カーテンコール
カーテンコール
1938年12月12日、アメリカ軍の河川砲艦マーシー・パネェー号が日本義勇兵団の爆撃機によって攻撃され、長江に沈んだ。
これがパネェー号事件であり、1939年2月7日の合衆国海軍によるトラック奇襲攻撃へ続く日米開戦の導火線となった。
パネェー号事件は当初から不可解な点が多く、政治的な陰謀論のネタにされていた。
アメリカ合衆国を主犯とした軍事的な謀議があったというのは当時の軍事関係者なら一度は耳にしたことがあるほどのネタだった。
そもそも、日本が大陸に派遣していた義勇兵団は、合衆国の軍事関係者との接触、摩擦を極度に警戒しており、星条旗を掲げて航行する船舶への接近は厳禁とされていた。
日本政府は潔白を証明するため軍事機密である飛行記録を全面公開すらして、パネェー号が沈没したした時間に義勇兵団の航空機が飛行していなかったことを証明していた。
また、日本政府にはそもそも事件を起こす動機に欠けていた。
北京政府(蒋介石政権)と南京政府(汪兆銘政権)の戦いは、南京包囲によって佳境へと入りつつあり、すでに北京政府の勝利で終わろうとしていたところだった。
この段階でもっとも警戒すべきなのは、合衆国による政治介入であり、介入の前に既成事実を積み上げてしまうことが最善なのである。
故に、合衆国にとって最も都合のよい形で発生したパネェー号事件は、当初から自作自演の疑いがあった。
1943年8月15日、北京政府軍の捕虜となった合衆国軍事顧問のクレア・リー・シェンノート中将は合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの署名入の軍事機密文書JV44をマスコミに公開し、パネェー号事件の真相を暴露した。
当時、首都まで追い詰められていた南京政府を支援するため、ルーズベルト大統領は軍事介入が必要だと考え、その口実を欲していた。
そのための手段として、河川砲艦マーシー・パネェー号に爆薬を搭載し、遠隔操作で爆破する計画が立案された。
義勇兵団の航空機が近傍を飛行したときを見計らって船を爆破することで、全ての罪を日本になすりつけるという筋書きだった。
なお、パネェー号の艦長及び乗組員66名は、船に爆弾が搭載されていることは全く知らされておらず、ルーズベルトによる軍事謀略の完全なる被害者だと言えた。
ある意味は、太平洋戦争で死傷者したすべてのアメリカ人がルーズベルトによる戦争犯罪の被害者といえるかもしれなかった。
そして、騙されていたことに気がついたアメリカ人の怒りは想像を絶するものとなった。
その怒りは凄まじく、アメリカ合衆国という国家そのものを吹き飛ばしてしまった。
1943年8月21日、合衆国下院議会は全会一致で大統領の弾劾訴追を決議。上院でも同日、全会一致の賛成により、大統領弾劾裁判の開催が決定された。
この時点で、合衆国全土で大規模な暴動が発生しており、日本軍占領下の西海岸のみならず東海岸や中西部の田舎町でさえ大規模なデモ行進が発生し、さほど時をおかずに暴動へと発展していった。
特に都市部では、日本軍による戦略爆撃で物流が寸断され食料不足が慢性化していたことから、一度火がつくと容易く略奪に発展し、手がつけられない騒乱へ拡大した。
各地で食料品店や配給施設、或いは軍の倉庫が襲撃、略奪され、合衆国全土が無政府状態へと堕ちていった。
当然のことながら、爆心地であるホワイトハウス、ワシントンDCには武器を持った怒れる民衆が押し寄せてきており、軍が出動してこれの警備にあたった。
ホワイトハウスも厳重警戒態勢にあり、そうであるが故にルーズベルト大統領が22口径ピストルで自ら頭を撃ち抜いた時刻も、正確に記録が残ることになった。
1943年8月21日午後11時22分のことである。
この銃声こそが、大厄災の始まりの号砲だった。
副大統領のヘンリー・ウォレスが直ちに大統領へ昇格したが、彼がホワイトハウスで就任宣誓を行うことができなかった。
武装した暴徒とホワイトハウスを警備する合衆国海兵隊が戦闘状態に突入しており、彼はホワイトハウスを脱出しなければならなかった。
海兵隊からも離反者が続出しており、ホワイトハウスの防衛は不可能だった。
就任宣誓が行われたのはポトマック川の川辺であったとされるが、記録が混乱しており定かなことではない。
なお、ポトマック川辺には日米友好を祈念して2,000本の桜の木が植えられおり、ウォレスが桜の木の下で就任宣誓した可能性は大いにあるといえる。
暴徒による放火でホワイトハウスが燃え落ちたのは、1943年8月25日だった。
この時点ではルーズベルト大統領の遺体はまだホワイトハウス内に安置されていたと考えられている。しかし、遺体の行方は定かではない。
ウォレス大統領が最初に公的な場所でステートメントを発表したのは、ワシントンDCから南に130km離れたリッチモンドだった。
その次のステートメントはさらに南に500km離れたウィルミントンとなっていた。
発表の度に大統領の所在がコロコロと変わり、最後の発表はマイアミからだった。
その後、ウォレスはマイアミで暴徒によって撲殺された。
8月末とされるが、彼がいつ死んだのかは定かではない。
合衆国大統領が暴徒に撲殺されるなど、前代未聞であった。
しかし、その死は大きな問題とはならなかった。
すでに誰も大統領の発表に耳を貸すことはなくなっており、アメリカ全土が西部劇の荒野もかくやという無法地帯と化していたのである。
ウォレス大統領はパネェー号事件には全く関わっていないことが現在では証明されており、彼は完全な貧乏くじだったと言える。
アメリカ合衆国のような広い国土を持つ大陸国家は、中央からの統制が崩壊すると直ちに分離独立運動が始まり、制御不能な事態を発生させた。
特にアメリカの政治制度では州が強い権限を持っており、独自の法律を制定する権限をもつ半独立国であった。
特に南部においてはその傾向が強かった。
その南部において州知事会議が開催され、全会一致で合衆国からの離脱を決議した。
同時にこの戦争は無責任な合衆国が起こしたものであり、南部連合は無関係であるとして、一方的な戦争からの離脱を宣言した。
元から連邦政府と歴史的に対立していた合衆国南部は独立と戦争からの足抜けを図ったのである。
78年ぶりにブラッド・ステインド・バナーが復活し、アメリカは南北に割れた。
戦争に取り残された北部(アメリカ合衆国)だったが、徹底抗戦を主張する西海岸と戦火を免れている東海岸では意見が一致しなかった。
東海岸の知事たちは戦闘継続は不可能だと考えていたが、日本軍占領下にある西海岸の知事達は、徹底抗戦以外考えられなかった。
また南部への懲罰と再征服が叫ばれ、北部の州知事会議は空中分解した。
ただし、この政治的なドタバタによって北部がさらに東西に割れることはなかった。
連邦政府のコントロールを失った合衆国軍が動き始めたのである。
その中心人物となったのが、西海岸における合衆国軍総司令官ドワイト・アイゼンハワー大将だった。
当初、アイゼンハワーはシビリアンコントロールを無視した軍部の独走を強く戒めており、南部連合が分離独立を宣言しても、動かなかった。
彼は北部州知事会議の決定が、臨時政府の命令と考えていた。
だが、北部の州知事会議が空中分解すると合衆国を守る非常手段として、軍による国家秩序回復に向けて動きだすことになる。
後に出版した自伝では、
「最後の、最悪の非常手段」
として、このときの行動を振り返っている。
確かに、軍の独走はたとえそれが国家の利益に叶うものだとしても、民主主義を掲げるアメリカ合衆国にとって、最後の、最悪の非常手段であると言えた。
幸いなことに、アイゼンハワーの掌握していた西海岸の合衆国軍は日本軍に相対している関係上、統制が取れていた。
組織を団結させるのは、常に外部の敵であり、ぎりぎりのタイミングで合衆国の完全崩壊を救ったのが、仇敵である日本軍というのは歴史の大いなる皮肉といえるだろう。
日本軍との停戦が発効したのが、1943年9月27日のことである。
この停戦交渉はあくまで政府交渉ではなく、現地軍同士の軍事停戦合意であり、国家間の戦争状態の停止を意味するものではなかった。
だが、事実上、太平洋戦争はこの日を以て終了とするのが一般的な解釈である。
何しろ、アメリカ合衆国政府は、事実上、崩壊して存在しないのである。
とりあえず戦争は終わったが、アイゼンハワーにとっての長い長い戦争はこれから始まり、西海岸の全軍を以て東海岸へと引き返し、各地の無政府状態を軍の力で収拾しなければならなかった。
アイゼンハワーによる国内制圧戦では、分離独立を図った一部勢力や連邦政府の復活を拒絶するミリシアとの戦いであり、合衆国は2年に渡る内戦へと突入していく。
それほどまでに国民を騙して戦争へと駆り立てた政府への拒否反応は激しいものがあり、そして、それを無理やり力で押さえつける合衆国軍の存在が事実上の政府となった。
それはアイゼンハワーが恐れていた軍部独裁国家への道であり、アメリカは軍国主義の北部と人種差別政策復活から国家社会主義へと傾倒した南部との長い長い対立の時代へと突入していくことになる。
そして、北米での戦火が止んだことで、欧州での戦火も急速に収束へ向かった。
日米停戦を受け、ヘルマン・ゲーリング国家元帥が、
「戦争の政治的な解決」
を言及するラジオ放送を行ったのである。
このことは、2つの政治的な衝撃を伴った。
一つは千日手に陥りつつあった欧州での戦いが終わる可能性が見えてきたこと。
もう一つはその発表が行ったのがヒトラー総統ではなく、ゲーリング国家元帥だったことである。
様々な政治的な憶測と推測が交差したが、後に公開された真実はこうだった。
1943年9月時点で、アドルフ・ヒトラー総統は、精神病(被害妄想)の極度の悪化により、職務を遂行できる状態ではなく、政府首脳の協議の結果、ゲーリング国家元帥が総統代行となっていたのである。
ヒトラー総統の病的な日本人嫌い、海援隊嫌いはヨーロッパにおける政治的な常識であったが、日英同盟軍がシチリア島に上陸すると極度に悪化し、ほぼ完全なパラノイア状態に落った。
ゾンダーコマンドエルベなどの自爆攻撃部隊がドイツ空軍内に編成されたのも同時期であり、ヒトラーの狂気は国家そのもの害する域に達していた。
そして、合衆国のダウンフォール作戦失敗と日米停戦により、ヒトラーの精神は完全な限界を迎えた。
ヒトラーの主治医モレル博士のカルテによると1943年9月末にはヒトラーは完全な妄想の世界の住人となっており、現実認識能力がなくなっていた。
そこでナチス党幹部と軍首脳部が協議した結果、ゲーリング国家元帥がその職務を代行することになった。
なお、ヒトラーは1946年8月6日まで生き、パーキンソン病の悪化により死亡したが、死亡するまで総統の職にあった。
ドイツ国民にもヒトラーがパラノイア状態であることは伏されており、総統大本営(精神病院)に収容されていたことは国家最高機密とされた。
ヒトラーの周辺はゲッペルス宣伝相が集めた役者と特別な訓練を受けた精神科医と看護師で固められており、死の間際まで自分がドイツ総統であることを全く疑っていなかった。
当時の軍部高官(ゲーリング国家元帥やカイテル陸軍元帥)や政府高官(秘書のマルチン・ボルマンやゲッペルス宣伝相など)のそっくりさんが集められ、役者として訓練を受けた上で、ヒトラーの終わらない妄想の相手をしていたのである。
ヒトラーの妄想を壊さないために偽の命令文書や軍の報告書が作られた。
その中には日本への核攻撃を許可するものまであった。
ちなみに、そのヒトラーのサイン入りの核攻撃命令文書(総統命令第666号)は、2010年にロンドンでオークションにかけられ、120万ポンドで落札されている。
ヒトラーの総統命令(偽)によると、1946年時点でも第二次世界大戦は継続しており、1945年に英国本土が陥落、1946年8月には日本への原子爆弾が投下され、ヒトラーの死の間際に日本本土決戦が始まるところだったとされる。
幸いなことにヒトラーの妄想が現実になることはなかった。
あるいは、ドイツはもはやヒトラーの妄想に付き合いきれなくなっていた。
1943年9月時点で、すでにドイツは国家経済、財政ともに限界を超えた戦いを行っており、日米停戦によってドイツへのレンドリースが停止したため、即座に戦争状態を停止しなければ、デフォルトするしかなかったのである。
ゲーリング国家元帥が政治的な解決を言及したのは、ヒトラーの妄想が経済の限界に敗北した論理的な帰結とも言える。
そして、限界を超えた戦いをしていたのは日英同盟軍(国家予算の9割が軍事費だった)も同じであり、両国政府はドイツとの名誉ある講話を検討すると発表。
1943年10月11日。ドイツ及び枢軸軍と日英同盟軍との間に停戦が発効し、全ての戦闘が停止することになった。
だが、それは血を流す戦いが終わったというだけの話であり、各国の政治家や外交官にとって、その後のテーブルの上での戦いこそが、彼らの本番であるといえた。
故に、停戦直後から講和会議の開催地を巡って枢軸国と同盟国で激しい綱引きが発生した。
枢軸陣営が講和会議の開催地としたのは、フランスのベルサイユ宮殿であった。
第一次世界大戦の講和条約が調印された場所であり、今次大戦における講和会議にふさわしいというのが彼らの主張だった。
だが、フランスは全土がドイツ軍の占領下あり、そのような場所で講和会議を開催することは、同盟の敗北と解釈するしかなく、日英政府は受け入れられないとした。
逆にイギリス政府はロンドンでの開催を主張していた。
しかし、これも同じ理屈により枢軸陣営から受け入れられる余地は全くなかった。
少なくともドイツはこの戦争にまだ負けたと考えてはいない。
そこで次善の策として、中立国での開催が提案されたがこれにも難があった。
中立国が少なすぎるのだ。
第二次世界大戦は、全ての列強国及び独立国を巻き込んだ大戦争であり、殆どの国家が枢軸か、同盟のいずれかの陣営にたって参戦していた。
欧州で中立を保ったのはスペインやスウェーデン、スイスぐらいなものだった。
そして、スペインはフランコ将軍による親枢軸の独裁国家であり、講和会議開催の地としては相応しくなかった。
スウェーデンやスイスは政治的な中立性という点では合格だが、国境の全てをドイツ軍に囲まれており、同盟が代表団を送ることは困難だった。
それならばアジアならどうかとなるが、アジアはアジアで中立国が存在しなかった。
日本での開催は枢軸陣営から拒絶され、同盟国からのイギリスからさえも断られた。
アメリカでの開催も同様である。
奇妙なことだが英独は講和会議の開催地を欧州にすることだけは、完全に一致していた。
彼らにとって、この戦いは欧州の戦いであり、日本やアメリカに主導権を渡す気は全くなかったのである。
だが、適当な開催地が決まらなければ、話し合いを始めることもできず、いまさら戦争再開もできない以上、どこかで妥協しなければならなかった。
そして、その妥協案を提示したのが日本の坂本一首相だった。
「それならば、国境のない場所で講和会議を開催しましょう」
坂本首相が提案したのは、大西洋での船上会議だった。
欧州の地ではないが、大西洋上ということなら英独政府もぎりぎり妥協できる提案だった。
坂本首相は太平洋上の開催を念頭に置いていたが、英独の反発が予想されたので妥協した。
国家の東西を太平洋、大西洋に囲まれたアメリカ合衆国としても受け入れやすかった。
船上会議の開催が決定されると、各国は大急ぎでその準備に追われることになった。
何しろ国家の威信がかかった会議である。代表団を運ぶ船は最上のものでなければ格好がつかなかった。
また、護衛の船は事前の取り決めとして6隻までと限定された。
故に各国は選りすぐりの海軍艦艇を大西洋へ送った。
そして、それこそが坂本首相の狙いでもあった。
1945年8月15日、講和会議開催の地に指定されたアイスランド沖の海域に各国の代表団を乗せた客船が集結した。
最初に到着したのは、ドイツ第3帝国の客船オイローパだった。
オイローパは50,000tに達する大型客船であり、大西洋最速の客船に送られるブルーリボンのタイトルに輝いたこともあるドイツ造船業界の華だった。
大戦中には病院船に改装され港に逼塞していたが、この日のために突貫工事で客船へと戻されていた。
そして、これを護衛するのは6隻のヴォータン鋼に身を固めたドイツの海の騎士達であり、戦艦ビスマルク、ティルピッツ、グナイゼナウ、シャルンホルスト、巡洋艦プリンツ・オイゲン、空母グラーフ・ツェッペリンがオイローパの周囲を固めた。
ドイツ海軍が持つ全ての大型艦が一同集結する様は見応えがあったが、ドイツ海軍がこれほどの艦隊を残していたのは、彼らが殆ど出撃せずバルト海に逼塞していたことが大きかった。
戦艦ビスマルクなどは最初の出撃で大破させられ、それ以来まともに出撃したことがなかったほどである。
ティルピッツに至っては大戦中、出撃したことさえなかった。
もしも間違って出撃していたら、日英同盟軍海軍によって即座にミンチにされていたのは確実だった。
空母グラーフ・ツェッペリンは一応、完成したが艦載機の都合がつかず、格納庫は空の状態でのお披露目である。
次に到着したのは英連邦の艦隊だった。
代表団を運ぶのは、クイーン・エリザベス号である。
クイーン・エリザベス号もまた大戦中は兵員輸送船に改装されて従軍していたが、この日のために客船へと戻されていた。
クイーン・エリザベス号は英国最大の旅客船であり、総トン数は81,000tに達する1946年時点において世界最大の旅客船だった。
これに比べるとドイツのオイローパはいかにも小さく、英国人のプライドを満足させるには十分だった。
クイーン・エリザベス号を護衛するのは6隻の女王陛下に忠誠を誓ったロード・ネルソン提督の末裔たちだった。
40,000t級のキング・ジョージ5世とプリンス・オブ・ウェールズ、さらに45,000t級のライオン、タイガー、コンカラー、サンダラーの4隻が全艦揃っていた。
ライオン級戦艦は無条約時代に備えてイギリスが建造した最新鋭艦であり、その全部が揃ったのは、このときが最初で最後となった。
ドイツの誇る戦艦ビスマルクも、16インチ砲3連装3基9門を備えるライオン級戦艦の前では巡洋艦のようなものだった。
だが、海軍軍備の中心はすでに航空機とその母艦である空母へと移っており、空母をこの場に押しだすことができなかったことはロイヤルネイヴィーの落日を象徴しているとも言えた。
3番目に到着したのはアメリカ合衆国(北部)だった。
代表団を載せたのはアメリカ号だった。戦前からアメリカ合衆国を代表するオーシャン・ライナーであり、この選定は妥当なものだった。
護衛にあたる6隻は、歴戦の空母エンタープライズに、ホーネットⅡ、タイコンデロガ、戦艦ケンタッキー、イリノイ、大型巡洋艦アラスカとなっていた。
エンタープライズを除けば、いずれも大戦中に就役した新鋭艦ばかりであり、アメリカ合衆国海軍が国家分裂を経てもなお健在であることを各国に示すには十分な戦力だった。
だが、アメリカ連合国(南部)の艦隊が現れるとその印象はずいぶんと変わったものとなる。
マストにレベル・フラッグを掲げた戦艦ヴァージニア(旧名モンタナ)を先頭に、空母エイジャック(旧名インディペンデンス)、ハーキュリーズ(旧名プリンストン)、巡洋艦タスカルーサ、ナッシュビルは、北部艦隊と並走して激しいにらみ合いを始めた。
いずれも南部出身者の海軍将校が合衆国分裂のドサクサにまぎれてノーフォーク海軍基地から脱出させた艦艇であり、ペンサコーラ海軍基地を根城に合衆国海軍と日常的に小競り合いを繰り返していた。
特に1隻だけ完成した戦艦モンタナ(ヴァージニア)が南部へ逃亡したことは合衆国海軍にとって痛恨事であり、合衆国は連合国に返還を要求していた。
なお、合衆国はアメリカ連合国を国家としては認めておらず、講和会議への出席に断固として反対していたが、合衆国以外の全ての主要国が賛成したため、参加が認められた。
チャーチルなどは皮肉たっぷりに、
「私はアメリカが大好きなので、アメリカが増えたことを嬉しく思う」
と述べてアイゼンハワー臨時大統領の神経を逆撫でした。
アンクルサムが分裂して弱体化することを喜ばない者はアメリカ人以外にいなかったのである。
この講和会議を以てアメリカの南北分裂は国際的に確定することになるが、有力な艦隊を講和会議に送れるだけ彼らはまだマシだった。
同じく南北に分裂していたイタリアは、北部(サロ協和国)と南部(イタリア王国)共に代表団を載せた客船にまともな護衛がつけられたなかった。
ムッソリーニ率いるサロ協和国は事実上、ドイツのイタリア大管区といった有様だったし、南部のイタリア王国は日英同盟軍の占領下にあって、国家としての体を成していない。
一応、サロ協和国には戦艦ローマとイタリア(未完成)が残されていたが、航続距離が短すぎる上に、燃料を用意できないため参加は見送られた。
フランスはイタリアに比べればマシだったが、ヴィシー政権と自由フランスの2つの代表団がそれぞれ艦隊を持ち込んでいがみ合っていた。
この他に東欧各国や英連邦加盟国、中華民国やタイ王国といった中小国は護衛なしか、多くても駆逐艦が1~2隻を帯同させるのが限界だった。
そもそも海がない国だってあるのだ。
また、ロシア或いはソ連のように、共産党と軍部が内戦の真っ最中で講和会議に呼ばれない国もあった。
英連邦加盟国のオーストラリアやカナダは流石に6隻の枠を巡洋艦と駆逐艦で埋めてきたが、戦艦や空母を持っているわけではなかった。
列強国以外で、この会議に大型艦艇を持ち込んだのは満州国のみだった。
大戦中に日本から譲渡された雲龍型空母「旅順」を先頭に、巡洋艦1、駆逐艦4隻を代表団と共に送り込んでいた。
満州国経済は第二次世界大戦の戦争特需を経て、飛翔のときを迎えており、その経済力は東欧各国に匹敵するか、超えるものとなりつつあった。
列強国で最後に到着したのは日本だった。
日本の代表団を乗せる船は、海援隊が誇る太平洋航路専用大型旅客船”いろは丸”だった。
いろは丸は66,000tの大型船で、排水量こそクイーン・エリザベスに劣るが、最高速力は駆逐艦並の35ktという快速船だった。その船名は海援隊のフラグシップとして代々受け継がれてきた伝統あるもので、このいろは丸は既に4代目だった。
そのいろは丸に座乗するのが、日本国首相であり、坂本龍馬の孫、坂本一というのはいささか出来過ぎとも言えた。
いろは丸を護衛するのは帝国海軍の誇る大和型戦艦1番艦大和、2番艦の武蔵だった。
この2隻の戦歴についてはもはや語るに及ばず、各国海軍関係者は嫉妬するしかない。
さらにその後ろには停戦後に就役した65,000t級の新鋭空母鳳翔の姿があった。
帝国海軍が最初に建造した空母からその名を受け継いだ鳳翔は、建造中止となった10万t級の超大和型戦艦の船体設計を流用した空母で、第二次世界大戦における全ての戦訓と最新技術を惜しみなく投入して完成した新世代の空母だった。
故に、鳳翔の名を頂くことに反対意見は全くなかったと言われている。
最初からタービンロケット機の運用を前提に設計された鳳翔は世界で初めてアングルドデッキと蒸気カタパルトを備えた空母として完成しており、1946年時点で既に次世代の航空母艦のディフェクトスタンダードを現していた。
鳳翔の後ろに続くのは、駆逐艦3隻だった。
いずれも大戦中に就役した秋月型駆逐艦の後期型であり、基準排水量は4,000tを超える一昔前の軽巡洋艦並の船となっていた。
駆逐艦を名乗るが、魚雷はもはや搭載しておらず、代わりに4連装艦対艦誘導弾発射器を備えていた。
また、最後尾の並んだ駆逐艦満月に至っては、長10サンチ高角砲を全て下ろして艦対空誘導弾発射器3基を積んだ世界初のミサイル駆逐艦と化していた。
対空レーダーに至っては、世界初のフェイズドアレイ方式である。
世界の10年先を行くとされる日本の先端技術の成せる技だった。
そして、このような艦隊を持ち得るのは1946年時点で、大日本帝国ただ一国だけだった。
斜陽のイギリスも、欧州を制覇したドイツも、国家が分裂したアメリカも持ちえないものであり、世界の海上覇権をこれから誰が掌握するのかを明瞭に示していた。
講和会議の船上開催は、それを示すためのセレモニーであり、坂本首相による日本の勝利宣言であった。
そして、大西洋講和会議が始まった。
比較的簡単にまとまったのは、相互無賠償(金銭)の原則だった。
これは先の大戦で法外な賠償金をドイツに課したことが今次大戦の原因という各国の認識があったし、そもそもどの国も賠償金を払える状態ではなかった。
世界で最も豊かなアメリカ合衆国でさえ、日本軍の上陸と戦略爆撃と政府崩壊と内戦で経済が崩壊しており、軍主導で広範囲に配給制を敷いてるのが現状だった。
故に勝者の権利は領土要求という形で処理された。
アジア太平洋地域で比較的早期にまとまった合意は、中華大陸に関する取り決めであり、南京政府の消滅と北京政府が中国の正統政府=中華民国であると確認された。
それと同時に戦前の日米の政治的な対立の原因となった満州国をアメリカ合衆国、アメリカ連合国共に承認し、国際社会から満州国は正当な独立国であると認められた。
これには蒋介石が激しく反発し、中華民国の領有権は中国大陸全土に及ぶと主張したが、誰からも相手にされなかった。
蒋介石が主張した中国の領土には、独立国のチベットや東トルキスタン共和国、さらに日本の領土である台湾まで含まれており、誇大妄想の類でしかなかった。
同盟国の一員として欧州や西海岸に援軍を送った満州国に対して、中華民国の戦争貢献度は皆無に等しく、
「これが新しい中国の皇帝か」
と揶揄される始末だった。
南京政府との戦いでさえ、無為徒食を続けた挙げ句、南京陥落から南京政府降伏まで5年も費やしており、蒋介石の無能と腐敗ぶりは明らかだった。
日本やイギリスから完全に見限られた蒋介石は、ドイツへと接近し、1950年に第二次中独合作を結んで、枢軸陣営に鞍替えすることになる。
アジア太平洋問題については、日米の二国間協議でほぼ全てが形がついた。
合衆国は、戦前から独立国だったフィリピンに多数の特殊権益を持っていたが、これらを全て日本への譲渡、さらに日本からフィリピン共和国へ還付された。
日本経済界はフィリピンの特殊権益に興味があったが、軍部は戦中の軍事占領下におけるフィリピン人ゲリラに手を焼いており、政治的にも南部のイスラム勢力などは全く理解不能な相手だったので、できるだけ距離を置きたいというが本音だった。
なお、この措置により政治的、経済的な自立を手にしたフィリピンは1960年代の高度経済成長達成し、90年台末に先進国グループの仲間入りを果たすことになる。
フィリピンの他に、グアムやミッドウェー、ハワイといった太平洋における合衆国の領土は全て日本へと割譲された。
ただし、アリューシャン列島とアラスカについてはカナダへと割譲とされた。
問題は日本軍占領下にある西海岸の扱いだった。
当初、日本は現在の軍事境界線をそのまま新たな国境線としようと考えた。
何しろこの戦争における日本は完全な被害者であり、戦争責任は全てアメリカ合衆国にあった。言い訳の余地もなく、アメリカが悪であり、太平洋戦線における150万人の犠牲に報いるためにも、何らかの賠償が絶対に必要だった。
これに対して、合衆国は戦争責任を認めたが、これ以上の領土割譲は戦争再開さえ辞さないとして断固として拒否した。
アイゼンハワー臨時大統領自身は、古きアメリカ合衆国の良識を体現するといっても過言のではない人物だったが、彼の政治的な立場はこれ以上の妥協を不可能にしていた。
何しろ軍事政権のボスである。
舐められたらおしまいなのだ。
この国内の政治的な硬直性が、アメリカ合衆国の政治外交を拘束し、最終的な破滅を招く原因となるのだが、このときは敗戦の記憶が生々しいことから妥協が成立した。
日本はカリフォルニア州の割譲で満足し、その他の西海岸地域を合衆国へ返還。ただし、軍備制限を設け、広範囲な非武装地帯が設定された。
ちなみにカナダはアメリカのヘイトを日本に押し付けた上で、ちゃっかりとシアトルの割譲を得ている。
カナダとアメリカの国境にも非武装地帯が設定され、五大湖周辺の経済権益を独占するなど、カナダは講和会議で多くを得て、列強国の一角を占めることになった。
なお、アメリカ連合国はこれらの領土割譲に反対するどころか、賛成に回ったことから合衆国とは完全に決裂することになる。
総合的な国力で劣る南部連合としては、日本が適度に北米大陸にコミットメントしてくれる方が都合が良いのである。
ただし、アメリカ連合国の国是である白人至上主義に関しては全く妥協の余地がなく、日本との関係はその後も最悪のままで推移し、1949年にアメリカ連合国は米独安全保障条約によって枢軸陣営に加入した。
日本に割譲されたカリフォルニア州は、1952年に住民投票により日本国内の自治州となり、カリフォルニア共和国となる。
当初は有力な油田地帯であり、20世紀末からIT産業が勃興したカルフォルニア共和国は大日本帝国の宝石となった。
21世紀現在、世界中で可動するパーソナル・コンピューターの90%は、カリフォルニア共和国に本社を置くアップル社のMacintosh互換機とmacOSで動いている。
スマートフォンについては言うまでもないだろう。
カリフォルニア割譲で太平洋戦争の精算はほぼ完了した。
アジア太平洋問題に関しては、ほぼ全てにおいて日本のペースで交渉が進んだが、欧州に関してはドイツのペースが支配的だった。
同盟陣営にとっての誤算は、ドイツが軍事的な占領地から撤収を提案したことだった。
フランスや西欧諸国、ユーゴスラビアやギリシャといった南欧からも撤退。亡命政府の復帰を全面的に認めた。
交渉が最も難航すると予想されたポーランド問題でさえ、国境を200km東に移した上であっさりと再独立を認めた。
これは完全な政治的奇襲攻撃であり、ゲーリング国家元帥がヒトラーと同等か、それ以上のタフネゴシエーターであることを示すものだった。
ちなみにゲーリングといえば肥満体で有名だが、講和会議ではスリムな姿で議場に現れ、坂本首相をして、
「一瞬、誰だか分からなかった」
という迷言を残させるほどだった。
この頃のゲーリング国家元帥は健康に恵まれており、肥満の克服にさえ成功していた。
後の情報公開によって分かったことだが、戦時中ゲーリングはモルヒネなどの薬物中毒に陥っており、肥満の原因は薬物による無気力や過食が原因だったようである。
その克服に成功したのはヒトラーが精神安定剤漬けの生活を送っていたことが反面教師になったという説が有力である。
ただし、晩年には食事量や飲酒が増え、元の肥満体に戻っている。
だが、ゲーリングはこのときは人間として優れた部分を発揮して講和会議に臨んでおり、百戦錬磨のチャーチルでさえ苦虫を噛み潰すしかなかった。
実際のところ、日英同盟軍に戦略的な包囲下にあるとはいえ、欧州の陸の支配を得ているのはドイツであり、そのドイツが譲歩するのなら、それを拒否することは政治的に不可能だった。
また、ロンドンに宿をかりていた各国の亡命政権も国政復帰が認められると雪崩打ってドイツ支持に回り、フランスでさえ手のひらを返した。
シャルル・ド・ゴールだけは最後まで反対したが、それは彼の政治的な野心を満たすためにドイツとの戦争が必要なだけだった。
チャーチルはこの動きを
「欧州における自由と民主主義の危機」
と訴えたが、各国の亡命政権や王室は本国への帰還を優先した。
イタリアの戦いにおいて、マンシュタイン元帥相手に手ひどく陸の上で負けたことが、同盟軍にとって大きな政治的失点となっていた。
海の戦いはともかく、陸の戦いでドイツの方が一枚上手という印象が残ってしまったのである。
ゲーリングはマンシュタイン元帥の手腕を高く評価するのみならず、手厚く保護し、ヒトラーの死後、総統に就任すると空位となった国家元帥の地位を与えている。
日英の軍事関係者にとっても、マンシュタインは恐怖の代名詞だった。
「ロンメルには勝てた・・・でも、マンシュタインには勝てなかったよ」
というのが欧州における日英同盟軍の限界だった。
そして、南北イタリア問題に関しても、ローマを占領できなかったことが響き、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が王位の保証を条件に、ムッソリーニと和解して南北イタリアは枢軸主導で再統一されることになった。
なお、本国へ復帰することになった各国の亡命政権だったが、復帰後に彼らが国政を主導することはなかった。
現地の警察権力は徹底したナチ化が完了しており、自由主義・民主主義勢力や左派勢力は警察権力によって徹底的に弾圧、無力化されていた。行政組織についても同様だった。
警察権力や行政組織のナチ化による実効支配の達成は、ゲーリングがヒトラーの元でプロイセン州統治を任された時に試して成功を収めた手法であり、ドイツにおけるナチス政権確立の基盤ともいうべきものだった。
ゲーリングはそれを占領地に当てはめて実行しただけであり、たとえ占領地を手放したとしても、政治的に挽回は可能だと判断していたのである。
そして、亡命政権復帰後の国政選挙では親独派や国家社会主義政党が勝利し、欧州各国のナチ化が現実のものとなっていた。
反独感情の強いフランスでさえ、親独極右政権が誕生して日英を驚かせた。
ヨーロッパのファシズム運動は1955年に頂点に達し、
「一つの家、一つの宗教、一つの経済」
を基本理念とする欧州帝国へと再編された。
もちろん、その政治的経済的は中心はナチス・ドイツであり、ヒトラー・ドイツによる第3帝国に次ぐ、第4帝国時代へと突入していくことになる。
日英同盟はこの動きに対抗し、第4帝国の封じ込めを図った。
冷戦と呼ばれる時代の始まりである。




