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大洋の帝国  作者: 甲殻類
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バック・ハンド・ブロウ



 バック・ハンド・ブロウ


 

 独ソ講話の成立は、欧州の戦略環境を劇的に変化させた。

 展開速度の速い航空戦力については、講話成立直後から西部戦線への移動が始まり、欧州上空の戦いを枢軸に傾けた。

 イギリス空軍がほそぼそと続けていた夜間爆撃は、講話成立から2ヶ月後の1943年2月12日には無期限中止に追い込まれた。

 東部戦線の地上支援から解き放たれたドイツ空軍は、大量の戦闘機を欧州上空に貼り付けてランカスター重爆を欧州上空から追い払ってしまった。

 レーダー装備の二式複座戦闘機”屠龍”が欧州に配備されていれば話は変わっただろうが、屠龍の配備は西海岸が優先されており、欧州には展開していなかった。

 また、イギリス空軍の夜間爆撃はもはや戦略的に意味もある規模ではなく、ハラスメントレベルだったことから、中止の決断は妥当なものだったと言える。

 ドイツ空軍の英国本土爆撃が始まろうとしているときに、貴重なマーリンエンジンを4つも使う重爆撃機を大量に必要とする夜間爆撃などやっている場合ではなかった。

 それでなくとも、カナダ本土決戦であるオンタリオ戦線では制空権確保のために大量のスピットファイアが必要だった。

 オンタリオ戦線が維持されているのは、スピットファイアの活躍によるところが大きく、米軍もP-47のような新型機を投入してきていたが、巻き返しには至っていない。

 だが、オンタリオ戦線における米軍機のプレゼンスは大きく、守りに徹してしのいでいるというのが実情である。

 イギリス空軍は対米直後にもランカスターによる奇襲爆撃を成功させているが、そうした攻撃が通用したのは緒戦のみで、1943年に入ると北米でのランカスターの運用はもはや不可能だった。

 同世代の四発重爆には、B-17やB-24があり、それらに比べるとランカスターの爆弾搭載量は2倍近かったが、反面防御力は低く、明らかに設計が古かった。

 ランカスターの前身であるマンチェスター爆撃機は双発爆撃機であり、エンジンの信頼性が不足していたことから、急遽、4発化された経緯があった。ランカスターは戦争が生み出した間に合わせ兵器という側面があり、戦争の激化に対応できなかった。

 もっとも、1943年時点で4発重爆をまともに運用できている国は日本だけであり、B-17やB-24も前線から引き上げられている。

 米国製重爆の性能では、タービンロケット戦闘機が飛び回る西海岸で運用するのは自殺行為同然であり、対潜作戦や洋上哨戒用にほそぼそと運用されている過ぎなかった。

 アメリカ軍は後継機のXB-29ですら、タービンロケット機が乱舞する対日戦に用いるのは無謀として開発を中止しており、より高性能なXB-36計画ですら危うい状況だったことから、ランカスターの前線引き上げは決して責められるものではない。

 欧州上空の優勢を確保したドイツ空軍だったが、その支配は陸の上だけの話だった。

 英仏海峡上空には、ゼロファイターが手ぐすねひいて待ち構えており、メッサーシュミットやフォッケウルフでは、手も足も出なかった。

 ドイツ空軍は極東から現れたヌルに大苦戦しており、100オクタンガソリン使用を前提に、米国製排気タービンを装備したFw190A-10”スーパーフォッケウルフ”のみが辛うじて対抗可能とされていた。

 零戦が欧州上空に飛んでこないのは、航続距離が足りないだけである。

 

「もしも、黄色人種のヌルがベルリンまで飛べるほどの燃料を搭載できたら、この戦争は我々の負けだっただろう」


 と戦後に書いた回顧録の中でヘルマン・ゲーリング国家元帥も認めている。

 イギリス空軍が輸入した零戦の数は少なかったが、英仏海峡を守るには十分で、制空権が確保できないのなら、英国本土へ上陸することは不可能だった。

 反対に、日英同盟軍は洋上の制空権を確保したことにより、いつでも好きな場所に上陸することができた。

 1943年3月1日。同盟軍は絶対的な洋上制空権の下にシチリア島に上陸した。

 作戦名はエクスカリバー。

 約束された勝利の作戦とも和訳された同盟軍の上陸作戦は、圧巻の一言だった。

 シチリア島に上陸したモントゴメリー将軍率いる第8軍を支援するのは、太平洋から転用された帝国海軍主力艦隊だった。

 ハワイ奇襲を成功させた第1機動艦隊(赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴)は当然として、第2機動艦隊(扶桑・山城・伊勢・日向・大鳳・瑞鳳)、第3機動艦隊(雲龍・天城・葛城・阿蘇・笠置・生駒)まで展開していた。

 これ以外に海援隊の空母部隊も存在しており、上陸支援用の軽空母艦隊まで展開していた。

 母艦航空戦力だけで2,000機を超えており、まさに問答無用の戦力展開だった。

 上陸に先立ってシチリア島に投下された爆弾は2,000tに達している。

 帝国海軍は水上艦戦力も手を抜いておらず、46サンチ砲搭載艦で固めた第一戦隊(大和戦隊)まで投入していた。

 基準排水量7万tに達する大和型戦艦にとっての最大の難関はスエズ通過で、限界まで弾薬と燃料と抜いて辛うじて通過可能になった。

 これらの戦力を統括する連合艦隊司令部も、太平洋の戦いは終わったとして横須賀鎮守府を引き払いハワイ作戦で使用した通信艦あきつ丸に座乗してアレキサンドリアに進出していた。

 これ対抗する枢軸軍の海空戦力は、自殺的な航空攻撃を一度だけ試みて、それが失敗に終わると防衛に徹する方針に切り替えた。

 賢明な判断といえる。

 イタリア海軍はアドリア海の港に逼塞して出撃を拒否しており、辛うじて潜水艦と魚雷艇が反撃を試みたが、分厚い護衛に阻まれて空母部隊への攻撃は一度も成功していない。

 上陸は強襲となったが砲爆撃で水際の抵抗を粉砕するとその後の展開は一方的だった。

 枢軸軍は少なくとも3ヶ月はシチリア島で持久できると考えていたが、1週間足らずの戦闘で主力のイタリア軍が崩壊、降伏すると如何にしてシチリア島から戦力を脱出させるか考えなくてはならなかった。

 最終的に枢軸軍は遅滞戦闘によって稼いだ時間で、メッシーナ海峡を渡って10万人近い兵員をイタリア本土へ脱出させることに成功する。

 シチリア島の陥落は4月11日のことで、これにより地中海航路の完全な安定を得た同盟軍は次なる攻撃目標をイタリア半島に定めた。

 すでにイタリア海軍は行動不能になり、枢軸軍の航空部隊も同盟軍の地中海航路を脅かすものではなかったが、同盟の大動脈に刺さったトゲは抜いておかなければならない。

 また、他に攻撃できそうな目標がなかったとも言えた。

 北アフリカから枢軸軍を叩き出した同盟軍だったが、フランスなどの西欧へ上陸作戦を遂行するには、明らかに地上戦力が不足していた。

 日本陸軍の主力は西海岸にあり、英国陸軍もカナダと本土防衛で精一杯の状況だった。

 シチリア島に上陸した英第8軍20万のうち7割が海援隊の組織した”国境なき軍隊”であり、民間企業の軍隊が主力を務めるなど前代未聞の事態が進行していた。

 一企業の軍隊が、もはやそこらの小国の常備軍を遥かに上回る戦力を有しているなど、保守的な思想の持ち主から警戒どころではなく、完全に敵視されるには十分な理由だった。

 実際、日英政府の保守政治家には、海援隊の解体と軍備の接収を求める声が上がっていた。

 だが、厳密な計算により、正規軍の3分の1で予算で現有兵力を維持できていることが判明し、沙汰止みになっていた。

 日英政府の財務担当者は膨大な戦時国債の消化に発狂せんばかりになっており、1円でも、1ポンドでも戦費を節約できるのなら、便器を舐めることさえ厭わぬ覚悟を固めていたことから海援隊の解体など受け入れられるものではなかった。

 海援隊は海援隊で、その圧倒的な資金力と政治力、情報力を駆使して、各国の軍部や政治家にロビー活動を展開しており、組織防衛に熱心だった。

 多くの軍人にとって、戦争が終われば軍備の縮小は規定路線であり、そうなったときの再就職先を確保するのは、先の見えている人間とっては至上命題だった。

 軍人たちは、父親たちは戦争が終わったあとも妻子を食べさせていかなければならないのである。

 人はパンのみにて生きるにあらずが、パンがないと飢えして死んでしまうのだ。

 そして、欧州戦線における最後の戦いとなるイタリア本土決戦が始まった。

 同盟軍のイタリア半島上陸は、1943年5月25日。

 作戦名は、ヘブンス・フィール。

 天の杯とも和訳される。

 同盟軍の地中海戦力を結集した一大上陸作戦であり、シチリア島に引き続きモントゴメリー将軍率いる英第8軍がその主力だった。

 対抗するのは、イタリア軍及びドイツ・イタリア防衛軍であり、その戦力はアルベルト・ケッセルリンク元帥の一手に握られていた。

 もはや政治的に死に体となったベニート・ムッソリーニ統領は、イタリア軍の指揮権をケッセルリンク元帥に預けるしかなく、それに反発した軍部はイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に接触し、政権転覆を図るという不穏な情勢下の戦いだった。

 なお、上陸そのものは至って順調だった。

 ほぼ絶対的な制空権、制海権を確保していた同盟軍にとってサレルノ上陸をたやすいことだった。

 同盟軍主力となった国境なき軍隊(MSF)にとっても、上陸作戦はもはや手慣れたもので、上陸後の橋頭堡確保から内陸への侵攻は幾度も繰り返されてきた流れ作業ごときものすぎなかった。

 上陸作戦に使用する機材も第二次世界大戦時としては、洗練の極みにあった。

 軽戦車をベースに開発された浮航戦車や、発動機を強化した装甲大発や戦車揚陸艦。さらに空中にあっては回転翼機さえ投入された。

 世界初の回転翼機による上陸作戦を実施したのは、MSFの空中機動兵団であり、彼らは46機の回転翼機を戦場に持ち込んでいた。

 実用的な回転翼機ヘリコプターの実用化、量産化に成功したのは河城重工である。

 実際の開発はSCP財団傘下のOKB938であり、主催者は武裕博士だった。なお、OKB938の前任の主催は、ロシアから亡命したイゴール・シコルスキー博士である。

 シコルスキー博士はその後、意見対立から活動の場をアメリカに移し、シコルスキー・エア・クラフト社を興す。

 シコルスキー博士の在任期間は短いものだったが、彼の残した遺産は大きなものがあり、その後の日本のヘリコピターの歴史に大きな足跡を残した。

 シコルスキー博士の遺産を引き継いだ武博士は独自の理論から二重反転ローターを生み出し、1940年7月に試作機T-1の初飛行に成功している。

 二重反転ローターの採用により機体の小型化に成功したT-1は帝国海軍の目に止まり、水上偵察機に代わる艦載航空兵力として着目された。

 サレルノ上陸作戦に投入されたTK-1はT-1を大型化したもので、6名の完全武装した兵士を輸送することができた。

 設計はOKB938で行われたが、製造は河城重工だったことから武・河城式回転翼機としてTK-1 のナンバリングがつき、制式採用した帝国海軍においては三式特殊連絡機という興ざめな名称が与えられた。

 もっとも現場の兵士達はそのような面倒な呼び名を使うことはなく、武博士とヘリコプターをかけあわせせて、武コプターと呼ぶことが圧倒的に多かった。

 武コプターはその変幻自在の飛行特性から、


「空を自由に飛びたいな」


 という人類の夢を叶えた技術歴史遺産として記録され、


「はい!武コプター!」


 という有名なキャッチフレーズが生まれた。

 サレルノ上陸にあたって、武コプターは兵員の輸送から負傷兵士の後送、弾薬の輸送や着弾観測支援など、ありとあらゆる場面で活躍したことから大量配備が決定している。

 圧倒的な機械力と制空権、制海権の下で行動する同盟軍の攻勢を遮るものはなく、サレルノ上陸の2週間後には、ローマが無血開城となった。

 ムッソリーニは既にローマを脱出して、北部のヴェネツィアに逃れており、同盟軍は破竹の勢いで北上していくことになる。

 これを阻止するはずの枢軸軍は、東部戦線終結により戦力転用があったにも係わらず消極的な対応に終始していた。

 このことについては、同盟軍内部にも慎重論が生まれたが、前線を押し上げる速度は止まらなかった。

 ローマ解放までさしたる抵抗もなかったことが同盟軍内に楽観論を育てていたためである。

 また、ほぼ絶対的な制空権と制海権を得ていたことがこの楽観論を後押しした。

 要請から30分以内に飛んでくる地上攻撃機による火力支援に慣れていた同盟軍は、枢軸軍の反撃を十分に跳ね返せると考えていたのである。

 だが、イタリア半島防衛の全権を握っていたルントシュテット元帥は一枚上手だった。

 彼は同盟軍の補給線が伸び切り、将兵が疲れるのを待っていたのである。

 枢軸軍の反撃が始まったのは、1943年6月10日だった。

 反撃開始の数日前、イタリア半島中部では大規模な山火事が発生した。

 乾燥した気候の地中海沿岸諸国では、山火事が珍しいものではなかった。

 だが、この山火事は人為的なものであり、その目的は煙によって視界を低下させ、枢軸軍地上部隊の大規模な移動を覆い隠すことだった。

 大量の古タイヤや廃材が燃やされた空域では極端に視界が低下し、航空偵察どころか地上支援も困難なほどとなった。

 もちろん、そうした大規模な攻勢の前触れともいうべき動きは、ただちに同盟軍の知られるところになり、全部隊に警報が発令された。

 だが、これまでの戦いが連戦連勝だったことや、極度の疲労で判断力が低下していたこともあり、警戒態勢の構築は中途半端に終わった。

 南西の風に乗って広がる煙の下を枢軸軍の機甲師団が移動中であることが確認されたのは、枢軸軍の攻勢準備射撃が始まる30分前で、もはや対処不能だった。

 この煙を運ぶ忌まわしい南西の風から、枢軸軍の大規模な反撃は、


「リベッチオ攻勢」


 とも、計画立案者の名から、


「マンシュタイン攻勢」


 とも称される枢軸軍の大攻勢は、東部戦線から転戦した精鋭部隊を先鋒としていた。

 それを指揮するのは、東部戦線の激戦地からイタリア半島に赴任したエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥だった。

 マンシュタイン元帥は、総司令官のルントシュテット元帥と図り、計画的な後退とあえて戦略上の重要拠点であるローマを手放すことで、同盟軍の行動をコントロールした。

 空間を飛び越えたりすることができないかぎり、進撃距離に補給密度が反比例するのは当然のことであり、薬物を使用していても人間の体力や集中力は限界がある。

 もちろん、同盟軍も無能の集まりではないことから、兵站組織の再編成と前線部隊の交代させる計画はあった。

 だが、予想以上に進撃速度が早かったことから、それらは先送りにされてしまっていた。

 枢軸軍の総反撃は、同盟軍の限界ぎりぎりを見越したもので、そのタイミングの読みは東部戦線の激戦で研ぎ澄まされたマンシュタイン元帥の怜悧な頭脳以外、読み解けないものだった。

 さらに、同盟軍は占領したローマを防衛する義務が生じており、ローマに民主主義を復活させるという派手なプロパガンダを行ったばかりで、その直後にローマを見捨てるという選択肢は政治的に不可能だった。

 要するに疲労しきって、補給も不十分な同盟軍が、ローマ防衛のために引くに引けなくなかったところを、再編成を終えて補給も休養もたっぷりとったドイツ軍精鋭部隊に全力攻撃されたという図式だった。

 ドイツ軍の先鋒を務めたのは、ドイツ国防軍のエリート部隊”装甲擲弾兵師団グロースドイッチュラント”であり、彼らはⅥ号戦車”ティーガー”を装備していた。

 枢軸軍の戦車部隊に対して優位にあった九九式重戦車を正面から撃破可能な88mm砲と100mmに及ぶ正面装甲を備えたⅥ号重戦車は、突破戦闘の先鋒に配置された。

 重戦車部隊の突撃を受けた同盟軍戦線はあっけなく突破を許し、機動反撃にでた戦車部隊もティーガーの前に苦戦を強いられることになった。

 九九式重戦車の100mm45口径砲は、ティーガーを正面から撃破可能だったが、ティーガーは角度によっては砲弾を弾くことがあり、遠距離では撃破不能だった。

 また、イギリス製戦車を装備した同盟軍部隊(オーストラリア軍やインド軍)はまったく勝負にならず、一方的にティーガーによって蹴散らされてしまった。

 対フランス戦や対ソ戦で自国製戦車の火力・装甲不足を痛感していたドイツ軍は、1943年に入ると新世代戦車を多数、実用化していた。

 ティーガーに並ぶ新世代としては、Ⅴ号戦車パンターもあった。

 しかし、マンシュタイン攻勢においては目立った活躍を残せなかった。

 実用化を急ぎすぎたため、機械的な故障が続発し、まともに活動できなかったのである。

 丘陵の多いイタリア半島では、パンターはエンジンのオーバーヒートが続発し、燃料タンクの不具合からガソリン漏れが多発した発生した。

 オーバーヒートのエンジンに漏れたガソリンが触れれば即座に発火、炎上する。

 そうして失われたパンターは、70両に及び、これは投入されたパンター戦車の7割にあたるという。

 ティーガーも丘陵の多いイタリア半島の戦場に適しているとは言い難く、初期の突破戦闘を終えると後方に下げられている。

 重戦車の開けた穴から後方へ流れ込むのは、機動戦車の役割であり、こちらは旧世代のⅣ号戦車やレンドリースのM4中戦車が投入された。

 だが、旧世代のⅣ号戦車であっても主砲換装で火力を高めており、側面を晒せば九九式重戦車でも危険だった。

 主砲換装を実施しているのは、M4中戦車も同様であり、こちらはティーガーと同じ88mm砲を装備していた。

 レンドリースされたM4中戦車はバランスの取れた攻防性能と機械的信頼性から、


「もうM4だけあればいいんじゃないか?」


 と装甲兵総監ハインツ・グデーリアン上級大将がぼやくほど、優れたものだった。

 実際、東部戦線においてM4はエリート部隊に優先的な配備されるほど優れた戦績を誇ったが、火力の不足は如何ともし難いと考えれた。

 そこで、ドイツ技術陣は詳細な検討の結果、M4戦車の車格とターレットリングは88mm高射砲の搭載に耐えることを発見し、独自の改修型でありM4(a)を生み出した。

 M4(a)は改修された砲塔と88mm砲を装備する以外は米国製のM4と同様であり、装甲防御は不足していたが機動力と機械的な信頼に富んでいた。

 東部戦線で消耗したドイツ軍装甲部隊の再建に奔走していたグデーリアン上級大将が熱心に開発・配備を進めたことから、非公式に装甲兵総監戦車と称されることもあった。

 イタリア半島の戦いで、特に危険だったのがこの88mm砲装備のM4(a)で、高い機動力を駆使し、稜線を活かした戦い方で多数の九九式重戦車を撃破している。

 後手に回り続ける同盟軍は、一度突破を許すると後方の砲兵陣地を蹂躙され、航空支援を封じられた上に砲兵火力の優位を失って一方的に押しまくられる展開となった。

 マンシュタイン元帥は機動戦が難しいイタリア半島の戦いは、火力戦であることも理解しており、東部戦線からかき集めた砲兵と砲弾を全力投入していたため、ドイツ軍は久しぶりに火力優位の下で戦うことができていた。

 砲兵火力の集中は、セヴァストポリ要塞攻略戦を超えており、ドイツ軍の砲兵部隊の中には、史上最大最強の列車砲である80cm列車砲グスタフ・ドーラさえあった。

 グスタフの80cm徹甲榴弾の直撃を受けた同盟軍の対戦車陣地などは一撃で木っ端微塵に吹き飛び、同盟軍はそれが砲撃であることが理解できず、1t爆弾が投下された考えたほどだった。

 ローマ防衛を固執する同盟軍とローマごと敵野戦軍の包囲殲滅を狙う枢軸軍の戦いは、1943年6月17日に最高潮に達し、ローマ南方のカステッリ・ロマーニで大規模な戦車戦が勃発した。

 ローマ帝国時代から避暑地と知られる風光明媚な丘陵地帯を舞台としたこの戦いは、ドイツ軍の先鋒集団パウル・ハウサーSS装甲軍団司令官率いるLSSAH師団、ダス・ライヒ師団を同盟軍の切り札である英第7機甲師団”デザート・ラッツ”が迎撃したものである。

 マンシュタイン元帥は、この総反攻のタイムリミットを1週間としていた。

 同盟軍の混乱はそれ以上続かないし、人為的に作られた山火事は燃えるものがなくなり鎮火してしまうからだ。

 攻勢開始初日には、ガスマスクなしでは活動できなかったほどだった山火事の煙は、拡散して無効化されつつあり、ローマ周辺の空域は航空機が活動可能な状態となっていた。

 枢軸軍はほぼ絶対的な優勢にある同盟国航空部隊の阻止爆撃で地上軍が壊滅する前に、ローマを包囲して封鎖体制を構築しなければならなかったのである。

 そして、攻勢作戦の最終日において、煙を運ぶ南西の風は完全に止んでしまい、同盟軍のタービンロケット機が乱舞することになる。

 対する枢軸軍航空部隊の主力であるドイツ空軍第2航空艦隊は温存したすべての戦力を投入して、犠牲を省みない航空攻勢を開始した。

 ドイツ空軍は、低速の爆撃機や地上攻撃機に代えて爆装したFw190を同盟軍のレーダーをかいくぐる超低空侵入でイタリア南部の航空基地に突入させ、地上でタービンロケット機を撃破することで制空権確保を図った。

 爆装戦闘機の低空侵入などは対空砲火と迎撃戦闘機部隊の餌食でしかないが、枢軸軍は東部戦線で不要になった第3,第4航空艦隊を解体してまで補充を送り込んで攻撃を続行した。

 攻撃が続く限り、同盟軍はそれに対応しなければならないし、それは前線に送られる航空支援が減ることを意味している。

 実際、同盟軍の航空部隊はこの自殺的な基地攻撃により、前線部隊に航空支援を与えることが不可能になっていた。

 自分たちが生き残ることで精一杯だったのである。

 残る同盟軍の命綱は、洋上を移動する航空基地である帝国海軍の空母機動部隊だけだった。

 このとき、地中海に遊弋して地上軍を支援していたのは、第1機動艦隊である。

 ハワイ奇襲占領を担った栄光の第1機動艦隊”角田艦隊”は赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴の6空母を有し、大和、武蔵、信濃、甲斐からなる第1戦隊”大和戦隊”を揃えた、帝国海軍の決戦戦力だった。

 彼らとって、港に逼塞して出てこないイタリア海軍を警戒しつつ、地上支援をするというのは至極退屈なものだったといえる。

 油断といえば、それまでだったが彼らの戦力からすれば止む得ないものともいえた。

 その時、第1機動艦隊の各空母では地上支援のために艦上攻撃機が逐次発進しており、甲板には多数の燃料と爆弾を満載した状態で艦載機が並べられていた。

 危険極まりない行為であったが、地上支援に必要な戦力を適宜発進させるためには止む得ない運用だった。

 全艦載機を投入する艦隊決戦とはことなり、地上支援とは不連続の小規模な戦力を投入した戦いであり、甲板を空にしておくことなど不可能だった。

 もちろん、凶悪極まる対空砲火とレーダー誘導の戦闘機部隊が待機しており、防御には抜かりないはずだった。

 だが、第1機動艦隊を襲ったドイツ軍対艦攻撃部隊の攻撃は、帝国海軍の予想を遥かに上回る大規模かつ、常軌を逸したものだった。

 レーダーの探知を避けるために超低空で侵入したドイツ空軍の爆装メッサーシュミットは、あろうことか爆弾を抱いたまま、第1機動艦隊の各空母に体当たり攻撃を行ったのである。

 最初は、未熟なパイロットがミスを犯したと考えた第1機動艦隊だったが、五月雨式に突入を図る攻撃隊が駆逐艦や巡洋艦にも自爆攻撃を行うとパニックを起こした。

 もやは、ドイツ空軍による対艦攻撃は自殺的なものとなっていたが、本当に自殺攻撃してくるとは誰も考えていなかったのである。


「ゾンダーコマンド・エルベ」


 日本語文献では、エルベ特別攻撃隊と称される自殺攻撃部隊がドイツ空軍内部に編成されたのは、1943年3月初旬とされている。

 きっかけはシチリア島を巡る戦いで帝国海軍機動部隊への攻撃に出動したドイツ空軍部隊が、何の成果もなく全滅したことである。

 この攻撃には無線操縦誘導爆弾Hs293も投入されたが、発射母機ごと零戦隊に撃墜され、投弾に成功した機はなかった。

 航空雷撃や急降下爆撃、水平爆撃も対空砲火と圧倒的なゼロファイターに阻まれ、全く不可能な状態に追い込まれた。

 追い詰められたドイツ空軍は、タービンロケット機であるMe262の戦闘爆撃機型と新型誘導爆弾の実用化を急ぐと共にその実用化までという条件付きで爆装の戦闘機を使用した自殺攻撃戦法の採用が検討された。

 自殺攻撃の採用は、空軍トップのヘルマン・ゲーリング国家元帥さえも


「ゲルマン的な戦い方ではない」


 として否定的だった。

 だが、何の有効な手立てを打てないゲーリングは、連日、ヒトラーから常軌を逸した叱責を受けるようになり、粛清の危険を感じていた。

 ヒトラーはかねてから海援隊による暗殺という被害妄想を患っており、北アフリカの戦いがドイツ軍の大敗で終わるとその病状は極度に悪化していた。

 ヒトラーの側で日本やそれを連想させる言葉を発することは厳禁となっており、日本人は黄色人種、日本軍は黄色人種の軍隊といった意味のない言い換え語を発明しなければならなかったほどである。

 そんな海援隊(国境なき軍隊)がシチリア島に制圧し、イタリア本土へ上陸するとヒトラーは錯乱状態に陥り、精神安定剤の処方が必要なほどとなった。

 だが、ヒトラーは安定剤の服用を


「霊感を鈍らせる」


 として拒んでおり、病状は悪化する一方だった。

 そんな錯乱状態のヒトラーから連日連夜、常軌を逸した叱責を受け続けたゲーリングは、保身から劇薬である自殺攻撃計画を漏らしてしまう。

 どう考えても正気ではない計画をぶちあげることで、ヒトラーの異常な叱責から逃れようと考えたとされるが、これは軽率な行動だった。

 ヒトラーは自殺攻撃計画に歓喜し、これを全面的に採用するように総統命令をだした。

 かくして、新思考教育課程という名目でパイロットが集められ、1943年6月17日を迎えることになる。

 自殺攻撃に用意されたのは旧型のMe109E-7型だった。

 E-7型は落下タンクを装備できる長距離飛行型であり、洋上に進出する対艦攻撃には適した機材だった。

 資料が抹消されたため、正確な数字は不明であるが、自爆機は300機前後が用意されたと推定されている。

 パイロットは、一応、志願という名目であったが、実態としては強制だった。

 ヒトラーの狂気によって生み出されたゾンダーコマンド・エルベであったが、ドイツ人的な几帳面さによって、その攻撃手法は周到に計画されたものだった。

 攻撃は、スーパーフォッケウルフの護衛がついた通常攻撃部隊と護衛なしで自殺攻撃部隊に分けられ、先行する通常攻撃部隊が日本艦隊の注意をひきつけている間に、自殺機が空母へ突入するというものだった。

 攻撃は、そんな狂ったことをするはずがないという日本艦隊の油断もあり、赤城、加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴の5空母が被弾し、大破炎上するという大戦果を上げることになった。

 いずれも空母の地上支援のために甲板に燃料や爆弾を満載しているところを攻撃され、甲板上で艦載機が誘爆して大火災が生じている。

 エルベ特攻隊にとって不幸なのは、彼らが突入した空母が、いずれも対米戦で被弾、炎上を繰り返していた空母ばかりということである。

 損害の応急修理や消火作業はもはやお手の物であり、甲板こそ使用不能になったが被弾した空母で沈んだ船は1隻もなかった。

 だが、それでも戦略的にも枢軸軍の完勝だった。

 第1機動艦隊は空母被弾により後退を余儀なくされ、同盟軍地上部隊にとって最後の命綱が流れ去ってしまったからだ。

 ハウサーSS装甲部隊の猛攻にさらされた英第7装甲師団は、撤退を余儀なくされた。

 その後も、戦闘は続いたが同盟軍はローマ放棄を決定し、アレキサンドリアから急行した帝国海軍第2機動艦隊の援護のもとで、辛うじて沿岸部から兵員の救出に成功する。

 だが、重装備は放棄するしかなく、イタリア戦線は完全に膠着状態に陥った。

 ムッソリーニのローマ凱旋は、1943年6月29日のことである。





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