天に昇るスターリン
天に昇るスターリン
1942年12月、全世界の労働者の希望。約束された勝利の国。全人類が何れ到達するユートピアである人工国家ソビエト連邦は断末魔の縁にあった。
1941年6月にドイツの奇襲攻撃で始まった独ソ戦(ソ連側:大祖国戦争)は、1941年12月にモスクワが陥落し、翌年の夏には戦線はウラル山脈の前面までに到達していた。
国土面積からすれば、まだまだソ連には広大な領土を残されていたが、主要な穀倉地帯と工業地帯を失って経済は破綻寸前だった。
特にアストラハンを失ってからは、バクー油田からの石油輸送が完全に止まり、近代国家の血液である石油供給が滞っていた。
そして、ロシアの12月は厳冬であり、暖房用燃料がないというは死を意味する。
スターリンが疎開したスヴェルドロフスクはまだマシだったが、それ以外の都市では石油供給が最低限まで絞られた。
寒さが極まると空き家を解体して木材を回収して暖をとるなど極限の防寒対策が進められたが、そのような対応は長く続けられるものではなかった。
もちろん、ソ連には第2バクー油田(チェメニ油田)があり、即座に燃料供給が完全停止するわけではなかったし、シベリア経由で日本からの援助があったから、即死は免れている。
だが、極寒の中で廃材を燃やして暖をとる難民達とっては何の慰めにもならず、おがくずを混ぜた変な味のする黒パンを食べて飢えを凌ぐ内に、怒りと絶望が深まるのは当然といえば当然のことである。
そして、その怒りは第1にドイツ人へ向かっていたが、第2は無能極まる偉大な同士指導者スターリンへと向かっていた。
スターリン体制下のソ連に報道の自由はなく、世論調査など存在しえなかったが、イエスかノーの二択であれば、スターリンは明確にノーだった。
独裁者というものは、絶対的な権力を持っているようで、実は世論に敏感な存在である。
何しろ己の権力に正当性がないからだ。
故に、民衆の支持は必須要素である。
如何に強力かつ正確無比な秘密警察を用いて、強制収容所を満杯にし続けたとしても、収容所の定員には限度があり、限度を超えて民衆の怒りや失望を買うことは絶対に避けなえればならなかった。
さもなく、自分が吊るさることになるからである。
自分が政敵に対してそうしてきたように。
また、スターリンには民衆以外にも、恐れているものがあった。
強大な政治的な存在と化した軍部である。
スターリンは軍部がコントロール不能になることを恐れ、高級将校の大半を粛清していた。
所謂、大粛清である。
大粛清は軍部のみならず国家全体に及ぶ恐怖政治に発展したが、元々はスターリンが軍部を掌握するための行ったものである。
結果として、赤軍将校の大半が処刑されるか収容所に送られ、赤軍は骨抜き状態に陥った。もちろん、そんな軍隊が精強なドイツ軍に太刀打ちできるはずもない。
独ソ戦が始まるとスターリンは収容所から粛清した将校を呼び戻し前線に送った。
結局、収容所から復帰した赤軍将校団はドイツ軍を押し止めることはできなかったが、1942年12月時点でも組織的な戦闘能力を維持しており、それは収容所帰りの軍人たちを抜きにしては考えられなかった。
そして、ドイツ軍との苛烈な戦いの中で、軍部はスターリンの無能極まる戦争指導に苛立ち、不満をつのらせていた。
特に1941月12月のモスクワ陥落時、スターリンは無責任極まる態度を顕にした。
さっさと政府を疎開させると、その後をジューコフ大将に任せるとモスクワから逃亡した。
スターリンはモスクワ陥落の責任を軍部になすりつけ、軍事作戦への介入を深めたが、1942年の戦いではソ連軍の大半がスターリンの無能極まる作戦指導によって包囲殲滅される結果に終わっている。
「あの男に任せていたらロシアはおしまいだ」
と軍部が考えるようになるには十分すぎるほどの負けっぷりだった。
軍部のスターリン排除の動きは、すぐに秘密警察を通じてスターリンの知られるところになった。
そして、スターリンは自らの生存のために、軍部の再粛清を決意するが、そのためにドイツとの戦争を終わらせなくてはならなかった。
スターリンは自分が生き残れるなら、ウラル山脈の向こう側の全てをヒトラーにくれてやってもいいと考えたのである。
あるいは、自分自身の権力とソ連の統治機構を維持できたのなら、軍部を粛清しても時間経過で巻き返しが可能だと考えていたのかもしれない。
実際にどうだったのかはスターリンが自伝の類を残していないので不明だが、ドイツとの講和が保身を第一にしていたのは間違いないところである。
1942年12月8日の独ソ講和の背景要約は、この通りであった。
「独ソ講和成る」
というセンセーションは即座に日英に伝わり、激烈な反応を引き起こした。
ソ連の単独講和は明確な日英ソ不可侵条約違反であり、日英政府は講和の撤回と再戦争をソビエトに要求した。
対するスターリンの返答は、達成不可能なほどの軍事援助の量的拡大と日本がもつ先端技術の無償譲渡というものだった。
対米戦という泥沼にハマっている日英にとって、これ以上の軍事援助の拡大は不可能であったし、自国向けの軍備を一部縮小してまで既にソ連に援助を送っていたほどである。
さらに世界の10年先を行く日本の先端技術は、日本がその存亡を賭けて育て、守ってきたものであり、同盟国のイギリスにさえ全てを公開しているわけではなかった。
それを全て無償で提供しろというのは、最初から日本にノーと言わせるために持ち出してきたようなものだった。
また、スターリンは日英の戦争努力が不足していると口汚く罵った。
北大西洋の対独軍事援助船団が遮断されないことや、日本軍による対米戦略爆撃が効果を発揮してないことを日英の戦争努力の不履行であるとし、単独講和の理由にした。
これは半ば事実であるが、半分は一方的な思い込みだった。
北大西洋における援独船団の運行阻止は、もっぱら英海軍の役割だったが、米海軍の急速な戦力再建によって困難になっていた。
開戦初期こそ、米側の準備不足によって一方的な優勢を確保した英海軍も開戦から半年すぎると当初の勢いを失っていた。
1942年に入るとアメリカ合衆国は総力戦態勢を整えており、戦力の回復速度は日英の予想を上回り、ハワイ海戦の痛手から半年で立ち直っていた。
なんと1942年1月から半年で、エセックス級空母3隻、インディペンデンス級空母4隻を就役させていた。これ以外にも護衛空母が12隻も就役させており、米大西洋艦隊は英本国艦隊の手に余る戦力となっていた。
これ以外にも空母エンタープライズやベロー・ウッド、インディペンデンス、プリンストンといった太平洋から脱出組も再編成の上で船団護衛に投入されていた。
レパルスやレナウンといった巡洋戦艦を投入した通商破壊戦が通用したのは1942年3月までで、それ以降はエアカバーなしで行動するのは無謀となった。
1942年5月12日には、作戦行動中の英巡洋戦艦レパルスが空母インディペンデンス艦載機の攻撃を受けて航行不能になり、自沈処分されている。
レパルスは、レナウンとともに通商破壊戦に従事し、24万tの米国船舶を沈めた武勲艦で、レパルスの喪失は英海軍にとって大きな痛手だった。
さらに1942年6月30日には、北大西洋で作戦航行中の巡洋戦艦フッドとカレイジャスが、米艦隊と交戦しフッド、カレイジャスを撃沈されている。
第54任務部隊を率いるマーク・ミッチャー少将は、新たに艦隊に加わった新鋭空母ホーネットⅡ、バンカーヒル、モンテレーからなるハンターキラーグループを率いて、通商破壊戦を行っていたフッドとカレイジャスを捕捉。
一方的な先制攻撃でカレイジャスを撃沈に追い込むとレイキャビックへ逃げるフッドを追撃し、これを撃沈した。
フッドはレイキャビックのエアカバーに退避して生き延びたと思われたが、夜間航行中に米軍機の攻撃に遭って討ち取られた。
油断していたフッドを沈めたのは、空母ホーネットⅡの夜間雷撃部隊だった。
彼らは凶悪極まる帝国海軍の対空砲火に懲りた米海軍がその対応策として編成した夜間攻撃専門部隊で、対水上レーダーと電波高度計を備えたアベンジャー雷撃機で編成されていた。
電子の目を持つ帝国海軍と言えども、全ての対空砲が電探射撃を行うわけではなく、近接防御の25mm機銃や僚艦防空の37mm機銃は光学照準を多用していた。
そのため夜間には的確な照準が困難になるため、米海軍は夜間攻撃に活路を求めていた。
零戦が昼間戦闘機であり、夜間には飛べないことも大きかった。
もっともカレイジャスには零戦は搭載されておらず、それどころか旧式のシーハリケーンしかいなかったのだから、米海軍のF4Fでも全く問題なかったのだが。
英海軍はタービンロケット機の必要性は理解していたが、母艦の大規模な改修が必要なこともあって、二の足を踏んでいたことが裏目に出た。
フッドとカレイジャスの喪失によって、英海軍は通商破壊戦から大型水上艦を引き上げ、潜水艦作戦に切り替えることになる。
だが、帝国海軍との死闘で辛酸をなめつくした米海軍の対潜部隊は一枚上手であり、英潜は損失ばかりが目立つ結果に終わっている。
また、開戦奇襲に翻弄された米軍は暗号を変更し、情報保全態勢を刷新していた。
そのため船団運行情報がわかりにくくなっており、開戦初期のような効率的な船団攻撃などは望むべくもなかった。
米軍は同じ失敗は繰り返さないのである。
ただし、何事にも例外はあり、米軍の対応が後手に周り続けることもあった。
それが日本軍による対米戦略爆撃だった。
藤堂プラン第4段階対合衆国戦略爆撃を策定する上で、藤堂少佐(当時)は一つの方針を立てた。
それは、
「可能なかぎり、民間人への被害を避ける。都市爆撃についてはこれを厳禁とする」
というものだった。
これは藤堂少佐が人道主義者だったからではなく、極めて現実的な要請に基づくものだった。
はっきり言ってしまえば、当時の日本の生産力で編成できる戦略爆撃機戦力で合衆国全土の工業地帯を全て叩ききることなど不可能だった。
特に無差別都市爆撃ごとき作戦は全く不可といえた。
そんなことができるだけの爆弾と爆撃機をつくる生産力があれば、それで地上軍を編成し、ワシントンDCに侵攻した方が早いと考えられた。
藤堂少佐は、そもそもそれが可能なだけでの生産力があれば、合衆国は日本に戦争をしかけようとは考えなかっただろうとしている。
これは当時流行していた戦略爆撃理論を否定するものであり、特に対独無差別夜間爆撃を行っていた英空軍からは黙殺されるほど異端的な考え方だった。
英空軍は、都市爆撃による生産力と士気喪失こそ戦略爆撃と考えており、ランカスター重爆を苦労してニューヨークやドイツの夜空に送り込んでいた。
それが英空軍の考える戦略爆撃であり、ドゥーエの戦略爆撃理論の論理的な帰結だった。
伊陸軍ジュリオ・ドゥーエ陸軍少将は自著のなかで、航空戦力を動員して敏速に決定的な破壊攻撃を連続し、敵の物、心の両面の資源破壊により勝利すべきと主張した。
実際、ドゥーエの戦略爆撃理論は、藤堂プランに多大な影響を与えている。
特に地上軍は防御に専念し、空軍力による戦略攻勢という戦略は、ドゥーエが次の戦争のあり方として構想したものをそのまま踏襲していると言えた。
日本軍は西海岸に上陸しても、沿岸から300km以上進撃せず、占領地の確保と防御陣地の構築、そして航空基地の建設に邁進し、これを守ることを最重要課題としていた。
現実問題として、内陸侵攻しても補給線が保たないことや、地の果てにそびえる壁のごときロッキー山脈を超えられる目処が全く立たないということもあったが、日本軍は戦略爆撃でこの戦争に勝つ気でいた。
藤堂少佐は、
「ドゥーエの理屈は正しいが、やり方が間違っている」
と後に自著の中で語っている。
敵国の生産力を全て破壊できるだけの爆撃機と爆弾を作る生産力があれば、戦略爆撃のような回りくどいことをしなくても、普通に戦って勝てるのだ。
実際、日本軍が北米にて編成した実質的な独立空軍「第8航空艦隊」の装備する4発重爆は最盛期であっても1,222機である。
上記は整備補修中の機材もカウントした数字で、実際の作戦行動に就いていたのは500~600機程度だった。
これだけの戦力で、合衆国の全ての都市を焼き払うなど不可能だった。
では、日本軍が実施した対米戦略爆撃とはどのようなものだったのか?
その実相を筆記すると以下のとおりとなる。
日本軍占領下のカルフォルニア州には6つの空軍基地が建設された。
5000m級滑走路を複数要する内地では考えられない規模の巨大基地であり、それが第8航空艦隊の主力である戦略爆撃航空団の根城だった。
ちなみに第8航空艦隊を率いるのは、帝国海軍中将大西瀧治郎である。
米軍はこの6つの基地を最重要攻撃目標として、それぞれシルヴァン、ブラウニィ、トロル、サイレーン、ヴァルキア、フェアリイというコードネームを割り振っている。
大西中将が常駐していたのはフェアリイ基地だった。
フェアリイ基地は6つの基地の中でも最大の規模を誇った。
6大基地以外にも、西海岸全域に356箇所の前線飛行場や中規模の基地があり、陸海軍機3,500機あまりが配備されていた。
フェアリイはロサンゼルスに近い礫砂漠のど真ん中に建設された基地で、日中は砂嵐と米軍機の爆撃に見舞われる環境にあったため、施設の多くが地下に建設された。
基地には10,000人近い人間が居住していたが、その殆どが地下で暮らしていたことから、巨大な地下街が形成された。
21世紀現在は廃墟観光スポットして世界中から観光客が集まることで知られている。
日暮れが近づくと基地は慌ただしくなり、基地の掩体壕から巨大な4発重爆が引き出されてくる。
戦略爆撃の主役である重爆撃機は制式採用されたばかりの二式大型陸上攻撃機だった。
陸上攻撃機ということから分かるように、採用したのは帝国海軍である。
開発元は川西航空機で、彼らは並行開発していた大型飛行艇(二式大艇)の設計を流用して大型陸上機をつくる道を選んだ。
特に主翼や尾翼等は完全に同一設計で、異なるのは胴体のみだった。
その胴体も飛行艇のそれを流用してる関係で、胴体下部は飛行艇を思わせる反りが入っており、ほぼ共通設計の二式大艇を隣に並べると姉妹機であることがすぐに分かるほどである。
コンソリデーテッドB-24にも似ており、しばしば誤射の対象となった。
二式大攻の開発が始まったのは1937年で、前年に制式採用された九六式大型攻撃機の後継機だった。
帝国海軍は開発に際して1t爆弾を搭載して、8,000km飛べることを求めていた。
これは九六式大攻の2倍の数値であり、帝国海軍は新型の大攻を使って西大西洋全域で哨戒爆撃を行う計画を立てていた。
帝国海軍は太平洋に面する首都東京を米空母機動部隊が奇襲することを極度に警戒しており、遠く洋上に進出して長時間に渡って哨戒・警戒が可能な大型機を求めていた。
実際、太平洋戦争ではそうした奇襲は未遂に終わっているが、1941年3月と6月に米空母が日本列島に接近し、奇襲を試みたことが2回ある。
何れも哨戒中の潜水艦に発見され引き換えしたが、空母機動部隊による首都直撃の恐怖は現実のものであり、二式大攻や二式大艇の開発動機は現実的なものだった。
もっとも両機が制式採用された時には、既に日本軍はハワイや西海岸を占領しており、太平洋の完全な制海権を確保していたため、当初に予定されていた運用が実施されることは殆どなかった。
なお、大攻の開発は中島飛行機でも行われており、中島は開発中の旅客機を改造することで開発コストの圧縮を図った。
発想としては川西と同一であり、経済的な健全性に満ちていたが、完全に失策だった。
経済飛行を最優先する旅客機を爆撃機として使用するには機体強度が全く不足しており、補強を繰り返した挙げ句、重量超過に陥り開発は放棄された。また、オリジナル旅客機もこの混乱に巻き込まれて開発中止に憂き目を見ている。
ただし、得られた開発データは次期主力大攻の開発に生かされることになったので全く無駄というわけではなかった。
この失敗に懲りた中島飛行機が最初から爆撃機として専用設計開発したのが第二次世界大戦最大の爆撃機となる四式大型陸上攻撃機”富嶽”となる。
なお、富嶽は爆撃機以外には使いようがない設計だったため、旅客機に転用不可であり、戦後の軍縮で軍用機が売れなくなった中島が会社倒産に追い込まれる原因となった。
ただし、会社倒産直後に死去した社長の中島知久平はなぜか満足そうだったとされる。
話が逸れたが、掩体壕から引き出された二式大攻には燃料と爆弾の補給が行われた。
燃料は日本軍占領下で操業を続けるエルウッド製油所から供給される最高品質のケロシンで、エンジンは一式艦攻と同じNTPー001Bである。
馬力換算で2,200馬力を発揮するタービン・プロップ・エンジンは二式大攻を高度8,000mで時速555kmまで加速させることができた。
ただし、より高速のP-38が飛ぶ昼間に出撃するのは、二式大攻であっても危険だった。
そのため二式大攻の作戦は夜間に限られ、出撃は夕暮れ時と決まっていた。
なお、燃料と爆弾の補給中であっても、米軍機の攻撃は継続しており、フェアリイ基地周辺は飛来する米軍機を迎え撃つ日本軍迎撃機戦闘機部隊と対空砲火による爆音に満ちていた。
高速で頑丈な二式大攻の夜間攻撃は阻止困難だったことから、米軍は大攻を地上で叩くことを重視し、爆装した戦闘機を大量投入して各基地を襲った。
これを迎え討つのが、一式戦や帝国陸軍航空隊自慢の二式単座戦闘機”鍾馗”だった。
二式単戦はようやく完成した帝国陸軍初のタービン・ロケット・戦闘機である。
零戦に遅れること2年であったが、その分だけで完成度は高く、試作機をそのまま実用化した零戦に比べて様々な面で進歩していた。
葉巻型の胴体や機首のエアインテーク、機体後部に配置したタービンロケットエンジンやエンジン排気を避けるためのT字尾翼など、その優れた設計は後発のTa183やF-86に模倣された。
ただし、後退翼はまだ備えておらず、直線テーパー翼を使用していた。
帝国陸軍のタービンロケット機が後退翼を備えるのは二式単戦の改良型である四式戦闘機”疾風”からである。
エンジンは一式陸攻に採用されたNTRー006Bを使用した。
推力2tを発揮するこのエンジンは爆撃機用ということもあり、大きく重かったが零戦を遥かに上回る時速850kmを高度8,000mで発揮した。
エンジンの非力さに泣いた零戦とことなり十分な推力を得た鍾馗は、本格的なタービンロケット時代の戦闘機であり、レシプロ戦闘機を全く寄せ付けなかった。
鍾馗とP-40のキルレシオは1対24という破滅的なものであり、より高速のP-38であっても、1対18という悲惨な結果を残している。
アメリカ軍もタービンロケットエンジンの開発を国の総力をあげて推進していたが、レシプロエンジンの排気タービンに注力していた関係で、タービンロケットの開発は後手に回っていた。
ドイツは合衆国に比べれば進んでいたが、実用的なタービンロケットエンジンは1942年時点ではまだ形にできていない。
鍾馗の兵装は、一式戦に使用された一式固定機関砲(ホ103)を二門備えた。
ホ103はガスト式という特殊な動作機構を採用することで毎分3,600発の射撃速度を備えており、鍾馗はそれを左右の主翼に1門ずつ備えていた。
これはM2ブローニング重機関銃換算で10丁分に匹敵し、鍾馗のジャイロコンピューティングサイトに捕捉された敵機は、一瞬でスクラップにされた。
当然のことながら日本軍自慢の炸裂弾も使用可能であり、例え相手がB-17であっても全く問題なかった。
アメリカ軍は鍾馗を
「ミンチメーカー」
と呼んで、極度に警戒した。
鍾馗には零戦にはなかった射出座席や、対Gスーツ、予圧面といった最新の航空技術も大量に採用されており、隙がない機体だった。
長距離飛行時の自動操縦装置やエンジンの制御を電子化、自動化するなど、パイロットが飛行、戦闘に集中できるように最大限の人間工学的な配慮がなされていた。
これまでタービンロケット機の弱点であった加速性や低速時の飛行特性も鍾馗は克服しており、西海岸の制空権確保に多大な貢献をなした。
総生産機は8,000機に達しており、改良型の四式戦闘機を含めると15,000機を越える。
これはタービンロケット機の生産数としては歴史上最大のもので、21世紀現在でもこれを上回るレコードは存在しない。
航続距離が短いという弱点があったが、西海岸における迎撃戦では全く問題にならなかった。
日本軍は補給港から300km以上は進撃しないと決めており、この範囲内で戦うなら鍾馗は1942年8月時点では無敵の存在だった。
ただし、夜は飛べなかった。
二式大攻の離陸援護は夕暮れ時ということもあり、鍾馗が戦える時間は短かった。
完全に日が暮れる前に鍾馗は離脱する必要があり、離陸援護の任務は二式複座戦闘機”屠龍”にバトンタッチすることになる。
二式複戦”屠龍”は帝国陸軍航空隊が採用した複座重戦闘機で、2基のタービンロケットエンジンを備えていた。
エンジンはNTR-004Dで零戦に採用されているものと同じだった。
ただし、エンジンの信頼性や安定性は初期型比べて向上しており、推力も1tに達した。
屠龍はこれをポッド型にして左右の主翼に装備した。
こうしたエンジンの配置方法は初期のタービンロケット機に多用された形式で、独空軍のMe262やHe280、英空軍のミーティアも同じ配置方法を採用している。
このタイプは機首に武装を集中できるという利点があり、屠龍は対爆撃機迎撃のために二式固定機関砲(ホ203)37mm機関砲を備えていた。
さらに副武装として一式固定機関砲2門も機首に集中配置しており、屠龍は火力のお化けとなっていた。
37mm機関砲は軽戦車の主砲とベースに開発されたもので、如何なる大型爆撃機であっても1,2発で撃墜可能という優れものだった。
ただし、残念なことに米軍は低速で鈍重なB-17やB-24といった大型機がもはや生き残れないと考えて単発機や小型双発機の生産に全力を挙げており、屠龍が前線に到着したときには獲物が残っていなかった。
単発の戦闘爆撃機や双発爆撃機なら鍾馗でも十分だった。
しかし、屠龍が暇になることはなく、機首から機関砲を下ろして、代わりに機上レーダーを搭載した夜間戦闘機として活用されている。
電波透過素材のフェアリングの下に配置されたマイクロ波レーダーは、夜間における鋭敏な目であり、地上からのレーダー誘導と併せて米軍機の夜間攻撃を寄せ付けなかった。
米軍にもB-25やA-20を改造した夜間戦闘機があったが、速度なら鍾馗と同程度出せる屠龍を相手にするのは無謀であり、奇襲が成功しないかぎり殆ど一方的に撃墜されている。
なお、屠龍には夜戦タイプ以外にも戦闘爆撃機タイプも存在し、機首の機銃に加えて主翼にガンポッドを追加した掃射機が作られた。
米軍の補給トラックの車列を狙って高速侵入する掃射型の屠龍を阻止することはほぼ不可能であり、これに狙われて全滅したコンボイは数知れない。
話を二式大攻の離陸に戻すが、戦闘機部隊の援護を受けつつ高度を上げた大攻は高度8,000mで編隊を組んだ。
出撃機は2個小隊の8機程度で、それ以上の大編隊を組むことは殆どなかった。最低限4機編隊でも十分だと考えられた。
大攻の出撃は続いており、平均して50から60群が6大基地から連日連夜出撃していた。
総勢としては400~450機程度である。
これ以外にタービンロケット機の一式陸攻が電波妨害装置を満載して出撃しており、途中までエスコートジャミングを実施した。
日本軍は米軍のレーダー警戒網を潰すことに全力を挙げ、大量の囮機を出撃させている。
この囮機は夜戦タイプの屠龍で、専用のグライダーを曳航していた。
グライダーといっても小型のもので、主翼長は2m足らずである。ベニヤ板を組み合わせた使い捨てのものだった。
だが、厳密な計算によってレーダー反射面積を最大化する設計となっており、ちょうど二式大攻と同じレーダー反射になるように調整されていた。
米軍が大攻だと思って夜間戦闘機を差し向けると屠龍夜戦の前に獲物を差し出すことになる計算だった。
屠龍夜戦隊は、訓練を重ねてまるで大攻が飛行しているかのように偽装する技を磨いており、近寄ってくる米軍夜戦を次々に撃墜していった。
米軍はこの偽装夜戦隊を警戒して、
「ファイアフライ」
と呼んで恐れていた。
なお、北米大陸のホタルは肉食性であり、光を出して小虫をおびき寄せて貪り食らうという凶悪な生態をしている。
だが、偽装夜戦隊や囮機、電波妨害機の支援が受けられるのは概ね基地から1,000kmまでで、そこからは大攻隊が自力で障害を排除しなけれならなかった。
大攻隊の航続距離は8,800kmに達しており、援護が受けられるのはその4分の1に過ぎなかった。
二式大攻は自衛用に一式旋回機関砲(ガスト式)6門を備えており、決して無防備ではなかったが、曳光弾の光で自機の位置を知らせてしまう欠点があった。
大攻隊の最大の防御は夜の闇であり、相手の夜の目を潰す電波妨害装置といえた。
また、同時に通信妨害も行われており、米軍の使用する無線周波数を聞こえなくするために日本の歌謡曲などが送信されている。
この通信妨害は弾幕式に行われており、しばしば合衆国のラジオ放送に日本の歌が大音量で送信されることになった。
よく使用されたのが国民的な愛唱歌となっていた加賀岬などであり、21世紀現在でも北米の高年齢層に加賀岬が歌えるものがいるのはこの通信妨害の名残である。
話を1942年8月に戻すと電波妨害と少数編隊による隠密潜入を行う大攻隊の夜間攻撃を阻止することは殆ど不可能に近かった。
そして、阻止不可な攻撃を実施する代償として、その攻撃力は最低に近かった。
大攻隊の行動半径は最大5,000km(増槽使用時)にも達したが、その代償として爆弾搭載量は1tに過ぎなかった。
1942年10月11日に行われたニューヨーク爆撃においては、投下された爆弾は僅かに12tである。
だが、それでも戦略爆撃は可能だった。
なぜなら日本軍が狙っていたのは、「橋」だったからだ。
戦略や戦術を問わず、橋を狙った爆撃は空爆の対象としてはポピュラーなものである。
なぜなら橋梁は交通のチョークポイントであり、橋梁の破壊は交通の寸断を意味する。
そのため前線に向かう補給路がとおる橋は優先的な爆撃対象となるが、戦略爆撃の標的として明確に橋梁を狙ったのは日本軍が初めてである。
日本軍は都市、工場も、発電所も、石油精油所も狙わず、ただ一つ「橋」だけを集中的に狙い撃ちにした。
なぜなら、都市も、工場も、発電所も、石油精油所も、その全てが物流網の上に存在し、物流が止まっていたら無意味なものだからである。
農村にどれだけ農作物が実っても、物流が止まれば都市は飢えるしかない。
例え工場が無傷であっても、部品が入らなければ組み立てはできない。
発電所が電気を作っても、工業が止まっていては意味がない。
石油精油場がどれだけガソリンが作っても、ガソリンが需要地に運べなければ意味がない。
無差別都市爆撃よりも圧倒的な高効率で、物流という国家の動脈を締め上げ、合衆国の産業や市民生活を壊死させるが日本軍の狙いだった。
そして、そのための弓が二式大攻であり、矢が精密誘導兵器(AMIDA)だった。
既に対艦攻撃用のものはKKR1として実用化されており、 AMIDAは如月電子がそこから推進用のロケットを取り除いたものである。
自由落下式のAIMDAは投下母機からの指令誘導に基づき目標を攻撃する。
なお、初期型はジョイスティックによる手動操舵だったが、量産型は自動式となり、爆撃手が爆撃照準器のセンターに目標を捉えていれば、自動的に爆弾が誘導されるようになっていた。
当時の映像をネット環境で視聴すれば、AMIDAが特徴的な動翼(手足を広げたダニのようにみえる)をぴょこぴょこ動かして、目標に接近して爆発する様を確認することができる。
この誘導装置は日本の高度な電子産業の精髄が注ぎこまれたものである。
ただし、目標を目視することが必須で、夜間に使用するために照明弾が必要だった。
そのため4機編隊のうちの1機が先行して目標上空に照明弾を投下する必要があった。
照明弾投下のタイミングや投下位置がずれると誘導不能になるため、必ずしも攻撃の成功率は高くなかった。
それでも一度爆弾投下に成功すれば、目標撃破率は70%を超えており、海軍の800kg徹甲爆弾を改造して作成されたAIMDAは一撃でコンクリート製橋台を破壊可能だった。
4機編隊の落とす爆弾は3発の1t爆弾に過ぎなかったが橋を落とすには十分な量であり、日本軍のこのハイテク戦略爆撃に相当の自信をもっていた。
前述のニューヨーク爆撃においては、マンハッタンに架かる3つの橋がおとされた。
さらにニューヨーク爆撃は1週間続き、市内にあったハドソン川とイースト川にかかる全ての橋が破壊されている。
この爆撃は第8航空艦隊の威信をかけたものであり、特に練度の高い者を選抜して行った攻撃ということもあって、爆撃成功率は90%を超えていた。
なお、この爆撃に巻き込まれて死亡した一般市民は、偶然、爆撃目標の橋を通行中だった者か、故障で制御不能になった爆弾による誤爆で、全体としては11人名に過ぎなかった。
当初、アメリカ政府や米軍上層部はこの攻撃の意図を計りかね、首をひねったがすぐにニューヨーク市内で発生した大渋滞と経済麻痺によって日本の意図を理解することになった。
ハドソン川とイースト川にかかる橋が落ちたことで、電車やバスが通行不能になり通勤、帰宅難民が大量発生。小売店からは食料品などが売り切れて買い物難民も発生した。
渡し船を動員することで川は渡ることができるし、迂回輸送が機能し始めると混乱は回復していったが、輸送効率は大幅に悪化したままだった。
この爆撃まで、ニューヨーク市民の生活は戦前と同程度に維持されていたが、物流網の寸断でまたたく間に状況は悪化していくことになる。
食料や燃料を生産しないニューヨークのような大都市は物流インフラが破壊されると一気にコンクリート砂漠と化してしまうのである。
ニューヨーク市はあらゆる手段を用いて迂回輸送路の確保と物資の備蓄を図ったが、一都市にできることには限界があり、ソーホーやブロドウェイのような歓楽街は食料品不足で崩壊していった。
そして、日本軍はこれを合衆国の全土で実施する手はずを整えていた。
第8航空艦隊の橋梁破壊速度は一日50~56箇所だった。
これは10日で500~560箇所となる計算であり、100日で5000~5600箇所の橋が爆砕される計算だった。
途中から地形照合レーダーやテレビ誘導爆弾が登場すると照明弾も不要により、一日に80個の橋を落とすことができるようになっている。
優先的に破壊されたのは大河であるミシシッピ川、コロラド川、オハイオ川、ミズーリ川にかかる幹線道路と鉄道橋であり、特に物流の根幹である鉄道橋は徹底的に破壊された。
合衆国政府の運輸省は各鉄道会社や建設会社に協力を呼びかけ、大量のボランティアや学生まで動員して交通インフラを直したが破壊速度の方が遥かに上回っていた。
アメリカ合衆国は1930年台にモータリゼーションを成し遂げ、自動車社会を作り上げていたが長距離大量輸送の効率は1942年時点では鉄道に軍配があがり、鉄道橋の破壊は物流網の遮断を意味していた。
鉄道橋の他に機関車庫、操車場、貯炭所、給水施設なども爆撃対象となり、誘導兵器によって片っ端から破壊された。
同じ破壊効果を自由落下爆弾で得る場合は、300機規模の大編隊爆撃が必要だったが、日本は誘導爆弾を使うことで、10分の1以下の戦力で同じ破壊を齎した。
ただし、爆撃が始まった1942年8月から12月まで間、合衆国の戦時生産は特に減少してない。
これは迂回輸送や物資備蓄がある程度成功したことが大きかった。
交通インフラの破壊は合衆国経済を徐々に壊死させていったが、即効性に欠いていた。
爆撃の初期においては工場や都市部の倉庫に在庫があるため、物流が止まっても生産活動を継続できるためである。また、迂回輸送がある程度成功したため物流網の遮断には至らなかった。
目に見えて合衆国の生産力が落ち、戦時経済の混乱が表面化するのは1943年3月以後であり、東海岸の主要都市で食料やガソリンの配給制度が始まるのは同年4月のことである。
スターリンがドイツとの講和を決意するのは、少し早すぎたといえる。
あと3ヶ月我慢できたいたら、東部戦線はどうなっていた分からなかった。
もしかしたら、ソビエトが巻き返して、ドイツを含む欧州世界を制覇していた可能性さえあった。
スターリンはある意味、自らの死刑執行命令書に自らサインしてしまったと言える。
アルハンゲリスクとアストラハンを結ぶラインを軍事境界線とする独ソ講話条約(ブカレスト条約)締結直後、再粛清をおそれたが軍部が臨時首都のスヴェルドロフスクを占拠。
政府施設を占領し、共産党幹部及び秘密警察を即決裁判で銃殺刑にした。
帰る場所を失ったスターリンは、スヴェルドロフスクには戻らずさらに内陸のチェリャビンスクに疎開し、軍部と共産党によるソビエト内戦が勃発する。
内戦はスターリンが1947年に逮捕、処刑されるまで続いた。
この内戦により、ソビエト連邦は完全に崩壊。
ロシア人は先の大戦と同様に内輪もめもによって、第二次世界大戦の表舞台から脱落することになった。




