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大洋の帝国  作者: 甲殻類
23/29

私達これからもずっと友達でいようね!(米)



 ・・・・だが、断る。(英)



 1941年12月、太平洋戦争は新たな局面を迎えた。

 葉号作戦の完全な成功により、米太平洋艦隊は壊滅。さらに日本軍はハワイを占領した。

 同時期、ドイツ軍は酷寒のモスクワを占領したが、その戦略的得点は米軍の大敗でほとんど帳消しになったと判断されるほどだった。

 建国史上最悪のクリスマスを迎えたアメリカ合衆国だったが、彼らの悪夢はまだ終わっていなかった。

 合衆国の海軍力が大幅に減殺されたことや、日ソからの要請に応える形で、ついにイギリス連邦はアメリカ合衆国に宣戦を布告する。

 1942年1月15日のことであった。

 イギリスとアメリカが直接砲火を交えるのは1815年以来のことである。

 既に英米関係は最悪の状態であったが、イギリスとの戦争は多くのアメリカ市民にとって想定外のことであった。

 対独武器援助など露骨に枢軸陣営に肩入れてしておきながら、なぜイギリスとの戦争が想起できなかったのか、他国からすると不合理な発想であった。

 だが、どういうわけか、アメリカ人の殆ど大半が、イギリスとの戦争は起こりえないこと考えていたようである。

 確かに英米関係は普通の国と国の関係を超えたところ存在している部分があったのは確かである。

 だが、現実は非情だった。

 イギリス軍は宣戦布告同時攻撃を敢行。宣戦布告のゼロ・アワーにむけて、カナダ・オンタリオ州に配置していたランカスター重爆が次々に離陸していった。

 彼らはチャーチル首相の宣戦布告演説を機上で聞くことになった。

 宣戦布告と同時にカナダ・アメリカ国境線を超えたイギリス空軍奇襲攻撃部隊は南下を続け、合衆国東海岸の大都市を目指した。

 爆撃目標は、ニューヨーク。

 より正確にはニューヨーク海軍工廠だった。

 そこで建造中の海軍艦艇のいくつかはドイツ海軍への譲渡が決まっており、さらにオフレコではあったものの損傷したドイツ海軍のUボートの修理さえ行われていた。

 もちろん、イギリス人の長い、とても長い後ろ手には全てお見通しだった。

 イギリス政府は外交ルートを通じて抗議と警告を繰り返していたが、合衆国政府がそれを顧みることはなかった。

 あくまでもイギリス政府の方針は戦争回避であり、あらゆる言葉と外交圧力を通じた解決を模索していた。

 対米戦の始まりが、イギリスの国力の限界を超えたところにあることは明らかであり、それを避けるために全ての外交努力は尽くされた。

 その上で、


「しかしここまであからさまに喧嘩を売られて黙ってやれるほど我々はお人好しではない」


 と、チャーチル首相をして宣戦布告演説するに至った。

 その演説を聞いた坂本首相は、


「はン これだから英国人は、そんなだから衰退するのだ」


 と嘯いた真偽不明の都市伝説がある。

 この爆撃により建造中だったエセックス級航空母艦やモンタナ級戦艦が被爆し、工廠設備に大きな損害がでた。

 さらに市街におちた流れ弾により市民191名が死亡。

 この中にはジュニアスクールの生徒も含まれており、アメリカ世論は沸騰することになる。

 もちろん、これはコラテラル・ダメージと呼ばれる軍事行動に付随して発生する意図しない民間被害というべきものだったが、怒り狂ったアメリカ市民にとっては全く関係なかった。

 この時のアメリカ世論の一般的な反応は完全にヒステリーのそれだった。

 強いて言うなら、余り学校の成績は良くないが発育だけは素晴らしい健康的なそばかす美少女が、最近落ち目という幼馴染の腹黒メイドニーソに「私達ずっともだちだよね!」と友情を確認したその日に彼氏を寝取られた挙げ句、自宅に放火されたようなものと言えばわかりやすいだろうか。

 いや、きっと分からないだろう。

 それほどまでに当時のアメリカ世論の混乱は度し難いものだった。

 それはともかくとしてイギリス空軍による昼間爆撃は開戦初日の1回きりだったが、少数機による夜間爆撃は連日連夜続くことになる。

 このハラスメント攻撃は、アメリカの戦争経済にとって大きな打撃をとなった。

 物理的な被害は少ないものの爆弾が降ってくる以上は、工員は退避せねばならず、工員が退避したのなら工場の操業は停止するからだ。

 どれだけ立派な生産計画を立てても、


「しかし、爆弾が落ちてくるのであります」


 と言われてしまえば、それまでだった。

 それまで空爆がないことを前提に組み立てられていたアメリカの戦時生産体制は、大幅な修正と変更を余儀なくされ、一時的にだが8%の効率低下に見舞われた。

 また、空爆の危険がある場所には戦闘機と高射砲の配備する必要があり、これまで戦場を海の向こう側に設定していたことで免れてきた膨大な防衛、防空コストの支払いを求められることになった。

 大都市部には速やかに高射砲が配備されたものの、それは前線の防空火力を犠牲にしたものだった。

 さらに議会の有力者が政治力を使ってイギリス軍の爆撃圏外にある自分の票田に高射砲の配備を強要させるなど、高射砲のぶん取り合戦が発生し、制御不能な混乱を発生させた。

 高射砲は見た目ほど効果的な兵器ではなかったが、その砲撃音と高射砲弾の爆発は政治的な宣伝効果が高いものだった。

 要するに、


「政府や軍が何かしてくれている」


 という安心感を与えてくれるので、軍事的に無意味でも政治的には効果があるものだった。

 だからといって、ヒューストンのようなイギリス軍の爆撃機が絶対来ないような場所に高射砲を大量配備するのは全く無益のなことであり、戦争資源の浪費でしかなかった。

 海での戦いも宣戦布告と同時に始まった。

 イギリス海軍の潜水艦艦隊は奇襲攻撃のため東海岸全域に展開しており、今か今かとゼロアワーを待ちわびていた。

 超短波無線で攻撃命開始命令を受け取ると彼らは即座に攻撃を開始し、未だに警備の甘い東海岸の合衆国商船隊に襲いかかった。

 アメリカ海軍は西海岸において伊号潜水艦と既に3年に渡って激闘を重ねてきたが、それは太平洋の話であり、東海岸は平和の海だった。

 ドイツ海軍のUボートは星条旗を掲げた商船には絶対に手出ししなかったし、ユニオンジャックを掲げた軍艦は、遠巻きに威圧するだけで何もしてこなった。

 故に、東海岸の合衆国商船隊は殆ど無防備の独航船で運行されており、ドレイク艦長達の末裔にとって垂涎の獲物だった。

 イギリス海軍とは、元々はスペインの海上覇権に立ち向かった海賊たちであり、女王陛下の許しを得た私掠船の集まりだった。

 それがスペインから海上覇権をもぎ取り、フランスとの競争に撃ち勝ち、いつしか7つの海を制するようになり、守るべきものを得たことから通商保護などを生業にするようになっていたが、昔の仕事を忘れたわけではなかった。

 イギリス海軍のT級潜水艦12隻、S級潜水艦6隻は、カナダ・ハリファックスを拠点にアメリカ海軍が対策を講じるまでの3ヶ月間に150万tの商船を撃沈した。

 これによって、一時的だが東海岸の沿岸航路は麻痺状態に陥った。

 さらに北大西洋でのイギリス海軍の攻勢が始まった。

 第一次北大西洋海戦と呼ばれることとなるイギリス海軍の戦艦フッドによる一方的な殺戮は1942年1月17日におきた。

 攻撃を受けたのは、ニューヨークとヴィルヘルムスハーフェンを結ぶNV17船団だった。

 この船団は英独の攻撃を避けるために運行計画を事前に通知しており、暗号を解読するまでもなくその動きは筒抜けだった。

 船団を追尾していたのは、イギリス海軍本国艦隊の巡洋戦艦フッドと空母グローリアスである。

 対独武器援助が始まるとレイキャビークのイギリス軍は増強され、戦艦か巡洋艦が常駐して北大西洋を行き交う米国商船団をドイツ軍の攻撃圏ぎりぎりまで追尾するのが常となっていた。

 ただし、1月15日までに許されていたのは追尾と威圧のみだった。

 アメリカ海軍もそれを承知しており、距離をとって追尾してくるイギリスの同業者を小馬鹿にしていた。

 だが、猟犬の縛っていた鎖は失われ、合衆国は高いツケを払わせられることになる。

 1月17日の夜明けと同時にNV17船団には、グローリアスを発艦したソードフィッシュ雷撃機が殺到。鮮やかな航空雷撃を輸送船の横腹に突き刺した。

 さらに日本から輸入したコメット艦上爆撃機(九九式艦爆)が護衛の米駆逐艦を急降下爆撃で始末した。

 丸裸になった船団に向けて、太陽を背にした戦艦フッドが巡洋艦ベルファスト、ノーフォークを引き連れて突入し、15インチ砲の水平射撃で吹き飛ばした。

 バラバラに逃げ散った船団をフッド戦隊は3日間に渡って追撃し、48隻中33隻を撃沈した。

 これまで我慢に我慢を重ねてきたイギリス海軍の鬱憤を晴らしのような攻撃はこれで終わりではなく、ドイツから合衆国に戻るNN船団もまた1月24日の破滅的な戦艦の突入攻撃を受けて壊滅させられている。

 イギリス海軍は手持ちの巡洋戦艦フッド、レナウン、レパルスを巡洋艦戦隊と共に北大西洋に送り、通商破壊を行った。

 水上艦による通商破壊は遠くカリブ海にまで及んでおり、各地でアメリカ商船が撃沈、拿捕された。

 米大西洋艦隊の対応は後手に回った。

 これまで対日戦のために戦力の大半を太平洋にまわしていたツケだった。

 その戦力もハワイ沖海戦とハワイ陥落で壊滅していた。

 米大西洋艦隊に残された戦艦は旧型のニューメキシコ級3隻のみであり、低速戦艦では大西洋を知り尽くしたイギリス海軍の巡洋戦艦を捕捉するなど不可能だった。

 合衆国海軍に新しい高速戦艦(イリノイ、ケンタッキー)が加わるのは、1942年10月のことである。

 それも2隻のみであり、より強力なモンタナ級戦艦が加わるのはさらに1年も先だった。

 同時期、イギリス海軍は本国艦隊に集めていた40,000t以上の大型戦艦は戦艦フッドを始めに、キング・ジョージ5世、プリンス・オブ・ウェールズ、ライオン、タイガー、コンカラー、ネルソン、ロドネイ、アンソン、ハウの10隻であった。

 さらにライオン級4番艦サンダラーの就役も間近だった。

 バルト海に逼塞する戦艦ビスマルク対策にプールされている戦力もあったが、弱体化した合衆国大西洋艦隊を相手にするなら十分だった。

 特に冬の北大西洋は日照時間が短く、航空機の行動が制限されるため、水上艦の活動する余地は多いに残っていた。

 ただし、イギリス海軍は母艦航空戦力の増強が遅れており、イラストリアス級空母3番艦インドミタブルの就役後、しばらく正規空母の増勢はなかった。

 隔月でエセックス級空母を就役させている合衆国海軍が異常といえばそれまでだが、水上艦による通商破壊が威力を発揮したのは1942年の春までだった。

 合衆国海軍は無能の集まりではなく、援独船団の運行は1942年6月には概ね復活することになる。

 特にインディペンデンス級軽空母と複数の軽巡洋艦で編成された遊撃艦隊による空からの攻撃は極めて有効だった。

 逆にイギリス本国発の援加船団の運行が妨害されるようになり、イギリス海軍は受け身の戦いを強いられた。

 大西洋の戦いは、イギリスとアメリカが破壊するべき航路と防衛すべき航路を同じ場所に持つという複雑な戦争だった。

 それは消耗戦であり、神経戦であり、情報戦だった。

 脆弱な輸送船団の防衛戦において、その運行計画を欺瞞し、敵の通商破壊戦部隊の目から隠すことが最重要課題だった。

 その点において、イギリスには一日の長があった。

 だが、合衆国の同業者も追い上げており、ドイツの同業者も強力なライヴァルだった。

 イギリス海軍は同時にドイツ海軍のUボートとも戦っており、アメリカ合衆国の生産力を相手に数的優勢を維持できる時間はさほど多く残されていなかった。

 つまり英国の海上交通が生き残るには、太平洋からどれだけ早く帝国海軍が転戦できるかにかかっていた。

 特にアメリカと直接対峙するカナダにとっても、それがとても重要だった。

 北大西洋航路の途絶は、本国との連絡途絶を意味しており、それはカナダにとって国家の死を意味するからである。

 英米が戦争状態に突入したことで、カナダもまたアメリカ合衆国に宣戦を布告。

 北部戦線が始まった。

 宣戦布告が交わされた1月のカナダは雪に埋もれており、戦闘といっても散発的なものだった。

 カナダ軍は彼我戦力差を冷静に計算しており、国土の大半が雪に埋もれていることがカナダ最強の守りだと考えていた。

 冬将軍を守護神にしているのは、なにもロシア人だけではないのだ。

 もちろん、雪は春にはなれば溶けて消えるが、そうなると大洪水と泥濘の海が現れ、地上戦は困難となる。

 もちろん、交通インフラがしっかりしている場所なら泥濘の海は関係ないが、そのような道路や鉄道はまっさき爆破、爆撃され破壊されていた。

 カナダ軍は広大な国土を守りきることは不可能と判断し、五大湖周辺の工業地帯とモントリオール、オタワ周辺に軍を集め、これを死守する計画だった。

 特にケベックとモントリオールの防衛が重要で、イギリス軍の増援を受け入れるためにハリファックスも死守するものとされた。

 ハリファックスは、イギリスのリヴァプールと結ぶSC/HX船団の出発点であり、西向きのON船団の受け入れ地でもある。

 北大西洋航路の防衛がどれだけ成功するかで、カナダ政府の寿命が決まるといっても過言ではなかった。

 北大西洋航路の防衛が不可能になった場合は、セントローレンス川を絶対防衛ラインとして首都オタワを死守する計画だった。

 なお、セントローレンス川や五大湖に接続する運河の通行は英米開戦と同時にカナダ軍やイギリス軍の攻撃により使用不能になっており、これは五大湖周辺の河川船舶輸送が壊滅することを意味していた。

 後手に回り続けるアメリカ軍は、開戦奇襲からしばらく何もできないままに無為に時間を失うことになった。

 アメリカ軍にも対英戦争計画レッドプランがあり、計画の一環としてカナダ侵攻作戦が策定されていたが、これは机上の空論の域を出ておらず、具体的なものではなかった。

 英米関係が悪化してから、レッドプランは再検討されたがそれが完了する前に戦争が始まってしまったといえる。

 そんなアメリカ軍であったが、比較的初動が早かったのは西海岸であった。

 ハワイが陥落すると日本軍の西海岸直撃が予想されるようになったため、戦力を集中させていたことが大きかった。

 どれほどの戦力が集中されていたかといえば、陸軍航空隊を中心に3,300機の航空機と55万の陸上戦力が展開していた。

 太平洋艦隊が壊滅した以上、当然の措置だった。

 むしろ、そのために東海岸の防備を犠牲にしており、手もなくニューヨーク爆撃を許したともいえる。

 アメリカ人とって、イギリス軍が攻めてくるよりも、日本軍がサンフランシスコに上陸するほうが差し迫った脅威といえた。

 故に、米軍のバンクーバー侵攻は早かった。

 イギリスの対米宣戦布告から4時間後には、先遣隊が国境線を突破している。

 日本軍が西海岸に侵攻するのなら、バンクーバーを拠点にするのは明らかだった。日本軍がバンクーバーに入る前に、これを攻略しなければならなかった。

 カナダ軍もアメリカ軍の速攻を予想しており、守りを固めていたので激戦となった。

 バンクーバーは太平洋岸にあるカナダ最大の港湾都市であり、ヴィクトリアと並んで太平洋におけるカナダの顔だった。

 実は、バンクーバーは日本との馴染み深い街であり、バンクーバーには西海岸における日系移民移民の最大のコミュニティーがあった。

 明治に西郷隆盛が移り住んだサンフランシスコが嘗ては最大のコミュニティーであったが、1930年代に日米関係が悪化したことせ衰退しており、日英同盟が存続したこともあってカナダが日本人移民の大きな受け入れ先となっていた。

 バンクーバーの経済にとっても太平洋航路の海援隊は重要な顧客だった。

 バンクーバーは、カナディアン・パシフィック鉄道を父に、海援隊を母に育ったようなものだと言われている。

 同じ都市圏といってもいいシアトルの発展は、グレートノーザン鉄道が父、日本郵船が母であるとしており、海援隊バンクーバー日本郵船シアトルの熾烈なシェア争いが垣間見える。

 話が逸れたが、アメリカ軍のバンクーバー侵攻に際して、カナダ軍は効果的な防衛戦を展開したが、その中でも特に優れた戦績を残したが、カナダ軍日系人歩兵連隊だった。

 特筆すべきことは、彼らの多くが元はアメリカ人だったことだろう。

 合衆国の日本人コミュニティーは日米開戦前にカナダに脱出するか、残ったものは敵性外国人として財産没収の上、強制連行され壊滅している。

 カナダに脱出した日系移民には家族を人質にとられたも同然の者もいて、憎悪を滾らせていたものが多かった。彼らを中心としたカナダ軍日系人連隊がバンクーバー防衛に参加し、特に高い戦意を以って戦ったのは当然のことだと言える。

 なお、日系人連隊と遭遇したアメリカ軍は、日本軍が既に展開していると勘違いし、パニックを起こすと同時に過剰なまでに大火力でこれを攻撃した。

 バンクーバー防衛戦の緒戦は、戦力に勝る米軍が優勢に戦いを進め、戦闘開始から10日程度でカナダ軍の最終防衛ラインを突破した。

 14日目にはバンクーバー港にアメリカ軍の重砲弾が落下するようになっていた。

 北米侵攻の橋頭堡としてバンクーバーを失うわけにはいかない日本軍は、藤堂プラン第2段階としてバンクーバー強行輸送「鍵号作戦」を展開し、米軍の砲撃下にあったバンクーバーに増援船団を強行突入させた。

 米軍の阻止攻撃は熾烈なものであり、バンクーバー沖航空戦が生起した。

 この戦闘では、ハワイ攻略戦で消耗した第1機動艦隊に代って、第2機動艦隊が船団の間接援護に投入されている。

 第2機動艦隊の主要な戦力は以下のとおりである。


 第2機動艦隊 指揮官 西村祥治中将

 旗艦 山城


 空母 伊勢、日向、扶桑、山城、雲龍

 軽空母 千代田、千歳、瑞穂

 戦艦 相模、駿河、土佐

 軽巡洋艦 最上、三隈、熊野、鈴谷、鶴見、久慈、高瀬、留萌

 駆逐艦 乙型4隻、丁型28隻


 第2機動艦隊の特徴は、殆どの船が開戦後に完成した船か、戦前からの船も改装艦ばかりという点だった。

 そのため、やや自嘲気味に、「第2軍艦隊」や「妾の子艦隊」や「廃品利用艦隊」などと自称することが多かった。

 実際に艦隊主力の空母は戦艦改装艦や戦時急造艦であり、第1機動艦隊が全て大型正規空母で固めているのとは対照的だった。

 最初の任務の第1機動艦隊のハワイ奇襲を補佐する陽動作戦で、その後は落ち穂拾いのようなトラック奪回作戦に従事している。

 ただし、自嘲気味の自称とは裏腹に、第2機動艦隊の各艦は開戦後に改装した船や新造艦が多く最新装備で固められており、実戦によく適していたとも言われている。

 戦艦改装空母は、砲撃のために非常に安定性が高く設計されており着艦が遣りやすかった。

 飛龍や蒼龍に降りた経験のあるパイロットが、伊勢に着艦した際に船の動揺があまりにも少なく驚いたというエピソードがある。

 また、海軍水雷部隊の花形である甲型駆逐艦が1隻もなく、代わりに戦時急造の丁型(松型)駆逐艦を大量配備されていた件も、対空、対潜能力の高く、生存性の高い松形駆逐艦が多かったことから、実戦での能力では第1機動艦隊と全く遜色ないものだった。

 300隻以上建造されて同盟各国に配られた松型駆逐艦は、ブロック工法の前面採用で最短20日で建造可能であり、低コスト艦といっても、電子兵装は甲型と同等かそれ以上であり、遅いと言われる速力も30ノットを確保している。

 水雷襲撃のような場合は、30ノットは不足気味だが、大戦後半の防空戦闘や対潜戦闘では必要十分であり、戦後の駆逐艦も大半が速力30ノットを目安に建造されていることを考えれば何の問題もないことがわかる。

 戦後の日本製駆逐艦の系譜において、その第1世代は松型と位置づけられており、甲型は戦後姿を消してしまうことを考えれば、第2機動艦隊のそれは第1機動艦隊と比べて見劣りするものではなかったと言える。

 また、艦隊司令長官の西村提督は、人当たりがよく部下達に隔たり無く付き合い、明るく振る舞ったことから、艦隊の雰囲気そのものが良かったという評価もある。

 第1機動艦隊がエリート部隊として非常に高慢(特に航空参謀の源田実)に構えていることが多く、司令長官の角田提督は見敵必殺を掲げ、闘志で部下を率いていく(悪く言えばキツイ)タイプでしばしば癇癪を爆発させたことから、職場としては非常に息苦しい場所だった。

 西村艦隊の風通しの良さは戦後に雨後の竹の子のように現れる戦記にも必ず紹介されるほどで、働きやすい職場や居心地の良い場所と書かれる事が多い。

 西村提督は航空機の専門家ではなかったが、緒戦のマリアナ諸島の戦いでは米軍の制空権下で駆逐隊を率いて強行輸送作戦を何度も成功させた経験があり、実戦経験は豊富だった。

 そして、実戦経験豊富で器用な指揮官はしばしば自分の判断できない部分については幕僚に丸投げしてしまうことで解決するものであり、前述のとおり風通しのよい職場の雰囲気も合わさって第2機動艦隊は上手く回った。

 バンクーバー沖航空戦では、西村提督は慎重な用兵で防御を固め、米軍の阻止攻撃に苦しみながらも船団を無事、バンクーバーまで送り届けた。

 最初に北米の地に踏んだのは帝国陸軍の切り札の一つである近衛重機甲師団だった。

 近衛重機甲師団は、帝国陸軍の威信をかけて編成した対ソ戦専用部隊だった。

 なお、典礼や宮城防衛を担当する近衛兵連隊は別に存在している。

 師団の編成は1939年6月にさかのぼり、日米開戦後のフィリピン戦に投入された近衛師団が消耗により再編成を余儀なくされたことに始まる。

 この戦いで、近衛師団は米軍を圧倒し、近衛師団の面目を保ったが、宮城警備の人員や典礼要員が戦死するなど、近衛としての日常業務に支障を来すようになってしまった。

 そこで近衛師団は実戦部隊と宮城警備や典礼要員を分離し、実戦部隊は対ソ戦に備えて重編成の機甲師団へと改変されることになった。

 日本陸軍は1個師団あたり平均して12,000名程度で編成されるが、近衛重機甲師団は25,000名と倍の人員を擁していた。

 2個戦車連隊と1個歩兵連隊と基幹としている点は通常の機甲師団と同様だったが、支援部隊が非常に充実しており、砲戦車(自走砲)大隊、重砲兵連隊が組み込まれていた。

 砲兵火力も、通常の師団砲兵が15榴と10榴の混成であるのに対して全て15榴で統一され、軍団砲兵レベルの20榴や24榴まで装備していた。

 近衛重機甲師団は、長射程大火力の砲兵支援の下で、突破戦闘や機動反撃の先鋒を務めることを期待されていた。

 米軍の砲撃下でバンクーバーに上陸した近衛重機甲師団はその重装甲と大火力で市街地に入り込んだ米軍を押し返していった。

 熾烈な市街戦にあって、威力を発揮したのは動く特火点である戦車だった。

 既に各戦線で活躍していた九九式重戦車は第二次世界大戦最強級の戦車で、これまでの戦訓を反映して生存性を高めていた。

 また、一部には主砲を榴弾火力の高い150mm榴弾砲に載せ替えた車両もあり、米兵が立てこもったコンクリートビルディングを建物ごと粉砕するのに役立った。

 日本軍は北大西洋航路をフル回転させて、満州から続々と増援を送り込んだ。

 米軍も次々と増援を送り込み、バンクーバー包囲戦が始まる。

 1942年3月の時点で日英同盟軍25万がバンクーバー防衛に参加し、アメリカ軍60万がこれを包囲していた。

 バンクーバーが持ち堪えられるかは、日本からの補給と増援にかかっていた。

 鍵号作戦(KG船団)は第18次まで行われ、述べ6745隻の輸送船が参加した。

 作戦初期に航空支援を提供したのは第2機動艦隊だったが、基地航空部隊が展開すると航空戦の主役を譲った。

 日米の基地航空部隊は、制空権を得るためにお互いの基地を激しく空襲したがタービンロケット機の零戦が本格的に展開するとアメリカ軍の航空部隊は防戦一方に追いやられた。

 高度8,000mの高空を630km/hで巡航する零戦を相手にP-39やP-40では話にならず、P-38のみが対抗可能だった。

 ただし、そのキルレシオは1対4という分の悪いものだった。しかし、1対8というP-40やP-39に比べればまだマシだった。

 アメリカ軍は零戦が低速飛行を余儀なくされる離着陸時を狙って攻撃をしかけたが、飛行場の周りは電探射撃を行う高射砲や低空用レシプロ戦闘機で守られていた。

 特に低空戦闘で威力を発揮したのは帝国陸軍最後のレシプロ戦闘機一式戦”隼”だった。

 一式戦の開発元は中島飛行機で、元々は欧州向けの輸出用戦闘機として開発された中島飛行機独自のプロジェクトだった。

 開発が始まったのは1938年で、九七式戦闘機がフランスやポーランドに輸出された後のことである。

 中島飛行機はさらなる輸出拡大をもくろんでいた。

 自国の航空機産業を振興したかったポーランドが中島飛行機に次期主力戦闘機の開発を委託するのは自然な流れだったと言える。

 ポーランドの注文は、自国の国産技術で量産可能で安価な単発戦闘機だった。

 エンジンはなんとアメリカ合衆国のライトR-1820が指定された。

 ポーランドの技術では河城重工のカッパードエンジンは量産不能であり、合衆国との関係を深化させたかったポーランド政府は技術的にも無難だったライト9気筒エンジンの国産化して目指していた。

 ちなみにR-1820はソ連に渡ってシュベツォフM-25として量産化されており、ポーランド政府が目指したところは妥当なものといえる。

 機体設計は九七式戦闘機の延長線上にあり、極力小型軽量簡素で技術的に枯れたものだけ使用した。エンジンのパワーで列強国の戦闘機に劣ることから、機体を極限まで軽くして格闘戦で対抗するという発想だった。

 ただし、防弾装備が設計当初から盛り込まれており、軽いだけの戦闘機ではなかった。

 1939年2月のトラック奇襲で太平洋戦争が始まっても、R-1820搭載の輸出用戦闘機の開発は継続されており、ポーランド経由で中島飛行機はカーチス・ライト社と連絡をとりあっていた。

 それが完全に破綻するのは1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド侵攻である。

 独ソの挟撃によりポーランド政府は降伏。顧客を失ったプロジェクトは宙に浮くことになった。

 帝国陸軍は技術的に見るべきもののない廉価な輸出用戦闘機を引き取る気などさらさらなかった。

 ましてや敵国の発動機を積んだ戦闘機など、論外だった。

 幸いなことに、すぐに次の顧客は見つかり、フランス政府の出資を受けて開発継続が決まった。だが、フランス空軍はエンジンをR-1820からイスパノ・スイザ液冷12気筒V型に換装するように求めており、大混乱が生じた。

 シリンダーに直接空気をあてて冷やす空冷エンジンに対して、液冷エンジン機はラジエーターの配置と配管が必要であり、これは相当に無茶な要求だった。

 だが、中島飛行機の技術陣は、エンジン前面に環状に整形したラジエーターを配置することで、殆ど機体設計をいじらずエンジン換装作業を成し遂げた。

 このため一式戦は一見すると空冷エンジン機のように見えることがあり、


「長ッ鼻の一式」


 と呼ばれる所以となってる。

 だが、エンジン換装作業が終わったところで、西方戦役にてフランス軍は大敗。イスパノエンジン搭載機の量産化は2度目の顧客滅亡によって立ち消えとなった。

 そして、最後の顧客としてイギリス政府が、再度のエンジン換装を要求した。

 これがマーリンエンジン搭載の、制式採用された一式戦闘機となる。

 日本国内で改造されたカッパードマーリンエンジンを搭載した試作機は、高度8,000mでいきなり時速700kmをマークした。

 旧式化した九七式戦闘機の代替と開発難航のタービンロケット機のストップ・ギャップとして帝国陸軍は手のひらを返し、ただちに制式採用を決定した。

 輸出用戦闘機として生まれた一式戦だったが、一段三速式過給器を搭載した日本製マーリンエンジンは低空でも高空でも最高のパフォーマンスを発揮。軽量な機体構造により、加速、上昇性能に優れ、低空での格闘戦ではほぼ無敵の存在だった。

 ポーランドのような航空後進国でも生産・整備ができるほど単純な構造のため、燃料とオイルさえ入っていれば飛べるほど整備が楽だということも大きかった。

 また、大量の燃料を搭載することができるため、増槽を使えば3,700kmもの長距離飛行が可能であり、制空戦闘機としても申し分なかった。

 武装は軽戦闘機として最低限のものしかなかったが、それは日本軍の基準であり、機首の12.7mm一式固定機関砲(ホ103)1門は毎分3,600発の射撃速度を誇った。

 これはガスト式と呼ばれる特殊な機関砲駆動方式を採用しているためである。

 ガスト式が開発されたのは第一次世界大戦中のドイツで、発明者のカール・ガストが開発した7.92mmGAST機銃が河城重工の手に渡ったのは1919年のことだった。

 戦間期の軍縮で発展は一時停滞するものの、従来の反動利用式の機関銃に比べて圧倒的な射撃速度を得られるガスト式は河城重工で改良を重ねられ、陸軍戦闘機部隊の主力機関砲となった。

 この開発は岡辺倫太郎が関わっており、ガスト式ではなく、岡辺式と書く文献もある。

 倫太郎は幕末にボルトアクションライフルや日露戦争で活躍した岡辺式機関銃を開発したことで有名であるが、ガスト式の改良発明が最後の仕事だったと考えられる。

 一式戦の場合は機首装備のためプロペラ同調が必要であり、ホ103の発射速度は毎分3,000発に落ちていたが、それでも米軍機のAN/M2機関銃の4丁と同等だった。

 さらにホ103は炸裂弾の使用が可能だった。

 各国の50口径機関砲は炸裂弾を装備していないが、帝国陸軍は弾殻をプレス加工によって作成して内部容積を確保し、大量の炸薬を充填した特殊炸裂弾を実用化していた。

 同じものをドイツ空軍は薄殻榴弾(Minengeschoß: ミーネンゲショス)として制式化していた。

 ちなみにドイツではこの弾をマイスターが神業を駆使して生産し、日本では最新の数値制御工作機械で生産した。

 どちらも持っていないアメリカは実用化できなかった。

 話を1942年2月に戻すと、日本軍の航空基地へ低空侵入を図る米軍機に対して、長時間在空哨戒できる一式戦は高度有利から戦闘をしかけ、離着陸時が弱い零戦を効果的に防衛した。

 さらに世界初のタービンロケット爆撃機、一式陸上攻撃機が展開すると航空撃滅戦の天秤は徐々に日本軍に傾いていくことになる。

 一式陸上攻撃機は、帝国海軍が米太平洋艦隊撃滅の切り札として開発した双発タービンロケット爆撃機で、その最速力は高度8000mで時速880kmに達した。

 エンジンは爆撃用に開発されたNTR-006Bで、推力は零戦の倍の2tだった。

 これを2基、主翼にポッド形式で吊り下げた一式陸攻は漸く完成した


「戦闘機より、ずっとはやい!!」」


 という真の高速爆撃機であった。

 第二次世界大戦中に実戦投入された米独のいかなる戦闘機よりも高速な一式陸攻は、主翼のインテグラルタンクに大量の燃料を搭載し、1tの爆弾を抱いて半径1,300kmをその爆撃機圏内に収め、一方的にアメリカ軍航空基地を攻撃可能だった。

 なお、乗員は九六式陸攻の7名から4名減って3名である。

 パイロットは機長、爆撃手、偵察員の3名で、防御機銃は12.7mm一式旋回機関砲が1基あるのみだった。

 これはホ103を防御機銃に仕立て直した遠隔操作式のガスト式機関砲で、ジャイロコンピューティングサイトを備え、高速射撃で弾幕を張ることができた。

 しかし、実戦で使う機会は少ないため、重量軽減のために撤去されることが多かった。

 一式陸攻は、1942年2月20日に最初の中隊がバンクーバー島に展開し、同日10機が戦闘機の護衛なしでサンフランシスコの鉄道操車場を爆撃した。

 この爆撃に対してアメリカ軍は総力を上げて迎撃機を発進させ、延べ120機の戦闘機が要撃したが、全ての迎撃をかわして一式陸攻は爆撃を成功させた。

 エンジントラブルで引き返した1機を除けば、全機が対空砲火による軽微な損傷を除けば無傷で帰還するというパーフェクトゲームだった。

 さらに2月21日には再編成を終えた第1機動艦隊及び第2機動艦隊がサンディエゴ海軍基地を全力で攻撃し、同地の米海軍基地を更地にした。

 この攻撃に参加した正規空母は12隻、軽空母3隻に及んだ。総艦載機数は900機にもなり、世界最大最強の洋上航空戦力だった。

 これにより、太平洋の米海軍戦力は完全に息の根を止められることになる。

 とはいえ、爆撃で破壊された水上艦は僅かなものだった。

 ハワイ沖海戦以後、米海軍はトラック環礁やマーシャル諸島から残存戦力を撤退させ、生き残った空母エンタープライズも含めた水上艦を大西洋に脱出させていた。

 イギリス海軍の通商破壊に対抗するため大西洋艦隊の増援が必要であったし、中途半端な戦力では爆撃で潰されるのが目に見えていたからである。

 残ったのは潜水艦だけだけで、通商破壊戦を継続したが、サンディエゴ壊滅でそれも不可能になった。

 第1機動艦隊と第2機動艦隊はサンディエゴ爆撃の後、さらに南下してパナマ運河を空襲し、これを完全破壊した。

 空母15隻の集中攻撃で全ての閘門と貯水ダムが破壊されたパナマ運河が再建されるのは戦後のことであり、帝国海軍は太平洋の完全制海権を宣言するに至る。

 そして、パナマ運河爆砕により、西海岸の戦いもその大勢が決することになった。

 何故ならば、東海岸と西海岸をつなぐ海上連絡線に途絶により、西海岸に展開した米軍70万は兵站崩壊の危機に立たされたからである。

 本土で戦いながら兵站崩壊の危機というのは妙な話だが、アメリカ合衆国のような大陸国家ならでは事情がある。

 1940年代の北米西海岸は、世界的に見れば十分に都会であったが、産業の中心地ではなかった。鉄鋼業などは五大湖周辺や東海岸に集中しており、米軍が必要とする重装備や武器弾薬の多くは東海岸から運ばれていた。

 もちろん、西海岸の自国民の日常生活を営むのに必要な様々な工業製品についても同様である。

 そしてそれらは経済効率の観点から多くの場合、パナマ経由の海路で輸送された。

 パナマ空襲でそれが不可能になると大陸横断鉄道が動員されたが、船舶輸送に比べて効率低下は甚だしかった。

 市民生活を高レベルに保つために民生品の輸送も同時に行わなければならなかったことから、鉄道のキャパシティが飽和して行動不能になっていた。

 一式陸攻は大陸横断鉄道を最優先攻撃目標としており、爆撃で鉄道運用スケジュールは混乱し続けることになる。

 交通網への攻撃は長大な後方兵站線をもつアメリカ本土防衛軍にとって覿面に効果があった。

 もちろん、日本軍も太平洋を横断するという長大な海上兵站線を持っていたが、高効率な船舶輸送が使えるため距離のハンデは相殺可能だった。

 帝国海軍が全力でパナマを爆撃したのもの完全なる制海権を確保して、輸送効率の向上を図るという意味があった。

 帝国陸海軍や海援隊の船舶輸送計画担当者は一日も早く輸送船団の運行を停止したがっていたのである。

 船団方式の輸送は輸送効率の面では難があり、可能であれば独航船による運行が好ましかった。当たり前の話だが船団輸送の場合、船団の速力は船団の中の一番鈍足の船に合わせることになるため、経済効率はよろしくない。

 そして、そのためには太平洋の完全なる内海化が好ましく、太平洋の両岸を抑えるため北米西海岸の制圧が必要不可欠だった。

 日本軍は1942年3月17日、サンフランシスコ上陸を敢行。

 作戦名は、月号。

 葉から鍵へ、そして月へと至る帝国海軍の最終攻勢だった。

 作戦参加艦艇は600隻に達し、太平洋戦争最大の上陸作戦となった。

 なお、上陸海岸正面において、日本軍は軽微な損害で橋頭堡を確保した。

 これまで幾度も敵前上陸作戦を敢行してきた日本軍は手慣れたもので、15隻の大小の各空母から発進した零戦隊が上陸海岸の制空権を確保し、必要な航空支援を提供した。

 浮航戦車や水上装甲車のような新装備もふんだんに投入され、機械化揚陸作戦が展開されている。

 米軍は広すぎる国土の広すぎる海岸線を守るために、戦力を分散していたため水際での上陸阻止は不可能だった。

 そのため、日本軍の着上陸を受け止めた後に、内陸に配置した機械化部隊による迅速な反撃で海に追い落とす計画を立てていたが、制空権の喪失で上手くいかなかった。

 日本軍は多数の偵察機や観測機、或いは先行した挺身偵察部隊によって内陸から上陸海岸に至る経路を監視していた。

 

「地獄のデスロード(ルート45の戦い)」


 と呼ばれる空爆による大虐殺は、制空権を喪失していたアメリカ軍の悲哀を象徴する戦いだった。

 上陸海岸に向かうアメリカ軍第22戦車師団の車列を発見した零式水上観測機の通報におり、角田艦隊から111機の戦爆連合が発艦。

 その内、4割が20mmガンポッド装備の一式艦攻だった。

 帝国海軍の20mmガンポッドは元々は潜水艦攻撃用に開発されたものだったが、モーターカノン用の長砲身20mm機関砲は貫通力が高く、対戦車攻撃にも有効であることが判明して広く対地攻撃に用いられるようになった。

 20mmガンポッドの掃射は、自動車や戦車の車列への攻撃において極めて有効で、一航行で10~15台のトラックや装甲車を撃破することも珍しくなかった。

 M4中戦車はバランスの取れた優秀な戦車だったが、側面装甲が38mmしかなく対地攻撃用の高速徹甲弾で撃たれると保たなかった。

 M4は側面の張り出しを弾薬庫にしていたので、20mm機関砲弾が飛び込むと誘爆してびっくり箱のように砲塔が吹き飛んだ。

 

「M4はブリキ缶だぜ!」

 

 というのは新聞社の取材に応えた一式艦攻乗りのパイロットが語った有名な一言である。

 空爆を避けるためバラバラに分散した米軍の浸透攻撃に対しても、戦艦部隊の阻止砲撃が待ち構えており、橋頭堡に至る道は全て塞がれていた。

 なお、この艦砲射撃はこれまでの経験を反映した精密なもので、陸軍砲兵部隊の前線観測所と直結した戦艦甲斐は射距離40,000mで砲撃を実施している。

 この砲撃は甲斐から観測することができず、前線観測所からデータに依存したものだったが、初弾から有効射となり米戦車部隊の突進を阻止する上で需要な役割を果たした。

 砲撃終了後、アメリカ軍1個連隊は地上から完全に消滅していた。

 この武功により甲斐は陸軍から感状がでるほどの成果であった。

 アメリカ軍は執拗に橋頭堡への攻撃を繰り返したが全ては失敗に終わった。

 地上反攻に併せて橋頭堡への空爆も行われたが、対空砲火と零戦隊の迎撃で決定的な戦果を挙げることできなかった。

 400機を投入したB-24や、B-17による絨毯爆撃は、待ち構えていた零戦隊によって30%が撃破されるという悲惨な結果に終わり、アメリカ軍の航空部隊に止めを刺しただけで終わった。

 西部戦線軍総司令官をまかされたドワイト・D・アイゼンハワー大将は、日本軍の橋頭堡への攻撃は無謀だと考えて内陸へ引き込んでから決戦を主張していた。

 制空権確保がおぼつかないからだ。

 実際のところ、戦闘が始まると米地上部隊が移動できるのは夜間だけになった。昼間は日本軍の地上攻撃機がうろうろしており、動くものは全て攻撃対象になった。

 これでは橋頭堡への突入など不可能だった。

 だが、政治的に全くそれを受け入れられなかったルーズベルト大統領は内陸決戦論を退け、橋頭堡への攻撃と上陸阻止に拘った。

 広すぎる西海岸のどこに上陸するかわからない日本軍を完全に阻止するには、アメリカ軍の兵力は不足しており、バンクーバー包囲戦の激化もあってサンフランシスコ上陸阻止は最初から兵数からして不可能な状態といえた。

 戦後の研究では、奇跡的な確率で日本軍の上陸予想地点に、ピンポイントでカリフォルニア州の全戦力を事前に集中させていれば上陸阻止は可能と分析されたが、逆にいえば奇跡がおこなければ上陸阻止そのものは不可能だった。

 そして、不可能の論理的な結論は無理であり、無理を強いることを世間は無謀という。

 無謀に挑戦したアメリカ軍は橋頭堡突入を予期して防御態勢を整えていた日本軍の前に無理な攻勢を続け、戦力を急速に消耗していった。

 サンフランシスコ上陸軍総司令官山下奉文中将は、米軍の攻勢限界を見極め、的確なタイミングで総攻撃に移った。

 サンフランシスコ市が無防備都市宣言を出したのが、1942年4月12日である。

 戦争報道写真として有名になったゴールデン・ゲート・ブリッジと戦艦駿河を収めたツーショットが撮影されたのも、この日のことである。

 以後、ロサンゼルスやサンディエゴが次々と無防備都市宣言を出して降伏・開城していった。

 カリフォルニア州を制圧した日本軍は北上し、バンクーバー包囲の解放に成功。

 南北で米西海岸に上陸した日本軍は、シアトルで握手して西海岸の戦いは一区切りがつくことになる。

 だが、兵站の限界から内陸部へ侵攻は不可能であり、シアトル攻略後に戦線は小康状態を迎えることになった。

 




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[気になる点] 12.7mmの薄殻榴弾が使われたなんて聞いたことがありませんがどこかに資料等ありますか?
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