肩を貸してくれるか」
神主さまは初めて会った日、信ちゃんがしたように障子を開けて中に入った。そして壁にもたれて畳の上に座り込んだ。
「すまないが、本田くんを呼んできてくれるか。そして、竹内くんだったね、君はうちに帰ったほうがいい。少し落ち着いたら神憑りの間の話を聞かせて欲しい」
「わかりました、神主さま」
お茶室から社務所に着くまでに泣いてしまった。神主さまが治ったのはきっといいことだ。それなのに僕は、友達を失った。信ちゃん、信ちゃん。
「竹内くん、どうした? 信ちゃんは?」
「信ちゃんはもういない。お茶室で神主さまがお待ちです」
「神憑りが解けたのか。どんな様子だ?」
「頭が痛そうで、少しふらつくみたいです。入れ代わり僕はうちに帰るようにって」
「そうか。送ってあげたいがあのひとのほうも心配だ」
「僕は大丈夫です。ひとりで帰れます。あの、また来てもいいですか? 神主さまお元気になられたら」
「もちろん、来てあげて」
僕はわからないことだらけで家へ向かった。
すぐ座り込んで泣きそうになる信ちゃん、寝転がって足をバタバタさせて笑う信ちゃん。丸い目で僕をじっと見る信ちゃん。歌を唄う信ちゃん。笹舟を作る信ちゃん。
あ、信ちゃんの作った笹舟一つくらいもらってくればよかった。僕の友達の信ちゃんが実在した証に。信ちゃん。