軍縮って、それはないでしょう
軍縮って、それはないでしょう
1919年1月18日、パリ講和会議が開催された。
この会議は、第一次世界大戦を講和会議のみならず、戦後秩序を構築やそれを維持するための国際機関の設置などを討議する会議であった。
たまにヴェルサイユ会議と表記されることもあるが、ヴェルサイユ宮殿では講和条約の調印式が行われたのみで、会議そのものはパリのフランス外務省で行われていた。
宮殿で会議を開くのはいくらなんでも時代錯誤であり、貴重な文化財を消耗させることになりかねない。また、警備にも問題があり、これほどの規模の国際会議となると随員の数は膨大となり、そのトイレの確保だけでも大問題となる。
ヴェルサイユ宮殿はトイレの数が少ないことで有名であり、調印式でさえトイレの数が不足して、仮設トイレを設置して凌いだほどであった。
話が逸れたが、この会議において日本は勝者の列に加わり、日英米仏伊という五大国の一角を占めることになった。
アメリカ合衆国を除けば、これはそのまま新設された常設の国際機関「国際連盟」の常任理事国のメンバーとなる。
敗戦国となったドイツや、赤と白に分かれて内戦中のロシアは除外されていた。
講和会議の主要な議題は、賠償とドイツの処遇についてだった。
連合国の双璧をなすイギリスとフランスは摩天楼のように戦時国債の山を築いており、ドイツからの賠償金をぶん取らなければ、破産寸前であった。
国土が戦場となったベルギーはさらに凄まじい状況であり、ドイツから食料や家畜を直ぐにぶん取らなければ餓死者がでる状態だった。
金と食料をぶんどった後のドイツがどうなるのかは考えないことになっている。
だが、そうしなければ死んでしまうほど戦勝国も疲弊していた。
そうした悩みと無縁なのは、大日本帝国とアメリカ合衆国だけで、この2国は戦争で債権国となり、爆発的な経済発展を遂げていた。
この経済力を背景に日米の国際的な発言力はおおいに高まったが、講和会議の主導したのはイギリスとフランスであった。
これは死傷者の数を考えれば当然の話だった。
400万人が死傷者したフランスや200万人が死傷者したイギリスに、アメリカや日本が対等の口をきけるわけがなかった。
ちなみに日本の重軽傷者は30万人で、死者は10万人であった。
およそ120万人をヨーロッパに送り、その4分の1が死ぬか、障害者となって帰国した計算である。
これは日露戦争よりも多い数字であり、日本国内で大問題となった。
故に、日本としては、参戦時の約束が確実に履行されることは当然として、賠償金がどれだけ得られるかが焦点となった。
第一次世界大戦における日本の戦費はおよそ120億円である。
このうち半分をイギリス・フランスが負担することになっており日本の負担は60億円である。
ただし、英仏から大量の供与兵器を受け取っていたことから、実態としては40億円程度だと見積もられていた。
対して、日本の国家予算は1919年(大正8年)時点で、30億円であったから、国家予算の1.5倍であった。
ちなみに、日露戦争終結時の日本の国家予算がおよそ3億円であったことから14年で、国家予算が10倍となった計算である。
賠償金の最終的な金額は1,320億金マルクとなり、日本の取り分は3%だった。
つまり39.6億マルクである。
日本円換算でおよそ40億円であり、金額だけ見れば収支はとんとんと言ったところであった。
ただし、日本はドイツの太平洋植民地を全て国際連盟の委任統治領として割譲を受けたので、とんとんどころか大黒である。
日本が継承したドイツ太平洋植民地は、パプアニューギニアの4分の1,ビスマルク諸島、ソロモン諸島(ブカ、ブーゲンビル両島及び小諸島群)、カロリン諸島、パラオ、マリアナ諸島(グアム島以外)、サモア諸島、マーシャル諸島及びナウルという広大なものであった。
日本の西太平洋支配がここに成立し、これを管理する南洋庁が設立された。
本部はビスマルク諸島のノイポンメルン、ラバウルに置かれた。
日本のニューギニア、ビスマルク諸島の支配は、オーストラリアから猛反発を受けた。
白豪主義体制のオーストラリアは、強硬な反日外交を展開し、講和会議中も徹底的に日本のドイツ植民地継承を妨害し続けた。
だが、日本軍が戦場で流した血の量はオーストラリアを遥かに上回っていため、オーストラリアが逆に顰蹙を買うだけに終った。
日本の代表団は賠償金と参戦条件であったドイツ太平洋植民地を確保してホクホク顔であったが、賠償金の支払いは滞り、殆ど支払われずに終った。
無い袖は振れないという諺があるのは、日本だけでは無いのである。
日本政府は仕方なく条件を緩め、工作機械やドイツ軍の兵器サンプルによる賠償を認めた。
日本がドイツから入手した兵器サンプルは多岐に渡り、日本海軍が建造する潜水艦は全てこの時に入手したドイツ海軍のUボートが基礎となった。
また、フランスとは賠償金の付け替えを条件に、不要となった武器弾薬の譲渡契約が結ばれている。これは平時の日本陸軍が必要とする武器弾薬の10年分という膨大な量であった。
以後、日本陸軍はやたら景気のいい実弾演習を繰り返すようになる。
そして、ドイツから賠償金を毟り取った戦勝国は、復讐を阻止するため、ドイツに強力な軍備制限を課した。
これは機関銃や軍馬の数まで細かく制限するもので、近代戦に必要不可欠な航空機や潜水艦、戦車、弩級戦艦は保有禁止となった。
特に念入りにドイツ海軍は解体され、ほぼ再起不能な状態まで縮小した。
キール軍港に逼塞していたドイツ艦隊も賠償艦として各国に引き渡されることになった。
しかし、
「ドイツ海軍の誇りを守るため」
賠償艦隊はスカパ・フローで一斉自沈したため、これは不可能となった。
とはいえ、これはまずい対応だった。
賠償艦を得られなかった各国はドイツ各地の軍港や軍事施設から、譲渡される予定だった戦艦と同量の鋼材を強制的に接収することになり、報復としてドイツの鋼製インフラは徹底的に破壊されることになったからだ。
誇りを守るための代償としてはあまりにも重いものだろう。
そもそも、国家の資産である軍艦を政府の命令もなく勝手にロマンチシズムのために毀損させるなど、マトモな軍隊のやることはではない。
接収された鋼材の中には地中から掘り出された水道管まで含まれており、
「やり過ぎではないのか」
という声があがるのは当然といえた。
ドイツの憎悪を招くだけの過酷な講和条約を危惧する声は講和会議当初からささやかれており、イギリスはドイツを追い詰めぎることを懸念していた。
だが、普仏戦争で辛酸をなめさせられたフランスはドイツを徹底的な破壊を望んでいた。
過酷な講和条約を呑まされたドイツ政府は国民の支持を失って政治的な不安定性を増していくことになる。
これは後に第二次世界大戦に至る導火線となった。
フランス軍元帥フェルディナン・フォッシュはヴェルサイユ講和条約を、
「これは平和ではない。20年間の休戦だ」
と述べたが、まさにそのとおりとなったのは歴史の記すとおりである。
だが、そんな先のことを思いやる余裕など戦勝国にはなかった。
膨大な戦時債務の返済のことで頭がいっぱいであり、戦勝国は金と武器をドイツから奪って漸く、戦後の枠組みについて話し合う余裕を得た。
戦後の枠組みで問題となったのは、東欧の処遇であった。
オーストリア=ハンガリー帝国が革命で崩壊した後、東欧では各地に独立政府が誕生して混沌とした状況となっていた。
この独立政府というのが厄介きわまるものであり、各地の独立政府が各々の領土を勝手気ままに設定したため、東欧とバルカン半島は網の目のように国境線が作られ、そこにいりじまった民族が離合集散を繰り返していた。
また東欧の新興独立国は小さく貧しい国が大半で、ロシアとドイツという二大国の間に対抗できるものではなかった。
オーストリア=ハンガリー帝国は大国とはいえないものの、ドイツとロシアという二大陣営の間にあって十分に自律的な国家運営を行える規模をもった領域国家であり、この枠組を破壊したことはさらなる悲劇を呼び込むことになった言える。
だが、戦勝国はオーストリア=ハンガリー帝国に対する復讐感情を以って、これを解体する道を選んだ。
解体を正当化するために唱えられたのが民族自決の原則である。
これはナショナリズムを高揚させるマジックワードとして20世紀後半に世界を席巻することになるが、その当初の適用範囲は東欧地域(白人)に限ったものであった。
だが、中国で日米がさっそくこれを援用することになる。
所謂、満州王国問題である。
1912年、第一次世界大戦直前というタイミングで、中国は辛亥革命という歴史的な転換点を迎えることになった。
中国に権益を有する列強各国は、権益確保のためにその動向を注視し、己の権益を保護に蠢動することになるが、大戦勃発によってそれどころではなくなってしまう。
特にヨーロッパは中国に干渉する力を完全に失ってしまった。
例外は、中国の近傍に位置する大日本帝国と参戦前のアメリカ合衆国だけだった。
日米の懸案は満州の権益保護だったが、アメリカは中国民主化の始まりとして辛亥革命には肯定的であった。
何しろ、中華民国はアジア初の共和制国家である。
満州経営のパートナーである日本は君主制を維持しており、同じ共和制国家として合衆国の中華民国に対する期待は大きなものがあった。
「アジアに生まれた共和制の弟国」
というのが、当時の能天気極まるアメリカの対中姿勢だった。
故に、袁世凱が皇帝に即位した時の落胆は凄まじいものとなった。
アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは、最大級の表現で失望を現し、大日本帝国が進めていた満州の分離独立工作に手を貸すことになる。
日米共同の南満州鉄道やその付属地に関する特殊権益は、1923年で有効期限切れとなるためこれを延長、或いは恒久化するために何らかの措置が必要だったのである。
ウィルソン大統領は、十四か条の平和原則を発表するなど、公平公正な正義の人という評価を得てたが、満州の植民地経営をやめるつもりはさらさらなかった。
本音と建前を使い分けているのは、日本人だけではないのだ。
清朝旧臣、張勲が中心人物となり立憲君主制及びイギリス式の議院内閣制度というアメリカが感情的に妥協できるぎりぎりの範囲で、1917年7月1日に愛新覚羅溥儀を元首とする満州王国が奉天で建国宣言を行った。
アメリカのドルと日本の軍事力を背景とした満州王国の誕生である。
袁世凱死後、政争に明け暮れる中華民国はこれを承認するほかなかった。また、日本が占領中のドイツの山東権益の返還という裏取引もあった。
1919年のパリ講和会議の席にもオブザーバー枠で参加し、満州王国は各国の承認を受け、国際連盟にも参加する独立国となった。
この時、日米は満州王国の正当性を「民族自決」というマジックワードを使って正当化したのである。
実際には満州の分離独立謀略でしかなかったのだが、アメリカから金を借りていた欧州各国は沈黙するしかなかった。
なお、日本政府は満州王国の独立承認に併せて、民族自決の原則に基づき、大韓帝国の統治権を放棄し、独立させている。
これは政治的な一貫性を維持するという目的もあったが、日露戦争後の韓国近代化が一通り完了したことが大きかった。
韓国近代化に要した経費は決して小さいものではなく、だが期待したほどの利益も上がらず、持ち出しが多い朝鮮半島経営に見切りをつけたというのが真相といえた。
こうして日本にとっての第一次世界大戦は終った。
日本は列強の末席から、国際社会の中心へと歩みを進めた。
米英に次ぐ世界第3位の経済大国となり、日露戦争の借金を全て返済し終えたどころか、逆に債権国になっていた。
ドイツ太平洋植民地の継承により、広大な西太平洋のほぼ全域を集中に収めた。
全く結構な話であったが、戦後の日本は不景気となった。
当然の結論であった。
戦争特需がなくなれば、その反動が来るに決まっているのである。
不景気がさほど深刻化しなかったのは日本国内の内需が育っており自律的な発展が可能になっていたことと膨大な公共投資があったためである。
公共投資とは、この場合、軍拡を意味する。
即ち、八八艦隊計画である。
第一次世界大戦の戦争特需を追い風に、帝国海軍は超弩級戦艦八隻、超弩級巡洋戦艦八隻を基幹とする大艦隊の整備を進めていた。
計画の中心人物は、山本権兵衛首相その人である。
第一次世界大戦において日本を戦勝国に導いた山本首相は権勢の絶頂にあり、八八艦隊計画を止める理由はどこにも存在しなかった。
八八艦隊の計画艦は次々と起工され、大戦終結を前後して続々と進水していった。
日本は金剛型巡洋戦艦や扶桑型戦艦をヨーロッパに派遣しており、これを喪失することになれば、国防に大穴が空くため建艦が急がれた。
実際、ユトランド沖海戦では、比叡と霧島が大破して沈みかけたので、この危惧は現実的なものである。
国内の各造船所も八八艦隊計画を両手を挙げて賛成していた。
大戦終結で特需が吹き飛んだ各地の造船所では、海軍の駆逐艦建造を受注できるか、否かに会社存続のかかっていたことから、必死であった。
如才ない山本首相は日本各地の造船所になるだけ均等に発注がいくように海軍と調整を図り、票田を耕すことに余年がなかった。
大戦景気の設備投資で重工業が発展し、建艦計画に必要な鋼材を自給自足できるようになったことも大きかった。
日露戦争時の主力艦は全て海外からの輸入品であり、これは外貨流出であった。
国内で建艦資材を自給自足できれば、建艦費用は全て国内経済で循環することになる。
実際、大戦終結後の景気後退が緩やかなものとなっていたのは、八八艦隊計画による膨大な財政支出があったためである。
八八艦隊計画は日本にとって、
「それをすてるなんてとんでもない!」
ものとなっており、傾いた財政に悲鳴をあげるイギリスが軍縮会議を提案しても聞く耳をもたなかった。
1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮会議が、ほぼ何の成果も得られず流会となったのは当然のなりゆきだろう。
この時、日英同盟に代わる太平洋の多国間安全保障体制も協議されたが、本体の軍縮会議が不成立に終わったのでこちらも話がまとまらなかった。
イギリス政府は日本政府と協議し、世界各地にある植民地警備を海援隊に委託して軍事費を削減する計画を進めており、日英同盟破棄などありえなかった。
ワシントン海軍軍縮会議で決まったことは、2年後の東京での再開催だけだった。
自国での開催であれば、さすがに流会にはできないだろうという英米政府の読みだったが、結局、東京海軍軍縮会議は開催されずに終わる。
1923年9月1日、関東地方をマグニチュード8.1の大地震が襲った。
関東大震災である。
この地震で日本の首都東京は壊滅。被害総額は10億円に昇った。
横須賀で艤装工事中の巡洋戦艦天城が津波で横転沈没し、海軍工廠にも大きな被害が出た。
震災を前後して東京に本社をおく大企業の各社は手形決済が困難となり、緊急勅令でモラトリアムを実施するなど、未曾有の事態となった。
東京へ経済機能が集中していたがゆえに、被害は東京一都市にのみならず日本全国へと波及してしまった。
日本政府の対応は後手に回った。
震災発生時の政府は、山本権兵衛から政権を禅譲された加藤友三郎内閣であったが、加藤首相は大腸がんで急死して首相空席という間の悪さだった。
急遽、組閣の大命を受けた山本は、震災復興のために自分自身の悲願であった八八艦隊計画を無期限延期とした。
首相官邸さえ崩壊し、焼け野原となった東京を目の前にしては、もはや選択の余地はなかった。
1923年11月、開催地を焼け野原になった東京からジュネーブに変更して第2回目の海軍軍縮会議が開催された。
この時の日本代表団の意気消沈ぶりを甚だしく、まるでお通夜のようだったとされている。
前回の会議が流会となった原因である日本がそのような調子であったので、軍縮会議は議事が淡々とすすみ、予定の半分の時間で終了となった。
会議で最初に合意されたのは、質的な規制だった。
これまでバラバラでだった艦の大きさの基準を「基準排水量」で統一し、上限を40,000tとした。これは既に完成していた日本の加賀型戦艦を守るための措置である。
下限は10,000tで、これより下の船については規制対象外となった。
備砲の上限を16インチとすることも各国に異論はなかった。
8インチ以下は規制対象外であり、前述の10,000t以下の排水量規制と併せて条約型巡洋艦という代用戦艦を産む母体となる。
質的な規制が決定したことで数量規制が議論され、50万トンを上限として米英日が5:5:3という割合で調整された。伊・仏は1.75である。
当初、日本は対米7割を求めていたが、アメリカが6割と譲らず、震災復興費用捻出のために日本は6割を受け入れることになった。
また、前回の会議を流会にした負い目が日本にはあり、首都壊滅と併せて強気の交渉に出られる情勢ではなかった。
ただし、既に完成していた長門・陸奥・加賀・土佐の4隻については万難を排して守り、未完成の赤城と地震で大破した天城については諦める方針であった。
会議開催時点で、アメリカ海軍が完成させていた16インチ砲艦はコロラド・メリーランド・ウェストバージニアの3隻のみであり、16インチ砲搭載艦も対米6割とするため、加賀、土佐の廃棄を日本に迫ったので会議が紛糾した。
イギリスが調停に奔走してまとめたのは、コロラド級4番艦の建造を認め、日英米が16インチ砲艦を同率保有することであった。
同時期、イギリス海軍も16インチ砲搭載戦艦、アドミラル級戦艦4隻の建造を進めていたところだった。イギリス海軍も新しい戦艦がほしいと考えており、日英米がそれぞれ4隻ずつ16インチ砲搭載艦を保有することになる。
これでは軍拡条約ではないかという批判もないわけではなかったが、イギリスは日本にユトランド沖海戦の借りがあり、助け舟を出すことになった。
対米6割を受け入れた日本としては16インチ砲搭載艦の同率保有で愁眉を開くことになり、これで交渉がまとまった。
ジュネーブ海軍軍縮条約後の各国の保有戦艦は以下のとおりである。
日本海軍
加賀型:加賀 土佐
長門型:長門、陸奥
伊勢型:伊勢、日向
扶桑型:扶桑、山城
霧島型:霧島、比叡(練習戦艦)
* 最も古く火力・防御ともに欠く金剛、榛名は廃艦、前弩級艦も全て破棄
* 建造中の赤城は空母へと改装。天城は損傷修理不能のため解体処分
* 霧島、比叡はユトランド沖海戦で負った損傷修理の際に防御力改善工事を行っていたため生き延びた。ただし、比叡は3,4番砲塔と機関を一部撤去して練習戦艦に変更
アメリカ海軍
ワシントン級:ワシントン
コロラド級:コロラド、メリーランド、ウェストバージニア
テネシー級:テネシー、カリフォルニア
ニューメキシコ級:ニューメキシコ、ミシシッピ、アイダホ
ペンシルベニア級:ペンシルベニア、アリゾナ
ネバダ級:ネバダ、オクラホマ
ニューヨーク級:ニューヨーク、テキサス
ワイオミング級:ワイオミング、アーカンソー
ユタ級:ユタ(練習戦艦)
* コロラド級4番艦のワシントンは40,000tまで排水量を増やし、完全な16インチ砲防御をもった別クラスとして完成した。
イギリス海軍
アドミラル級:ネルソン、ロドニー、アンソン、ハウ
フッド級:フッド
レナウン級:レナウン、レパルス
リヴェンジ級:リヴェンジ、レゾリューション、ラミリーズ
ロイヤル・サブリン、ロイヤル・オーク
クイーン・エリザベス級:クイーン・エリザベス、ウォースパイト、バーラム、
ヴァリアント、マレーヤ
タイガー級:タイガー
アイアン・デューク級:アイアン・デューク(練習戦艦)
* アドミラル級は当初計画では基準排水量35,000tで16インチ砲三連装三基を前部に集中配置し、速力を切り捨てた特異なスタイルの戦艦だったが、ジュネーブ海軍軍縮条約の結果、基準排水量40,000tまで増加。機関増設が可能となり速力26ノットのバランスのとれた中速戦艦となった。
加賀、土佐、長門、陸奥、ワシントン、コロラド、メリーランド、ウェストバージニア、ネルソン、ロドニー、アンソン、ハウ。
軍縮条約の結果生まれた12隻の16インチ砲搭載戦艦を世界12大戦艦と人々は呼び表した。
軍艦の数と大きさが国力を現した最後の時代の始まりである。
なお、戦艦以外にも航空母艦の保有規制が行われ、英米の135,000tに対して日本の割当は81,000tであった。
空母は各国2隻に限って33,000tを上限とし、それ以外の上限は27,000tだった。
これはレキシントンや赤城といった巡洋戦艦改造空母のための規定である。
空母は他に備砲を8インチ以下とするなど、大口径砲を装備することを禁止する規定があった。
これは空母の運用方法が未だ定まっておらず、空母の形をした戦艦のようなものを建造する抜け道を封じる規定であった。
条約の有効期間は10年とし、この間は主力艦の建造は禁止となった。
所謂、海軍休日である。
ジュネーブ海軍軍縮条約は1924年1月1日発効し、1934年12月末まで続く。
軍縮条約締結と同時に日英同盟の改定が行われた。
対米6割の軍備では国防がおぼつかない日本にとって、日英同盟は国家安全保障の要であった。
イギリスにしても、安価に海外植民地を警備するために海援隊が必要であり、英米対等の時代に太平洋でアメリカ海軍を牽制してくれる日本海軍の存在は有用と考えられた。
アメリカは東西挟撃を回避するため、日英同盟にフランス・アメリカを加えた四国条約を提案したが、日英から袖にされて終った。
こうして、八八艦隊計画は未完に終ったのである。
軍縮条約のような国際的な枷もかけられたが、
「天災なら仕方がない」
というのが帝国海軍の一般的な反応であった。
これは台風、地震国の日本ならではの諦観といえた。
日露戦争後の大久保利通による軍縮のような政府の一方的な措置によるものなら、不満の一つも出てくるというものだが、相手が天災ではどうしようもなかった。
条約に反対するものがいないわけではなかったが、その声は小さかった。大きなうねりとなって派閥をつくり、海軍を二つに割るような論争は成立しえかった。
また、海軍は八八艦隊計画のために二代続けて首相を海軍から送り出すなど、あまりにも政治に関与しすぎていた。
そのため政治的に物事を考える癖がついており、震災復興に国家が一丸となって取り組んでいる状況では、どう考えても建艦計画を諦めるほかなかった。
実際、日本の震災復興の焦眉の急であった。
震災復興に大きな役割を果たしたのは、最晩年の坂本龍馬だった。
龍馬は震災発生時、サンフランシスコの病院に入院しており、余命幾ばくもない状態だった。
病名は胃がんである。
だが、東京の惨状を知ると龍馬は病院から抜け出し、北米海援隊の各支店を総動員して食料や衛生資材などの支援物資をかき集めて北米航路の貨客船「いろは丸(三代目)」に乗せると自らこれに飛び乗って太平洋を渡った。
己の命が尽きるか、日本につくのが早いか、という間際の時にあって、船の上から世界中の海援隊に支援物資を集めるように指示を出し、日本に着くと同時に息を引き取った。
明治政府の基本となった船中八策といい、龍馬の人生には何かと船に縁があった。
故に、最期の時もまた船の上で迎えることになった。
遺書には、遺産を全額日本の復興資金に充てるよう記されており、その総額は5億円に達した。
日本の国家予算が30億円の時代の5億円である。
坂本龍馬の壮絶な死と高潔な志は、多くの人々の心を揺さぶった。
未だ健在であった御坊兼光も3億円という巨額の寄付を行ったので、他の財閥や大企業も何もしないわけにはいかなかった。
最終的に集まった寄付金は15億円に達した。
もう一度繰り返すが、国家予算が30億円の時代の15億円である。
兼光もまた震災発生当初から動いており、偶然にも震災発生当日に東京にいたことから、素早く対応の指示を出すことに成功している。
海援隊はいくつかの幸運や独自の地震対策があったこともあり、震災初期段階において大きな役割を果たした。
東京や近辺にある海援隊の拠点は、当時としては異様に耐震強度が高く設定されており、重要施設の類は全て津波の被害を免れるように高台に建設されていた。
このため、東京近辺の海援隊は震災によって機能停止することはなかった。
これらには兼光の指示により、自家発電機や大量の食料や燃料、医薬品が万が一の事態に備えて備蓄されており、即座に防災拠点として使用可能だった。
野口製薬所直営病院が東京には5箇所あったが、これらも同レベルの備蓄を備え、廊下や会議室、事務室に至るまで、全ての場所で医療措置が可能な設計となっており、
「野戦病院か、ここは?」
と呆れられるほどの能力過剰であったが、関東大震災に際してその真価を発揮することになる。
また、震災発生当日、横須賀鎮守府で海援隊の警備隊3個連隊が大規模な行軍演習を行う予定があり、彼らはそのまま東京や横浜に直行して被災者救援にあたった。
海援隊の警備部隊はそのまま治安維持活動を展開し、雨後の筍のように現れた自称自警団を解散させると共に正確な情報が伝わるように広報活動を展開している。
最終的に、関東大震災の死者は3万人に達したが、海援隊の初動がもう少し遅かったら、或いは海援隊という組織が存在しなければ、死者はその3倍を超えていたとも推計されている。
まるで予め震災がおきることを予期していたかのような準備の良さであったが、もちろん神ならぬ人間にそのようなことは不可能である。
「備えあれば、憂い無し」
と、兼光も後にマイクチェックしながら語っている。
話が逸れたが、日本政府は初動対応が終わると後藤新平を首班とする帝都復興院を編成し、復興計画策定に乗り出した。
後藤はその計画の気宇壮大なことから大風呂敷というアダ名をつけられている人物で、台湾や満州の開発を成功させた腕利きのテクノクラートでった。
兼光は後藤と親しい間柄であり、復興院の特別顧問として帝都復興に参画している。
後藤は当初、30億円という国家予算1年分に匹敵する帝都復興計画を策定した。
この計画に後藤は相当の自信を持っていたのだが、
「倍プッシュだ」
と兼光に言われ、計画書を取り落としたという。
兼光が後藤に逆提案した計画のタイトルは、
「日本列島改造論」
であった。
第一段階として五カ年計画で、100億円の資金を投入して帝都復興と同時に東京・名古屋・大阪という日本三大都市を高規格道路と弾丸鉄道で連結。
第二次五カ年計画では、同レベルの交通網を博多・仙台・新潟まで拡張。日本全国の港湾、沿岸の工業団地を造成し、太平洋沿岸の工業地帯を分散する。
第三次五カ年計画では北海道、四国をトンネルでつなぎ、工業地帯の地方化、分散化を促し、過疎、過密、公害問題を同時に解決するというものであった。
計画は単なるインフラ整備だけではなく、その財源となるガソリン税や自動車税の新設、国内自動車メーカー育成のための補助金交付と道路交通法の改正、農村近代化のための小作料改革と農業協同組合法の施行、農業基本公庫設立、50年間で償却する列島改造国債の発行など、老人の妄想ではなく現実の計画としてまとめられた詳細なものだった。
この計画書をスパイ活動で入手したソビエト連邦が、これをベースに5カ年計画経済を策定するほどの逸品であり、政府主導の重工業化政策であった。
計画を立案したのは海援隊の誇る総合シンクタンク「SCP財団」である。
SCP財団(以後「財団」とする)は全世界に展開した海援隊の参謀本部とも言うべき組織で、規模と設備では帝国海軍軍令部を上回っていた。
ちなみに、SCPは科学:Science、文化:Culture、保護:Protectを意味する。
財団で列島改造計画を纏めたのは、国際企業の海援隊らしくイギリス人のジョン・メイナード・ケインズであった。
ケインズが海援隊に入ったのは1920年のことだった。
パリ講和会議で、対独賠償要求に反対して辞任し「平和の経済的帰結」を発表し、イギリス政府から睨まれ、暇をしていたところを、兼光にスカウトされたのである。
海援隊のファンドマネージャーになったケインズは多額の利益を挙げて海援隊の幹部となり、財団で列島改造計画の立案で重要な役割を果たした。
この計画書を受け取った山本権兵衛は、
「もう一度よく考えられた方がいいでしょう」
と返事を仕掛けて、慌てて口を噤んだ。
山本は大久保利通ではないからだ。
坂本龍馬亡き今、御坊兼光は最後の維新の志士と言えた。
公的には元老ではないけれど、しかし、元老としか言いようがない人物であった。公的な元老としては西園寺公望がいたが、兼光の実績には遠く及ぼなかった。
勝海舟が超人なら、坂本龍馬は鉄人で、それについていった御坊兼光は怪人と言えた。
返事に窮した山本に、
「そうかい。じゃあ、勝手にやらせてもらうよ」
と兼光は笑いかけたという。
この時、山本は死の恐怖に襲われたという。
御坊兼光最後の賭けとなった予算100億円の第一次列島改造計画は1924年から1929年まで続き、ほぼ完全な成功を収めた。
戦後不況と震災後の景気後退は完全に払拭され、1925年の下半期には経済のあらゆる指標が震災発生前の水準を越え、1926年には戦争特需が最大となった1918年の水準まで経済は拡大した。
「もはや戦後ではない」
山本内閣から政権を引き継いだ原敬は、1929年の帝国議会の第二次列島改造計画関連法案の審議に際して、そう言い放った。
それを聞いた兼光は、「20年早い」と謎の言葉を残して、長崎にある私邸で息を引き取った。
1929年10月23日のことだった。
翌日、アメリカ合衆国で株価が大暴落した。
世界大恐慌の始まりである。