ラスト・サムライ・スタンディング
ラスト・サムライ・スタンディング
1905年8月、日露戦争の講和会議がアメリカ合衆国ポーツマス海軍工廠で開催された。
所謂、ポーツマス講和会議である。
戦争開始から1年半が経過し、日本の戦争遂行能力は限界に達していた。
奉天会戦と日本海海戦という陸海の未曾有の大勝利を挙げたものの、その代償に人的資源(特に前線指揮官)が払底し、武器弾薬は尽きかけていた。戦費は20億円にも達しており、財政は破綻寸前であった。
対するロシアも、二つの世界史レベルの大敗北で世論は不穏さを増していた。
同年1月の血の日曜日事件などにみられる国内情勢の混乱とロシア第一革命の広がりは国家転覆の危険をはらんでおり、これ以上の戦争継続は不可能であった。
政治的な妥協を図るにはギリギリのタイミングだったといえる。
故に、その交渉は極めて厳しいものとなることはどちらにとっても予想されていた。
この難しい交渉に臨んだ日本の代表者は、伊藤博文であった。
伊藤は長州藩出身であったが、同郷の木戸孝允よりも薩摩の大久保利通に才能を見出されて政界入りした珍しい来歴の持ち主で、その縁もあって大久保第一の腹心であった。
その政治的調整能力の高さから、大久保の後に総理大臣を務めたこともあり、日本の全権大使としては申し分なかった。
対するロシアの代表者は、セルゲイ・ヴィッテであった。
財務大臣、運輸大臣を歴任し、日露戦争にも現実主義的な立場から反対した腕利きの政治家であり、帝政末期のロシアにおいて最良の政治家と後に称されるほどの男であった。
日露はどちらも最良の人材を交渉の場に送り込んだといえる。
だが、日本側にはもうひとり、影の主役ともいうべき男がいた。
海援隊総帥、坂本龍馬その人である。
龍馬は既に隠居の身であったが未だに意気軒昂で世界中を飛び回っていた。東京の赤坂に豪邸(重要文化財)を建てたが、殆ど使用したことがなく、旅の空が彼の住処であった。
日露戦争中の龍馬は、ニューヨークとワシントンを行き来しながら、戦時国債の売り込みと海援隊を通じた武器弾薬の調達、そして、アメリカの世論工作を行っていた。
選挙があるアメリカでは如何なる政治勢力も世論を無視することはできないからだ。
このあたりはアメリカでの生活が長い龍馬ならでは着想であった。
伊藤博文は優れた政治家であったが、民主国家とは言い難い当時の日本の政治家らしく世論工作には無頓着であったから、これはファインプレーであった。
『もしも、日本が敗れれば、ロシアはアジアを飲み込み、やがてアラスカに攻めてくる』
というロシアの脅威を煽る記事がアメリカ国内の右翼系新聞に掲載され、日本はその侵略に立ち向かう高潔なサムライというストーリーが流布された。
ヴィッテがポーツマスに到着した時、彼が目にした光景は敵意を湛えたアメリカ人の表情であり、ロシア代表団は深い孤立感を覚えた。
仲介役のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは元より親日家で、反ロシア世論の高揚もあって日本への肩入れを強くした。
ヴィッテは巻き返しを図ったが、開戦からこの方、世論工作を続けてきた龍馬の布陣は完璧であった。
場外乱闘に等しいやり方で戦う前からロシア代表団を追い込んだ龍馬の手腕に、伊藤は幕末の薩長同盟の奇跡を思い出したという。
第二次長州征伐を前に、武器弾薬に欠く長州藩は存亡の危機にあった。
薩長同盟による武器輸入がなければ、如何に優れた軍略があっても、戦うことはできなかっただろう。
当時、薩摩と長州は犬猿の中であったから、その同盟成立はほぼ奇跡に等しいと言えた。
どのぐらいの奇跡かといえば、パレスチナ(長州)とイスラエル(薩摩)が手を組んで、アメリカ合衆国(幕府)を打倒する程度の奇跡である。
その同盟をまとめ上げたのが坂本龍馬であり、伊藤は元より龍馬を深く尊敬する長州人の一人であった。
実際、伊藤は交渉にあたって日本から同行した有象無象の外務省職員よりも、龍馬一人の智謀を頼りにしていた。
おそらく当時の日本で、一対一のネゴシエーションにおいては最強存在である坂本龍馬というワイルド・カードを切った日本に対して、ヴィッテは大苦戦を強いられた。
また、ヴィッテはニコライ二世の矛盾した命令に苦しめられた。
ニコライ二世は交渉にあたって、二つの原則をヴィッテに示した。
一つは、寸土の土地も1カペイカの金も日本に与えないこと。
もう一つは、東清鉄道の奪還であった。
東清鉄道はシベリア鉄道の終点であるチタ(当時)からウラジオストクを結ぶ唯一鉄路であった。
アムール川北岸を通ってハバロフスク橋でアムール川を渡り、ハバロフスクを経由して、ウラジオストクに至る現在のシベリア鉄道が完成するのは1916年のことである。
東清鉄道が使えなければ、ウラジオストクは陸の孤島だった。
日本軍の東清鉄道占領によってウラジオストクでは生活物資が不足し、このままで冬が越せないほどであった。
もちろん、日本も東清鉄道の重要性には気づいており、そのために東清鉄道沿線を占領下においているのである。
これを交渉で奪い返すには、何らかの代価が必要であった。
だが、その代価の支払いを皇帝から禁止されていたので、ヴィッテは矛盾した二つの原則の間で身動きがとれなくなっていった。
ヴィッテは強気の態度で、
「小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」
と主張したが、これはロシアの侵略性の現れとして、アメリカ国内のマスコミから集中砲火を浴びる結果に終った。
ヨーロッパ各国の世論もまた、ロシアの侵略性に対して否定的な反応を示したので、ヴィッテの強気な態度は尻すぼみになっていった。
詰み、である。
そして、遂に仲介外交を成功させたいアメリカとロシア弱体化を避けたいフランスがニコライ二世を説得し、第一の原則を取り下げさせることに成功した。
まとめられた講和内容の骨子は以下のとおりである。
・日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
・日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
・ロシアは樺太の領土を永久に日本へ譲渡する。
・ロシアは東清鉄道と付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
・ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
・ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
そして、講和条約締結の後に、一度日本に譲渡した東清鉄道の内、南満州の支線を除いた部分(即ちウラジオストクとチタを結ぶ北満州の本線)をロシアが買い取る契約が結ばれた。
買い取り価格は10億円で、これは実質的に賠償金と同義語であった。
こうした政治的なアクロバットとなったのは、ニコライ二世が賠償金の支払いを最後まで拒んだためである。
10億円と樺太全島、そして南満州鉄道の利権獲得で日本は交渉をまとめ、ポーツマス講和条約が締結されることになる。
この結果に対して、日本の世論は微妙な反応を示した。
日本国内では、賠償金30億、50億や沿海州の割譲といった景気のいい意見が幅を利かせており、10億円と樺太全島というのは如何にも少なかった。
実際に日比谷公園では講和反対運動の決起集会が開催されるなど、否定的な意見や動きが目立った。
しかし、それが大規模な暴動に発展したりはしなかった。
もしも仮に講和反対の機運が暴動のような無軌道な暴力に発展し、大量の逮捕者を出すような事態になっていたとしたら、その後の日本の歴史は大きく変わっていたかもしれなかった。
民度の低さに元老達が幻滅し、その後の民主化運動に背を向けような事態となっていた可能性がある。
だが、10億円と樺太全島というのは、如何にも現実的な落とし所だと思われ、講和反対の機運は盛り上がらず、やがて戦争が終わったことにほっとした空気が流れた。
賠償金を増やすために戦争を続けるなど、馬鹿げていることぐらいは少し考えれば分かる話だった。
これが賠償金0円であったのなら、話は別だっただろうが。
また、その後に発表された南満州鉄道の日米共同経営についても、マスコミや野党から文句を言われながらも、なんとか協定締結にたどり着いた。
アメリカの鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンと伊藤博文がまとめた覚書では、ロシアから獲得した南満州鉄道を日米共同経営とし、その代金としてハリマンが1億円の財政支援をする約束になっていた。
伊藤・ハリマン協定である。
これがアメリカに支払う講和仲介手数料であった。
この協定は、
「日本人の血で贖った権益を金で売るのか!?」
という小さくない世論の反発にあった。
だが、これはどうしても必要なことであった。
アメリカに外交上の筋を通す必要があったことも去ることながら、例え賠償金10億円を獲得しても、それでもなお10億円の借金が残っているのである。
それが1億円も減るのは大きかった。
当時の日本の一般会計はおよそ3.5億円であったから、ハリマンの財政支援は歳入の3分の1に匹敵する。
この協定は龍馬がハリマンと事前に地ならしを行った上で、伊藤に提案したものだった。
伊藤は世論の反発を予想して難色を示したが、残り9億円の外債も低利の借り換えができると分かり腹をくくった。
日米共同経営の南満州鉄道会社が発足すると、9億円分の南満州鉄道開発国債が起債され、年利1.5%の利子で販売され、ウォール街がそれを全て買い取った。
日露戦争の戦時国債の利息がおよそ5%であったから、利息支払いは3分の1まで減ったことになる。
これがなければ、戦時増税を借金返済のために戦後も継続しなければならなかっただろう。
増税は消費の減退をもたらすため、深刻な戦後不況に見舞われていた可能性が高かった。
それでも右翼団体や軍部には反発が残ったが、政府は世論の軟化を促すために様々な平和の配当を用意したので最終的には受け入れらた。
平和の配当とは、まず減税であった。
そのために軍縮が断行されることになった。
戦争で膨れ上がった軍備を整理しなければ、減税は不可能だからだ。
戦時に17個師団まで拡大した陸軍は、10個師団まで減ることになった。
これは日露開戦直前の13個師団よりも少ない数字である。
ロシア海軍が壊滅して主敵がいなくなった海軍はさらに大きな軍縮を断行し、六六艦隊は主力戦艦4隻、装甲巡洋艦4隻の売却が決定し、半減することになった。
主力以外の補助艦も例外ではなく、水雷艇などは海援隊に払い下げられた。
「大久保卿は海軍に死ねとおっしゃるのか!」
と、東郷平八郎海軍大将は叫んだとされる。本人のいないところで。
維新三傑最後の生き残りにして、日清、日露戦争の最高指導者を務め上げた大久保利通の決定に逆らえるものなど誰一人いなかった。
大久保に対等の口をきける人間など、坂本龍馬ぐらいだった。
その龍馬とて、大久保との対決は慎重に避けている。
長州閥のボス、山県有朋はこの決定に逆らおうとして失敗し、失脚を余儀なくされた。
日露戦争で量産された軍神達は、この決定を覆すために天皇へ直訴する帷幄上奏権を行使しようとしたが、大久保は宮中の根回しも済ませており、門前払いを食らって終った。
追い詰められた軍部は、一部の佐官クラスが暴発し、大久保の私邸を襲撃する事件を起こしてしまう。
私邸が襲撃された時、大久保は不在であり事件は未遂に終った。
このニュースを聞いた御坊兼光は、
「オイオイオイ・・・死ぬわアイツら」
と後に語っている。
坂本龍馬は、
「侍とは、舐めたら殺すということに尽きる」
として、その後の展開を的確に予想した。
大久保利通は、現在でこその明治の大政治家というイメージがつきまとうが、江戸時代生まれの(下級とはいえ)武士であった。
しかも血なまぐさい蛮風が幕末で残る薩摩藩の侍である。
幕末の京都において、血なまぐさいテロリズムにも手を染め、戊辰戦争では軍の指揮をとった経験もある。
その後は政界入りしたが、元は維新の志士(革命戦士)だった。
幕府は大久保利通の首に賞金をかけており、生死不問の重犯罪者でもあった。
そんな人間の邸宅を襲撃して、ただで済むわけがなかった。
大久保の怒りは凄まじいものであり、実行犯はもれなく銃殺刑。事件に関わったものは例外なく予備役編入となった。
大久保の怒りに、帝国陸海軍は震え上がった。
この一件で増長した軍部の危険性を感じとった大久保は、最後の仕事として憲法改正と軍部の粛正に着手した。
大日本帝国は欽定憲法としてドイツ帝国のそれを模範としていた。
これは君主権の強いもので、今日の帝国憲法とはことなり、民権が弱かった。
これを決めたのは大久保自身であり、漸進主義的な立場から当時の日本の国家体制に最も近いドイツ憲法が選ばれたのだった。
同時期には憲法草案が乱立しており、君主権の弱い大隈重信のイギリス案や、亡命中にフランス憲法に触れた龍馬のフランス案もあった。
イギリス案もフランス案は民主的なものであったが、大久保は時期尚早であるとして退け、ドイツ案が採用された経緯がある。
これはうまく機能し、元老という超法規的な権威と明治天皇の積極的な政治介入、調定により明治政府は政治的な安定を見たのである。
だが、日清日露戦争を経て、日本に住む人々は外敵を前にして団結し、藩という規範を捨てて一つの国家である日本国に所属する日本人となった。
大久保は、日露戦争にて国民国家は完成し、過渡期の制度である現憲法は時代にそぐわなくなったとして、憲法を改め、政治の民主化を図った。
これには戦時の増税や耐乏生活に耐えた国民への平和の配当という意味もある。
併せて完全な男子の普通選挙制度も実現し、大衆の政治参加への道が開かれた。
憲法改正は、1907年(明治40年)である。
大きく改正された大日本帝国憲法では、議会の権限が大幅に強化され、衆議院が貴族院に優越することが定められた。
これまで慣例的なものでしかなかった首相の存在が憲法上に明記され、任意に国務大臣を罷免することができるなど、極めて強い権限が付与された。議会の解散権も首相に属することになり、その力は極めて広範囲に及ぶことになる。
問題になりつつあった統帥権については、天皇は行使に首相の輔弼を得るものとされ、統帥権の独立は否定された。帷幄上奏も閣議決定を経てしか実施できなくなり、軍部が天皇に直接アクセスすることは不可能となった。
大久保がその存命中、極めて独裁的且つ権威主義的政治手法を駆使して世論から乖離した存在であったのにも係わらず、大日本帝国の国父として尊敬されているのは、2度に渡る対外戦争の勝利と1907年の憲法改正によるところが大きい。
日本は明治維新の最後の課題であった政治の民主化を達成したのである。
これは日本の歴史の大きな転換点となった。
明治は45年まで続くが、明治時代の終わりを明治40年の憲法改正とする歴史学者もいるほどである。
そしてこれが大久保利通の最後の仕事となった。
1909年(明治42年)10月26日、大久保は満州、哈爾浜駅のプラットフォームに降り立った。
大久保は最後の奉公として韓国統監を引き受けていた。
日本は第二次日韓協約により、韓国統監府が設置し、実質的な朝鮮の統治権を掌握した。
市場確保や資源獲得の観点から、大久保は朝鮮併合に肯定的な立場で、その統治によって朝鮮半島の急速な日本化が進んでいた。
学校では日本語の授業が強制され、公用語に日本語が指定された。
これに反発する義兵運動が激化したが、大久保はこれを武力で鎮圧した。
大久保はこの種の問題に対して、暴力を用いることに躊躇がなかった。
大韓帝国皇帝高宗は国際社会に朝鮮独立を訴えた(ハーグ密使事件)が、誰からも相手にされなかった。
日本による韓国併合は時間の問題という情勢であった。
その時、大久保は併合をめぐる最後の調整として、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと非公式会談をもつために哈爾浜へ来ていた。
大久保には、先の軍部による私邸襲撃事件の反省から十分な護衛がついており、警備体制は万全のものであった。
だが、同じ駅のホームに現れた朝鮮人の安重根・・・という偽名を名乗っていた新選組最後の生き残り、鬼の副隊長、土方歳三には何の警戒も払われなかった。
それは杖をついた腰の曲がった老人だったからだ。
だが、その鋭い視線を浴びた大久保は、土方と目を合わせた瞬間、顔色を変えたという。
間合いは10mだったが、それを踏破するに要したのは僅か3歩だったという。
杖に仕込まれた和泉守兼定は抜く動作と斬る動作が一体となり、もはや常人の目には追えない神速の域に達していたという。
袈裟斬りを浴びた大久保は即死だった。
土方もまた警官隊の銃弾を浴びて、その場で倒れた。
維新三傑最後の生き残りと新選組最後の生き残りの戦いは、相打ちで終わった。
この顛末を聞き及んだ坂本龍馬は、
「惜しい男を亡くした」
と呟いたという。
どちらが惜しかったのは不明である。
大久保の死後、空白となった韓国統監の椅子には、腹心の伊藤博文が座った。
伊藤は、大久保の影と揶揄されるほど忠実な部下であったが、日韓の併合については否定な立場をとった。
激化する韓国の義兵運動に対しては融和的な対応をとり、大久保が推進していた日本化政策も中止されることになった。
ポーツマス講和条約の一件から龍馬と強い繋がりを持つことになった伊藤は、朝鮮問題についても龍馬の意見を求めたという。
龍馬は一貫して、併合政策には否定的であったから、その影響があったと思われる。
韓国は以後、日本の保護国として一定の安定を見ることになった。
伊藤は韓国の義務教育制度を整え、近代法の施行や封建的な両班制度の解体を行って、韓国の近代化と自治権確立に貢献した。
21世紀現在でも、韓国の至るところに伊藤博文の功績を讃える銅像があるのはこのためである。
日露戦争により、日本は明治維新以来追い求めてきた安全保障の安定を見えた。
樺太、南満州、朝鮮という海外利権の獲得により、日本は列強の末席に並ぶことになる。
悲願であった不平等条約は全て解消された。
逆に、日露戦争後は露清密約の暴露によって清の中立違反が明らかになり、日清和親条約は大幅な改定を経て治外法権や開港地の獲得など、日本は不平等条約を強いる立場となった。
戦後、日本は一等国を自称するようになる。
坂の上の雲に手が届いた瞬間であった。
満願成就である。
そして、夢が現実のものとなった時、それは夢ではなくただの日常と成り下がり、目標を追い求めて夢中になった日々は過去のものとなった。
日本は国家的な目標を一時、見失うことになる。
戦後の不況はそれに拍車をかけた。
低利の借り換えや軍縮を断行しても、日本の債務残高は9億円に達しており、その返済は待ったなしであった。
戦争特需の反動もあって、戦後不況は不可避の情勢であった。
しかし、それも1年ほどで終息に向かうことになった。
海の向こうからからドルの奔流の押し寄せてきたからだ。
南満州鉄道株式会社の共同経営により、アメリカ合衆国は悲願であった中国市場への参入を達成することになった。
西部開拓の終了により国内でだぶついていた金は、投資先を求めて満州へと押し寄せた。
日本経済はその波に上手く乗ることができたのである。
20世紀初頭、アメリカは世界最大の工業国にのし上がったが、如何にアメリカの工業力を持ってしても、満州へ太平洋を渡って開拓のための産業設備を運ぶのは不経済であった。
そこで満州開拓に必要な資材は日本に発注されることになる。
日本政府は、戦後、国内の慎重論を抑えて外資の大幅な受け入れを実施した。
日本の主要企業とアメリカ企業の合弁会社が次々と設立され、開放された日本市場にもドルの奔流が押し寄せた。
合弁企業の設立の旗振りを役を担ったのは、高橋是清であった。
西郷コネクションを引き継だ高橋は、日露戦争の戦時国債の販売を通じてウォール街にその人脈の輪を拡大することに成功した。
高橋の音頭取りで設立された日米合弁企業は300社を越え、ドルの力で日本の不景気は吹き払われることになる。
「民力休養、経世済民、経済立国日本」
というスローガンがいつしか掲げられ、戦後の日本は一転して経済発展を国家目標に掲げることになる。
個々人の豊かな生活の確立が、新たな目標となったのである。
アメリカ資本の流入と共に入ってきたアメリカ文化もまた、個人主義的な功利の拡大を肯定した。
実際、ドルは巨人であった。
満鉄沿線の鞍山には、USスチールと住友金属の合弁会社によって、八幡製鉄所を超える巨大な製鉄所が建設され、満州開発に必要な鋼材供給を行った。
満鉄には、米国製の大型蒸気機関車が導入され、満州の各地を凄まじい速度で結びつけた。
そのパワーと巨大さ、スピード、豪華さを味わった後では、もはや日本製の蒸気機関車が蒸気機関車のようなものにしか見えなくなるほど圧倒的なものだった。
産業のエネルギー源である炭鉱開発や鉱山開発には、日露戦争で活躍したアメリカ製の蒸気式土木機械が動員された。
日本が人海戦術でなんとかしようとしたものを、アメリカは圧倒的な機械力でさっさと片付けて、多くの日本人を愕然とさせた。
このような土木機械は、日本では製造不能な高度技術の塊だった。
日本国内では海援隊(御坊財閥)のみが整備補修が可能で、それ以外は手がつけられなかったのである。
だが、産業機械にはこまめな整備が必要不可欠であり、満州や日本国内には合弁会社としてアメリカ企業のメーカー各社が進出して、サービスセンターを建設していった。
この頃、日本とアメリカの間には天と地ほどの生産技術の格差が存在していた。
日本企業(特に御坊財閥系)は先進技術に関する発明やパテントは幾つも持っていたが、それを安定して大量生産する技術には欠けていたのである。
アメリカ資本の進出はそれを上手く補完する形となっていた。
抗生物質の安定生産が可能になったのも、アメリカ企業(ファイザー製薬)の技術があってのことである。
ちなみに、ファイザー製薬は当初、この合弁には否定的だった。
自社の生産技術を盗まれることを恐れたのである。
しかし、合弁相手の野口製薬所(御坊財閥系:初代社長野口英世)が持ち込んだある新薬のサンプルを見て、
「黄金の鉱脈が手の平にあった」
として野口製薬所を全面的に支援することになる。
この時ファイザー製薬に提供された新薬は、後にアメリカではバイアグラという商標で販売を開始し、抗生物質と並ぶ野口製薬所のドル箱となった。
この新薬は勃起不全に対する画期的な治療薬であり、回春剤として全世界に飛ぶように売れた。
その開発は野口製薬所で行われたが、量産化技術はファイザー製薬が提供したものであり、当時の日米合弁企業のあり方を示す典型的なパターンとして記録される。
この当時のアメリカ合衆国の生産技術は日本のそれの20年先を走っており、各地の合弁企業ではアメリカの技術に日本人がついていけず工場では労働災害が多発したほどである。
アメリカ企業が満州開発のための資材を日本企業に発注したが、品質の低さから返品されることなど日常茶飯事で、日本産業界は改めて列強最新技術に打ちのめされたという。
だが、明治維新以来の40年間の蓄積によって、一定レベルの民族資本(特に海援隊)が育っていたことから、日本市場がアメリカ企業に征服されることはなかった。
むしろアメリカの生産技術を学び取る好機となり、外資受け入れ以後、日本製品の品質はめざましく向上することになる。
外資の攻勢は、満州以外にも朝鮮半島や樺太にも及んだ。
樺太ではロシア資本により、炭鉱開発が行われており、それを日本企業が引き継いだ。
とはいえ、日本には他にも既存の炭鉱があったことから開発は低調であった。
樺太の炭鉱開発が本格化するのは、製材やパルプ産業が進出する1920年代のことである。
1900年代に樺太で成功したのは、油田開発である。
石油は20世紀の新たな産業燃料として注目を集めており、アメリカ合衆国のテキサスやカルフォルニアでは大規模な油田開発が行われていた。
日本国内では秋田県や静岡県で僅かに採掘される程度で、その用途は照明用であった。
ガソリンが自動車の燃料となるのはずっと後の話で、当時は薬局で衣服のシミ抜き用に販売されている程度だった。
アメリカに拠点を持っていた海援隊は、燃料資源としての石油に早くから注目しており、アメリカのスタンダード・オイルと合弁会社「帝国石油」を設立し、樺太の油田開発の成功する。
海援隊が優れていたのは、油田開発と並行してその石油製品を使用する産業機械の売り込みを図ったことである。
同時期、日本の各地で火力発電所の建設ラッシュが始まる。
発電機はもっぱらアメリカから輸入されたものか、御坊財閥の傘下企業でライセンス生産されたものであった。
西日本ではドイツ製の発電機が導入されかけたことから、一時期50Hzを使用していた時期がある。
だが、アメリカ製の発電機が海援隊を通じて大量に輸入、ライセンス生産されたことから、最終的に商業用電源の周波数は全国、アメリカと同様に60hzに統一されることになった。
これによって、日本は産業の電化という第二次産業革命期へと突入していくことになる。
各地の小規模事業所向けのディーゼルエンジン販売も本格化し、産業動力から蒸気力や水力を駆逐していった。
日露戦争後、日本各地に小規模な工場が現れ、京浜以外の工業化が進展したのはディーゼルエンジンや売電事業の本格化が大きい。
蒸気力や水力を利用した工場には設備投資に巨額の費用がかかるため、小資本による企業や工場建設は不可能だったからだ。
電気やディーゼルエンジンの普及によって初めて、町工場というものが成立し、日本の重工業化が草の根レベルから進展することになる。
樺太の油田開発の成功を受けて、満州や朝鮮半島でも石油の探鉱が本格化した。
そして、明治最後の年となる1912年に北満州で試掘に成功する。
崩御した明治天皇の功績を称え明治油田と名付けられた北満州の大規模油田は、当時の日本が必要とする石油需要の300年分に匹敵する大規模なものだった。
帝国石油は、アメリカの資本と技術、そして日本人労働者の力でこれを開発し、日本は石油の自給自足を達成することになった。
日露戦争後の不況期を除けば、日本は好景気が続き、GDP換算で10%を超える高度経済成長が続いたのである。
明治が終わり、大正という新しい時代を迎えても、人々の顔には不安の影はなかった。
毎年、豊かに、楽になっていく生活の中で、未来に明るい兆しを見出していたからだ。
しかし、歴史は20世紀を戦争の時代と定義している。
1914年6月28日、サラエボで銃声が鳴り響いた。
第一次世界大戦である。