ラスト・タイクーン・ヨシノフ・ゴウランガ!
ラスト・タイクーン・ヨシノフ・ゴウランガ!
1868年9月19日、南仏のマルセイユ港に8隻の見慣れぬ外国船が入港した。
白地を丸に紅く染めた見たこともない国旗を掲げた船が岸壁に横付けとなると船からは国旗と同じく見たこともない珍しい格好をした奇妙な髪型の人々が次々と降りて来たので、噂を聞きつけた人々が見物に集まった。
マルセイユの地元新聞紙はその日の様子をこのように書き残している。
『マルコポーロが黄金の国と呼んだジパングから、タイクーン・ヨシノフがやってきた。タイクーン・ヨシノフはジパングのサムライ族の王者である。サムライ族はチャードとハイクの達人の集まりである。同時にサムライ族はとても誇り高い戦士の一族であり、戦うときは必ず一対一の決闘で決着をつける。負けた方は潔くハラキリをして自害する。フランス政府は彼らの訪問理由を明らかにしてないが、パリでの晩餐会でテンプラを食べることは確定的に明らかだ』
実際に、パリの晩餐会では天麩羅が供されたらしい。
ただし、油が悪かったためか、それを食べた徳川慶喜は腹痛を起こしている。
初代将軍徳川家康も鯛の天麩羅にあたって命を落としたという逸話があるので、そういう家系なのかもしれない。
日本を発ってから6ヶ月。フランスに亡命した徳川慶喜の幕府軍艦6隻と海援隊の2隻は南仏マルセイユに入港した。
ここに至る航海は並大抵のものではなかった。
何しろ、咸臨丸にて日本人による初の太平洋横断が1860年のことである。それからまだ10年も経っていないのだ。
もちろん、殆どの者が海外初経験である。
ましてやヨーロッパまで遠征したものなど一人もいなかった。
だが、彼らはやり遂げた。8隻の亡命艦隊は1隻も欠けることなく、当時の日本としては最長不倒の航海を成し遂げたのである。
同乗していたフランス軍軍事顧問のジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴの助言や助力を得たものではあったが、十分すぎるほど偉大な成功であると言えよう。
亡命艦隊は江戸を出立後、補給のためにアジアやインド洋の各地の寄港しながら、亡命先のフランスへ向かった。
最初の寄港地は琉球である。
この時点で、琉球王国は既に薩摩藩の支配下にあったが、一応、今だに独立国の体裁を保っていたので寄港そのものは問題なかった。
しかし、薩摩海軍の追撃を警戒する必要があり、慶喜は沖縄に上陸することはなく、亡命艦隊は最低限の補給を済ませると直ぐに出港している。
続く寄港地はイギリス支配下の香港であった。
坂本龍馬はイギリスのグラバー商会とのコネがあり、亡命艦隊の入港は根回しが済んでいた。
徳川将軍が海外の土を踏んだのは初のことである。
龍馬や同行した御坊兼光にとっては2回目の香港であった。
アヘン戦争、アロー戦争を経て欧米列強の蚕食が強まる当時の中国において、香港はその前線拠点といえる場所だった。
中国の土地でありながら、中国人は道の端に追いやられ、道の真ん中を歩くのは皆、イギリスやフランスの白人ばかりであることに、慶喜や幕臣達は激しいショックを受けたという。
中にはむせび泣くや熱を出して寝込むものさえいたという。
慶喜の亡命に同道した旧幕臣には、保守派や対外強硬派が多かった。彼らはアジアの各地で起きている欧米列強の帝国主義的な支配の実態を見たことがなかった。
書物では知っていたが、その力の凄まじさを目の当たりにすると自分たちの認識が全く甘いものだったことが痛感された。
中には己の不明を開国論者の龍馬に謝罪に来るものさえいたという。
香港には欧米資本が進出しており、コロニアル調の鉄筋コンクリート建築が立ち並んでいた。龍馬一行はコンクリート高層建築物を見たことがなかった故に、のけぞるように大きな建物を見て呆然自失となる者も多かった。
香港の次に立ち寄ったのは、フランス領インドシナであり、サイゴンであった。
フランスの植民地化により、ここでも白人用の美しい白亜の町が築かれる一方で、ベトナム人は過酷な生活を強いられ、独立運動は弾圧されていた。
「日ノ本も一歩間違えれば、こうなっていたかもしれない」
と、考えるのも無理のない話であった。
続くシンガポールでも、亡命艦隊の一行は三度同じ光景を目にすることになる。
圧倒的な欧米列強の力と、その支配の実態がどのようなものか、一目瞭然であった。
続くインドではイギリスのインド支配がどのようなものかを実地で学ぶことになった。
一行が訪れたのは、インドにおいてカルカッタに次ぐ第二の都市ボンベイであった。
日本では広く信仰されている仏教発祥の地の天竺が、今では見る影もなく落ちぶれ、イギリス支配の軛に置かれていた。
約2,000名の亡命艦隊の殆ど全員が武士であり、日本における読書階級であった。
漢籍などで慣れしたんでいた天竺には漠然とした良いイメージしかなかったので、インドの実態を間近で触れるとその落差にたじろくものが多かった。
又、この地で一行はグラバー商会の好意で建設が進むイギリス資本の紡績工場を見学する機会に恵まれている。
巨大な建屋の中に、蒸気力で稼働する巨大な紡績機械群を見た一行はその機械力に圧倒されることになった。
日本では開国後、イギリス製の安い綿布が大量に輸入され、国内の手工業が壊滅状態に陥ったが、そうなるのも必然であると一行は悟ったという。
亡命艦隊のインド滞在は船の修理のために3ヶ月におよぶことになった。
この間に、徳川慶喜はグラバー商会の案内でインド各地を訪れ、大陸国家の広大な土地感覚に驚きあきれ、インド中に張り巡らされたイギリス資本の鉄道の力を恐れたという。
暗い話が続くが、インドの長逗留はそれなりに楽しい日々でもあったようである。
坂本龍馬は生まれて初めてみた象(インド象)を見て興奮し、象の背に乗っているところを写真に撮ってもらっている。
なお、その写真を撮ったのは徳川慶喜その人であった。
趣味が写真撮影だった慶喜はインド各地で写真を撮影を行っている。
タージ・マハルの白亜のモスクを背景に、和装の丁髷姿で立つ小栗上野介の写真を撮影したのも慶喜である。
また、多く日本人がインド・カレーというものを日常的に食べることになったのもこの時が初めてであった。
何しろ、現地の食べ物といえば殆どがカレー味であった。
3ヶ月も逗留したため、その後、二度とカレーが食べられなくなる者もいたという。
慣れない食べ物で体調を崩すものは多く、ストレスの溜まる生活の中で発病し、命を落とすものも出てきていた。
新選組の天才剣士沖田総司もその一人であり、日本にいた時から結核を病んでいた彼はインドの過酷な環境に耐えられず、ボンベイで命を落とすことになった。
ボンベイの港を見下ろす外国人墓地には、現在でも沖田総司の墓がある。
これは余談だが、21世紀現在、過去の偉人や英雄をモチーフにしたキャラクターが戦うソーシャルゲームが日本で流行しており、その中で何故か女性化した沖田総司が登場し、「もう二度とカレーは見たくない」という発言をするのは、死ぬ間際までカレーを食べさせられた故事による。
なお、御坊兼光はカレーを日本の国民食足りうる食材と看破し、多数のサンプルを日本に送ってる。
相棒の岡辺倫太郎は大のカレー好きとなり、彼の手によって日本人好みにアレンジされた調合済みカレー粉が市販されるようになるのは明治10年のことである。
なお、倫太郎のカレー好きは常軌を逸していたところがあり、
「カレーは飲み物である」
という非常識な発言をして龍馬から顰蹙を買っている。
倫太郎の悪食は当時から有名で、日本人で初めてコーラ(1886年発明)を飲んだ人物としても知られている。
発明家の倫太郎は帰国後にコーラの再現を試みたが、コーラの実が入手困難であったため断念している。
しかし、23種類ものフレーバーを調合することで、コーラに近い味わいの再現に成功し、ドクター・ペッパーという名前で1890年に銀座で販売にこぎつけている。
ドクター・ペッパーは現在、日本全国の自動販売機で購入することができるが、発売当初は全く売れなかったという。
なお、倫太郎は販売促進のためにドクター・ペッパーを飲めば頭が良くなる、発明王になれるなど明らかな誇大広告や嘘の広告を行ったため、警察に呼びだされ厳重注意を受けている。
ドクター・ペッパーのドクターは理解できるとしても、ペッパーとは何なのかは現在に至るまで謎である。
話が逸れたが、兼光や倫太郎、そして龍馬は亡命の逃避行の中にあっても、商機を探し続けていた。
亡命艦隊は当座の軍資金として江戸城から持ち出した20万両があったが、使ってしまえばそれまでであり、食いつないでいくためにはそれを元手に商売をするしかなかった。
それこそ、日本初の株式会社である海援隊にとっては望むところであり、
「やっと、世界の龍馬になれた気がする」
と、ボンベイの港町で沈む夕日を背に龍馬が述懐に至るのである。
その後、船の修理が終った亡命艦隊はエジプトに立ち寄り、慶喜は陸路でカイロに入った。
ここで広大なエジプトの砂漠とピラミッド、スフィンクスを見学している。
広大な砂漠とスフィンクスを背景に神妙な顔をした武士達の集合写真を現在でも徳川美術館のネットアーカイブスで閲覧することができる。
艦隊は希望岬を回って大西洋へ入り、日本を発ってから半年後の1868年9月19日、南仏のマルセイユ港にたどり付き、海援隊のヨーロッパ展開が始まるのである。
海援隊の本店は、パリに開設された。
慶喜の亡命を受け入れたのはフランスであったから、これは当然のことであった。
後に、本店はロンドンに移ることになるが、日本に本店を持たない日本企業は海援隊が初めてであった。
初めてといえば、パリやロンドン、ベルリン、プラハ、リスボン、ローマといったヨーロッパの主要都市に支店を置いたのも海援隊が日本初である。
ついでに国際企業としても海援隊は日本初の存在であり、亡命者約2,000名はそっくりそのまま海援隊の職員扱いとなった。
旧幕臣には反発するものもいたが、もはや状況は一蓮托生であった。
慶喜は出資者として亡命資金20万両をそっくりそのまま龍馬に預けて、その財政基盤の確立を支援している。
海援隊の展開にはフランス政府の意向が強く働いていた。
後の情報公開によるとフランス政府は、当時、慶喜ら亡命者を支援することで明治政府の体制転覆と日本の植民地化を画策していた。
実際に、フランス極東軍を派遣して、幕府再興を支援する計画さえあった。
だが、インドシナや香港、シンガポールで欧米列強のアジア支配の実態をこれでもかというほど見せられた慶喜や、亡命者一行はフランスの甘言には乗らなかった。
紐付きになりかねない無償支援や武器貸与は丁重に断り、低利の借款や対等な契約に基づいた取引のみを受け入れ、一切付け入る隙を与えなかったのである。
慶喜は丁髷洋装姿でフランス社交界デヴューを果たし、欧州の上流階級社会へと食い込んでいった。
幸運なことに、19世紀末のフランスはジャポニスムの全盛期を迎えつつあり、丁髷や和服姿の慶喜や龍馬はどの社交界でも熱狂的に歓迎された。
ヨーロッパ一流の芸術家が日本の浮世絵や陶芸品の熱狂的なコレクターとなって収集している状況であり、商機が一山幾らで転がっている状況であった。
ゴッホの『タンギー爺さん』やエドゥアール・マネ『エミール・ゾラの肖像』など、当時のフランスの芸術家達のジャポニスム趣味を現在伝えている。
日本ではさして価値もなく消費され、使い捨てになるような浮世絵版画が信じられない値段で取引されており、海援隊は上手くこのブームに載ることができた。
この時、海援隊が日本から輸入して売りさばいた浮世絵や屏風絵などは、金200万両分にもなったという。
当時、ヨーロッパで一大流行となっていたジャポニスムに触れることは、大きな商機であると同時に、列強の文明力に対して日本文化が対抗可能であることを竜馬達に理解させることになった。
ジャポニスムはヨーロッパの圧倒的な科学力、生産力、軍事力に打ちのめされていた龍馬達の自信を回復させるきっかけとなったのである。
ちなみにこれは余談が、ジャポニスムから強く影響を受けたゴッホは、生前全く評価されなかったことで有名である。
そのゴッホを生前から高く評価して、その作品を熱心に買い集めたのは当時、フランスに来ていた兼光で、日本に帰国する際に大量のゴッホ作品を持ち帰っている。一時期、ゴッホ作品の九割が日本にあったとさえ言われている。
世界で最も多くゴッホのひまわりの絵があるのは日本の博物館であり、上述の『タンギー爺さん』がフランスではなく、日本の国立美術館に展示されているのはその為である。
ゴッホの死後、その評価が爆発的に高まったとき、転売で兼光が巨万の富を得たのは言うまでもないことである。
兼光の審美眼には定評があり、ゴッホの他にも無名時代のモネやルノワールの作品を青田買いしており、晩年にはピカソの初期作品を集めていたことで知られる。
話が逸れたが、海援隊がヨーロッパで手がけた商売は、ジャポニスムグッズの輸入販売だけではなかった。
むしろそちらは余録に近く、本業は海運と傭兵業であった。
海運業こそ海援隊の本業であり、低利の借款で中古船を買い集めると地中海航路やインド洋航路での海運事業が始まることになる。
上述のジャポニスムグッズの直輸入が可能となったのも、海援隊の本業が海運業者であった故である。
傭兵業は新選組や幕臣達の手によって運営され、当初はフランスの海外植民地の警備を請け負った。
フランスの地中海対岸にあるアルジェリア県は、1830年代にフランスの植民地化が進行し、アブド・アルカーディルやらの激しい民族主義的抵抗運動に遭った。
その後もあちこちで小規模な現地部族の反乱が起きるなど治安維持に苦労していた。
また、地中海は狭い海であり、古来から密輸や密入国が絶えず、沿岸警備も大変な土地であった。
それを正規のフランス軍を使わず、安い傭兵で賄えるなら悪い取引ではなかった。
フランスは普仏戦争前夜の状況であり、1870年には普仏戦争へ突入していく。
正規のフランス軍人が対プロイセン戦に投入できるのなら、外国人部隊と同じ感覚で雇えるチョンマゲを生やした奇妙な格好の傭兵を使うことに、何の躊躇もなかったのである。
旧幕府軍艦6隻はアルジェリアの沿岸警備に投入され、新選組を中心とした日本人傭兵はサムライ・サーヴァントとしてアルジェリア県のカルデア地方で治安維持作戦に従事した。
なお、このサーヴァント・システムは極めて有効に機能した。
契約を律儀に守り、極めて有能かつ勇猛な日本人傭兵は信用を集め、フランス以外にもイギリスやイタリア、オスマン・トルコなどからも仕事が舞い込んだ。
後年、オスマン・トルコに雇われた元新選組隊長、近藤勇は1877年の露土戦争に参加。バルカン半島の戦いで鬼神のごとき活躍を見せ、「アナトリアの傭兵」としてロシア軍を震え上がらせることになる。
この戦いには新選組副隊長の土方歳三も参戦している。
土方は撤退作戦で殿を引き受け、橋の上で日本刀を片手に30人以上の追撃するロシア兵を切り捨てた後、橋を爆破して水中に消えた。
その後の生死は不明であるが、
「存外、深く潜れる男かもしれんぞ」
と龍馬は謎めいた呟きを残したという。
なお、普仏戦争はフランスの大敗に終った。
負けたフランスはナポレオン三世が退位し、帝政は崩壊。パリ・コミューンのような国内動乱期を迎え、徳川慶喜を使った日本の植民地化など夢のまた夢となった。
パリには海援隊の本社があり、パリ・コミューンは竜馬達にとって他人事ではなく、龍馬達は労働者の武装蜂起を間近で見た最初の日本人となった。
パリ・コミューン以後、海援隊は本社をロンドンに移すことになる。
ラスト・タイクーン・ヨシノフという金看板と20万両の軍資金。坂本龍馬や御坊兼光、小栗上野介、陸奥宗光、榎本武揚、渋沢栄一のような優れた才覚が集まった海援隊はまたたく間に事業を拡大し、欧州に確固たる地保を築き上げていった。
海援隊の活躍は遠い極東の日本にも鳴り響くことになった。
戊辰戦争終結から3年もすると日本国内の戦争の熱狂は既に沈静化しており、明治政府は慶喜ら旧幕臣と何とか和解できないかと考えるようになっていた。
新選組の残党や元脱藩浪人の海援隊士を除けば、ヨーロッパで活動する海援隊士の殆どは元幕府の御家人や旗本、つまり国家公務員だった。
総数2,000人の旧政府の官僚、しかもヨーロッパで最新の知識と経験を身につけたプレミア付きの人材である。
外国語ができるというだけでも十分に特殊スキル持ちと言えた。
そのような人材は、喉から手が出るほど欲しいに決まっていた。
1871年12月23日、岩倉使節団は日本を出発した。
使節団の目的は3つあり、一つは不平等条約改正交渉、二つは欧米列強の視察、三つはアメリカ合衆国で徳川慶喜と接触し、和解交渉を行うことだった。
ニューヨークで行われた岩倉使節団と徳川慶喜の和解交渉は成功裏に終わり、慶喜は赦免の勅許を得て帰国を許されることになる。
これは他の旧幕臣達も同様であった。
ちなみに、慶喜は旧領の回復などは一切求めず、爵位についても全て断っている。
また、日本に帰国したのも赦免を得てから、さらに3年後のことであった。
暗殺や粛清を警戒していたわけではない。
慶喜には海援隊の株の配当だけで十分、遊んで暮らせるほどの収入があり、フランスで多数の金髪メイドを侍らせ貴族の生活を送っていたからだ。
気候のいい南仏の邸宅に篭って趣味のカメラで耽美なメイド撮影三昧に耽る慶喜にとって日本の領地や爵位など重荷でしかなかった。
この時に撮影したあられもないメイドたちの写真もまた徳川美術館に収蔵されており、ネットアーカイブスで閲覧することができる。
非常に実用的であると定評がある。
居残り組となり、失業した旧幕臣の再就職の斡旋に東奔西走していた勝海舟は慶喜のフランスでの生活を聞きしに及びて、
「貴人には情がない」
と呟き、慶喜から拝領した脇差しを隅田川に投げ捨てたという逸話がある。
話が逸れたが、和解が成立すると同時に、海援隊から多数の帰国者が出ることになった。
何年も海外ぐらしが続けば、米と味噌汁が恋しいと思うのが日本人の情というものである。家族を日本に残してきたものも多く、一度日本に帰りたいという者は多かった。
帰国者には明治政府への合流を要請された者が多かった。
代表格としては榎本武揚や小栗上野介、渋沢栄一、陸奥宗光、御坊兼光である。
この内、新政府に参加したのは榎本と渋沢のみであった。
陸奥は海援隊ロンドン本店を任されており、新政府のポストなど眼中になかった。
小栗は新設のニューヨーク支店長として北米に海援隊の根を張り巡らせることに忙しかった。
旧幕府の高級官僚として活躍した小栗の新政府への参加要請はその後も続くことになるが、
「もう宮仕えは懲り懲りだ」
と、述べて全て断っている。
兼光もまた日本支店の開設を任されており、新政府どころではなかった。
慶喜や亡命者達が恩赦を得られたのはちょうどいいタイミングであった。海援隊の商売を広げるためにもそろそろ日本支店が必要な時期となっていからだ。
この時、兼光は龍馬から暖簾分けを許されている。
海援隊で暖簾分けを許された者は後にも先にも兼光ただ一人だけであった。懐刀と言って差し支えない陸奥宗光もさえ許可されなかった。
博多に本社を置いた御坊商会は、実質的に海援隊の日本支店であり、商旗や社章は21世紀現在でも海援隊と同一のものである。
御坊兼光の日本支店、陸奥宗光のロンドン本店、小栗上野介のニューヨーク支店という海援隊のトロイカ体制がここに成立することになる。
トロイカの上に君臨するのは海援隊隊長の坂本龍馬である。
龍馬は君臨すれども統治せずを基本方針とし、商機とあればどこにもでも出没する神出鬼没のトリックスターであった。
どれほど神出鬼没であったかというと、龍馬がどこにいるか誰もしらないということがしばしば起きた。長く連絡不通で所在不明だったときは死亡説が流れ、慌てて本人が否定するため出て来ることがあったほどである。
後に御坊商会が持株会社を設立し、御坊財閥となっても、この枠組に変化はなかった。
21世紀現在も、国際多国籍企業の海援隊は日本支店を持っておらず、御坊財閥がその役割を果たし続けている。
逆もまた然りであり、御坊財閥は海外支店というものを一切持っていない。
博多に本社をおいた御坊商会は欧州や北米で購入した中古船による海軍業を主軸に、これもまた中古で手に入れた産業機械を使って、造船に進出していった。
御坊商会の急発展が可能になったのは、亡命時代に学んだヨーロッパの最新科学技術に負うところが多かった。
岡辺倫太郎は亡命時代にヨーロッパや北米の全ての大学や大企業、研究所を見て回り、先端科学技術を吸収していった。
ラスト・タイクーン・ヨシノフの威光やその後援のフランス政府の後推しもあって、倫太郎は欧州最新技術に自由にアクセスすることができた。
また、妙な髪型の東洋人を一人、工場や研究所に招き入れて自由に見学させたところで、何の害も無いだろうというのが当時の認識であった。
それが完全に間違っていたことを後々、欧州各国は知ることになる。
たった一本のペンと一冊のノートで、倫太郎は欧米列強の最新技術をことごとく盗み出して模倣し、さらに発展させていった。
東洋のエジソンと称される倫太郎の活躍が始まるのは、日本帰国後である。
だが、ここでは倫太郎の活躍を後述することにして、坂本龍馬の帰国というエポックメイキングとその後の日本史に焦点を当てることにする。
坂本龍馬の帰国は、1873年9月15日のことだった。
欧州で岩倉使節団の案内役を務めた龍馬は、使節団と共に日本の土を踏むことになる。
その後、龍馬は故郷の土佐に凱旋し、恩師の勝海舟や旧知の元を訪ねて周り、妻のお龍と共に有馬温泉に浸かるなど久しぶりの日本を満喫していた。
しかし、時局は龍馬の帰国を待っていたかのように風雲急を告げることになる。
明治六年政変の勃発である。
この政変は、留守政府の首班である西郷隆盛と帰国した岩倉使節団の路線対立が原因で起きたものである。
その中心が征韓論となるのだが、結局のところは朝鮮のような隣国の対外関係をどう処理するのかという路線対立が根本にあった。
岩倉具視や大久保利通の強引な巻き返しに嫌気がさした西郷は職を辞して下野する西郷を慕っていた政府職員も一斉に下野した。
即座に政府機能停止とならなかったのは、龍馬共に欧州から帰国した旧幕臣達が明治政府に参加してその穴を埋めたからである。
政局への関心を失っていた龍馬であったが、西郷の下野は座視できないものだったらしく、上野の西郷邸を訪ねている。
そして、その顔を見るや、
「西郷さん、あんた・・・背中が煤けてるぜ」
と呟いたという。
後に龍馬が語るところによれば、西郷はこの時維新の志士の顔をしていたという。
西郷はこの時、鹿児島に戻り武装蜂起する計画を密かに練っていたとされる。
だが、既に世の中は平和になり、新政府の元で新しい国造りに邁進するべきときであった。
欧州で磨き込まれた交渉術と人心掌握術は元よりの龍馬の天性の素質であり、時には魔法じみた奇跡を起こしたが、この時も一種の奇跡を成し遂げた。
頑なに故郷の鹿児島に戻ると決めていた西郷を翻意させ、海援隊のサンフランシスコ支社長の椅子に押し込んだのである。
元政府首班である西郷の海援隊入りと渡米はセンセーショナルを巻き起こした。
西郷を追い出して新政府の現首班に収まった大久保利通は、
「坂本と西郷が手を組んだか!?」
冷静の仮面をかなぐり捨てて叫んだという。
何をするか予想が付かない二人が手を組んだということで世間は騒然となった。
しかし、結局は何もおきなかった。
それこそが龍馬の目的であった。
国内にいれば必ず内乱の火種になる西郷を国外に連れ立すことが龍馬の狙いであり、それは完全に達成された。
海援隊のサンフランシスコ支店の主要事業は北米航路の海運と移民事業であった。
西郷はその支店長として日本からの移民受け入れに奔走することになる。
人望厚い西郷を頼ってアメリカに渡る日本人は数多く、その殆どは国内に居場所がない不平士族であった。
廃藩置県や廃刀令、秩禄処分で生活の糧を失って困窮する士族は数多く、士族の暴発は時間の問題であった。
だが、西郷の渡米はその動きに待ったをかけることになる。
不平士族の多くが西郷を頼って渡米したため、殆どの場合、内乱は不発に終ったのである。
西郷と共にサンフランシスコ航路の移民船に乗った士族とその家族は10万を超えるという。彼らは西海岸にたどり着くと活発に開拓事業を始めた。
国内に居場所がなければ、国外で一旗揚げようという前向きな風が吹いたのだ。
西郷と共に渡米した者には、別府晋介、辺見十郎太、河野主一郎、小倉壮九郎があり、海援隊に入社する者も多かった。
西郷の故郷の鹿児島では一時期、不平士族の急増で危うい状況となったことがあった。しかし、中核的な人材を欠くその動きは尻すぼみに終わっている。
これを西南の不乱と呼ぶ。
西郷の渡米以後、日本各地で不平士族の不乱が相次ぎ、国内の騒乱は途絶えていった。
国内に残った不平士族は海外雄飛を図るほどの覚悟も気合もない者達だけであり、過激な反政府運動は穏健な自由民権と国会開設運動へと変わっていくことになる。
不平士族による暗殺で明治政府は大村益次郎のような有為な人材を何人も失っていたが、西郷の渡米以後はそのような暗殺騒動も途絶えることになった。
暗殺を実行するような血の気の多い連中が、国外に出ていったことが大きく作用したと思われる。
卓抜した政治的才覚に比例するかのように政府内外に敵を作っていった大久保利通が、その後も政府首班を勤め上げ、憲法制定や初代内閣総理大臣就任にこぎ着けたのは、そのような背景があった。
ある意味、龍馬の機転は西郷のみならず大久保も救ったといえるだろう。
アメリカ政府は日本人移民の急増には思う所があったものの、元政府首班の西郷が渡米となればこれを無碍にはできなかった。
西郷の明治政府での肩書は、参議と陸軍大将を兼務であったから、アメリカ政府でこれに比肩するのは大統領しかなかった。
もちろん、当時の日本は極東の小国でしかなく、不平等条約もありその関係は今日的なものではなかった。しかし、西郷の存在は日米関係の良性の変化をもたらすことになった。
アメリカ世論は元政府首班が下野して移民事業の先頭に立つというシチュエーションに非常に好意的であった。
19世紀末、アメリカの開拓者魂は未だ熱く燃えていた。
日本の元プレジデントが、サンフランシスコ郊外の荒野を自ら耕して糧を得るというのは、成功者のアフターライフとしてはアメリカでは到底考えられないことであったが、同時にこれ以上なくエモーショナルな事件だった。
西郷の元には日本人と同じくらい多くのアメリカ人が訪れ、その人格に感化された者は膨大な数に昇ったのである。
これが後に、西郷コネクションと呼ばれる重要な外交資産となった。
その人脈を後に引き継ぐのが西郷と共に渡米して、奴隷の身分に貶されて凄まじい苦労の果てに成功者となった高橋是清という当代随一の政治家なのであるが、それはずっと後の話である。
西郷はその後サンフランシスコに留まり、日本には戻ることなく、日清戦争直前の1893年にアメリカの地に骨を埋めることになった。
現在もサンフランシスコの海の見える丘には、太平洋の遥か彼方を見据えて立つ巨大な西郷隆盛の銅像があり、献花に訪れる人が後を絶たない。
海援隊は海援隊で、元政府首班の西郷を迎え入れたことで明治政府と太いパイプを築くことに成功。さらに大量の新規採用者を得て事業の拡大に拍車がかかることになる。
西郷を慕って辞職をした明治政府の警官や軍人は数多く、海援隊の重要な事業である傭兵業の拡大には彼らの雇用が必須だったと言える。
血の気の多い不平士族には海援隊の傭兵として活躍したものが多い。
特に鹿児島出身者は戦闘能力が高く、オスマン・トルコの皇帝親衛隊に抜擢された別府晋介などが有名である。
デモニック・シマーズ、サツマ・バタリオンの二つ名は、泣く子も黙る海援隊の最精鋭部隊を意味するようになる。
こうして、明治政府は創業から10年という危うい時期を平和の内に乗り越えることに成功した。
大久保利通という優れた宰相に恵まれた日本は近代国家体制を完成させ、産業革命という発展期へ突入していくのである。