満州事変に至る病
満州事変に至る病
19世紀、アメリカ合衆国の対中政策を現す重要なキーワードは門戸開放である。
門戸開放とは、特定の地域において、全ての国の全ての国民に対し、等しい商業及び工業活動の機会が与えられるべきであるという主張である。
自由貿易政策と言い換えることもできる。
ただし、本稿における意味は1899年に合衆国が列強主要国(フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、日本、ロシア)に対して発した中国の主権の尊重と中国内の港湾の自由使用を求める門戸開放通牒を意味する。
何故そのような外交アクションが必要だったのか?
それは合衆国が帝国主義全盛の時代に出遅れて出発した列強国だったことに尽きる。
米墨戦争でスペインからグアムや南米カリブ海の島嶼領土、フィリピンを獲得したが、それ以降、大きな植民地獲得はなかった。
国内に十分な資源と市場があり、むやみに海外植民地を得なくても自給自足が可能な大陸国家故の出遅れであった。
民意もそれを支持しており、
「ヨーロッパの帝国主義を真似るのは慎むべき」
というアメリカの良心、良識の発露でもあった。
だが、19世紀末までに工業生産ではイギリスを追い抜いたアメリカ産業界は大量生産された工業製品のはけ口を必要としており、市場獲得のため対外進出は不可避といえた。
アメリカの門戸開放政策が大きな成果を挙げたのは、1905年のことである。
日露戦争で日本に多額の戦費を貸し付けた合衆国は、伊藤=ハリマン協定にて共同経営という形であったが、南満州鉄道という特殊権益を得た。
同時期、日本は産業近代のため多数の日米合弁会社を設立し、それを通じてアメリカ製品は日本市場、朝鮮市場にも流れた。
日米合弁企業による満州進出は大きな成功を収め、日本国内市場の拡大を通じて日本企業に対する投資もまた莫大なリターンを齎した。
極東への投資は大成功を収めたといえるだろう。
日本企業への投資を主導したのはモルガン銀行で、モルガン銀行に太いパイプを築いた日本側の窓口が海援隊であった。
以後、合衆国は門戸開放に一定の成功を得たとして、他の列強に門戸開放を主張することは少なくなっていった。
逆に、満州市場への参入を求められたら困るからだ。
失うものが何もなかった時と異なり、既得権を得た合衆国の対中政策は急速に保守化していった。
1890年に消滅したフロンティアの続きが、アメリカ人にとっての満州で、ここはモンロー主義が適用されるべき土地だった。
合衆国の満州経営は満鉄付属地の開発に始まり、中国人を追い出して企業経営式の大規模農園が建設されていった。
地平線の彼方まで続く満州のとうもろこし畑が現れるのは1910年代のことである。
農園の従業員は中国人で、経営者は日本人、オーナーはアメリカ人であった。
ガードマンは日本の鉄道警備業務を受注した海援隊の警備部隊である。
企業経営方式の大規模農園は満州の信じがたいほど安い人件費に支えられ、小麦やとうもろこしの価格破壊を齎した。
運賃を支払っても、アメリカ国内でつくるよりも安いのである。
小麦の価格破壊で、破産に追い込まれた国内小規模農家は膨大な数に上り、季節農業労働者として、大規模農園の下部構造へ組み込まれていった。
アメリカ人が思い浮かべる小麦畑の中の一軒家という牧歌的な情景が崩壊し、文学の表現に追いやられたのもこの頃である。
土地を失って困窮した小規模農園経営者にとって最後の希望が、
「ニュー・フロンティア=マンチュリア」
であり、満州への移民として多くのアメリカ人が海を渡った。
満州へ入植した彼らが現地の中国人から暴力で土地を奪ったのは、これが西部開拓の延長だっからである。
そして、土地を追われた中国人は仕事を探して貧民として都市部に流入するか、馬賊になるのがお定まりのパターンだった。
馬賊は新しいインディアンであり、アメリカ人にとってこれを殲滅するのに些かの躊躇もなかった。
ただし、実際に手を汚すのは日本の海援隊で、満州のアメリカ人にとって海援隊は騎兵隊のように頼もしく、都合のよい存在であった。
遠目には馬賊も海援隊も同じ吊り目でしかなかったが、インディアンにも良いインディアンと悪いインディアンがいるとアメリカ人は考えた。
この枠組は、第一次世界大戦が勃発しても何ら変わらなかった。
一時期、辛亥革命のドタバタで不穏な空気が流れたこともあったが、満州王国の分離独立後は全てが元通りとなった。
シベリアに出兵していた日本軍が撤退した時に大量の亡命ロシア人を連れてきたので、大連や奉天の街角にロシア語の看板が少し増えたが、変化といえばそれぐらいであった。
満州も大戦景気に乗って発展したが、大きな変化が訪れるのは大戦後のことである。
莫大な戦時債務の貸付で資本が集まった合衆国は、集めた資本から利益を得るための投下地を必要としていた。
アジアにあっては、満州王国がその役割を果たした。
ヨーロッパにおいては、ヴァイマル・ドイツがドルの洗礼を受けることになる。
所謂、ドーズプランである。
1923年にドイツの賠償金未払いを理由に、フランス・ベルギー軍がルール地方を占領した。ドイツはゼネスト、ハンストで対抗したのが、この対抗措置が原因で、ハイパーインフレーションが発生し、紙幣が紙切れになった。
経済が破滅的な状況に陥ったドイツでは、各地で暴動や略奪が発生した。
アドルフ・ヒトラーがミュンヘン一揆を画策するのも同時期である。
ミュンヘン一揆はヒトラーの名がドイツ国内に広まるきっかけとなった。
ドイツ経済の破滅は、賠償金の支払い停止を意味しており、賠償金の支払いが止まるということは、それを受け取るイギリス・フランスから合衆国への戦時国債の返済が止まることを意味する。
流石にこの状況を放置するのはまずいと考えた合衆国を中心に纏められたのが、前述のドーズプランである。
ドーズプランの骨子は、アメリカからドイツに運転資金を貸し付けて産業を復活させ、稼いだ外貨収入でドイツはイギリス・フランスに賠償金を支払うというものであった。
なお、その賠償金はイギリス・フランスの懐を通過して、戦時債務の返済としてアメリカに戻ることになる。
もちろんドイツへの貸付には利子がつくので、アメリカはドイツに金を貸せば貸すほど儲かる仕組みであり、イギリス・フランスは賠償金が入っても右から左へ通り過ぎていくだけで素寒貧のままである。
合衆国にとって都合の良すぎるシステムに思えるが、経済とは金銭という価値の媒介者が循環することで成り立っており、実態はどうあれ金が回っていることが重要であった。
これによってドイツはどうにか戦後経済を立て直し、世界大恐慌までの短い安定期へと入るのである。
ドイツにアメリカ文化が流入したのもこの資本投下と企業進出によるもので、アメリカ文化の象徴であるコーラがドイツで発売されるのもこの頃である。
第二次世界大戦が勃発し、コーラの原液輸入が不可能になったコカ・コーラのドイツ法人が作ったのがファンタである。
話が逸れたがドイツの他にアメリカ資本が行き着いたのが満州だった。
アメリカはここで有り余る資本力を活かし、ある謀略を画策する。
所謂、
「満鉄の乗っ取り」
である。
満鉄乗っ取りは、内戦の混乱で運行停止状態の東清鉄道をロシアから買い取ることから始まった。
東清鉄道の買収は1922年のことである。
その金を用立てたのは合衆国政府が出資した極東開発銀行だった。
東清鉄道を買い取ったことで、満州唯一の鉄道会社となった満鉄は東清鉄道の改軌工事の資金調達として大規模な株式発行に踏み切った。
結果、日本政府の株式保有率は30%まで低下した。
新規発行の株式の殆どは小口の代理人を通じてアメリカ政府によって買い取られ、株の買い増しを通じてアメリカ政府は満州鉄道の経営権を握ったのである。
満鉄総裁は慣例で日米が交代で務めることになっていたが、以後、アメリカ人の独占となった。役員の大半もアメリカ人にすげ替えられた。
これが1923年のことである。
日本は関東大震災により大混乱中であったから、合衆国の陰謀に気がついたときには後の祭りであった。
これが致命的な日米の外交問題にならなかったのは、大震災直後の日本にそれだけの政治的な体力がなかったことが大きい。
また、日本経済が震災復興から列島改造という内需主導型経済へと転換期にあり、大陸利権の地位が相対的に低下しつつあったこともある。
しかし、日本の右派勢力にとっては、アメリカの満鉄乗っ取りは許しがたい暴挙であった。
日露戦争の記憶は未だに生々しく、多くの日本人が血を流して勝ち取った満鉄を後からやってきたアメリカ人が金の力で掠めとったのである。
面白いわけがなかった。
アメリカ人が金に物を言わせて満鉄を乗っ取るという危惧は、伊藤=ハリマン協定が発表された時からつきまとっており、それが現実のものとなったのである。
「いつかこんな日が来ると思っていた」
というのが右翼の常套句となり、日本国内に反米論が広まる下地となった。
合衆国による満鉄乗っ取りから世界大恐慌までが、満州王国の黄金時代となる。
ドルの洗礼により、満州経済は農業や鉱業主体の経済から工業化の時代を迎えた。
当時、どれほどアメリカ人が満州にのめり込んでいたかは、
「満州はアメリカ経済にとってのカナンであり、乳と蜜流れる幻想郷である」
というアメリカ合衆国第30代大統領カルビン・クーリッジの言葉に現れている。
幻想郷というのは桃源郷の誤訳らしいがそれはさて置き、満州へのアメリカ企業の進出は凄まじいペースで進行した。
大連が極東のニューヨークと呼ばれるようになるのは1920年代のことである。
アメリカ国内では法律で禁止されるような劣悪な労働環境と低賃金であっても、中国人や朝鮮人は働いたらから、アメリカの資本家たちはこぞって満州に工場を作った。
フォード社は豊田自動車と合弁で、奉天郊外に世界最大級の自動車工場を建設し、日本や中国へ売り込みを開始した。
フォードはT型を代表する大量生産による薄利多売が経営戦略の根幹であったから、アメリカ国内の人件費上昇で苦境に陥っていたのだ。
GMやクライスラーの追い上げに対抗するためフォードの満州進出は必然であった。
1920年代は日本の自動車産業の黎明期で、フォードと提携した豊田自動車が頭一つ抜けており、日産はルノーと提携してこれを追っていた。
御坊兼光が最後に見出した若き天才、本田宗一郎率いる本田技研工業はこの時はまだ二輪自動車を作って、我道をひた走っていた。
本田が自動車産業に参入するのは1945年のことである。
これは余談だが、兼光の本田に対する期待と溺愛は凄まじいものがあり、本田がほしいと言えば何でも買い与えたという。
飛行機が欲しいといえば、翌日、中島飛行機から本当に飛行機(軽飛行機だが)が届いたという逸話がある。
本田が、二輪車メーカーでありながら、第二次世界大戦中に航空機産業に進出したのはこのためで、戦後に大型旅客機ホンダ・ジェットを生み出す原動力となった。
ホンダ・ジェットは本田技研から分離独立し、90年代末に国際的な航空機産業の業界再編成の流れにそって米独企業と合併した。
これが現代のホンダ・ノースロップ・ホルテン(HNH)である。
話が逸れたが、アメリカ企業の満州進出に資金を貸し付けたのも極東開発銀行である。
合衆国政府の満州植民地化の尖兵となった極東開発銀行が主導した満州開発計画が「Eastern Project」となる。
満州の工業地帯に電気を供給するため、鴨緑江に極東最大のダムが建設されたが、これも「Eastern Project」の一環である。
明治油田にアメリカ資本の製油所が立ち並び、原油年産600万tまで拡大したが、この金も「Eastern Project」から出ていた。
これが1929年10月24日までの顛末である。
齟齬はあったものの、それなりに上手く回っていた日米満の関係は、ウォール街での株価暴落を発端とする世界大恐慌により完膚なきまでに破綻することになった。
アメリカの株価大暴落がまず満州経済を直撃した。
株価の大暴落で大損した投資家が現金を確保するため、一斉に満州から資本を引き上げたからである。
満州王国最大の銀行であった極東開発銀行は、1930年1月13日に経営破綻に追い込まれた。
極東開発銀行が主導した「Eastern Project」も軒並み破綻することになる。
もともと「Eastern Project」は初期を除けば、投資のための開発という主客逆転があり、過大な需要見積もりに基づき乱脈経営を続けていたから、破綻は必然であった。
つまり、幻想郷崩壊である。
満州で一番大きな銀行が潰れたということは他も危ないということで取り付け騒ぎが発生するのは当然のことであり、緊急勅令による預金封鎖までに17行が破綻した。
もちろん、そこから金を借りていた企業も連鎖的に倒産していった。
建国以来、上げ潮しか経験してこなかった満州王国政府は、この未曾有の事態にまともに対応できなかった。
株式市場で投げ売り状態になっても、市場閉鎖という判断が下されるまでに1週間もかかっている。
市場は神の見えざる手で常に最適の価格調整を行うはずだが、市場で株を売り買いしているのは人間であり、神様ではなかった。
また、株式市場の破綻には人災の側面もあった。
満州王国に食い込んでいた日米の経済顧問によるインサイダー取引が常態化しており、事態の急変で大損をした彼らは損失を取り返すまで市場を閉鎖するわけにはいかなかったのである。
さすがに、この企みは露骨すぎる上に、国家に齎した損失が大きすぎて事後の追求は不可避だった。
だが、司直の手が伸びる前にインサイダー取引に関わった者たちは日本やアメリカに帰国しており追求を逃れた。
国民の怒りが爆発するのは当然であるといえよう。
大連や奉天でも暴動が発生し、満州王国政府は戒厳令を布告した。
この戒厳司令部を率いたのが満州王国に帰化した日本軍人、石原莞爾であった。
戒厳令布告から1年後の1931年(昭和6年)9月18日、満州の完全な独立を掲げて石原は戒厳部隊を率いてクーデタを成功させる。
所謂、満州事変である。
戒厳司令として権力を掌握した石原は王国政府に政治改革とインサイダー取引に関わった政府関係者の厳罰処分を求めており、煙たくなった王国政府が石原を解任しようとした矢先の出来事であった。
石原は溥儀を弾劾して退位させ、国家の全権を委任されたとして満州国総統を名乗り、独裁者として満州に君臨することになる。
だが、石原が単なる権力の亡者と考えるのは早計といえる。
石原は、彼のあとに続くアジア・アフリカの民族主義運動家の旗手となる人物であった。
その石原が仕掛けた大博打が、
「満鉄の国有化」
であった。
後にエジプトやイランがこれを真似て、スエズ運河や油田の国有化することになる。
石原は満州国議会において演説し、満鉄の国有化のみならず日米が持っていた他の特殊権益や遼東半島の租借権を完全に否定し、経済の民族自決を掲げた。
これは植民地から宗主国に突きつけられたノーサインであり、全ての植民地主義に対する宣戦布告であった。
戦争は必至という情勢になったが、大方の予想に反し、日米は結局動かなかった。
動けなかったという方が正確だろう。
石原はマスコミに日米が満州で行っていた数々の違法行為を暴露したため、国内世論が日米政府を糾弾する方向で動いたからだ。
特に常態化していたインサイダー取引については、厳しく刑事責任が追求されるべきだった。ウォール街の投機筋が引き起こした株価大暴落は、世界大恐慌の直接的な原因として世論の風当たりは厳しく、スキャンダルは燎原の火のように日米両国政府を焼き尽くした。
日本においては、第二次原敬内閣の閣僚から逮捕者がでるという前代未聞の事態に発展し、総辞職に追い込まれた。
合衆国においては、共和党に大打撃を与え、1932年の大統領選挙で民主党候補のフランクリン・ルーズベルトが大勝する要因ともなっている。
石原は賭けに勝ったのである。
この時、石原が掌握していた兵力は1個旅団程度であり、日米の軍事介入があれば即座に壊滅する程度の戦力であった。
なお、満鉄を警備する海援隊は最初から最後まで指一本動かさず、クライアントを日米政府から満州王国に変更するだけで事態を乗り切った。
石原と海援隊の間に裏取引があったのではないかと噂されたが真相は不明である。
ちなみに石原と生前の御坊兼光と極めて親しい関係にあり、事件の黒幕は海援隊ではないかという陰謀論が生まれる土台ともなった。
以後、満州国は「Eastern Project」の遺産を次々と国有化し、日本の第一次五カ年計画をモデルに社会主義的な計画経済を推進していくことになる。
この経済計画を策定したのが、経済官僚の岸信介であった。
満州に帰化することを条件に満州五カ年計画大臣となった岸は、その手腕を縦横無尽に発揮して満州の経済発展に貢献した。
石原が病気がちになり職務の遂行が困難になると岸が満州国総統を継承してる。
岸総統は学生運動の先鋭化によって政権を失う1955年まで満州国に君臨した。
ちなみに満州国における岸の権勢は極めて強固なものがあり、学生運動によって独裁的な権力を失った後も隠然とした影響力を持ち続けた。
また、国父として石原に並ぶカリスマを発揮した人物でもあり、現在も保守派を中心に岸を尊崇する人間は多い。
ちなみに21世紀現在、満州国総統は岸の孫に当たる人物が就任しており、近々の総統選挙でも圧勝し、2020年の奉天オリンピックまで総統職にとどまると見られている。
とはいえ、それは遠い未来の話であり、1931年は石原劇場の全盛期であった。
世界中の植民地で列強の支配に抵抗する独立運動家、民族主義者から、石原は羨望を集めることになった。
どれだけ美辞麗句を並べても満州王国が日米の植民地であることは疑いの余地もなく、独立と列強資本の国有化という強烈なしっぺがえし食らわせた石原はヒーローであった。
この時、アジアの独立運動家達の心情を表現するならば、
「さすが石原!おれたちにできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる!あこがれるゥ!」
といったところであろうか。
インドの独立運動家、マハトマ・ガンディーも満州事変を壮挙と褒め称えた。
ガンディーは非暴力の独立運動家で、クーデターのような手法を用いた石原とは相性が悪いと思われるかもしれないが実際には、
「非暴力は暴力に勝る。だが、無抵抗と暴力なら、私は暴力を選ぶ」
と述べており、平和主義者というのは政治的なポーズに過ぎず、Ⅱにならなくても元々あんな感じの人物である。
独立運動の相手が理性を重んじる民主国家のイギリスではなく、人権無視の権威主義的な国家であったのなら、
「何事も暴力で解決するのが一番だ」
ぐらいは言ってのけただろう。
何しろハンガーストライキで自分の命を人質(死んだら大暴動祭りで英領インド死亡確定)に大英帝国を脅迫した男である。
話が逸れたが、日本国内の右派勢力も石原のクーデタを褒め称えた。
アメリカに乗っ取られた満鉄がこれで戻ってくると考えたのである。
「石原総統は20世紀に生き返った大楠公よ!」
と推す意見も多かった。
なお、満鉄国有化宣言後は、
「レーニン主義に魂を売った赤い豚」
などと罵倒され日本の右派から裏切者と認定された。
それはさて置き、石原は日本政府と交渉を持ち、国有化した財産を30年かけて金銭賠償する条件で日満修好通商条約を締結した。
石原が帝国陸軍に築いた人脈は未だに有効で政府内部にさえ石原を信奉する者は多く、古巣との交渉は容易だった。
工業化していた日本には明治油田と鞍山の鉄鉱石が絶対必要であり、それを人質に取られていたので、戦争をしないのなら日本にはNOという選択肢はなかった。
だが、アメリカとの交渉は完全に暗礁へ乗り上げた。
アメリカの経済植民地である満州の独立はフィリピンやカリブ海といった他の植民地を抱えるアメリカにとって絶対不可であった。
特に満鉄の国有化は全く受け入れられる余地がないとまでされた。
即金での買取なら可だったが、それは事実上の拒否だった。
そんな金など満州国にあるはずもないからだ。
あまりにも金がないので、溥儀や汚職官僚から没収財産まで国庫に編入しているほどであった。
日本が仲介役となって米満の交渉は続けられたが、合衆国の頑な態度により全ての交渉は破綻。合衆国は満州国を国家承認しなかった。
それどころか、合衆国は日本が早期に満州国を国家承認したことを裏切りとみなし、国家承認の取り消しと満州の軍事的再占領さえ日本に要求したほどであった。
合衆国政府は、満州事変を日本の謀略と決めつけていたのである。
確かに、石原は満州国に帰化したとはいえ、元日本人であった。
海の向こうにある新たなフロンティアを、日本人が卑劣な方法で盗んだというストーリーは右翼系新聞で繰り返し流布され、アメリカ人の一般的な認識となるほど浸透していった。
もちろん、全てを忘れることができる幸せな合衆国国民にとって、自分たちが満鉄を金ずくで乗っ取ったことはなかったことになっている。
同時期、日本経済は列島改造計画によって世界恐慌とは無縁の経済的な大躍進を遂げており、逆にどん底であった合衆国は日本に負の感情を溜め込んでいた。
もちろん、日本政府は満州事変には全く関与していない。
これは公式な、絶対に間違いのない事実である。
石原本人にとってさえ、自分自身で編み上げた渾身の謀略が、他人の指示によるものであるなど、到底耐えきれない恥辱でさえあった。
正式に石原が日本国籍を放棄していることや、日本政府及び軍部が一切関与してないことは繰り返しアナウンスされたが、疑惑を払拭する効果は乏しかった。
そもそも、無いことを証明することは不可能だからだ。
無いもの無いとしか言いようがない。
だが、アメリカ企業が満州から撤退するとその後釜に座った日本企業が、「Eastern Project」の遺産を継承し、最大の利益を手にしたことは陰謀論に根拠のない、しかし絶対的な確信を持たせるには十分すぎた。
満州事変は日米関係に強烈な遠心力を働かせた。
以後、太平洋を挟んだ二大国は相克の時代に入るのである。