はたらく御坊さま!
はたらく御坊さま!
海援隊日本支店、御坊商会を御坊兼光が博多に開いたのは1874年(明治7年)4月1のことである。
同時に社是と社則を定めた。社則で五条で構成され、
一、士道ニ背キ間敷事
(武士道に恥じる行為をしてはならない)
一、勝手二社ヲ脱スルヲ不許
(無断で退職してはならない)
一、勝手ニ金策致不可
(無断で借金をしてはならない)
一、勝手ニ訴訟取扱不可
(無断で争い事を裁いてはならない)
一、私ノ闘争ヲ不許
(個人的な戦闘をしてはならない)
というものであった。まるでどこかの戦闘組織の規則のようであるが、これは採用した者に士族が多く、放っておくと刃傷沙汰になりかねないという事情によるものである。
社是はさらに短く、
運輸、射利、開拓、投機、本邦の応援をなすことを主とす
として、企業としての利益追求のみならず日本国家の応援を掲げていた。
後に兼光は、
「日本国にとって良いことが、御坊商会にとって良いことである。御坊商会にとって良いことは日本国にとって良いことである」
と国家と一体化した企業による利益追求の重要性を述べている。
御坊商会がまず手を付けたのは海援隊の主力である海運業であった。
当時、日本の国内航路には外国船が進出しており、明治政府は「廻漕会社」を設立し幕府所有の蒸気船を与えて巻き返しを図ったが、全く太刀打ち出来ていなかった。
国内航路を外国船に牛耳られているというのは、人体の動脈を押さえられていると言っても過言ではなく、明治政府の危機感は凄まじいものであった。
ここに御坊商会は地中海で鍛えられた商船団を以って殴り込みをかけることになる。
商船団の主力は、亡命時代にヨーロッパで買い漁った中古船であった。
船は多くの場合武装しており、海軍の未整備から無法地帯であった日本沿岸や大陸沿岸を強行突破できる優れものであった。
御坊商会の主敵は外国船であったが、次いで三菱商会との激烈な競争となっていた。
三菱商会を率いる岩崎弥太郎は元海援隊士であり、龍馬の海外脱出に参加せず、国内に残ったグループであった。
三菱と御坊のライバル関係は続き、以後あらゆる業種と業態で争う関係となる。
ただし、兼光と弥太郎は個人的には非常に仲がよい友人同士であり、フランス亡命の際にも当時は非常に高価だった国際郵便で手紙のやりとりを続けている。
海運に並行して、御坊商会は輸出商品の開発に邁進した。
茶や絹といった品目はすでに三菱などが手をつけていたため入手困難であったが、兼光の地元である佐賀の伊万里焼は確保できた。
世界的なジャポニズム流行という潮流に乗って、伊万里から欧米向きのティーセットや食器が大量生産され輸出されるようになる。
さらなる増産のために尾張の瀬戸にも発注がかけられたが瀬戸は国内生産で精一杯であり、瀬戸に比べてやや知名度に欠ける多治見で生産が行われた。
この時、多治見で作られたのは伊万里焼の模造品、贋物であった。
贋物造りの里に成り果てた多治見に住む陶林という若者がこの現状に嘆き、研究を重ねて死馬の骨灰を原料に世にも美しい陶磁器を作り上げ、多治見を世界一の陶都にした物語がありおりはべりいまそがり・・・
話が脱線したが、陶磁器と並ぶ御坊商会の輸出商品に浮世絵版画あった。
これもまた世界的なジャポニズムの流行に乗って多大な利益を齎したが、浮世絵版画は日本国内では衰退の傾向にあった。
世は文明開化であり、浮世絵版画は時代遅れとみなされていたのである。
才能ある若者は西洋画の絵筆をとったが、これは全く輸出品としては成り立たなかった。
当たり前だった。
西洋画など、欧米には吐いて捨てるほどあるのだ。
文明開化の名の下に、日本の良き文化が衰微する現状を憂いた兼光は、優れた浮世絵師を育成・保護するため、明治17年8月に博多で大規模な浮世絵展示即売会を催した。
資金は提供するが、運営の一切は浮世絵師の熱意ある者に任せたこの展示即売会は毎年8月の盆に開催され、徐々に規模を拡大して、開催地を大阪、京都、東京へと移していった。
やがて、浮世絵以外にも西洋画や日本画、写真、彫刻(造形)、織物、染め物、陶芸、俳句の出展が認められ、小説家による同人誌の販売が行われるようになった。
正岡子規が会場で吐血して出入り禁止となったり、売れなかったころの夏目漱石や森鴎外が参加していた記録が残っている。
21世紀現在でも、この展示即売会は主力を漫画作品に変えて東京の国際展示場で8月と12月の年2回開催されている。
ちなみに、これらは表向きの話である。
御坊商会は、海援隊というバックボーンがあったが、日本国内においては後発組であり、主要な輸出商品は既に寡占状態であった。
陶器や浮世絵版画は輸出商品を確保できなかったための苦肉の策というものであり、利ざやの大きな商品は別にあった。
それは人間だった。
傭兵業を営む海援隊は常に新しい兵員の補充を必要としていた。
折しも欧米列強のグレート・ゲーム華やかなりし19世紀末、表沙汰に出来ない小競り合いは日常茶飯事であった。
自らの手を汚すことを厭う人々にとって海援隊は常にリーズナブルな選択肢であった。
また、植民地で渦巻く怨嗟の声はいともたやすく暴動に発展した。
それを列強の先進兵器で叩き潰すのもまた、海援隊のビジネスであった。
現在でも、キューバやハイチ、アフリカでは日本人に対する風当たりが強い。列強国に雇われた海援隊が同地で行った苛烈な弾圧の記憶が残っているのである。
兼光自身も、
「深刻な経済危機にあった日本において、生活の糧として傭兵は、必然的な結論だった」
と述べて、殺しで粥ぐこと是としている。
失業した士族の優先的な雇用というのは表向きの話であり、士族の商法で失敗した一家を借金にがんじがらめにして海外へ売りに出すのは日常業務であった。農村で余った人間を移民事業と偽り戦場や娼館に送った。
若い男なら兵士に、若い女なら娼婦として海外へ輸出された。少年少女であっても一切容赦はしなかった。
多くの者は異国の地で倒れ、日本に帰ることはなかった。
そうした海援隊と明治日本の負の歴史を今に伝えるのが博多港に停泊する移民船エスポワール丸である。
エスポワール丸には、この船で海外に売られた人々の悲惨な末路が展示されている。
文明開化の負の側面そのものであるこの歴史遺産は、晩年の兼光が贖罪を込めて私費で整備したものである。
海運、貿易事業の拡大に従って御坊商会が手をつけたのは造船であった。
帝国武装商船団のフリートは全て欧州や北米の中古船で構成されており、機械的な故障が多く、修理コストが嵩むものであった。
そこで兼光は故障修理を外部に委託するのではなく、内製化し、その経験に基づき新造船を作る計画をたてた。
長崎は既に三菱が手をつけていたので、地元の佐世保に広大な敷地を買い込み、佐世保造船所の建設が始まったのが、明治18年のことである。
佐世保造船所が初の全鋼製船舶「新いろは丸」を送り出したのは明治22年だった。
新いろは丸は日本人の手による完全な独自設計の国産船であったが、部品や材料の多くは欧米からの輸入品で出来ており、完全な国産船とは言えなかった。
特に主機関である蒸気レシプロエンジンはアメリカ製であり、その後も船の心臓である主機関については輸入品という時代が長く続く。
この情勢を一気に挽回すべく、兼光の盟友である岡辺倫太郎は画期的な大出力内燃機関の開発に取り組み、1892年(明治25年)に圧縮着火拡散燃焼機関の開発にこぎつける。
岡辺はこれをオイル・エンジンと名付け日本で特許を取得した。
同時期、ドイツではルドルフ・ディーゼルによってほぼ同じ仕組みの内燃機関、ディーゼル・エンジンが開発され、アメリカやドイツで特許をとっていた。
特許取得は日本の方が僅かに早かったので、本来ならこれはオイル・エンジンかオカベ・エンジンと呼ばれるべきである。
しかしながら、当時の日本の技術でこの画期的な発明を実用化、量産化するのは困難だった。
実用化に手間取り足踏みをしていた期間が長かったことから、先に商業的に成功したディーゼルエンジンという言葉の方が広く普及したのが現状である。
それでも1915年(大正4年)には日本初の商用ディーゼルエンジン船舶「型月丸」を完成させ、御坊商会の商船団はディーゼル完全国産化を成し遂げることになる。
海運業と造船業の拡大は車の両輪であり、佐世保造船所は次々に新造船を送り出し、海援隊の商船団は徐々に中古船の寄せ集めから、新造優秀船のフリートへ発展していった。
海援隊は欧米植民地の沿岸警備や航路防衛を請け負う傭兵業を本業の一つとしていたことから、沿岸警備艦艇を自給自足できることは事業継続の上で必要不可欠であった。
佐世保造船所は、その先端的な技術力と海援隊向けの警備艦艇の建造実績から、1894年(明治27年)に帝国海軍の指定工場となり、佐世保鎮守府へと発展した。
佐世保鎮守府は他の鎮守府と異なり、御坊商会が運営する民営の鎮守府であり、帝国海軍の母港であると同時に海援隊の母港となった。
ちなみに佐世保鎮守府は民営だけあって商業化により各種サービスが非常に充実しており、
「地獄の横鎮、鬼の呉鎮、極楽の佐鎮」
という戯れ歌が造られるほどであった。
話が逸れたが、造船業を拡大する上で、必須要素が鋼材の確保であった。
鋼材の確保には製鉄所が必要である。それも欧米から輸入した鉄スクラップから作るのではなく、鉄鉱石から鋼を作る高炉を備えた銑鋼一貫製鉄所である。
1887年(明治20年)に釜石鉱山田中製鉄所が操業を開始するが、兼光は独自に製鉄所を持ちたいと考え、政府に計画書を提出している。
1892年(明治25年)のことである。
その計画では、150万円でアメリカのカーネギー鉄鋼会社(後のUSスチール)から設備一式と従業員を雇い入れるというものであった。
計画には製鉄所に必要な電力を賄う石炭火力発電所の新設や、従業員が暮らす集中暖房完備の集合住宅の建設を含んでおり、製鉄所を中心とした一つの町を新しくつくるものであった。
製鉄に必要な石炭は筑豊炭田から得るものとし、輸入鉄鉱石の受け入れが容易い北九州の八幡村に製鉄所を建設するものだった。
所謂、八幡製鉄所である。
ちなみに、御坊商会の資本金は計画書提出段階で2万円である。
設備投資に必要な資金は半分が政府の融資、残り半分はアメリカの銀行から借りることになっていた。
計画書を一瞥した大久保利通は、
「もう一度よく考えられた方がいいでしょう」
と回答している。これは事実上の拒否であった。
それを聞いた兼光は、
「そうかい。じゃあ、一人でやらせてもらうよ」
と啖呵を切った逸話がある。
兼光の薩摩嫌いは有名であり、坂本龍馬暗殺未遂の黒幕を大久保利通と考えていたことから、大久保を一方的に嫌っていた。
後に、大久保利通が暗殺された際に兼光は、
「松竹梅(祝の酒)もってこい。豚めが死んだぞ」
と発言し、新聞に謝罪広告を出す羽目になった。
話を明治25年に戻すが、資本金2万円の会社が150万円の設備投資をするのは狂気の沙汰であると人々は考えた。
あるものは手の込んだいたずらか冗談の類だと思っていたという。
当時の日本の国家予算はおよそ8,500万円の時代の150万円である。大卒社の初任給が20円しかない時代であった。
しかし、御坊商会は単独で八幡製鉄所の建設に乗り出し、1893年(明治26年)には建設予定地の造成を始めている。
この未曾有の計画に出資したのはアメリカの銀行家ジョン・モルガンである。
モルガンとの交渉にあたったのはアメリカにいた坂本龍馬だった。
この時、モルガンはアメリカ鉄鋼業界の再編成(後のUSスチール)のためにカーネギー鉄鋼会社の買収を構想しており、龍馬の持ち込んだ計画は両者を引き合わせる場を提供する上で重要な役割を果たした。
龍馬はモルガンに日本と清の間で戦争が始まり、日本が勝つから、今のうちに日本に投資すればボロ儲けできると迫った。
これに対して、
「もし貴方の国が勝ったら、製鉄所の代金を全額ご融資いたしましょう」
と、モルガンは答えている。
言質を取った龍馬は意気揚々と引き上げて、日本にいる兼光に「作戦成功」と電報を打っている。
二人は日本の勝利を全く疑っていなかったという。
だが、多くの人々は、日本と清が争えば、日本が負けて然るべきと考えていた。
それはモルガンとて例外ではなかった。両者の国土の面積や、人口差から考えればそれは当然の結論であった。
当時、清はその圧倒的な潜在能力を眠らせている獅子と考えられていた。
アジアの中心国といえば清であり、その自負こそが中華思想の根源であった。
対して日本は懸命に西欧文明に学んでいたものの、国土は小さく、産業もなく、軍隊も小規模なものしかなかった。
当時、帝国海軍に戦艦は1隻もなかった。
対して清国北洋水師にはドイツから輸入した戦艦「定遠」「鎮遠」があり、この2隻を正面から打ち破る火砲を帝国海軍は持っていなかった。
戦争が始まれば、戦艦「定遠」「鎮遠」によって日本の艦隊は粉砕され、海上封鎖された日本は短期間で干上がり、降伏するしかないだろうと思われていた。
だが、1894年8月1日(明治27年)、日清が宣戦布告を交わした後、大方の予想は全て覆ることになった。
帝国陸軍は、朝鮮半島に上陸すると各地で清軍を撃破。平壌を占領した。
帝国海軍は黄海海戦で勝利し、戦艦「定遠」「鎮遠」は威海衛に逃げ帰ることになった。
その後も日本軍の進撃は続き、1894年12月には威海衛が陸からの攻撃で陥落し、清が無敵を誇った戦艦「定遠」「鎮遠」は自沈して、北洋水師は壊滅した。
この時、圧勝した日本兵の手に握られていたのは、ロマ佐賀3号銃であった。
岡辺倫太郎は金属薬莢とした2号銃にさらに改良を加え、完成度を高めていた。2号銃から3号銃への改良点は、火薬の無煙化である。
また、使用弾薬は303ブリティッシュ弾の互換品に変更されていた。
帝国陸軍はより反動が小さい小口径の弾薬(6.5mm弾)を望んでいたが、兵器製造の大手であった御坊商会は輸出の観点からブリティッシュ弾の使用を望んだ結果である。
日本独自規格の武器弾薬などはセールスの観点から好ましくなかったのである。
武器は御坊商会にとってはなくてはならない主力商品だった。
海援隊の傭兵達が使う小火器の類は御坊商会が製造していた。
倫太郎は欧州亡命時代に学んだ最新の技術を投入した意欲的な新商品を次々と生み出した。
その最たるものが機関銃であった。
日清戦争において、日本軍は常に数的な不利な状況で戦ったが、数の不利は機関銃の火力で補われていた。
日清戦争に投入された岡辺式機関銃は極めて実用的な空冷ガス圧作動式の機関銃で、303ブリティッシュ弾を毎分500発も発射することができた。
これはボルトアクションライフル30丁分の火力であり、刀剣で切り込みをかけてきた清軍3,000名は、僅か3丁の機関銃によって撃退された。
停戦直前は機関銃の射撃音を聞くだけで清軍の歩兵が逃げ出すほどになっており、この新兵器に清軍は全く手も足もでなかった。
日清戦争での岡辺式機関銃の活躍を見たイギリス陸軍は即座に御坊商会と輸入交渉を行って、100丁の発注をかけている。
その後、岡辺式機関銃は英国を中心に各国に輸出され、数多の模倣品を生み出し、30年以上使用される兵器の大ベストセラーとなった。
海援隊も傭兵業の本領を発揮し、一部の精鋭部隊が帝国軍と共に戦場に立った。
だが、本業は後方支援であり、海援隊は日本軍が必要とするあらゆる物資を日本本国か世界各国から買い付けて朝鮮半島の戦場へ運んだ。
海援隊は海軍業者だけあって、物流のエキスパート集団であった。
正規軍の補給段列が経験不足からミスを連発するのに対して、海援隊のデリバリーサービスは迅速且つ正確だった。
「必要な物を、必要な時に、必要な量だけ届ける」
現在ではジャスト・イン・タイム、カンバン方式と呼ばれる優れたロジスティクスシステムを海援隊は明治27年には一部、実現していた。
海援隊の海運業が脅威の急成長を遂げたのは、それなりに理由があるのだった。
もちろん、それは現代のそれほど効率的とはいえないものの、正規の軍隊の補給システムを児戯に等しいと言わしめるほどのものだった。
海援隊は、戦争中ただ一度も前線の兵士を飢えさなかったことを誇りとした。
逆に言えば完全に胃袋を押さえられているに等しかった。
胃袋で考え、動く軍隊というシステムとっては生殺与奪権を握られていると言っても過言ではなかった。
一部の部隊が功名心に駆られて政府の停止命令を無視して北京に進撃しようとしたところ、翌日から食料その他必要な物資が一切届かなくなり、餓死寸前まで追い詰められて泣いて帰ってきた逸話が残されている。
いきり立った一部の将校は海援隊の隊士に武器を向けたが、兵士達は誰も従わなかった。
前線の兵士達は不味い軍隊の野戦給食よりも、紙カップにお湯を入れて3分で食べられる海援隊の即席麺を支持した。
この画期的な簡易調理食品を開発したのも岡辺倫太郎である。
日清戦争中、御坊商会のこの即席麺にて巨利を得て、戦後に財閥内の独立会社をつくった。
これが現在の日清製粉である。
話がやや逸れたが、戦場で完膚なきまでに敗れた清は首都郊外まで迫った日本軍に白旗を揚げ、講和のテーブルにつくことになる。
日清の講和交渉は山口県の赤間関市(現下関市)で行われた。
日本の全権は大久保利通(内閣総理大臣)、清国は李鴻章(北洋大臣直隷総督)だった。
講和条約の締結は、 1895年4月17日のことである。
下関講和条約により、日本は国家予算の3倍にあたる2億5,000万両の賠償金と台湾、澎湖諸島を得た。
さらに、日清間の長年の懸案であった朝鮮の正式独立が達成された。
日本側の全権となった大久保利通はイギリスを筆頭に列強各国に周到な根回しを済ませてから会議に臨んでおり、李鴻章にできることは殆ど何もなかった。
大久保は外国の干渉を招くことを極度に警戒していた。
ロシア帝国は根回しの際に遼東半島の割譲は行き過ぎているとして反対の意思を示していたため、遼東半島は清が買い取る方向でまとめられた。
占領中の山東半島はドイツが文句を言ったので即時撤退となっている。
フランスは同じアジアの国々は対等の関係であるべきと主張したので清とは対等な日清通商航海条約を下関条約と併せて締結することになった。
イギリスとアメリカは何も言わなかった。
この根回しにより、大久保は次に誰と戦い、誰と手を組むべきか、外交の指針を得ることができた。
ちなみにこの根回しは国民には全く知らされておらず、大久保お得意の秘密外交だった。
もしも仮に、不用意に遼東半島などを清から租借していたら、ロシアなどから内政干渉を受けて日本の世論はどうなっていた分かったものではなかった。
だが、大久保の慎重な根回し外交により内政干渉を受けるような事態は回避された。
日清戦争終結後、日英は急速に接近していった。
晩年に執筆された坂本龍馬の自伝の中で、
「日清戦争は、日本の、イギリスの傭兵としての価値を一気に押し上げた」
と述べるとおりに、日本はその軍事力をイギリスの極東戦略にリンクさせていった。
日清戦後、ロシア帝国は遼東半島を清から租借し、満州の鉄道建設を進めて南下政策を強化していったから、先に中国に市場と利権を得ていたイギリスとロシアの対立は必然であった。
南下するロシアにはドイツとフランスがセコンドにつき、それを阻止したい日本にはイギリスとアメリカがセコンドにつくことになる。
だが、それは少し先の出来事であり、話を一旦、御坊商会に戻す。
日清戦争の勝利が確定した後、坂本龍馬は再びジョン・モルガンの元を訪れ、約束通りに150万円の融資を取り付けた。
これ以後、モルガンと龍馬は固い信頼関係を結ぶことになる。
この巨額の融資を聞きつけた明治政府は大いに慌てることになった。
完成すれば、アジア最大最強の銑鋼一貫製鉄所となる八幡製鉄所を全額、外国資本により建造することは国家安全保障の観点から危険すぎた。
鉄は国家なり、という時代である。
総理大臣の大久保は怒り狂ったが、建設費の半額にあたる75万円を政府から融資することを認めるしかなかった。
兼光は政府からの融資を丁重に受けとって、それを八幡製鉄所第2期拡張工事につぎ込み、当初計画の50%増しの製鋼能力を持たせることに成功している。
建設地の八幡村は何もない寒村であったが、造成工事や資材を運ぶ鉄道路線、併設の石炭火力発電所や、従業員用の集合住宅が建設され、一大近代都市に生まれ変わることになる。
年間鋼材生産能力は150,000tであった。
これだけの能力の製鉄所を運営するノウハウは日本にはなく、製鉄所の運営は招聘したカーネギー鉄鋼会社の職員によって行われた。
製鉄は職人の経験や勘に負うところが大きく、設備だけあってもどうしようなかった。
ただし、徐々に日本人職員の比率を高め、10年で完全に日本人のみで運営することになっていた。
ロシアの南下を阻止したいイギリスやアジア進出を窺うアメリカは日本との関係深化を望んでおり、製鉄プラント輸入は政治的にも追い風を受けた。
1897年2月に全ての設備が完成、第一高炉の火入れは2月8日のことだった。
筑豊炭田の石炭がコークスに加工され、そのコークスの熱でアメリカから輸入した鉄鉱石が溶かされ銑鉄と成り、転炉行程を経て鋼に生まれかわっていた。
よくある誤解であるが、八幡製鉄所は当初、中国からの鉄鉱石を受け入れていない。
当初の計画では中国産の鉄鉱石を使う予定だったのだが、プラントがアメリカ産の鉄鉱石に最適化されていたため使用不能だった。
ただし、莫大な輸送コストを考えると品質に劣っても近場で入手できる中国産鉄鉱石は魅力的だった。
八幡製鉄所の発展の歴史はその生産力拡大や品質向上もさることながら、低品質な中国産鉄鉱石を如何にして利用するかという試行錯誤の歴史でもあった。
なお、この試行錯誤の最終的な回答こそが1934年の酸素直噴転炉の導入であり、以後の製鉄の製鉄は全て中国産鉄鉱石によって行われている。
米国産鉄鉱石を使用するしかなかった初期の八幡製鉄所は非常に高コストであったが、明治政府はロシアの南下に備え軍備拡張を急いでおり、鋼はいくらあっても足りなかった。
そのため製鉄所の経営は当初から黒字であり、巨額の融資も返済の目処が立った。
兼光は150万円の賭けに勝ったのである。
その上で、さらなる追加融資を受けて八幡製鉄所には鉄鋼スラグを利用したセメント工場や肥料工場の建設が行われ、巨大なコンビナートへと発展していくことになる。
併設の石炭火力発電所は能力過剰であり、余剰電力が大量にあったことから売電事業も始まる。さらに従業員の通勤や資材の運搬用に引いた鉄道は想像よりも利益が出たため、鉄路は延伸され独立した鉄道会社へ発展した。
増えた従業員に支払う給料の管理を考えれば銀行も必須であり、銀行業をやるなら保険業もという話になる。
御坊商会は海援隊の日本支店であり、本店の方では既に銀行業や保険業に手を付けていた。海運をやるなら保険は必須であり、貿易商であるなら為替管理のために銀行を持つことは必然であった。
企業買収を繰り返すことで明治30年代には、御坊商会は多数の同族傘下企業を従えたコンツェルンとなっていた。
日本五代財閥といえば、三井財閥、三菱財閥、住友財閥、安田財閥、そして御坊財閥であった。或いは海援隊といえる。
財閥の総帥となった兼光は徐々に一線から退いていった。
公的な生活から引退したわけではないが、既に利益を得る仕組みは完成しており、己が前に出ることで後進の成長を妨げることを恐れていたと言われている。
その代わりに、熱心に行ったのが人材の発掘と育成、各種のパトロン活動であった。
兼光に見出された才能は数多いが、最初の一人が岡辺倫太郎であるというのは衆目一致するところである。
ボルトアクションライフル、機関銃、オイル・エンジン、発電機、白熱電灯、蛍光灯、電話器、無線通信、電気自動車、真空管、鉱石ラジオと電波放送システム、電気ファクシミリ、軟式飛行船、合成甘味料、人造石油、合成オイル、即席麺、化学合成殺虫剤、電気炊飯器、電気掃除機、電気洗濯機、合成繊維、タービン・ロケット機関など倫太郎の発明は数知れない。
だが、倫太郎の考案したものは、当時の技術や日本の工業力では実現・生産不可能なものが多く、後進国の悲哀を味わうことは多かった。
1905年に空中窒素固定法を世界で初めて実験室レベルで実現し、特許まで取得したが実用化、産業化には失敗した。プラントが作れない上に、商用運転のために必要な大量の電気を確保できないためである。
そのため、実用化に必要な産業機械をドイツから購入するためにIG・ファルベンに特許を引き渡すことになっている。
生まれてくる場所を間違えた天才とも称される倫太郎は遺産として膨大なスケッチを残すことになる。
これは21世紀現在でも、各種の発明や発見のヒントになるほど優れたものである。
スケッチには、タービン・ロケット推進の空中機動兵器や人工衛星を利用した全地球測位システム、月面へ到達可能な宇宙ロケット、手のひらサイズの携帯できる無線通信機など夢想的なアイデアが詰まっていた。
当時は夢物語として誰にも相手にされなかったが、現在、彼の残したアイデアスケッチは尽く実用化されている。
「岡辺倫太郎は予知能力者だったんだよ!」
「なんだってーーーー!」
というオカルティックな解釈が現れるのも当然と言えよう。
倫太郎ほどではないが、世界史に名を残す業績を挙げた才能といえば、二宮忠八の名が挙がるだろう。
二宮が発明したのは、世界初の有人動力飛行機であった。
兼光と二宮の出会いは1891年(明治24年)のことである。
四国の陸軍丸亀練兵場で小さな模型飛行機が36mのゴム動力飛行を成功させた。これを地元の新聞社が取材し、翌日の朝刊に小さく記事が掲載されたのである。
それを見た兼光が二宮の元を訪れ、
「俺と一緒に人類の新たな歴史を作らないか」
と誘ったのが始まりだったとされる。
地元新聞のわずか数行の記事をどうして兼光が見ていたのかは不明である。
その後、潤沢な資金を得た二宮は陸軍を辞し、飛行機開発に専念するようになる。
蒸気機関を動力源とした風洞実験設備を考案した二宮は、小型の模型でデータを着実に収集し、試作設計を進めた。
並行して飛行試験に適した場所の選定が行われ、最終的に琵琶湖湖畔が選ばれた。
これは琵琶湖の水が太陽光で暖められて水蒸気になる時に上昇気流が発生するためで、最終的に滋賀県の松原が選ばれ、滑走台が建設された。
松原では世界初の有人動力飛行の地として、毎年、人力飛行機による飛行コンテストが開催されている。
これは、最初に飛んだ飛行機が人力だったためである。
二宮の考案した飛行機は当初蒸気機関を動力としていた。しかし、これは失敗作であった。
蒸気機関は大きくかさばるため、模型飛行機レベルなら問題ないが有人では離陸すらおぼつかなかったのである。
そこで、蒸気機関の代わりに小型軽量のガソリンエンジンが使用されることになった。
問題はガソリンエンジンの開発であった。
その頃、倫太郎はドイツから輸入したベンツのモデル3を分解解析し、独自のガソリンエンジンの開発を行っていたが、その出力はわずかに3馬力でしかなかった。
倫太郎は同時期、並行してオイル・エンジンの開発も行っており、ガソリンエンジンばかりにかまってられなかった。
そこで弟子の鳥島明がガソリンエンジンを引き継ぐことになる。
恐るべきことに、それ以前はほぼ全ての発明を倫太郎単独でこなしており、倫太郎の研究所に分業体制が導入されるのはこれが初めてのことだった。
倫太郎は自らの直轄ラボをOKB0とし、二宮のラボをOKB1とした。
なお、OKBとはロシア語のОпытное конструкторское бюро(設計局)をラテン語に転写したOpytnoe Konstructorskoe Byuroではなく、OKABE(岡辺)の語呂合わせである。
直轄のOKB0に関しては現在でも企業秘密のベールに包まれ一切情報公開されておらず、どのような研究が行われていたのかは不明である。
断片的に流出した資料によれば人型の二足歩行兵器や寄生虫の軍事転用、未知の粒子を使用した動力機関など、マッドサイエンティズムあふれる研究が行われていたらしいが、いくらなんでもこれはデマであろう。
以後、飛行機は二宮と鳥島の共同開発体制となり、動力飛行のためガソリンエンジンの開発がスタートした。
ガソリンエンジンの開発は難航したが、機体の製作そのものは順調であり、ガソリンエンジンで飛ぶ前に人力によるテスト飛行が行われた。
1899年8月8日のことである。
自転車を改造したチェーン駆動の人力プロペラ飛行機は、高さ25mの木製滑走台で助走をつけた後、35mの飛行を行った。
これを人類初の動力飛行とする文献もある。
少なくとも空気よりも重い機械が飛べることがわかったのである。
ちなみにパイロットは地元の同志社大学の学生で、名は森本城次といった。城次は一日往復10kmを実家から大学まで自転車で通っており、それが採用の決め手となった。
データ収集のために人力飛行は続けられ、基本的な飛行制御技術が確立された。
今日的な補助翼、昇降舵、方向舵が開発され、空中での姿勢制御が可能となった。
機体の形状も順次洗練されてゆき、飛行距離も1年後には500mを超えるようになった。
1900年8月7日、雨上がりの翌日という上昇気流が特に発生しやすい日を選んで、漸く完成した航空機用ガソリンエンジンを装着したニトリ・フライヤー1号が松原に搬入された。
ニトリ・フライヤー1号のエンジン出力は7馬力だった。
パイロットにはこれまでの飛行経験から城次がそのまま起用された。
ちなみに、ニトリとは、二宮と鳥島の頭文字から取ったものである。二人の鳥でニトリという意味もあるとも言われている。
国内外の報道陣や見物人が見守る中、ニトリ・フライヤー1号は無事飛行に成功し、人力の500mを大幅に上回る1256mの飛行に成功した。
この成功は一大センセーションとなって世界を駆け巡った。
欧米諸国では、開国間もない極東の小国が人類初の動力飛行に成功したことに驚き、その成果を疑ったがやがて事実であることが知れ渡ると地団駄を踏んだ。
人種差別華やかなりし19世紀末に、黄色人種が人類初の動力飛行という輝かしい記録を打ち立てたことは、多くの白人にとって面白からぬことだった。
逆に言えば、白人優位の世界観に風穴を明けたという意味で、ニトリ・フライヤーの成功は単なる技術的な成果以上の意味があったといえる。
文明開化、西洋化という明治時代にあって、日本人の多くがこの不滅の金字塔を打ち立てことに興奮し、喝采を送った。
以後、飛行機というものについて、日本人は並々ならぬ情熱を注ぐことになった。
何しろ、常に後追い、猿真似を強いられる日本人にとって、飛行機は欧米人の先を往くことを許された唯一の分野だったからである。
ニトリ・フライヤーの成功に触発され、アメリカ合衆国ではライト兄弟が1903年に初飛行に成功する。
その飛行距離はわずか25m程度であり、ニトリ・フライヤーの圧倒的な完成度には遠く及ばなかった。
ニトリ・フライヤーは世界各国へ輸出され、特許料を含めて莫大な利益を御坊財閥にもたらすことになる。
この利益を元に、瀬戸内の河城に広大な土地を買取り、滑走路と飛行機工場が建設された。
これが河城航空機、後の河城重工の始まりである。
もう一つ、御坊財閥に莫大な利益を齎した発明といえば、抗生物質が挙げられるだろう。
抗生物質を発見した野口英世もまた兼光に才能を見出された代表的な人物だが、それは些かしまらない状況であった。
野口は友人、知人から借金を重ねて踏み倒した挙句、勤め先の研究所から借りた蔵書を売りに出してクビになったところを拾われたのである。
あまりにも酷い話であるので、後年、野口が自ら出版した自伝からは綺麗に削除されているが、兼光の残した日記にははっきりと書かれている。
野口はその才覚に比例するかのように自堕落な人物で、兼光から与えられた研究資金を使い込み女を買い漁るなど放蕩の限りを尽くした。
しかし、兼光は笑って赦している。
「天才だから仕方がない」
とまで語り、追加の予算をいくらでも用意した。
ただし、勝手に借金をしないという約束を破り、同僚から借金をしていたことが発覚したときは赦されず、兼光の前で九爪の罰を受けた。
御坊商会は社則にて会社の許可なく借金をすることを禁じており、特に同僚同士で金の貸し借りを行うことは厳禁であった。
「違えたら、生爪を剥ぐ」
野口の借金を肩代わりしたとき、兼光はそう警告したとされる。
野口はこれを冗談の類と解釈したが、元維新の志士(革命戦士)の兼光に冗談は通じないのである。
生爪9枚を剥がされた野口は心を入れ替えて研究に励み、抗生物質の発見に至ったと言われているが、兼光の記録を見る限り、反省した様子はなく、しばしば研究費を使い込み遊郭に出入りしたようである。
だが、遊郭にいくために使用済みの実験器具をしまい忘れ、偶然にも病菌の培地に落ちた青カビの胞子が増殖し、病菌を駆逐したことで抗生物質発見に至った。
放蕩も偶には悪くないのかもしれない。
1902年に、野口はサイエンス誌に青カビの抗菌作用に関する論文を掲載し、1914年にはこの発見によりノーベル医学賞を受賞することになる。
抗生物質の量産技術確立には多額の資金が費やされ実用化が急がれた。
初期の抗生物質量産には、日本酒や味噌、醤油といった発酵食品の醸造所が動員され、原始的な方法で抽出作業が行われており、品質のバラつきが多かった。
安定した抗生物質の生産が可能となるには、なお10年の歳月を要するが、それでも量産化が強行されたのは、医薬品として抗生物質が大量に必要となる事態が迫っていたからである。
大日本帝国とロシア帝国は国家安全保障の回避不能な対立状況に陥っていた。
1904年(明治37年)、日露戦争である。