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大洋の帝国  作者: 甲殻類
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ロマノフバスターズ!

 


 ロマノフバスターズ!


 1904年2月8日、日露戦争はロシア旅順艦隊に対する帝国海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。

 続けて帝国陸軍の先遣隊が朝鮮半島の仁川に上陸。

 同地にて、帝国海軍の巡洋艦部隊が巡洋艦ヴァリヤーグ、コレ-ツを自沈に追い込んだ。

 日本政府は2月10日、正式にロシア帝国に宣戦を布告。日露は戦争状態に突入した。

 この時、日本政府を率いたのは現役に復帰した最後の維新三傑、大久保利通であった。

 老いてもなお冴え渡る頭脳と絶大な政治的権威を併せ持つ大久保は、明治維新以来最大の危機において再び最前線に起つことになる。

 日露が軍事衝突に至った原因は、ロシア伝統の南下政策にあった。

 日清戦争後、ロシア帝国は多額の賄賂を積むことで遼東半島を租借。遼東半島先端に位置する旅順に要塞を築き、太平洋艦隊の根拠地とした。

 ロシアは旅順・大連に伸びる鉄道線を満州に建設し、鉄道沿線に支配権を確保し、満州の植民地化を進めていった。

 冬季に海が凍るロシアはその豊富な地下資源や農産物を輸出することが困難であり、凍ることのない温かい海に貿易港を得ることを長年の悲願としていた。

 そのためのクリミア戦争であり、そのための露土戦争であり、近年はバルカン半島への進出を進めていた。

 だが、バルカン半島への進出はオーストリアやドイツ帝国との鋭い対立を呼び込み、実現は不可能だった。

 朝鮮半島の各地にある港はバルカン半島と同様に冬でも凍らず代替案としては最適であり、満州に続けて朝鮮を飲み込むことはロシア帝国にとって既定路線であった。

 それは朝鮮半島に利権を持つ大日本帝国との対立を意味するが、日本にドイツのような力はないのだ。

 ロシア皇帝ニコライ二世は日本を歯牙にもかけておらず、


「余が望まない限り、戦争はおきない」


 と放言するほどであった。

 それほどまでに日露の国力差は隔絶しており、10対1とも、計算方法によっては20対1という結果さえあったほどである。

 世界初の有人動力飛行に成功したり、奇跡の薬を作ったりと何かと話題には事欠かない国ではあったが、軍靴でたやすく踏み潰せるというのがロシア帝国の一般的な見解だった。

 日清戦争で圧勝するなど、その軍事力は侮れないという意見もなくはなかったが、有色人種同士の戦いであり、白人の軍隊が遅れをとるとは考えていなかった。

 実際、日本は外交的解決に奔走していた。

 1900年に義和団事件が勃発し、ロシアは混乱収拾のため満洲へ大軍を派遣。満州全土を占領下に置いた。

 そのままロシア軍は駐留を続け、満州の植民地化を既成事実化を図ったが、日本はイギリス、アメリカと図って抗議声明を出し、国際的な圧力をかけてきた。

 交渉の結果、3回に分けてロシア軍の撤兵が行われることなった。ロシア帝国は第1回目の撤兵は履行した。

 だが、2回目は実施されなかった。

 ロシアはこれでイギリスとアメリカがどう動くか見定めることにした。

 ここでロシアにとって予想外なことに、イギリスが孤立政策を捨て、日本と軍事同盟を結んだ。

 1902年、日英同盟である。

 まさかイギリスが栄光ある孤立を捨て、日本と軍事同盟を結ぶとは考えられておらず、ロシア帝国の対応は混乱を余儀なくされた。

 日本はイギリスの後ろ盾を得て、満州と朝鮮半島の交換を提案していた。

 所謂、満韓交換論である。

 日本にとっては最後の、ギリギリの条件での外交交渉だった。

 だが、この取引は不成立であった。イギリスが動かないと分かっていたからだ。

 日英同盟は、2国以上の参戦国がない限り、参戦義務が生じない取り決めとなっていた。日露が争った時に、他の国が参戦しなければイギリスは動かないのだ。

 イギリスの狙いは明白であり、日本をけしかけてロシアの軍事力を消耗させることにあった。

 ロシア皇帝ニコライ二世の懸案は、その消耗の程度であった。

 負けるとは考えていない。

 陸軍戦力では10倍、海軍戦力は3倍の差の大差があり、これで負けると考える方がどうかしている。

 これに勝てると考えた日本もどうかしていたが、日本には後がなかった。

 シベリア鉄道は未だ全線開通に至っておらず、これが完成した後はヨーロッパ・ロシアの大兵力が満蒙の地にあふれることは目に見えていた。

 海上輸送が使える日本が、ロシアに対して戦力展開速度と兵站の優位を確保できる1904年のこの瞬間にしか勝機はなかったのである。

 ここを逃せば、あとは万全の体制を整えたロシアの圧倒的な戦力の前にズルズルと譲歩を強いられ、植民地への転落が待っていた。

 少なくとも当時はそう考えられたのである。

 日露戦争は日本にとって祖国防衛戦争だった。

 大日本帝国は、国力が許す限界の軍備を整え、考えられる限りのあらゆる外交努力を尽くして、その上で、一か八かの賭けに出たのである。

 そして、多くの悲観論を日本は実力を以って、覆していった。

 帝国陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った。鴨緑江会戦である。

 この戦いで勝利した日本軍には弾みがつき、続く旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。さらに、旅順救援のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、大石橋の戦いでも勝利した。

 日本軍の戦勝に次ぐ戦勝に世界は驚愕した。

 まさかロシア軍がここまで勝てないとは思っていなかったのである。

 そして、これらの戦術的な勝利によって、日本は漸く戦時国債の販売の目処がたった。

 それまで日本の国債はジャンク債同然の扱いであった。

 最終的に日露戦争の戦費総額は20億2629万円に至るが、当時の日本の一般会計はおよそ3億5千万円であったから、国家予算のおよそ6年分を費やしたことになる。

 そして、その大半が外債によって賄われることになった。

 国債が売れなければ、日本は戦うことさえできないのである。

 坂本龍馬はアメリカにあって、日銀副総裁の高橋是清と共同で、ジョン・モルガンに国債の売り込みをかけていた。

 龍馬は日清戦争や八幡製鉄所の融資をめぐり、ジョン・モルガンと信頼関係を築いていたが、モルガンも個人的な友誼をビジネスに優先することはなかった。

 だが、緒戦の勝利でモルガンも日本の勝利がありえると考えるようになり、戦後の満州進出を見据え、3000万ポンドの戦時国債を引き受けることになった。

 同時期、ロンドンのシティでは病身をおして陸奥宗光が国債販売のために駆けずり回り、ロスチャイルド財閥と渡りをつけて、国債販売に成功している。

 海援隊としても戦時国債の販売で巨額の手数料収入が見込まれており、これは日本のためにも会社のためにも絶対に成功させなければならない商談であった。

 海援隊は、日清戦争と同じく日本軍の後方支援に回った。

 日本軍は途上国の軍隊にありがちなことに、正面装備に予算配分が偏っており、後方支援態勢が脆弱であった。

 その穴を埋めたのが海援隊だった。

 海援隊は軍需品の運搬から、医療活動、占領地の治安維持や兵器の整備、死体処理、防疫活動といった後方支援サービスを手広く”販売”した。

 こうした活動を民間企業に委ねることは、現代でこそ当たり前となっているが、当時は非常に奇異なことであった。

 だが、帝国陸軍は厳密な計算の末、最終的に海援隊にこれらの活動を委ねた方が安上がりとなるという判断を下し、後方支援をほぼ全て海援隊に丸投げしてしまった。

 御坊財閥による接待攻勢や天下り先確保も大きなファクターであったが、乏しい予算と一人でも多くの兵士を前線に送らなければいけない切迫した事情が、非常の決断を下させた。

 帝国海軍もまた鎮守府の運営を海援隊に丸投げしており、当初は佐世保のみだった海援隊の鎮守府経営は呉と横須賀でも実現した。

 海援隊にしてみれば労せず最新の大規模造船所が2つ手に入れたようなものであった。

 海援隊のサービスは後方支援にとどまらず、武装商船を用いた航路防衛や鉄道沿線の警備活動に広がったが、基本的に前線の戦闘任務は引き受けなかった。

 それは割に合わないと判断されたからだ。

 日清戦争の頃ならいざしらず、帝国陸海軍の正面装備が充実していた日露戦争では、海援隊は裏方に回ることになった。

 そのため、一部の高級将校には海援隊を前線で戦えない臆病者や女中の集まりと侮る風潮が現れた。

 だが、現場の兵士は常に清潔な衣類や温かい食事が提供され、潤沢な抗生物質や衛生資材を擁する海援隊のサービスを非常に喜んだ。

 海援隊は大型の野戦炊事馬車を戦場に持ち込んで、和洋中の温食を砲弾の雨が降る中でも調理可能な態勢を整え、蒸気式洗濯機で汚れた軍衣を完璧に洗濯してみせた。

 海援隊の建設部隊が持ち込んだアメリカ製蒸気式ショベルカーは、またたく間に塹壕を掘り抜き、兵士たちはツルハシやスコップで土を掘り返す重労働から解放された。

 後方に下がれば、合法的に提供できるあらゆる慰安設備が海援隊の手によって整えられた。


「傭兵と売春は人類最古の職業」


 とされるが、海援隊はそのどちらも豊富に取り扱っていた。

 緒戦の勝利で戦争継続に目処がたった日本軍は進撃を続け、後退戦略をとるロシア軍を追って北上した。

 遼東半島の旅順は孤立化したが、軍港要塞には旅順艦隊が立てこもっていた。

 これは日本軍の海上補給線に対する重大な脅威だった。

 旅順艦隊が要塞港に立てこもることは予想済みであり、旅順攻略は日本軍にとって既定路線であった。

 このために第3軍が編成され、その司令官には乃木希典大将が命された。

 乃木大将は日清戦争で旅順攻略戦に参加した経験があり、その任命は妥当なものであった。

 第3軍は旅順艦隊撃滅のために新兵器の運用を任されており、相当の自信を以って旅順攻略戦に望むことになる。

 その新兵器とは、飛行機であった。

 もちろん、空爆を行ったわけではない。

 当時の飛行機のペイロードで、それは不可能であった。

 旅順攻略戦に投入されたのは帝国陸軍に制式採用されたニトリ・フライヤー48号、制式名称ニトリ式2型偵察機である。

 ちなみに2型は複座で、1型は単座である。

 ニトリ式偵察機は、旅順上空を飛び、長距離砲の着弾観測を行った。

 所謂、着弾観測射撃である。

 砲撃を行ったのは海軍の沿岸要塞砲である28サンチ榴弾砲だった。

 この巨砲を旅順まで運んだのは海援隊の重量物運搬専門部隊で、アメリカ製の蒸気式トラクターを駆使して内地から砲を運んできた。

 ニトリ式2型偵察機は旅順港上空で28サンチ榴弾砲の着弾を観測、旗旒信号で砲撃結果を報告した。地上の要員が双眼鏡で旗旒信号を電信に換えて後方の砲兵隊へ伝えた。

 砂塵が酷い場合に備えて予備の機材としてアセチレン・ランプを使用した回光通信機も用意されていたが、視界が良好だったので確実性の高い旗旒信号が使用された。

 既に地上の前線観測所から砲撃を誘導する長距離間接射撃は世界各国で実用化の域にあったが、空からの観測による間接照準と砲撃誘導が行われたのはこれが世界初のことであった。

 旅順港は泊地の艦隊を間接砲撃から守るために、泊地を一望できる高地を全て要塞化していたが、その努力は空からの偵察によって全くの徒労に終わることになった。

 この時、ニトリ式偵察機に搭乗し、砲撃を誘導したのが帝国海軍少佐広瀬武夫であった。

 当時の布張り木製複葉機は極めて安定性が低く、墜落事故は日常茶飯事であり、飛行そのものが危険な任務だった。

 長距離砲撃誘導のため特別に志願した広瀬武夫は尻込みする部下を鼓舞するために率先して飛行し、空中から旅順1番乗りを果たした。

 広瀬少佐は無事に任務を全うして帰還し、中佐に特進するという名誉に翼した。


「空の英雄、広瀬武夫」


 として広瀬少佐の名は日本全国どころか、全世界に轟くことになる。

 なお、広瀬少佐は潔癖かつ真面目な人物で、そうした新聞受けする誇大広告を嫌っていたようである。しかし、その後の海軍航空の発展に果たした貢献は極めて大きなものだった。

 最終階級として海軍大将に登りつめることになる広瀬少佐は、海軍航空隊の偉大なパイオニアとして記憶されることになる。

 また、戦後は日露修好に尽力し、文通相手だったロシア人女性と国際結婚している。

 話を旅順戦に戻す。

 まさか、空からの偵察で要塞港を丸裸にされると思っていなかった旅順艦隊は砲撃から逃れるために緊急出港したが、これは不味い手であった。

 すでに湾口には機雷が敷設されており、連合艦隊が待ち伏せていたのである。

 結果は悲惨なもので、機雷により大半の船が沈み、生き残った僅かな船も集中砲撃を受けて全滅することになった。

 港に逃げ帰った船も、着弾観測射撃で撃沈され、旅順艦隊は全滅することになる。

 これが8月24日のことであった。

 艦隊が、手もなく全滅したことは旅順要塞守備隊の士気を大きく挫いた。

 旅順は元々救援の見込みが薄い孤立した要塞であり、特に士気の維持が困難であった。

 そこに追い打ちの艦隊全滅で心が折れてしまったのである。

 要塞上空を飛び回るニトリ式偵察機に全く手も足もでないことも大きく作用した。

 旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ中将が降伏を申し出たのは、艦隊全滅から7日後の8月31日であった。

 第3軍は殆ど戦力を消耗することなく、旅順要塞攻略に成功したのである。

 また旅順に貯め込まれていた膨大な物資が鹵獲された。

 日本軍はこれをツァーリ―供与と呼んで、自軍の軍備に組み込んで活用した。

 世界各国の軍事関係者は、日本軍による飛行機の軍事利用に瞠目することになった。

 飛行機による偵察や砲撃の誘導という全く新しい戦争形態が示されたのである。

 日露戦争はもはやロシアによる消化試合や、極東の局地戦ではなく、最新技術を投入した大規模近代戦争となった。

 日本軍はこの技術的な奇襲を成功させるため、緒戦では飛行機の投入を控えていた。

 旅順攻略後はその封印も解除され、飛行機が前線を飛びまわることになる。

 その結果は画期的なものであった。

 飛行機による偵察が、戦争のやり方を全く変えてしまったのである。

 その端例が、黒溝台会戦であった。

 8月から9月にかけて生起した遼陽会戦で日本軍が勝利すると奉天南側で日露両軍はにらみ合いに入った。

 ロシア軍は伝統的な後退戦略で、日本軍は旅順を落とした第3軍の到着を待っていた。

 ロシア軍は第3軍の到着前に日本軍撃破を狙って攻勢に出たが、守りを固めた日本軍の防衛線に捕まり大敗を喫している。これが沙河会戦であった。

 第3軍の到着は遅れ、合流したときには雪がちらつき始めたため、両軍は冬営に入って決戦は翌年の雪解けを待つことになった。

 ロシア軍は旅順を速攻で陥落させた第3軍を最大の脅威とし、決戦の前に消耗を強いることを主眼に第3軍の守る陣地に冬季攻勢をしかけてきた。

 これが黒溝台会戦と呼ばれることになる戦いとなる。

 雪煙をあげて移動する10万のロシア軍を航空偵察で捉えた第3軍は、第1~4軍から引き抜いた増援と共に待ち伏せを完全に成功させ、ロシア軍に大打撃を与えた。

 海援隊の蒸気式ショベルカーが凍土を削って塹壕を堀り、岡辺式機関銃を並べて待ち構えていた日本軍に騎兵突撃を敢行したロシア軍のコサック騎兵は特に悲惨な損害を被った。

 不足する砲兵火力を補うために、日本軍は大量の機関銃を装備していた。

 また、旅順要塞で鹵獲した大量の鉄条網が騎兵突撃阻止に凄まじい威力を発揮した。

 鉄条網と機関銃の弾幕射撃前に密集して突撃するロシア軍の騎兵は僅か3時間で15,000名の兵士と1万頭の馬を失っている。

 10年後に勃発する第1次世界大戦の西部戦線を先取りするかのような日本軍の戦術は苦肉の策とはいえ、高く評価されるべきだろう。

 また、ロシア軍の動きは航空偵察で常に捕捉されており筒抜けだった。僅かに空いた日本軍防衛陣地の隙間を突いたロシア軍の突破機動も、その動きが筒抜けであれば容易に防ぐことができた。

 兵力はロシア軍が勝っていたが、情報戦では日本軍が勝っていたのである。

 黒溝台会戦の大敗で、ロシア軍の戦略は大きく狂うことになる。

 敵を消耗させるために出た攻勢で、自軍が逆に消耗させられてしまったのである。

 特に騎兵の消耗は致命的で、ロシア軍は偵察や伝令に使う騎兵が不足することになった。

 偵察は軍隊の目であり、伝令は神経であった。その両方に障害を抱えたロシア軍は、行動に精彩を欠くことになる。

 逆に日本軍は兵力と砲弾を温存することに成功し、消耗も最小限に抑えることができた。

 日本軍においては飛行機の有用性が完全に理解された。

 満州軍総参謀長の児玉源太郎は自分専用のニトリ式2型偵察機を用意させ、自ら航空偵察を行って敵情の把握に努めた。

 ロシア軍は飛行機も敗れたと言ってもいい状況であったが、特に飛行機に対する特別な対応は見られなかった。

 

「あんな凧もどきに何ができる?」


 という極東ロシア軍の総司令官アレクセイ・クロパトキンの言葉が全てを表していた。

 ロシア軍はその報いを奉天会戦で受けることになる。

 日本軍は航空偵察によって把握したロシア軍の配備状況を元に、大規模な分進合撃案を採用。両翼に配置した第3軍、第1軍を迂回させ奉天ごとロシア軍を包囲しようとした。

 両翼に張り出した日本軍に対して、ロシア軍の対応は後手に回る。

 偵察に出す騎兵が不足しており、敵情の把握ができなかったのである。

 そのため陽動である第2軍、第4軍、鴨緑江軍の正面攻撃を日本軍の主攻だと誤判断してしまい左右に増援を出すタイミングが遅れた。

 奉天正面の日本軍は溜め込んだ砲弾を全て使い切るつもりで、全砲兵火力を投入しており、これを主力と誤判断したのは無理もない話であった。

 また、ロシア軍は騎兵の消耗から、伝令に質の悪い駄馬を使っていた。

 そのため命令が迅速に伝達されなかった。

 対して、日本軍は師団レベルの伝令には飛行機を使用した。

 クロパトキン大将は、


「日本軍は通常の三倍の速度で機動した」


 と後に述懐した。

 もちろん、赤い人型機動兵器が戦線投入されたわけではない。

 これは情報の伝達速度の差によるところが大きい。

 ロシア軍が質の悪い駄馬で伝令を送る間に日本軍は飛行機で情報のやり取りをしていた。

 情報伝達速度がロシア軍に比べて圧倒的に早いということは、その後の軍事行動も早いということである。

 これが積み重なると同じ騎兵と歩兵の軍隊であっても、見かけ上は通常の3倍の速度で機動しているように見えるのである。

 また、総参謀長の児玉は飛行機に乗って空中から敵情を把握し、場合によっては前線に降り立って的確な指示を与えた。

 複葉機のニトリ式偵察機は100m程度の滑走距離があればどこでも離着陸が可能だった。

 日本陸軍にその人ありと謳われる名将の児玉が飛行機を使って最前線を飛び回っていたのに対して、クロパトキンは後方の司令部で遅れに遅れる伝令を待ってイライラするばかりであった。

 ロシア軍は敗れるべくして、敗れたのである。

 クロパトキンが、戦況が致命的にあることに気づいたのは戦闘開始から3日目のことだった。

 秋山好古少将率いる日本軍騎兵部隊(秋山支隊)が、奉天-哈爾浜の鉄道遮断に成功したのである。

 これにより、極東ロシア軍の主力36万が奉天で包囲された。

 包囲した日本軍の兵力は24万であり、寡兵の日本軍が物量に勝るロシア軍を完全包囲するという戦史上稀に見る展開となった。

 ロシア軍は全力で突破を試みたが、秋山支隊の奮戦で突破は阻止され、第3軍の側面攻撃によって大打撃を受け、突破は阻止された。

 クロパトキンは幕僚と共に脱出を試みたが、哈爾浜郊外の寒村の納屋に潜んでいるところを日本軍の捜索騎兵発見され、捕虜となった。

 奉天会戦は兵力に勝る敵を包囲殲滅し、敵の総大将を捕虜にするという大勝利で終った。

 戦史に名高い、戦争芸術作品奉天アートスティック・バトル・オブ・ホウテンである。

 この瞬間、明治陸軍は神話となった。

 日本軍は包囲網を狭めてロシア軍を圧迫し、これを降伏させると奉天に入城。残敵掃討と追撃戦に移行した。

 総司令官と軍の主力を同時に失ったロシア軍はパニックに陥り、全く立て直しが効かないまま敗退を重ねることになる。

 哈爾浜が呆気なく陥落し、日本軍は大興安嶺を超えて斉斉哈爾、満州里を占領し、東清鉄道沿線を全て制圧した。

 ここで日本政府は勝利に浮かれることなくアメリカ合衆国に講和の仲介を依頼した。

 日本は国家予算の6年分に匹敵する戦費を既に消費しており、これ以上の戦争継続は不可能になっていた。

 軍事的にも奉天会戦以後の追撃戦で補給線は伸び切っており、反撃を受ければ伸び切ったゴムがちぎれ飛ぶように粉砕される運命だった。

 講和の仲介に動いたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは親日家として有名で、西郷隆盛の高潔な人格に心打たれたアメリカ人の一人であった。西郷の晩年の友人でもある。

 死の間際に日米の友好と共栄を西郷から託されたルーズベルトは講和仲介に張り切っていたが、初期の仲介工作は不調に終った。

 ニコライ二世は、奉天の歴史的な大敗にいきり立っていたからだ。

 ロシア軍は奉天の大敗の後、20万の欧露軍の精鋭部隊をシベリア鉄道で送り込もうとした。ロシア軍の最大動員兵力は200万である。極東軍を失っても、おかわりを送ればそれで済む話だった。

 しかし、当時のシベリア鉄道は単線であり、兵員の輸送は遅々として進まなかった。

 シベリアの産業は皆無に等しく、軍隊が必要とするあらゆる物資を鉄道で欧露から運ばなければならなかったので兵員だけ送れば済む問題ではなかった。

 しかも、連戦連敗の後に奉天の大敗で国内から戦争に対する支持は消え、皇帝の権威は失墜。暴動やストライキが頻発し、革命前夜のごとき様相を呈することになっており、欧露軍は暴動鎮圧に駆け回っており、対日戦どころではなくなりつつあった。

 しかも、欧露軍の移動はフランスが待ったをかけてきた。

 ドイツを東から圧迫する欧露軍の移動は、フランスの安全保障上、受け入れ難いことであった。

 ロシアはシベリア鉄道建設でフランスから多額の借款を受けており、フランスの意向を完全に無視することはできなかった。

 陸の戦いで巻き返しができなくなったロシアは、バルチック艦隊の極東回航に賭けることになる。

 迎え撃つのは帝国海軍連合艦隊である。

 その司令長官には東郷平八郎が着任し、旗艦を戦艦三笠に定めた。

 なお、連合艦隊は旅順を早期に攻略しており、ウラジオストク艦隊との戦闘もあったがほぼ無傷であり、猛訓練に励み万全の状態だった。

 旅順戦で威力を発揮した最新技術の着弾観測射撃も使える見込みであった。

 対するバルチック艦隊はその威信に反比例して内実は酷いもので、地球を半周する7ヶ月の大航海によって船体は痛み、整備不良と訓練不足から戦闘力は平時の半分以下という有様だった。

 日英同盟に基づきイギリス海軍は有形無形の妨害工作を実施し、バルチック艦隊は各地の寄港地で満足な休息を得ることもできなかった。

 帝国海軍の首脳部はかなり冷静にこの戦力分析を実施しており、海戦そのものには相当の自信を持っていた。

 問題はただ一つ、バルチック艦隊を見失い、取り逃がすことだった。

 日本海軍は商船を徴用して水上機型ニトリ式偵察機を搭載した特設水上機母艦を台湾、沖縄近海に配置し、空からバルチック艦隊を探した。

 水上機を搭載できない小型艦も通報艦として投入し、帆走の大型漁船まで動員して捜索態勢を整えていた。

 海援隊も手持ちの武装商船を総動員して、バルチック艦隊捜索にあたった。

 それでも取り逃がす恐れは十分にあった。

 空は広く、海は広大だからだ。

 戦艦8隻を基幹とするバルチック艦隊といえども、海の広さからすれば芥子粒にすぎない。

 これを発見するにはよほど幸運が必要だった。

 だが、日本は多数の水上機と通報艦を投入することで、その幸運を強引に引き寄せた。

 バルチック艦隊を発見したのは特設水上機母艦の信濃丸で、搭載する3機の水上機型ニトリ式偵察機のうち1機が、艦隊を発見したのである。

 なお、この時代の偵察機には無線機は搭載されておらず、バルチック艦隊を発見した偵察機は一度母艦に帰投する必要があった。

 洋上航法も未熟な当時では、母艦への帰投さえも命がけの行為であったが偵察機は無事に信濃丸へ帰投。概略位置を掴んだ信濃丸は夜間、大胆にもバルチック艦隊に接近を試みて、遂に接触に成功する。

 その後の展開は、多くの刊行物に記されているとおりである。

 伝説的な東郷ターンとそれに続く激しい同航砲撃戦、夜間の水雷艇襲撃、翌日の残敵掃討でバルチック艦隊は消滅した。

 連合艦隊の損害は僅か水雷艇3隻であり、奉天会戦に並ぶ空前絶後の大勝利であった。

 最後の希望を叩き潰されたロシアは、講和会議のテーブルにつくことになる。




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