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大洋の帝国  作者: 甲殻類
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ヨーロッパは衰退しました



ヨーロッパは衰退しました



 サラエボの銃声が、全ヨーロッパを巻き込んだ大戦争に発展した理由は何だろうか?

 或いは、何故オーストリア皇太子の暗殺というミクロな出来事が、あのような大戦争に発展したのだろうか?

 確かに、オーストリア皇太子の殺害は悲劇であり、東欧の大国オーストリア=ハンガリー帝国はその威信にかけてセルビア王国を制裁しなければならかっただろう。

 しかし、ロシア帝国がセルビア王国を味方してオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦を布告しなければならない理由は何だったのだろうか?

 もちろん、スラブ民族の盟主というプライドは理解するとしても、ドイツ帝国との全面戦争に至る決定があまりにも軽はずみに行われたように思えてならない。

 ドイツとロシアという2大国の戦いが、軽く済むはずなどないのだ。

 ましてや、10年前の日露戦争で連戦連敗し、戦史に残る大敗北を喫したロシア軍に、ドイツを打倒できる実力があると本気で思えた理由は少しも見当たらない。

 さらに不可解なのは、ロシアとの戦争に直面したドイツ帝国が、ロシア軍の動員が完了する前にフランス軍を撃破するために、永世中立国のベルギーに侵攻したのは何故だろうか?

 もちろん、シュリーフェンプランという戦争計画があったことは承知しているし、フランスとロシアに挟まれたドイツが勝つために、それが必要だったことは理解できる。

 だが、ベルギーの中立侵犯は、宣戦布告と同義語と繰り返し警告していたイギリスの哀願に近い警告を無視した理由は見当たらない。

 少なくとも、その後の展開を正当化しうるほどの何かは見えないのだ。

 サラエボ事件から、第一次世界大戦勃発に至る過程を丹念に調査しても、これが戦争原因とする決定的なたった一つの答え見えてこない。

 逆にいえば、全ての要素が未曾有の大戦争を呼び込むための鍵となっていた。

 ドイツ帝国の経済的台頭、大英帝国の相対的な地位低下。汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の対立。弩級戦艦の発明とそれが引き起こした英独建艦競争。国民国家の発展と皇室の地位低下に伴う皇室外交の無力化。窒素固定法による火薬の大量生産技術の確立。列強による世界分割の完了。植民地獲得に遅れたドイツの強引な海外進出。未回収のイタリア問題。硬直した軍部の動員計画。民族主義により火薬庫と化したバルカン半島・・・

 一つ一つは容易に解決可能な問題であったり、或いは科学の進歩に伴う素晴らしい成果物であったが、全ての要素が複雑にからみあって一つの状況を作り出していた。

 即ち、第一次世界大戦である。

 この戦争が始まった時、大日本帝国の首相は山本権兵衛であった。

 日露戦争において海軍大臣を務めた山本は、政界に転出した後は、優れた組織管理者の手腕と日露戦争における名声を活かして首相の座を射止めていた。

 シーメンス事件という小規模な疑獄事件で支持率を落としたりもしたが、アメリカの満州開発による好景気の中にあっては、新聞の小さな記事になる程度の話であった。

 日露戦争後の大規模な軍縮で、多くの主力艦を”撃沈”された帝国海軍は首相に海軍経験者を送り込むことを悲願しており、それが漸く叶ったところであった。

 山本内閣は大戦勃発に際して、ひとまず中立を宣言し、即座に参戦することは見送った。

 これは、日本の存立には関わりない戦争であるという正当な理由に基づくものであった。

 だが、実際にはオフレコで戦争準備を進め、海軍の大規模拡張計画(後の八八艦隊)の予算案を通すなど参戦は既定路線であった。

 即時参戦としなかったのは、日本の参戦をできるだけ高くイギリス・フランスに売りつけるためである。

 ただし、即時参戦を見送る代わりに、イギリスが海援隊と排他的な雇用契約を締結できるように取り計らった。

 海援隊はドイツと太平洋の島嶼植民地の警備契約を結んでいたが、スイス銀行を経由して違約金をきちんと支払った上で契約を破棄した。

 海援隊は商習慣的な信義に従って、一旦、中部太平洋のドイツ植民地から警備部隊を引き上げた上で、改めてイギリス海軍と共に侵攻した。

 ドイツの新聞各社は、


「番兵が泥棒に早変わりした」


 と海援隊の非を打ち鳴らしたが、海援隊は高額の違約金はきちんと支払っており、ドイツ植民地に関する防衛上の機密についてもイギリス軍からの照会には守秘義務を楯に回答を拒否してる。

 海援隊は、日本企業の中で最も第一次世界大戦で利益を得た企業となるが、開戦初期から大戦特需という大波に乗るべく全力で動いていた。

 海援隊のロンドン本店やパリ支店、ローマ支店、サンクトペテルブルク支店は、大戦勃発と同時に戦時体制へ突入し、増員に次ぐ増員を重ねて連合国各国からの受注に備えた。

 海援隊総帥の坂本龍馬は大戦勃発の知らせを聞くと即座に、サンフランシスコの隠居所からロンドン本店に入って、前線指揮を執っている。

 隠居していた御坊兼光もまた現役復帰を宣言し、博多にある本社ビルに入って、大戦終了の日まで一度も帰宅しなかった。

 日本を代表する経済人の前傾姿勢に釣られて、他の財閥や企業も波に乗り遅れまいとして大戦景気の只中へと突入していくことになった。

 海援隊日本支店とも言うべき御坊財閥は、まるで大戦勃発を予期していたかのように、所有する造船所の大規模な近代化拡張工事を完了させていた。

 造船所に鋼材を供給する八幡製鉄所に至っては、「1,000万円」の賭けという賭博的な大規模投資で拡張に次ぐ拡張を実施していた。

 もしも、第一次世界大戦が勃発しなければ、過大な設備投資で御坊財閥は破産していたと言われているほどの規模であった。

 USスチールと住友が合弁で運営する満州の鞍山製鉄所から「アジア最大最強の製鉄所」のタイトルを奪還した八幡製鉄所は大戦中にも継続して拡張工事を実施し、停戦までに粗鋼生産量年産150万tに達した。

 こうした海援隊の経営方針は、もし大戦が早期に終結していたら取り返しのつかない事態を招きかねなかったが、西武戦線はマルヌ会戦でドイツ軍の進撃が止まり、海へ塹壕線を伸ばすレースがヨーロッパを縦断して、膠着状態に陥った。

 イギリス・フランスの連合軍は、かろうじてドイツ軍のパリ直撃を阻止したが、ドイツ本土への反攻など望むべくもなかった。

 歩兵の突撃と機関銃の掃射はそれまでの戦争では考えられないペースで死傷者を量産化し、熟練兵は開戦から1年足らずで払底することになった。

 これこそ日本の待ち望んでいた状況そのものであった。

 イギリスから懇願に近い参戦要請を受けて、大日本帝国がドイツに宣戦を布告したのは、開戦からおよそ1年後の1915年8月1日のことである。

 なお、参戦にあたって日本がイギリス・フランスに要求したのは、アジア太平洋地域の全てのドイツ植民地の割譲。欧州派遣軍の戦費の半額負担及び最新兵器の供給。戦争遂行に必要な資源の優先的な購入権。アジア太平洋地域の英仏植民地市場への参入であった。

 これらを公文書で受け取った日本軍は、さっそく欧州への派兵を開始する。

 オフレコで戦争準備を進めてきた日本軍は、陸軍25師団を編成を済ませており、4個軍20個師団を欧州派遣軍とした。

 欧州派遣軍総司令官には日露戦争の英雄、乃木希典大将が就任した。

 足元を見られたイギリスやフランスはいい顔をしなかったが、20個師団を即座に用意できる国はもう日本ぐらいしか残っていなかった。

 日本以外ならアメリカ合衆国があったが、モンロー主義(孤立主義)が強い国内世論は参戦に否定的であり、アテにはならなかった。

 とにかく、英仏軍には人がいなかった。

 緒戦の大損害で熟練兵の払底したイギリス軍はキッチーナ陸軍構想を採用し、大量の志願兵を募り、それでも足りないと分かると徴兵制(それまでイギリスに徴兵制度はなかった)を敷いて国中から若者をかき集めている真っ最中だった。

 フランス軍も似たようなものであり、巨大な素人集団を促成の素人将校団が率いるという全く洒落にならない状況だったのである。

 そうした素人集団において、唯一、玄人の集まりであった日本軍は、素人集団が経験を積むまでの間、貴重なストップギャップとなりえた。

 帝国陸軍の先遣隊が南フランスマルセイユの地を踏んだのは、参戦から2ヶ月後の1915年9月25日である。

 戦線投入は10月であり、参戦から3ヶ月後のことであった。

 以後、続々と日本軍はヨーロッパの大地を踏み、停戦までに述べ120万人がヨーロッパへ派遣された。

 その3分の1が帰らぬ人か、障害者となって帰国することになる。

 ちなみに海援隊は開戦の翌月には、後方支援業務をフランスから受注して、隊士を北フランスに送り込んでいた。

 戦死者も、日本人としては海援隊で初めて出している。

 兵士たちには海援隊や日本郵船の船に押し込められヨーロッパに渡ったが、船の中で暇をしていたわけではなく、指揮語として可能な限りの英語教育が施された。

 この英語教育もまた海援隊の受注業務であった。

 英会話は日本国内では特殊技術であり、技能保持者は限られていたが、国際企業の海援隊でロンドンに本店を置く海援隊にとって英会話は前提条件であった。

 海援隊による英会話の促成教育は、非常に実践的な且つ効果的なもので、僅か3ヶ月で一定レベルの会話能力を持たせることに成功している。

 日本の文部省はこの結果に衝撃を受け、戦後、高等教育の英語カリキュラムを全面的に書き換えている。

 ただし、海援隊の英語教育は本当の意味で必要最小限のものであり、動詞や助詞の格変化が機械的に統一されており、


「まるで妖精と喋っているようだ」


 とネイティブな話者からは揶揄される酷いもので、フェアリー英語と呼ばれることもある。

 ある程度、英語ができるようになったとしても、兵士達は暇にはならなかった。 

 他にも学ぶべきことは無数にあり、欧州派遣軍の装備はイギリス・フランス軍から供給を受けることになっていたのでその運用習熟も急務であった。

 フランス軍からはM1897(75mm野砲)やM1913(105mmカノン砲)M1917C(155mm榴弾砲)が供与され、最終的に1,800門が導入されている。

 イギリス軍からは、ストークス・モーター(迫撃砲)が大量に供与された。

 日本製なのは軍衣と中身、あとは小銃ぐらいなものだった。

 小銃も弾が.303ブリティッシュ弾だったから使用されただけで、弾薬が違っていれば小銃も供与品となっていただろう。

 一方的に武器をもらってばかりいるように思われるが、これらの供与兵器はライセンス生産され、弾薬は日本から連合国に大量輸出されていた。

 また、日本から提供された新兵器もある。

 四四年式突撃銃である。

 これはイギリス・フランス軍が共に持ち合わせがない新兵器だった。

 日本軍は日露戦争において、塹壕と機関銃を組み合わせることで数に勝るロシア軍を効果的に撃退した経験から、将来の戦いを塹壕戦になると予測していた。

 そして慎重な研究と実験演習を繰り返し、塹壕攻略には防御の要となる重機関銃を制圧できる突撃可能な軽量の機関銃と、塹壕内の銃撃戦に適応した拳銃弾を使用する高速連射可能な小火器を装備した専門の突撃部隊が最も有効という結論に達した。

 この二種類の全く新しい概念に基づく新兵器の開発は、日本銃器開発者の第一人者である岡辺倫太郎の手に委ねられた。

 倫太郎はここで軍に逆提案を行って、拳銃弾ではなく.303ブリティッシュ弾をベースに薬莢を半分まで短縮した専用の短小弾の採用を認めさせた。

 フルサイズの.303ブリティッシュ弾ほどの威力はないが、拳銃弾よりは遥かに強力な7.7mm短小弾の誕生である。

 これはアサルトライフル用の弾薬として現在使用されているものとほぼ同一のものである。

そして、倫太郎はこの弾薬を用いる新兵器を、突撃部隊専用銃として突撃銃と名付けた。

 世界初のアサルトライフルの誕生である。

 弾薬生産に.303ブリティッシュ弾の設備が流用できるため短小弾の採用は経済的であり、拳銃弾よりも射程距離が延伸され塹壕内のみならず野戦でも使用となり、戦術の幅が広がって小火器としての有用性を著しく高めた。

 作動方式は岡辺式機関銃で既に採用されていたガス圧・ロングピストン方式である。

 ロマ佐賀ライフルの精神を受け継ぎ、設計レベルで実戦の苛酷な使用環境や日本の未熟な生産施設での生産可能性を考慮して部品の公差が大きく取られ、卓越した信頼性と耐久性、および高い生産性を実現した。

 泥田に埋めて馬で蹴り飛ばした後でも作動するほどで、長期間のメンテナンスなしでも射撃可能であった。

 また、操作方法は簡便で、新兵が1週間の講習を受けるだけでも一定レベルの射撃技量を身につけることができた。

 まず試作品が海援隊でテストされ、中東の砂漠から東南アジアの欧米植民地警備部隊で使用されて、絶対的な支持を確立した後、帝国陸軍で44年式突撃銃として採用された。

 ただし、当時は塹壕戦用の特殊兵器扱いであり、歩兵の標準装備とはならなかった。

 消費弾薬が著しく増大することが嫌われ、第一次世界大戦当時、この銃が配備されたのは少数のエリート部隊だけだった。

 ドイツ軍はこの新兵器を高く評価し、鹵獲したものは準制式兵器として「Sturmgewehr44 (シュトゥアムゲヴェーア・フィーアウントフィアツィヒ))組織的に運用している。

 四四年式突撃銃には派生型が多く、機関部を流用した三年式軽機関銃がある。

 四四年式突撃銃と三年式軽機関銃の仕様はほぼ同一であったが、銃身が加熱と連射に耐えるため肉厚なものに変更されている。機関部も増厚されており、極めて堅牢である。

 どちらも、その完成度の高さからマイナーチェンジを繰り返しながら使用され続け、大正、昭和を生き抜いて21世紀現在でも日本陸軍の主要歩兵火器として使用されている。

 歩兵用の小火器としては最長不倒の記録であり、近似該当の例としてはM1911コルト・ガバメントが挙げられる。

 しかし、アサルトライフルや軽機関銃のような使用条件が厳しい装備でこれほどまでに長期間の使用に耐えた例は他に存在しない。

 話を1916年の欧州に戻す。

 イギリス海外派遣軍(EBF)の指揮下に入った日本軍が、最初に経験した大規模な会戦はソンムの戦い(1916年7月1日~同11月19日)であった。

 日露戦争で激烈な消耗戦を経験済みの日本軍は、可能なかぎり慎重な運用を行ったが、日露戦争の奉天会戦が児戯に思える大規模火力戦に巻き込まれ大損害を受けている。

 しかし、熟練兵が揃っていたことや、日露戦争直後から積み上げてきた塹壕戦対策が功を奏し、連合国軍では最も前進した部隊となった。

 事前の想定どおり、軽機関銃と突撃銃を装備した部隊は塹壕戦で大活躍し、イギリスやフランス軍の称賛を集め、ドイツ軍を震撼させた。

 特にドイツ軍は明治陸軍のモデルとなったことから、日本軍を後輩として軽く見ている節があり、日の丸を掲げた日本軍の突撃で、縦深陣地が次々と突破されたときは狼狽し、醜態を晒すことになった。

 結果として、北フランスに日本軍による突出部が形成されることになる。

 ドイツ軍はソンムの戦いの後半戦、日本軍突出部への集中攻撃を行った。

 所謂、バルジの戦いである。

 突出部という戦術上の利点もさることながら、非白人の軍隊にしてやられたことがドイツ皇帝ヴィルヘルム二世のプライドをいたく刺激いたためである。

 だが、日本軍突出部は幾度となくドイツ軍の攻勢を跳ね返すことになる。

 ドイツ軍の10月攻勢の際には、120万発の砲弾が落下し、重機関銃陣地の80%が破壊されたが、それでも日本軍突出部は陥落しなかった。

 砲撃で重機関銃陣地を破壊しても、すぐに軽機関銃がその穴を埋めてしまうからだ。

 さらに日本軍は陣地防御に新式の対人地雷を大量配備していた。

 四五年式対人地雷は、一見すると足のついた弁当箱だが、その内部には700個の鉄球と爆薬が充填されており、遠隔操作で起爆するとショットガンのように致死的な速度と密度で大量の鉄球を前方にばら撒くという凶悪な指向性散弾地雷だった。

 日露戦争でロシア軍の歩兵突撃で散々な目にあった日本軍は突撃粉砕のためこの種の指向性散弾地雷の配備していた。

 なお、発明したのは四四年式突撃銃と同様に岡辺倫太郎である。

 四五年式対人地雷はすぐに敵味方にコピーされて大量配備され、西部戦線においてさらに死体の山を積み上げることに貢献することになった。

 難攻不落の要塞と化した日本軍陣地は、古の城塞に擬えて今真田丸や乃木丸と称され、ロンドンの新聞ではノギ・フォートレスとして絶賛された。

 日露戦争の英雄は、欧州でも英雄となったのである。

 イギリス軍やフランス軍の兵士達は、自国の将軍よりもグレートジュネラル・ノギの前線視察を名誉とするほどだった。

 ある日、前線の視察を終えた乃木将軍が前線近くの岸壁に立っていると、


「乃木将軍が、まるでストーンウォールのように立っている」


 とイギリス軍のある兵士が叫び、それが新聞に掲載され大反響を呼んだ。

 日本軍はドイツ軍の侵攻を防ぎ止めるストーンウォールとなったのである。

 だが、本国ではおびただしい死傷者の数に頭を抱えていた。

 本当なら英仏軍の体制が整うまでのストップギャップの役割を果たした後は後方に引いて、適当にお茶を濁す予定だったのだが、引くに引けなくなってしまったのである。

 日露戦争の経験を踏まえてもなお、第一次世界大戦の大規模会戦は何もかもスケールが違い過ぎた。

 消費弾薬、戦費、死傷者の数も、あらゆる全てが別次元であり、本当の意味での国家総力戦の幕開けであった。

 スケールの大きさでは海戦も負けおらず、1916年6月1日のユトランド沖海戦は、日英独の主力戦艦が50隻も参加する空前絶後の大規模戦闘となった。

 この戦いにおいて、日本海軍は金剛型巡洋戦艦4隻、扶桑型戦艦2隻を連れて参戦。

 金剛、比叡、霧島、榛名はビーティー提督の巡洋戦艦部隊に配属された。

 金剛型巡洋戦艦4隻を揃えた帝国海軍第1戦隊は、1916年時点で世界最新の巡洋戦艦部隊であり、


「あなた方がここにいることを神に感謝します」


 と海軍大臣ウィンストン・チャーチルに言わしめるほどの一大戦力であった。

 ユトランド沖海戦ではその期待によく応えた。

 英独の巡洋戦艦同士の対決となった南走(Run to the South)では、インディファティガブルを失った後の大苦戦をほぼ単独で支え、ザイドリッツ、フォン・デア・タンを討ち取るという大金星を挙げた。

 その代償に、比叡、霧島が大破して戦線を離脱している。

 この海戦において日本艦隊の遠距離砲撃命中率は英独海軍のそれを大幅に上回っていた。

 次々と命中弾を得る日本艦に対して、いつまでも命中弾を得られない自艦隊に苛立ったビーティー提督は、


「ちくしょう、我が艦隊は今日は何かおかしいんじゃないか」


 と英国紳士らしからぬ発言をするに至っている。

 実際、後の調査により日本艦隊の砲撃命中率は英独艦隊の3倍に達していたことがわかっている。

 何故ならば、帝国海軍は日露戦争の旅順戦において実施した弾着観測射撃の再現を狙って、艦隊随伴可能な高速水上機母艦瑞穂を建造。これを艦隊に帯同させていたからだ。

 瑞穂は河城航空機の三年式複座水上偵察機を8機搭載していた。

 三年式複座水上偵察機は当時の最新鋭機で、エンジンは200馬力程度でしかなかったが、火薬式カタパルトを使用して艦上発進が可能だった。

 しかも無線機を搭載しており、洋上航行中の目標を着弾観測可能だったのである。

 もちろん、航空偵察も可能であり、日英艦隊に貴重な情報を送り続けた。

 戦艦扶桑、山城は第5戦艦戦隊のウォースパイトと共に行動し、先行する巡洋戦艦部隊の救出に成功している。

 その後、戦闘は主力艦隊同士の決戦へ移行したが、兵力に劣るドイツ艦隊が逃走したため決定的な戦果を得ることなく終った。

 だが、この海戦が日本海軍に与えた影響は大きなものであった。

 大破した比叡、霧島の損傷が詳細に分析され、イギリス式の戦艦設計には重大な欠陥があると判明し、国内で建造中の長門型戦艦や加賀型戦艦は急遽、設計変更を実施するというドタバタ騒ぎとなった。

 また、戦艦同士の戦いに水雷艇や潜水艦の雷撃が介入し、海戦の動向を左右したことや、航空機による着弾観測が泊地への砲撃のみならず洋上戦闘でも有効であることが確認されたのは大きかった。

 日本海軍は敵の弾着観測を阻止し、我が方のそれを円滑に行うために洋上の制空権獲得に向け、航空母艦の建造を急ぐことになる。

 大艦巨砲主義の極地である八八艦隊計画に急遽、世界初の航空母艦「鳳翔」の建造予算が盛り込まれるのはこのためである。

 以後、ドイツ海軍は小規模な出撃はあったものの現存艦隊主義にもとづき、バルト海へ逼塞し、日英海軍もまたこれを警戒して港から動けない千日手の状況となった。

 陸の戦いと同じく屍の山が積み上げただけで、現状が固定化されて終ったのである。

 ただし、日本はこの戦いで大きな貸しをイギリスに作った。

 この戦いでドイツ海軍が喪失した戦艦は、リュッツオウ、ポンメルン、ザイドリッツ、フォン・デア・タンの4隻で、その内の半分を日本海軍が仕留めたというのは政治的に決して無視できないからだ。

 陸戦においてもノギ・フォートレスは伝説の域に達しており、イギリス政府は日本に随分と気を使うことになった。

 動かなくなった戦艦に代わって活発に活動したはUボート部隊である。

 連合国の商船を狙ったUボートの戦いは、連合国側の準備不足で大戦果を挙げた。

 1917年2月、無制限潜水艦作戦である。

 Uボートの挑戦に真っ向から受けて立ったのは海援隊であった。

 沿岸警備や海賊対策を列強から下請けして収益源としていた海援隊とって、商船保護は家業であり、戦う相手が海賊やマフィア組織から潜水艦になっただけのことだった。

 外洋大型トロール船をベースにした対潜艦「さくら」型が建造され、ドラム缶やペンキ缶に爆薬を詰めた急造品に爆雷を積んで出撃していった。

 なお、この時から海援隊は艦名にひらがな表記を採用した。

 欧米人にも読みやすく、帝国海軍と差別化を図るという意味もある。

 初期のさくら型には水中聴音器は装備されていなかった。

 Uボートの潜行速度が遅かったので、潜行したポイントを目で見て爆雷をばら撒けばかなりの確率で損傷させることができたからである。だが、Uボートの改良が進むとそうした原始的なやり方では通用しなくなった。

 水中聴音器を開発したのはイギリス海軍で、直ぐに輸入、ライセンス生産され、海援隊の対潜艦に装備されていった。

 帝国海軍もまた地中海で多数の駆逐艦を対潜作戦に投入し、大きな戦果を挙げている。

 しかし、どちらかといえば水上部隊同士の決戦を指向する日本海軍はこの種の護衛任務には否定的であった。

 地中海での活動も、海援隊が次々にUボートを撃沈して新聞の話題をさらっていくことに危機感を覚えたためで、動機としては不純なものと言えた。

 最終的に海援隊は100隻以上のさくら型を建造し、帝国海軍がもう一つあると言われるほど規模を拡大することになった。

 海援隊対潜部隊の死闘を描いた映画が後に作られたが、そのタイトルを「さくら大戦」としたのは海援隊の主力がさくら型であったことを考えれば当然といえるだろう。

「さくら大戦」は日本各地で大ヒットを記録し、日本における海洋戦争映画というジャンルを確立することになる。

 海援隊の旗艦には帝国海軍から払い下げられた大型装甲護衛艦みかさ(旧名:三笠)が選ばれ、みかさはアレキサンドリア港でオーストリア海軍を相手に睨みを利かした。

 なお、大型装甲護衛艦という聞きなれない用語は、軍艦を保有できるのは日本国内において帝国海軍のみという法律上の制約から、戦艦という言葉を使うことができない海援隊が発明した言葉で、要するに戦艦である。

 巡洋艦の場合は中型護衛艦、駆逐艦の場合は小型護衛艦となり、航空母艦の場合は航空護衛艦となり、海援隊の船は全て護衛艦と表記されるようになった。

 さすがに潜水艦は潜水艦のままで、水中護衛艦と言ったりはしなかった。

 幾らなんでも言葉遊びがすぎると判断されたのである。

 海援隊は商船保護のみならず、連合国の後方支援に縦横無尽に活躍した。

 アメリカから海援隊がまとめ買いしたT型フォードを改造したトラックとバスが武器弾薬など物資輸送や兵員輸送を行った。

 T型フォードは構造が単純で改造が容易であったので、野戦救急車や野戦炊事車に改造されたもののも多い。

 そして、これらを運行するのは、中国人や朝鮮人、或いは女性隊士であった。

 第一次世界大戦が勃発してしばらくすると労働力の不足が各国で深刻化した。

 若年労働者は皆、戦場にいってしまったので銃後に残ったのはジジババと子供、女性だけだったのである。

 工業生産を維持、拡大には労働力の捻出が急務であり、女性の社会進出が進むのは当然のなりゆきだった。

 そして、それは海援隊として例外ではなく、むしろ民間企業である海援隊は徴兵のような法的強制性のある手法で人が集められないため、人手不足は深刻な問題だったと言える。

 海援隊の人手確保のために給与水準の大幅な引き上げを実施し、世界中でリクルート活動を行った。

 もともと国際企業である海援隊にとって国籍は問題ではなく、外国人は昔からいくらでもいたので、数だけでなら沢山いる中国人や朝鮮人を雇うことに何の抵抗もなかった。

 それでも足りないので、女性隊士の大量雇用に踏み切り、志願すれば戦闘任務にもつけるようになっていた。

 女が戦闘任務に志願するはずがないという楽観は直ぐに裏切られ、最前線を四四年式突撃銃を抱えた女性隊士がウロウロするようになるのに時間はさほどかからなかった。

 

「男の子の最後の遊び場に、女の子がやってきた」

 

 坂本龍馬がそう笑ったと言われている。

 女性隊士の活躍で最も有名なのは、さくら型護衛艦56番艦「なでしこ」であろう。この船は船長(軍艦ではないので)以下、多数の女性隊士が乗り込んでいた。

 なでしことそのクルー達は主に地中海で戦った。

 なでしこの船長は、女性隊士随一の戦術家で、一晩の間にオーストリア海軍のUボート3隻を撃沈したことを皮切りに、オーストリア海軍の魚雷艇基地への夜襲や浮遊機雷でオーストリア海軍の戦艦を大破させるなどやりたい放題であった。

 また、その美貌は地中海航路の女神と形容され、敵味方問わず多くの将兵が胸を熱くしたという。彼女を捕虜にするため気張り過ぎて返り討ちにあったUボートは数多い。

 海援隊の拠点があったアレキサンドリアでは彼女のブロマイドが販売され、復刻版を現在も入手することができる。

 このままキャリアを積み上げれば、護衛艦隊司令長官も夢ではない言われたほどの才媛であったが、戦後すぐに支那蕎麦屋の店主と結婚して退職してしまった。

 未来の大艦隊よりどうということのない家庭の実質的な支配者を地位を選ぶというこの決定が海援隊に酷い人事上の混乱を巻き起こしたのだが、それはまた別の話である。

 話が逸れたが、海援隊に後方支援を発注したのは日本軍だけではなく、イギリス軍やフランス軍など、連合国軍のほぼ全てが何らの形で海援隊の世話になっていた。

 海援隊に後方支援を発注しなかった軍隊であっても、日清製粉の即席麺は必ず持っていた。

 お湯を入れて3分で食べられる即席麺は、日清・日露戦争で活躍し、第一次世界大戦で世界へ広がった。

 即席麺が、インスタントヌードルや、カップヌードルと呼ばれるようになったのも、英語圏の兵士に売り込むための方便である。

 ドイツ軍でさえ地下市場を通じてカップヌードルを入手して食べていた。

 日清製粉が第一次世界大戦中に売り抜けた即席麺は5,000万食に達した。

 即席麺の販売総数が、1億食に達したのは1922年のことで、戦後の食糧難の時代も日清製粉は即席麺を通じて世界に貢献したと言えるだろう。

 今は世界企業となった日清製粉のサクセスストーリーに第一次世界大戦は避けて通れない道であった。

 これは他の日本企業についても同様であり、大戦の特需で飛躍を遂げた企業は数多い。

 世界初の航空機メーカー、河城航空機もまた戦争特需で大発展を遂げた。

 戦争期間中に河城航空機が送り出した航空機は35種類、延べ2,000機に達した。

 大戦初期には100馬力程度だった航空機用エンジンは末期には5倍の500馬力に達し、単発機から双発機へ進化し、大型の戦略爆撃機まで現れた。

 ただし、戦場が遠すぎて完成機の輸出は上手くいかなかった。

 これは当時の航空機や木製や布貼りが主流で、海路で完成機を送ると輸送中に故障や部材の劣化が酷く、効率が悪いと判断されたためである。

 代わりに航空機用エンジンや、飛行機の部品などの輸出は大きく成功した。

 人件費の安さから河城製のエンジンは、輸送コストを差し引いても同レベルの英仏製のエンジンよりも低価格であり、


「お値段以上のニトリ」


 というセールストークで30,000台の航空機用発動機が売れた。

 これが河城航空機の絶頂期だったと言える。

 ソッピース キャメルに採用された航空機用発動機「シャンハイ」や、スパッド S.XIIIに採用された「ホーライ」、偵察機用の「マガトロ」、爆撃機用の「ネギトロ」など、多種多様なエンジンが開発された。

 飛行機以外にも、マーク I 戦車、ルノーFT17軽戦車のライセンス生産も手がけており、戦争中に大阪砲兵工廠の払い下げを受けて各種火砲や弾薬の製造を担った他、工作機械の生産にも乗り出している。

 河城航空機は大戦中から経営を多角化させ、航空機メーカーではなく総合的な重工業メーカーへと変質していった。

 これは戦後の軍縮を考えれば賢明な対応であった。

 社名も1920年には河城重工となり、航空機の河城は終焉を迎えることになる。

 これは同業の三菱航空機や新興の中島飛行機、川西航空、川崎航空などの勃興があり、市場独占が崩壊し、利益率が下がったことも大きかった。

 だが、これらの新興メーカーが飛行機を作る時、その心臓である発動機をどこから買うかといえば、それは河城重工しかなく、ニトリの発動機は日本標準であり続けることになる。

 日清製粉や河城航空機のみならず、それを抱える御坊財閥や、その本体である海援隊は大発展を遂げ、日本経済の枢要な地位を築いた。

 日本経済もまた世界経済の中で大きな地位を占めることになる。

 戦争前から10%前後の経済成長を続けてきた日本は、大戦期間中に平均18%の経済拡大を経験することになった。

 大戦特需の波に乗って、日本各地に成金やプチブルといった人々が現れた。

 足元が暗いので1円札を燃やす例のアレだ。

 こうした経済の急拡大はインフレーションよって何処かで歯止めがかかるものだが、参戦条件として英仏に突きつけた生産資源の優先的購入権の活用により、国内のインフレーションは穏やかになり、給与の増加が先行した結果、平均購買力が爆発的に上昇していった。

 同時期、ヨーロッパは食料の配給を巡って暴動が起きるなど、端的に言って阿鼻叫喚であったが戦場から遠く離れた日本は平和の中にあって繁栄を謳歌していた。

 戦災という特殊事情があったとはいえ、フランスとドイツを追い抜いて日本はGDP換算で世界第3位の経済大国となっていたのである。

 第一次世界大戦で最も利益を得た日本と言われても仕方がないことであろう。

 自分が当事者ではない戦争ほど儲かるものはないのであった。

 そして、日本にとって儲かる戦争に耐えかねたロシア帝国は革命で倒れ、ドイツは勝機を得たかに思われたが、アメリカ合衆国の参戦でそれもフイになった。

 1918年春季攻勢、カイザーシュラハトで力を使い果たしたドイツ軍は西部戦線で連戦連敗となり、キール軍港での水兵反乱を経てドイツ革命に至る。

 第一次世界大戦が終わって、ヨーロッパは瓦礫の山と成り果てた。




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― 新着の感想 ―
[一言] 河城って転生者か? 河城からニトリが思いつくのは2000年代の人間だよなぁ
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