戦艦扶桑最後の勝利
戦艦扶桑最後の勝利
1943年6月15日、アメリカ合衆国は西海岸に上陸した日本軍を海に追い落とすべく史上最大の大陸軍を編成して、一大攻勢を開始した。
総兵力450万に達するその兵力は、日本軍西海岸遠征軍80万の5倍に達していた。
同時に武装蜂起した民兵集団もカウントするなら総数は600万に達する。
だが、乾坤一擲にして、必勝の決意を以て臨んだこの戦いに、米軍は敗北することになる。
結論から述べてしまったが、合衆国歴史上最大にして、おそらく最後になる大陸軍が臨んだ戦いがどのようなものだったかを語るには、まずその地理環境から述べなくてならない。
このとき、アメリカ合衆国は2つの戦線を抱えていた。
カナダと国境を接する北部戦線と日本軍が上陸した西部戦線だった。
同盟側は前者をオンタリオ戦線と称し、後者を太平洋戦線としていた。
どちらも北米大陸を東西、南北に縦断する広大な戦域であり、旧来的な意味でも戦線と呼べるものを作るのは不可能な場所だった。
あまりにも広すぎるので、戦力を隙間なく敷き詰め、塹壕を彫り巡らすようなことは合衆国の生産力を以てしても無理だった。
もちろん、合衆国よりも工業力、生産力に劣る日英同盟軍は言わずもがなである。
帝国陸軍にとって空前絶後の兵力である日本軍北米派遣軍であっても、輸送と兵站の限界から補給のかなりの部分を現地調達(略奪ではない)に頼っているほどだった。
ただし、日本軍は土地の支配や野戦軍撃滅は重視しておらず、西海岸に戦略爆撃機を展開する基地が獲得されれば、それでよしとしていた。
日本軍の戦略爆撃は、合衆国の産業、経済への直接攻撃、つまり国家への直撃を狙っており、その末端である合衆国の軍隊そのものを撃滅するつもりはさらさらなかった。
また、それができるだけの戦力がないとも言えた。
まともに戦って勝利し、ワシントンまで進軍できる軍隊を編成する国力があるのなら、そうしていただろう。
ある意味、日本軍の戦略は、生産力の限界から来る貧者の戦いとも言える。
ともかく西海岸沿岸地域を占領した日本軍だったが、ロッキー山脈を超えることはなく、沿岸から300km以上は進軍していない。
補給の限界もあったが、それ以上の土地は戦略上不要だと考えられたのである。
日本軍はこのとき、軍を3つに分けている。
北から順に、北部方面軍(バンクーバー方面軍)、中部方面軍(サンフランシスコ方面軍)、南部方面軍(ロサンゼルス方面軍)である。
この上に北米派遣軍総司令部があり、総司令官には梅津美治郎陸軍大将が就任していた。
3個方面軍に別れた日本軍は、それぞれの補給港から伸びる兵站線に依存していた。
神の視点に立てば、バンクーバー・サンフランシスコ、ロサンゼルスのそれぞれからロッキー山脈へと向けて枝分かれしていく人と物資の流れを見て取ることができただろう。
そして、その終点にあるのが、前線基地軍群であり、これらの基地がアメリカ大陸西海岸を南北に2000kmに渡って縦断していることがわかる。
もちろん、基地は防御か、交通を管制しうる要所、要所に配置されており、基地全周を塹壕と対戦車壕、地雷原で固めていた。
これらの基地群が全周防御を行っているのは、当然のことながら、それが敵性原住民に囲まれた孤塁であり、米軍の攻勢時には包囲されることが宿命づけられているからである。
場合によっては玉砕もあり得る。
これらの拠点防御形式の間を米軍は自由に移動することができた。
また、それを阻害するほどの密度ある戦力配置は不可能だったし、その意志もなかった。
包囲された基地は、手持ちの装備と人員で解囲まで固守する方針であり、迅速な解囲のための機動戦力が各地に配備された戦車軍団の役割でもあった。
要するに日本軍の防衛構想は、拠点防御(被包囲前提)+機動防御だった。
固定した戦線を作らない、西海岸全域を使った機動戦をやろうとしていたのだ。
極めて限られた兵力で、南北2,000kmを超える戦域を戦うためには他に方法がなかったとも言える。
ただし、この戦略は極めて有効に機能した。
特に指揮統制の面においては有用だった。
1943年において帝国陸軍は総兵力240万に達しようとしていたが、この兵力は戦前の10倍を超えていた。
戦前の日本陸軍の総兵力は18万しかなかった。
当然のことながら、たった数年で将校の数を10倍以上に拡大することなどできようはずもない。
兵員に関しては、営々と溜め込んできてた予備役兵を動員することでなんとかなったが、それを動かす将校は全く足りなかった。
海援隊に後方支援を丸投げして、人員を前線に集中させても全然足りなかった。
そこで学徒を動員して、促成教育を施して前線に送り込み、戦時昇進を乱発して下士官を無理やり将校団にくりこんで辻褄をあわせているのが現状だった。
だが、そうした作り上げた軍隊は、精兵の集まりではなく、素人集団にしかならないのは当然の論理的な帰結だった。
幸いなことに、そうした素人集団で戦った経験が、帝国陸軍にはあった。
第一次世界大戦である。
欧州に120万の兵員を送り込んだ先の大戦を前線で過ごした下級将校が、帝国陸軍において枢要な地位を締めており、今次大戦において活躍していた。
陸軍大臣として辣腕を振るった永田鉄山や次官としてそれを支えた東条英機などはその代表例である。
この経験がなければ、大陸軍の編成すら不可能であり、仮にそれができたとしてもひどく効率が悪いものになっていたと考えられている。
先の大戦において、素人集団を率いて戦った経験を豊富に持っていた陸軍上層部は、素人集団はひどく指揮統制に難があり、箸の上げ下ろしまで将校の指導がないと何もできないことを知っていた。
その上で、全周包囲を前提とした拠点防御方式は、指揮統制に有利であると考えた。
特に戦場を固定できるのは大きかった。
戦場を縦横無尽に駆け回る機動戦では、行軍だけでどれほどの兵員が脱落、脱走して失われるかわかったものではなかった。
拠点防衛なら、そうした心配は軽減される。
対戦車壕と地雷原、鉄条網に囲まれた前線基地は、合衆国軍の攻勢から身を護る盾であると同時に兵員を縛り付ける檻でもあったのである。
噛み砕いた表現をするのなら、パートタイマーの素人を前線に配置して、拠点防御させている間にプロ集団の機動部隊で殴りかかるというのが帝国陸軍のシナリオである。
なお、素人集団の集まりという点では、日本軍以上に素人集団である合衆国軍だったが彼らには拠点防衛戦略は採用できなかった。
彼らの戦略目標は日本軍の撃退だったからだ。
よって、攻勢にでなければいけない以上、拠点の守って云々は最初から埒外である。
それだけが理由ではないが、合衆国軍の攻勢は、2度に渡って頓挫していた。
合衆国軍の最初の総反攻は、1942年9月1日に始まった。
作戦名は、王冠。
攻撃目標は、中部方面軍(サンフランシスコ方面軍)だった。
なぜサンフランシスコ方面軍が狙われたかといえば、それが3個方面軍において最弱だったからである。
サンフランシスコ方面軍の総兵力はおよそ15万。
これは北部、南部方面軍の半数以下であった。
もちろん、この薄い兵力配置には意味があり、彼らは合衆国軍の攻撃を誘う囮の役割を与えられていた。
中央をあえて薄くすることで敵の攻撃を誘って南北から圧迫するという戦術である。
古くは鶴翼の陣と呼ばれる古典だったが、この戦術は有効に機能しており、コロネット作戦において米軍は破竹の勢いで進撃した後に、南北から側面攻撃で大打撃を受けて攻勢開始地点に撤退を余儀なくされた。
次の合衆国軍の総反攻は、1943年1月だった。
攻撃目標は、同じく中部方面軍(サンフランシスコ方面軍)である。
作戦名は国際競技大会。
合衆国軍は前回の反省から、側面防御に充てる兵力を増強していたが、これは失策だった。
攻勢正面に充てる兵力が減少しており、進撃速度が低下していたのである。
さらに日本軍もまた前回の戦闘から多くを学んでおり、広範囲に地雷原や地形障害物を構築しており、守りを固めていた。
結果として、オリンピック攻勢もまた失敗に終わった。
遅々として前進が進まない上に、南北からの兵力転用で、さらに攻勢正面の守りが固くなり、戦力の消耗から撤退するよりほかなくなったからである。
また、帝国陸海軍の航空部隊がほぼ絶対的な制空権を確保しており、合衆国軍はほとんどの戦場で航空支援なしでことを進めなければならなかった。
帝国海軍の零戦だけでも圧倒的だったが、陸軍航空隊の二式単座戦闘機「鍾馗」や二式複座戦闘機「屠龍」が相手の場合、レシプロ戦闘機では逃げ惑うことしかできなかった。
戦闘機よりも鈍足の爆撃機や攻撃機が前線で活動することは自殺行為となっており、合衆国軍は少しでも生存性を上げるために爆装戦闘機の運用を開始したほどである。
また、火力の運用に関しても日本軍の方が一枚上手だった。
日本軍は西海岸に、およそ8,500門(75mm以上の迫撃砲・ロケット弾発射機を含む)を展開していた。
数的には合衆国軍と大差なかったが、トランジスタで無線機を小型化、ソリッドステート化した日本軍は、無線通信システムの大量配備を実現していた。
これと歴戦の砲兵将校を集中配置した砲兵指揮所を新設することにより、前線からの支援要請に対して砲兵支援が柔軟且つ迅速に実施可能だった。
迫撃砲で編成された大隊砲レベルから10サンチ榴弾砲装備の師団砲兵、20榴や15榴装備の軍団砲兵が瞬時に(合衆国軍から見た場合)火力支援を行うため、前線の兵士が体感する日本軍の火力はまさに圧倒的なものとなった。
合衆国軍の歩兵小隊が呼べる火力支援は大隊配備の迫撃砲止まりであり、師団砲兵や軍団砲兵を自在のオーバーライドさせて支援に投入することは不可能だった。
実際のところは、日本軍のそれは火砲の不足を運用で補っているというのが実態だったが、似たような理由で合衆国軍も同種のシステムを構築しようとしている最中であり、日本軍の方が一歩先を行っていたとも言える。
また、合衆国軍は世界で最も機械化された軍隊であったが、砲兵の完全な自走化は不可能だった。
牽引砲主体の砲兵展開は常に機械化された戦車や機動歩兵に出遅れ、それがますます日米の火力ギャップを増加させていた。
こうした場合、火力支援の代替となるのが航空支援であり、航空機は足の長い砲兵とされる所以であるが、この方面も合衆国軍はいいところがなかった。
空を支配するのは、タービン・ロケットエンジンを装備の日の丸だったからだ。
絶対的な制空権を得た日本軍は多数の地上攻撃機を配置して、地上部隊を支援していた。
複座で足の長い一式艦上攻撃機は地上攻撃機としても優秀であり、20mmガンポッドを装備すれば延々と戦場に張り付いて機銃掃射が可能だった。
エンジン換装を受けた22型になると最大2tまで爆装可能となり、250kg爆弾からロケット弾、ガンポッドを満載してあらゆる地上目標を吹き飛ばすことが可能となった。
合衆国軍は対空火器を増強して対抗したが防御ならともかく攻勢作戦においては航空支援が得られないのは致命的である。
合衆国軍の2度に渡る総反攻失敗も結局は、火力と航空支援の欠如によるものだったといえる。
そして、その反省から学んだアメリカ合衆国最後の反攻作戦は、巧緻を尽くしたものとなり、作戦当初、日本軍を圧倒することに成功する。
1943年6月15日、合衆国軍は落日作戦を発動した。
攻撃目標は、南部方面軍(ロサンゼルス方面軍)だった。
二度の失敗から、合衆国軍はサンフランシスコ方面への攻勢は側面攻撃により困難であると判断し、南部方面への攻勢を企図した。
南部への攻勢ならば、少なくとも作戦初期には比較的弱体な中央方面軍からの側面攻撃だけを考慮すればいいからだ。
さらに地形的な障害も少なく、迅速な進撃に適していた。
もちろん、西海岸において日本軍2大戦力集団である南部方面軍への攻撃は、多大な犠牲を伴うことになり、進撃が遅延すれば北部からの兵力転用ですべてがご破産になる。
故に大規模な陽動作戦が行われ、これまでと同様に中部方面、サンフランシスコ直撃を狙った準備砲撃や戦闘爆撃機による航空撃滅戦が実施された。
このときの日本軍の心理は、手ぐすね引い待ち受ける年増女のそれで、最前線で砲爆撃を受けている兵士はともかく、全体的に余裕の表情だった。
サンフランシスコ方面軍総司令官を務めた本間雅晴中将の対応も、経験則に則ったものであり、北部、南部方面軍への支援要請が行われている。
これを受けて、北部、南部方面軍が増援のために兵力移動を始めた直後に、民兵集団による武装蜂起が発生した。
彼らはミニットマンを自称していた。
ミニットマンとは、アメリカ合衆国独立戦争においてゲリラ戦で王立陸軍を苦しめた民兵集団であり、ライフル銃を片手に1分で駆けつけることからそう呼ばれていた。
それは20世紀半ばでも同じで、1分で現れ一撃離脱し、1分で民衆にまぎれて逃走する米人ゲリラを日本軍は恐れていた。
大規模な合衆国軍の攻勢を除けば、西海岸における日本軍最大の敵はミニットマンであったとさえいえる。
実際に、合衆国正規軍と戦ったことが一度もないが、ミニットマンを相手に修羅場をくぐり抜けたという兵士は多く、特にそれは後方に集中していた。
1942年4月以後、西海岸に上陸した日本軍は、膨大な数の米国民間人を抱えることになり、彼らの統制に苦慮することになる。
日本軍へのサボタージュは当然として、個人所有の膨大な数に昇るライフル銃や拳銃がそのままゲリラの武器として使用された。
当初こそ、日本軍は民間人への暴力を厳禁とし、ライフル銃などを個人資産として没収しなかったが、兵站線への攻撃があまりにも激しく、多数の死傷者が生じたことから方針を転換し、途中からは厳罰を以て臨むようになった。
容赦を捨てた日本軍の対応は苛烈なものであり、陸軍憲兵隊はあらゆる手段を用いてゲリラを鎮圧した。
ゲリラの拠点とされた農村や一部の地方都市は、全住民を強制退去させ、爆撃で焼き払うなどの苛烈な処置が行われた。退去に応じない場合は、ゲリラとして住民ごと焼却された。
捕らえたゲリラを集めた収容所では強制労働が行われ、ゲリラが女性だった場合は、特別な慰安施設へ送致された。
当然のことながら、このような対応は米国人の報復心を掻き立て、日本軍占領下では終わりのない泥沼のゲリラ戦が続くことになる。
このときの傷跡は深く、21世紀現在においても合衆国西海岸では「けんぺー」「ろーむしゃ」「いあんふ」という日本語が通じるほどである。
さて、話が逸れたがミニットマンの蜂起である。
ミニットマンの攻撃を受けたのは橋梁や鉄道駅、操車場、機関車庫といった交通の要衝や発電所、変電所や送電網、水道設備、通信施設や電話回線といったインフラだった。
変電所が完全破壊されたロサンゼルスでは大規模な停電が発生し、都市機能が麻痺した。
だが、この手の攻撃はこれまでも幾度も行われてきたものであり、目新しいものではなかった。
ダウンフォール作戦におけるミニットマンの攻撃は、そうした後方への一撃離脱のみならず、師団司令部や軍団司令部といった指揮統制の中枢への攻撃や、砲兵陣地や野戦飛行場への襲撃が行われた。
もちろん、日本軍とて警備の手を抜いていたわけではないが、ミニットマンの装備や投入兵力は日本軍の警備兵力を完全に上回っていた。
日本軍の後方支援を引き受ける海援隊は長年に渡ってこの手の攻撃に対してノウハウを積み上げてきたが、それを上回る飽和攻撃だった。
何しろ、サンフランシスコにあった南部方面軍司令部が一時的とはいえ、ゲリラに占領され、司令官の牟田口廉也中将が人質にされるほどだった。
最終的に牟田口中将はゲリラによって殺害されることになるが南部方面軍司令部の壊滅は、取り返しがつかなかった。
司令部の壊滅は南部方面軍36万の指揮統制の崩壊を意味しており、その被害は甚大なものだった。
パニックが伝播し、情報が入らなくなった末端の基地では、サンフランシスコがすでに陥落したと判断し、降伏する部隊が続出したのである。
さらにミニットマンから日本軍の砲兵や航空戦力の展開情報を得ていたアメリカ軍は、パニックを起こしていた日本軍へ砲兵戦を展開し、ほとんど一方的に勝利した。
南部方面軍に所属する砲兵の6割が砲兵戦開始から12時間以内に壊滅したのである。
これは前線配置の砲兵のほとんどすべてであり、生き残った砲兵戦力は、後方にいたか、たまたま合衆国砲兵の射程距離外にいたため難の逃れたに過ぎなかった。
そして、それらも合衆国軍の攻勢により次々と蹂躙され、壊滅することになる。
野戦飛行場に分散配置されていた航空戦力にいたっては飛び立つ前にゲリラに破壊されるか、砲兵に吹き飛ばされるか、爆装戦闘機の機銃掃射で破壊された。
日本軍の航空戦力がそれで尽きたわけではないが、指揮統制の崩壊により一時的な麻痺状態に陥った。
そして、火力と航空の優勢を失って、指揮崩壊した南部方面軍にジョージ・パットン中将率いる6個戦車師団が襲いかかり、日本軍の防衛体制は溶けたバターのように崩壊していった。
攻勢開始からわずか7日で、パットン戦車軍団の先鋒はロサンゼルスから16kmの距離まで進軍していた。
市内に合衆国製砲弾が落下するようになり、ミニットマンが市街地で武装蜂起、ロサンゼルスは砲火の下にあって大混乱に陥った。
このとき、パットン中将は最前線にあり、ロサンゼルスを見下ろす峠から、
「諸君、勝利まであと10マイルだ!」
とこの戦いを象徴する檄を飛ばした。
この10マイル(16km)こそが、合衆国にとって永遠に等しい10マイルとして歴史に記録されることになる。
後に合衆国のITビジネス業界で、「ゴールまで10マイル」という表現が、永遠に完成しないプロジェクトを意味するスラングになったほどである。
攻勢開始から、8日目の1943年6月23日にパットン中将は、指揮下の全部隊に総攻撃を命令を発した。
だが、その日の前進できた距離はわずかに5kmだった。
翌日に6月24日も攻撃は継続されたが、前進距離は1.5kmでしかなかった。
総攻撃から3日後の6月25日には、パットン戦車軍団の進撃は完全に停止し、前進は全く不可能な状態となっていた。
パットン戦車軍団の先鋒は市街地の外縁に取り付いており、市街戦が始まっていたが奇襲効果はすでに失われており、日本軍は態勢を立て直しつつあった。
日本軍守備隊は爆薬で建物を吹き飛ばし、バリケードを築いていた。破壊を免れた建物は住民を追い出した上で即席の都市要塞としていたのである。
また、帝国陸海軍と指揮系統の異なる海援隊は軍の混乱に巻き込まれておらず、警備部隊を再編成した上で、ロサンゼルス防衛に投入した。
そうした日本軍の混乱回復もあったが、進撃が止まったのはパットン戦車軍団の武器弾薬が欠乏していたことが大きい。
燃料は現地のガソリンスタンドや放置車両からガソリンを徴発することでどうにかなったが、弾薬はどうにもならなかった。
補給や後方支援が分厚いことで知られる合衆国軍が弾薬の欠乏に悩むというのは不可思議な話であるが、1943年になるとそうも言っていられなくなっていた。
日本軍の戦略爆撃にもかかわらず1943年になると合衆国の戦時生産は最大まで拡大したが、生産されたものが前線に運べるかどうかは全く別の話だった。
特に鉄道交通網の破壊は致命的な水準に達しつつあり、工場には完成品が山のように積み上がっていたが出荷することができずに路上に放置されるほどだった。
合衆国が南部方面に攻勢へ出たのも、ロサンゼルス郊外に展開した日本軍の戦略爆撃機基地を破壊するという目的があった。
爆撃で潰すことができないため、地上軍の侵攻で代替しようとしていたのである。
前線への弾薬の集積は行われていたが、ダウンフォール作戦以後の攻勢作戦については、所要の弾薬がいつ確保できるかは不明な状態だったほどである。
それでもダウンフォール作戦実施には十分な弾薬が集積されていた。
ただし、それを300km近く進撃する予定のパットン戦車軍団に継続して送り届けられるとは考えられていなかった。
態勢を立て直してくるであろう日本軍航空部隊の阻止爆撃のターゲットにされる補給コンボイを送ることなど、現実的ではなかった。
実際に、失敗に終わったコロネット作戦オリンピック作戦では、日本軍の阻止爆撃によって後方から補給コンボイが壊滅させられている。
どれだけ対空火器を配備して、戦闘機の護衛をつけてもタービンロケット爆撃機の一式陸攻と誘導爆弾の組み合わせからは逃れられなかった。
そこでパットン戦車軍団が採用したのが、
「ジンギスカン・プラン」
と呼ばれる補給作戦だった。
構想は単純なもので、進軍する部隊の後ろから補給を適宜送るのではなく、部隊に予め補給部隊を帯同させて進軍させるというものだった。
古のジンギスカンの軍勢が、食料である羊やテントなどの家財道具、家族・親類を伴って進撃した故事をなぞらえたものだと言われている。
これなら阻止爆撃で補給コンボイが破壊されることもない。
また、軍隊の補給にまわつる様々な煩わしい処理も大きく軽減される。
車内容積の大きなM4戦車などは、規定よりも多くの弾薬を積み込み、食料なども詰めるだけ積み込んで作戦開始に臨んでいる。
そのため、M4が撃破されるとしばしば空腹感を刺激する匂いが戦場に漂うことになった。
話が逸れたが、パットン戦車軍団は比類なき軍事的成功を収めたが、その代償として手持ちの弾薬を使い尽くしていた。
そして、ロサンゼルスまで最後の10マイルで立ち往生してしまったのである。
そのため、合衆国軍は当初の予定になかった補給コンボイを後方から送らざるえなくなっていた。
だが、それには大きな問題があった。
指揮崩壊に陥った南部方面軍だったが、いくつかの師団は上級司令部から連絡途絶後も独自に戦闘を継続し、頑強な抵抗を示していた。
特にパットン戦車軍団への補給路を扼するヴィクターヴィルには、1個歩兵連隊基幹の守備隊が立て籠もっており、後方からの補給を不可能にしていた。
パットンは抵抗する日本軍を包囲するにとどめて進撃を優先していた。殲滅、掃討戦に時間を浪費することを嫌っていたのである。
また、ロサンゼルスに突入してしまえば、包囲された日本軍は自動的に降伏するという考えもあった。
1940年のドイツ西方戦役のような、電撃戦こそが勝利の要諦とパットンは考えていたのである。
だが、ロサンゼルス突入が失敗した以上、補給路に残してきた棘を抜かないかぎり、戦闘継続は不可能だった。
補給は欠乏していたが、1個連隊を踏み潰すには十分な兵力(米歩兵28師団、10機甲師団及び民兵部隊)が集められ、戦闘開始前には降伏勧告が行われた。
降伏勧告を受け取ったのは、臨時の編成の連隊戦闘団(通称宮崎支隊)を指揮していた宮崎繁三郎大佐だった。
宮崎大佐は、ただ一言
「バカメ」
と返信して降伏勧告を拒絶、徹底抗戦を選択した。
1943年6月28日のことだった。
合衆国軍の総攻撃は、降伏勧告拒絶の直後から始まり、宮崎支隊は全周から集中砲火を浴びることになった。
だが、損害は軽微なものだった。
宮崎大佐は当初から徹底抗戦を想定しており、合衆国軍が市街地に突入せず、包囲に留まった時間を活用して、市街地を簡易な都市要塞に作り変えていた。
日本軍の防衛陣地となったコンクリート建築は可燃物の放棄を済ませてあり、砲撃を受けても炎上することもなく、砲火に耐えたのである。
宮崎大佐は準備砲撃を陣地に籠もってやり過ごすと、すばやく高所に機関銃陣地を展開させ、十字砲火で押し寄せる合衆国軍歩兵をなぎ倒した。
合衆国軍は砲弾が不足しており、攻勢準備が射撃が不十分であり、砲弾の不足を歩兵突撃にで補おうとしたため被害は甚大なものとなった。
だが、合衆国軍には時間が不足しており、無理に無謀を重ねた攻勢が続くことになる。
戦後に生き残った宮崎支隊の兵員が証言するところによれば、
「奴らは津波のように押し寄せてきた」
という合衆国軍らしからぬ損害を省みない人海戦術が採られた。
翌日の29日には、第10機甲師団の1個戦車連隊(M4(a)装備)が市街地に侵入し、戦車の支援を受けた合衆国軍歩兵の一部が宮崎支隊の防衛線を食い破ることに成功する。
だが、宮崎支隊は1個戦車大隊(九九式重戦車装備)による機動反撃でこれを撃退に成功し、合衆国軍は日没前に市街地から撤退させられた。
この機動反撃に懲りた合衆国軍は作戦を変更し、翌日30日は包囲した戦線のすべてで同時攻撃を行って、宮崎支隊の機動反撃を飽和させることに成功した。
また、連続戦闘で宮崎支隊は兵員を消耗しており、宮崎大佐直卒の第58歩兵連隊の戦闘可能な兵員は600名まで減少した。
兵員の欠乏で、当初の防衛ラインを維持できないと判断した宮崎大佐は最終防衛ラインまで戦線を後退させ、最後の戦いに備えた。
宮崎支隊には絶望感が漂ったが、当の宮崎大佐は持久可能だと判断していた。
また、それを可能とする日本軍のスーパーウェポンががヴィクターヴィルから北方18kmまで前進しており、7月1日の戦いに備えていた。
後の戦史研究において、決戦の日として認識される7月1日の戦いは日の出と同時に、鉄道機動により展開した帝国陸軍第1鉄道砲兵連隊が三十六糎列車加農4門及び二十四糎列車加農1門で砲撃を開始したことで始まった。
第1鉄道砲兵連隊が編成されたのは、1939年末のことである。
トラック奇襲で帝国海軍が壊滅的な打撃を受け、マリアナ防衛戦でかろうじて合衆国軍を撤退させることに成功したころの話である。
当初の配備戦力は、陸軍が試験導入していた二十四糎列車加農1門のみだった。
1939年中の帝国陸軍における最大の恐怖はソ連軍の南下であったが、それと同時に海軍壊滅による合衆国軍の本土上陸が真剣にありえると考えていた。
帝国陸軍は本土決戦に備えて沿岸防衛の強化に乗り出し、千葉県九十九里浜や南九州志布志湾に要塞建築を計画した。
ただし、これらは殆ど未完成に終わっている。
海軍の奮戦によって太平洋戦線は押し戻され、1941年12月にはハワイが陥落し、合衆国海軍は事実上、壊滅した。
要塞建設が途中で中止されたのは妥当な判断と言えよう。
第1鉄道砲兵連隊にしても、完全編成となったのも1941年12月のことであり、編成完了と同時に全く無用の長物となっていた。
編成作業が途中で中止されなかったのは保険の意味合いもあったが、トラック奇襲で撃破された扶桑型戦艦や伊勢型戦艦の主砲の在庫がだぶついており、なにかに廃品利用できないか試行錯誤した結果と言ってもよかった。
鉄道砲兵連隊には空母化改装を受けた戦艦扶桑から回収された三十六糎砲が専用台車に据え付けられて配備された。
この専用台車は水圧利用の駐退機が備えられ、360度旋回していかなる方向でも砲撃が可能という優れものだった。
この4門には非公式だが伊勢砲、日向砲、扶桑砲、山城砲と称されていた。ただし、砲の出処はすべて戦艦扶桑である。
日本軍が西海岸に上陸すると千葉県の富津市で東京湾防衛用と待機していた第1鉄道砲兵連隊も西海岸へ移動が決定し、1942年10月11日にサンフランシスコに上陸した。
もちろん、合衆国軍も日本軍が強力な列車砲部隊を西海岸に上陸させたことを掴んでおり、その所在を掴もうとやっきになっていた。
だが、鉄道機動可能な列車砲は、ミニットマンの情報網にひっかかってもすぐに移動してしまうため、破壊工作や空爆はことごとく失敗に終わった。
ダウンフォール作戦において、日本軍の砲兵部隊の多くがミニットマンの情報網にひかっかり、所在を特定されて早期に壊滅させられたことを考えると機動力の高い砲兵の生存性の高さは特筆すべきことだった。
戦後、帝国陸軍が砲兵の自走化を進めたのはこの失敗に学んだがゆえにである。
また鉄道機動可能なICBMが日本で開発、配備されたもの、このときの経験に基づいてる。
第1鉄道砲兵連隊は、ミニットマンによる鉄道破壊を苦しみながらも、宮崎支隊救援のために護衛の装甲列車共に前線へ進出。7月1日の戦いに、かろうじて間に合うことになった。
電波信管付きの三十六糎榴弾によるエアバースト射撃の破壊力は凄まじく、宮崎支隊の包囲していた合衆国軍は甚大な被害を被ることになった。
合衆国軍はその圧倒的な破壊から、すぐに列車砲部隊の展開に気がついた。
しかし、砲弾の欠乏から十分な対砲戦が実施できなくなっていた。
それならば空爆となるが、7月1日時点で日本軍航空部隊は緒戦の混乱から立ち直っており、列車砲上空に分厚い迎撃機の壁を作っていた。
また、近接航空支援も復活しており、宮崎支隊はようやくまともな航空支援を受けて戦うことができるようになっていた。
それでも後がない合衆国軍は戦車の支援をつけた歩兵による波状攻撃を実施したが、攻撃のたびに近接航空支援と砲兵支援で撃退された。
7月1日正午には、最後の総攻撃が行われ、合衆国軍の一部が宮崎支隊の最終防衛ラインに取り付き、白兵戦に突入した。
白兵戦は宮崎大佐自ら軍刀とピストルで戦うほどの激戦となったが、最後に戦場を制したのは、制空権と砲兵火力で優勢を確保した日本軍だった。
翌日にも合衆国軍は攻勢を行ったが、二度と日本軍の防衛ラインに食い込むことはできず、空爆と砲兵射撃で無為に損害を積み上げるばかりとなった。
7月3日にはすべての攻撃が中止された。
日本軍の救援部隊(第2戦車師団)が迫っており、それどころではなくなっていた。
攻撃中止までに第1鉄道砲兵連隊は、4門あった三十六糎砲のうち3門及び二十四糎砲を対砲兵射撃で失っていたが最後の1門となった扶桑砲は射撃を継続し、勝利に貢献した。
この戦いにおける列車砲の活躍は神がったものがあり、戦後に出版された戦記小説においても、
「卑怯な奇襲攻撃で撃沈された戦艦扶桑の復讐心が乗り移ったかのような」
と表現されることが多い。
このため、ヴィクターヴィル攻防戦における列車砲の活躍を、
「戦艦扶桑最後の勝利」
とする文献は戦後に現れた。
実際のところ、列車砲による火力支援がなければ、宮崎支隊の抵抗は7月1日に潰えていたのは確実と考えられている。
そして、宮崎支隊の壊滅はパットン戦車軍団への補給を可能とし、パットン戦車軍団の復活は、ロサンゼルス陥落を意味していた。
ロサンゼルス陥落は南部方面軍壊滅を意味しており、南部方面軍壊滅は最終的に日本軍北米派遣軍の壊滅への帰着したはずである。
戦艦扶桑は、最後の最後で、太平洋戦争における最終の勝利に貢献したと言えた。
宮崎支隊の解囲は7月5日を待つことになるが、この時点でダウンフォール作戦の失敗はもはや明らかになっていた。
全戦線において、態勢を立て直した日本軍が圧迫を強めており、燃料と弾薬が欠乏したパットン戦車軍団は装備を放棄して徒歩で撤退するしかなくなっていた。
撤退する合衆国軍とそれを追撃する日本軍のタンゴは7月末まで続き、合衆国軍は攻勢開始地点まで押し返された。
合衆国軍の損失は、撤退に失敗して降伏した部隊や殲滅された民兵部隊を含めると90万人に達したが、日本軍もまた20万人近い死傷者を出しており、南部方面軍はほぼ壊滅状態に陥っていた。
またロサンゼルス近郊に展開していた戦略爆撃機用の基地群は蹂躙され、これもまた壊滅状態であったことから、勝ったとはいえ日本軍も青息吐息といえた。
同規模の攻勢を受けたら、次は支えきれないと陸軍中央は考えており、西海岸からの撤退が真剣に検討されたほどだった。
だが、合衆国軍による再攻勢は永遠に来なかった。
合衆国軍が作戦中止を決断した1943年8月3日、中国大陸の奥地にある成都にて、中華民国(南京政府)大統領汪兆銘が死去。
同日、北京政府軍(蒋介石政権)に南京政府は無条件降伏した。
そして、捕虜になった合衆国軍事顧問のクレア・リー・シェンノート中将の口から日米開戦に至る全ての真実が明らかにされた。
20世紀最大のスキャンダルとされる、マーシー・パネェー号沈没にまつわる合衆国の自作自演が暴露され、一大センセーションがホワイトハウスを直撃したのである。