わたしをハワイに連れてって
わたしをハワイに連れって
1941年12月、世界は2つの陣営に分かれて激しく争っていた。
日英を中心とする同盟国陣営と米独伊を中心とする枢軸陣営である。
だが、それぞれの陣営を詳しく見ると必ずしも二大陣営による単純な戦争とは言い切れない部分が多かった。
まず、最初に戦争を始めたのは大日本帝国とアメリカ合衆国である。
太平洋を二分する大国が戦争を始めたのは、殆ど偶発的な事故か、或いは感情的な行き違いであり、本来なら戦争未満で解決可能な摩擦だった。
実際、当事者の日米両国はもはやどうしてここまで戦争が拡大したのか分からなくなっていた。
だが、一つ確かなことは、一度抜かれた剣が血塗られずして鞘に収まることはないということだった。
その後、ヨーロッパでイギリス・フランスとナチス・ドイツが戦争を始めた。
この2つの戦いは連動したものではなく、日米と英独は別個に戦っていた。
イギリスはアメリカとの戦いを慎重に避けていたし、ドイツは遠い極東に位置する日本と戦う理由はなかった。
だが、イギリスが矢継ぎ早にポーランドやフランスといった欧州内の同盟国を失い孤立すると日本は第三次日英同盟に従ってドイツに宣戦を布告。
これで日本とドイツは交戦状態に入った。
しかし、イギリスは日米との戦いには不介入の姿勢を採った。彼らには日米の戦争に加入する余力が全くといっていいほどなかったからだ。
また、アメリカと国境を接する英連邦カナダや南太平洋のオーストラリアを守る力がイギリスにはなかった。
日本もそれを承知しており、ヨーロッパで孤立したイギリスを決して見捨てないという政治的な理由によって日本はドイツとの戦争に踏み切ったから、イギリスに対米参戦を求めなかった。
そのため、日本からの欧州に送られた援軍は海援隊という半官半民の軍隊だった。
海援隊とは、アメリカ合衆国風に表現すれば、コーストガードとミリシアとマリーンとゼネラル・エレクトリックを足して4で割った組織である。
これは余談だが、海援隊の立ち位置は日本国内でも明確な説明が困難であり、語る者の立場で180度内容が変わるため、統一された見解が存在しない。
それはさて置き、ドイツと北アフリカで戦う日本の足を引っ張るため、アメリカは敵の敵は味方であるという理屈により、政治体制としては真逆のドイツへ武器を売り始めた。
対ドイツ戦で苦戦していたイギリスにこれを実力で阻止する力はなく、大量の米国製兵器がドイツへと流れた。
それは1941年6月の対ソ侵攻作戦でも使用され、ソビエト軍は米国製兵器で武装したドイツ軍と戦って多くの犠牲を出した。
1941年12月のモスクワ陥落は、レンドリースによる対独援助抜きには全く考えられない事態だった。
日英もまた敵の敵は味方という論理に基づき、ソビエトに武器を送ったが、緒戦の奇襲で大損害を受けたソビエトは、このことを強く問題視した。
「アメリカからドイツに流入する武器を止めないかぎり、大祖国戦争の勝利はおぼつかない」
というスターリンの主張はもっともな話であった。
過去に自分がアメリカから武器を買って日本を侵略する計画を抱いていたことは綺麗さっぱり無かったことになっている。
また、イギリスもまた同じ結論に至っていた。
イギリス空軍はルフトヴァッフェが東部戦線にかかりにきりになった隙に対独戦略爆撃に着手していたが、ヨーロッパ上空におけるアメリカ製航空機のプレゼンスは無視できるものではなかった。
Me210としてライセンス生産されたアメリカ製のロッキードP-38は、格闘戦になればカモでしかなかったが、優れた高高度性能を持ち、その大火力からRAFボマーコマンドにとって最大の脅威だった。
ドイツ軍でライセンス生産されたP-38(ホルニッセ)は武装をマウザー20mm機関砲(MG151)4門に改めており、アブロ・ランカスターをミンチにすることができた。
なお、合衆国はライセンス交換としてドイツからMG151の提供を受けており、AN-M2として配備している。
ドイツ製の高性能なマウザー機関砲を装備した米軍機に、日英の航空部隊が大きな犠牲を払っていたことは言うまでもないことである。
Me210はその火力や高高度性能はもちろん、長大な航続距離も併せ持っており、長時間戦闘哨戒が可能なため、迎撃戦闘機としては一つの完成形といえた。
排気タービン装備のMe210の運用には、ハイオクタンガソリンが必須だったが産油国である合衆国は潤沢にドイツへ航空機用ガソリンを売却していたので問題にはならなかった。
対独援助は北大西洋を経由してドイツへ送られており、これを止めることができるのはイギリス海軍しかなかった。
アメリカ海軍は主力を太平洋に配置しているため、通商破壊そのものは可能だった。
王立海軍は、その主力艦を温存しており、条約明けに建造したKGV級戦艦(40,000t)2隻(KGV、POW)、ライオン級戦艦(45,000t)2隻ライオン・タイガーが就役済みであり、16インチ砲装備の大提督級戦艦ネルソン・ロドネイ・アンソン・ハウも近代化改装を終えて全艦健在だった。
対する合衆国海軍大西洋艦隊の戦艦はニューメキシコ級戦艦3隻のみであり、王立海軍は圧倒的に優勢だった。
問題は、北大西洋封鎖とその結果として合衆国のカナダ侵攻を招くことになり、それを防ぐ力がイギリスのどこにもないことだった。
英米戦争は100年も昔のことであり、既にドイツと戦っているイギリスに大軍をカナダ防衛のために割くことはできないのである。
カナダには多くの軍需工場が疎開しており、アメリカ軍のカナダ侵攻はそれを直撃することになる。英連邦第二の構成国であるカナダを失うことはイギリスの破滅を意味していた。
イギリスの窮状は理解可能なものだったが、既に多くの犠牲を払っている日ソはそれを認めることができなくなっていた。
そして、イギリスの戦略的なジレンマを解決する唯一の方法と目されたのが、
「この作戦が成功するとしたら、それは神の恩寵ではなく、サタンの底知れない悪意によるものだろう」
とまでこき下ろされた「藤堂プラン」であった。
藤堂プランとは、藤堂明海軍少佐(当時、後に元帥)が立案したもので、独ソ戦勃発によって生じた陸軍戦力の余剰を用いる大規模な対米反攻作戦であった。
プランの概略は、
第一段作戦 ハワイの電撃的な攻略と米太平洋艦隊を殲滅
第二段作戦 カナダ救援のための攻勢防御として米西海岸への侵攻
第三段作戦 パナマ運河を空爆して破壊、太平洋の内海化
第四段作戦 西海岸での長期持久体制の構築、カルフォルニアを根拠地とした戦略爆撃
第五段作戦 戦略爆撃による米国戦争経済崩壊による勝利
という気宇壮大な戦略構想だった。
特に戦略爆撃による敵国の戦時経済崩壊というのは海軍軍人の考えることではなく、藤堂少佐が組織の枠にとらわれない優れた戦略立案能力を持っていることを示していた。
だが、当時、大和型戦艦の建造にまつわるゴタゴタで閑職に追いやられていた藤堂少佐は時間を持て余しており、軍令部の記録統計室で腐りきっていたとされる。
どれほど腐っていたかというと
「僕はもう定年までここで資料を整理して、年金を貰って悠々自適な生活をすること以外何も考えていないんだ」
と細君に語るほど酷い有様だった。
その彼が暇つぶしに一人で策定した作戦計画が、いつの間にか軍令部を席巻し、首相官邸にまで上げられたことは、帝国海軍七不思議の一つに数えられている。
だが、長期戦による千日手とそれによる同盟国(英ソ)の自滅、判定負けという事態を恐れた坂本首相は、戦争のイニシアチブを取り戻す方策を必要としており、その流れに「藤堂プラン」は上手く乗ったといえるだろう。
首相官邸に呼び出された時、藤堂少佐は坂本首相と居並ぶ帝国陸海軍の重鎮を前に、開き直りにも近い心境でプレゼンテーションを行った。
なお、閑職に追いやられてから藤堂少佐はかなり生活がだらしなくなっており、官舎を出る際に妻から、
「どうせなら格好良く出かけて頂戴。お願いだから」
とまで言われて、ヤケっぱちになっていたとも言われている。
ただし、それは息子の方ではないかという意見もあり、真相は不明である。
ともあれ、藤堂少佐の示した作戦とその後の戦略展開は、坂本首相の強い支持を受けることになった。
能力はあったが、坂本首相とソリが合わなかったとされる山本五十六海軍大臣も、藤堂プランは大いに気に入り、その全面的な支持者となった。
ハワイ奇襲の件は、特に心の琴線に触れるものがあったようである。
かくして、1941年11月26日、帝国海軍は乾坤一擲の大作戦のため、千島列島単冠湾に主力艦隊を集結させる。
陣容は以下のとおりである。
空母 赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴
戦艦 大和、武蔵、信濃、甲斐
重巡洋艦 高雄、愛宕、鳥海、摩耶
軽巡洋艦 利根、筑摩、阿賀野、能代、酒匂、矢矧、大淀、仁淀
駆逐艦 甲型28隻 乙型12隻
この他にハワイに上陸する陸軍5個師団や武器弾薬を輸送する175隻の輸送船とそれを守る海援隊の護衛艦や丁型駆逐艦、航空護衛艦などがいた。
随伴タンカーや偵察の潜水艦や各種補助艦艇まで含めると参加艦艇は400隻を超える。
作戦参加航空機に至っては2,000機に達する大部隊であった。
総兵力は20万に達する。
作戦発動に先立って航空母艦を集中配置した第一機動艦隊が編成され、その司令長官にはこれまでの功績から角田覚治中将が就任している。
また、同時展開する大量の潜水艦や海援隊の護衛部隊、陸軍輸送船団を同時に指揮する必要があり、最終的には陸軍と共同した上陸作戦を実施するため、連合艦隊司令長官土方一郎大将が初めて最前線で指揮をとることになった。
連合艦隊旗艦は、これまでなら戦艦に置かれるものだったが、大方の予想に反して旗艦は海援隊が有する通信艦あきつ丸に置かれた。
通信艦とは全世界規模に展開した護衛艦隊が、大洋間の通信連絡を中継するために建造した強力な通信設備を持つ船で、輸送船に擬装されていたがその中身は電子機器とそれを操るエンジニアで満たされており、大作戦を海の上から指揮するのにこれほど適した船はなかった。
土方長官は個々の艦隊の指揮は現場に任せ、全体の調整と最終意思決定のみを担当するため、最前線で戦う戦艦よりも後方から指揮ができる通信艦はなにかと都合が良かった。
これまで陸の上から連合艦隊を指揮してきた土方長官だったが、西太平洋での迎撃戦ならともかく、日付変更線の向こうに艦隊を送り込む以上、陸から指揮することは通信のタイムラグが大きすぎて不可能だった。
決して、通信オペレーターが尽く女性だったから、この船にしたというわけではない。
藤堂プラン第一段階、ハワイ奇襲攻撃。
作戦名は、葉号。
現在、帝国海軍が有する大型空母の半数と最新鋭の大和型戦艦4隻を同時投入するという乾坤一擲の大博打である。
これほどの大艦隊の移動となれば、それを隠しきることは不可能であり、可能なかぎり作戦目標を欺瞞することに情報操作の重点が置かれていた。
赤城や加賀の通信室は、その人員を軽空母の千代田、千歳、その他商船改造空母と入れ替えており、無線通信を行いながら戦艦駿河、相模と共にパラオを目指していた。
無線傍受限定ならば、あたかも赤城や加賀といった大型空母が戦艦と共に内地から南下しているように見えなくもなかった。
また、軽空母とはいえ空母に変わりなく、潜水艦に発見されても誤認を狙うことができた。
パラオには、戦艦改装空母の伊勢、日向、扶桑、山城が戦艦土佐と共に集結し、ハワイ作戦のまえに陽動を行う計画だった。
カバーストーリーとして偽の作戦が流布され、輸送船に乗り込んだ陸軍将兵にはトラック奪回作戦と説明された。
緒戦で占領された日本海軍の一大根拠地、トラック環礁を奪回するというのはそれなりに信憑性のある話であり、米軍の情報部隊はこれにひっかかった。
さらに帝国海軍は基地航空部隊を動員して、サイパン島からトラック環礁の各地に大規模な爆撃を連日連夜行って、米軍の注意を引きつけた。
これをトラック奪回の前兆と考えた米軍は、パラオに日本海軍の空母部隊が集まっていると判断し、戦力をマーシャル諸島、クェゼリン前進基地へと集めていった。
なお、これらの米軍の対応について日本軍はかなり正確にその動向を把握していた。
なぜかというと日本側は米軍の通信暗号をこの頃、ほぼ完璧に解読していたからである。
日本陸海軍の情報関係者は、日米開戦初日のトラック奇襲を防げなかったことで、それぞれの組織の上層部からの信頼を失っており、苦境に立たされていた。
「忍びが死ぬのは、信用を失ったとき」
と信濃の忍者の頭領が語ったとおり、如何に正確な情報を集めてもそれを報告すべき相手から信用を失っていては諜報機関としては死んだも同然だった。
情報とは存在しているだけでは意味がなく、分析され、その分析結果が正しく理解され、運用されてこそ初めて意味があるものだった。
そこで情報関係者が起死回生を図ったのが、米軍暗号の解読であった。
米軍の通信暗号の解読は、既に戦前から着手しており一定の成果が上がっていたが、重要部分については不明なままだった。
日本の情報関係者は、その筋では圧倒的な先達であるイギリスのMI6に協力を求めたが、当初は素気無く断られている。
当然だった。
幾ら同盟国といっても、最新の暗号解読ノウハウを開示するわけにはいかないのだ。
状況が変化したのは1940年6月22日にフランスが降伏した後のことだった。
追い詰められたイギリスは、日本の支援を欲しており、その代価に最新の暗号解読ノウハウや彼らの溜め込んでいた無線傍受記録を提供したのだった。
結果、日本の情報機関は解読不能と思われていたドイツのエニグマ暗号が既に解読されていることに驚愕すると共にアメリカ軍の作戦暗号解読に大きな前進を得た。
また、1941年1月11日には海援隊の護衛艦が浅瀬に追い込んで撃沈した米軍の潜水艦トルネード・シャークが浮揚回収され、船内から暗号作成機とコードブックが回収された。
このコードブックは古いものだったため即座に暗号解読に結びついたわけではなかったが、米軍暗号の基本構造を理解する上では重要な参考になった。
日本海軍は暗号解読のために、最新のコードブックを手に入れるべく、特殊作戦を立案した。潜水艦で北太平洋にあるキスカ島に特殊部隊を送り込み、暗号作成機とコードブックを強奪するというものである。
極寒の2月15日に作戦は発動され、潜水艦から上陸した海軍の特殊部隊はキスカ島の通信基地を襲撃して暗号作成機と最新のコードブックを入手することに成功した。
あとは通信傍受量を増やし、片っ端からトライ・アンド・エラーを繰り返すだけだった。
これには徴用された日本各地のトランジスタ電子電算機が役に立った。
同時期、同じスペックのものを真空管で再現した合衆国の真空管コンピューター(エニアック)も似たような任務に使用されていたが、その大きさは小学校の体育館ほどにもなった。
日本のそれは日本家屋の押入れに入る程度の大きさであり、それが日本全国に266台あって冷房で頭を冷やしながら計算を続けた。
電算機はさらに増産され終戦までに1,000台以上が稼働することになった。
圧倒的な計算力を投入した結果、米軍の暗号は傍受から15分程度で解読可能となった。
1941年7月15日のことである。
これは国家最高機密指定となり、情報が公開されたのは1977年のことである。
藤堂プランの実施にも、暗号解読の成功が大きく関わっており、作戦行動の秘匿を暗号解読を通じて把握できるようになったことが大きかった。
そうでもなければ、主力艦隊と5個陸軍師団を敵地のど真ん中に送り込むような博打を打つことなどできるはずもなかった。
それでも、哨戒機や潜水艦によって艦隊が発見される可能性は0ではなかった。
だが、艦隊は冬の太平洋の大しけに覆い隠された。
何しろ1941年11月の北太平洋は記録的な大しけと濃霧に覆われており、哨戒機も潜水艦もまともに活動できる状態ではなかった。
逆に第1機動艦隊の各艦は洋上給油ができるかどうか心配しなくてはならなかった。
しかし、奇跡的なことに洋上給油実施日に、天候が回復し、第1機動艦隊の駆逐艦は給油を受けることができた。
「土方長官はやはり幸運すぎる」
と囁かれたのは言うまでもないことである。
かくして艦隊は、1941年12月7日をハワイ・オワフ島北方海上で迎えることになる。
ここまで艦隊を率いていた角田提督は、旗艦大和にてハワイの短波無線を傍受し、ウクレレの弾き語りを聞くに及んで作戦の成功を確信すると同時に、
「これは罠ではないのか?」
という深刻な疑心暗鬼に囚われたという。
それほどまでにハワイの無警戒っぷりは凄まじく、艦隊が敵の目を逃れて航行し続けられたのは、異常なレベルでの幸運の連続であったとも言える。
もちろん、日本は運を掴み寄せるために最大限の努力を重ねてきた。
それには多くの犠牲を伴った。
1941年12月5日は、陽動作戦としてトラック奇襲降下作戦が実施された。
これは帝国陸海軍の空挺部隊が、九七式大艇や九六大攻といった長距離爆撃機に搭乗し、トラック環礁への空挺降下、反攻のための空挺堡を築くというものだった。
さらに潜水艦に搭載されて隠密接近した水陸両用戦車による奇襲上陸が行われた。
もっとも、奇襲であると兵士たちに説明された何れの作戦も、米軍には複数のルートからリークされた陽動作戦だった。
トラック上空には大量の米戦闘機部隊が待ち構えており、海は駆潜艇と機雷で埋め尽くされていた。
だが、米軍の熾烈な迎撃で散華していった兵士は、何れも自分たちが反攻作戦の魁であることを全く疑っておらず、悲劇を拡大しつづけた。
だが、2,000名の犠牲で、20万人の安全が買えるのなら、それは軍事戦略上、是とすべきものだった。
作戦機125機と潜水艦4隻、水陸両戦車26台と2212名の犠牲を以って、米太平洋艦隊は日本軍の攻撃目標がトラック奪回であると完全に信じた。
まさにその瞬間に、第1機動艦隊はハワイ北方200kmの位置に進出していた。
夜明けと同時に第一次攻撃隊186機が発進。
続けて第二次攻撃隊が飛び立った。
朝焼けのグロリアスは一際美しく、多くのパイロットの記憶に残ることになった。
「戦時中、どんな美しい朝があったかご存知?戦闘が始まる前の・・・これが見納めかもしれないと思った朝、海はそれは美しいんだ。空気も・・・太陽も・・・」
という話者不明のコメントが残っている。
奇襲を成功させるための努力は継続中であり、攻撃隊がハワイの早期警戒レーダーに探知されないように、特殊改造を施した九七式艦上攻撃機による電波妨害を実施された。
さらに、ダイヤモンドヘッドにあったレーダーサイトは、攻撃に先立って秘密裏にハワイへ上陸した陸軍特殊部隊の手によって破壊されていた。
この作戦にはまるゆと呼ばれる上陸作戦用潜水艦が投入されていた。
奇襲上陸のための専用潜水艦を開発する陸軍など、世界広しといえども帝国陸軍だけだろうが、海軍の波号潜水艦(500t以下の小型潜水艦)をベースに開発されたまるゆの完成度は高いものだった。
さらに航続距離が短いまるゆの補佐するため、潜水補給艦伊第400号も投入された。
伊400号は、西海岸やパナマ沖まで進出して作戦を行う伊号潜水艦に魚雷や燃料、その他必要な物資を補給するために建造された潜水補給艦で、その水中排水量5,500tに達しており、軽巡洋艦なみの超大型潜水艦だった。
これは原子力潜水艦亜-6号が完成するまで世界最大の潜水艦であり、まるゆ16隻は伊400号から補給を受け、ハワイ沖まで進出し、攻撃前に陸軍1個中隊を上陸させていた。
破壊工作のために特殊な訓練を受けた挺身攻撃隊部隊は、レーダーサイトや通信所を秘密裏に破壊し、無力化していた。
結果として、
「トラ・トラ・トラ(我奇襲に成功せり)」
という戦史に名高い電文が空中指揮官の淵田美津雄中佐から発せられることになる。
ハワイ上空には一機の戦闘機もなく、対空砲火もなく、日曜日の朝日だけが昇っていた。
なお、ハワイは後方支援基地であり、太平洋艦隊の主力はより前線に近いマーシャル諸島に前方配置されていたため、在泊の艦艇はそれほど多いものではなかった。
これは日本軍の陽動作戦が完全に成功していたことを意味していた。
だが、最新鋭の空母イントレピッドを見逃す理由はなく、魚雷を抱いた艦上攻撃機が殺到してこれを撃沈した。この他に、停泊中の戦艦アリゾナが水平爆撃を受けて爆沈、巡洋艦3隻、駆逐艦12隻、その他22隻が湾内で逃げるまもなく撃沈された。
小破で済んだのは歴戦の空母サラトガのみだった。
だが、これはドックに入渠していたがゆえに、見逃さされたという点が大きかった。
在泊艦艇以外にもホイラー、ヒッカムなどハワイの航空基地は全て日本軍の爆撃を受け、戦闘機や爆撃機は機銃掃射で飛び立つ前に破壊されている。
ハワイには400機を越える作戦機がいたが、その90%が飛び立つ前に地上で撃破された。B-17などの長距離爆撃機は最優先攻撃目標として全機が地上で破壊された。
第2次攻撃隊以後は激しい対空砲火を浴びて損傷する機体や、生き残りの戦闘機による要撃を受けたが、日本軍は万難を排して攻撃を続行した。
最終的に第7次攻撃隊まで編成され、在ハワイの米軍戦力は一掃されることになった。
日本軍はハワイ占領後に、米軍の施設を利用するためオイルタンクや工廠設備への攻撃は慎重に避けた。
日本軍は増援到着を少しでも遅らせるために広範囲に通信妨害を実施しており、米軍の対応は後手に回ることになった。
だが、これほどの規模の攻撃を隠し切るのは不可能であり、マーシャル諸島のクェゼリン環礁にいた米太平洋艦隊の主力がハワイに向け出港した。
米本土西海岸のサンディエゴ海軍基地からも出せるだけの艦隊が出港してハワイを目指した。
ここからは時間との戦いだった。
日本軍の上陸作戦が始まるのが1941年12月10日である。
上陸作戦は、通常、十分な火力支援による準備射撃が行われるものだが、そのような時間的余裕は日本軍にはなかった。
犠牲を承知で強引な敵前上陸が行われ、水際で米陸軍の熾烈な抵抗に遭い、上陸作戦を担当した第5師団は1時間の戦闘で全兵員の4割が死亡し、壊滅した。
だが、空爆と艦砲射撃による援護で水際の抵抗は粉砕され、後続の第13師団及び第25師団は内陸への侵攻に成功する。
アメリカ軍はハワイ防衛に海兵隊を含む4個師団相当の部隊を配置していたが、制空権を完全喪失し、戦艦大和の46サンチ砲弾が降り注ぐ中で、できることは限られていた。
それでも救援が来ることを疑わない米陸軍部隊の抵抗は頑強を極めており、10m前進するために九九式重戦車が一台撃破されるような戦いが続いた。
やがて陸の戦いは完全に膠着状態に陥った。
クェゼリンから救援にきた米太平洋艦隊主力が到着したためである。
第一機動艦隊は潜水艦からの通報で太平洋艦隊主力の接近を知ると上陸作戦支援を中止し、迎撃に向かった。
ハワイ沖海戦(東太平洋海戦)に参加した艦艇は以下のとおりである。
帝国海軍 指揮官 角田覚治海軍中将
旗艦 大和
空母 赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴
戦艦 大和、武蔵、信濃、尾張
重巡洋艦 高雄、愛宕、鳥海、摩耶
軽巡洋艦 利根、筑摩、阿賀野、能代、酒匂、矢矧、大淀、仁淀
駆逐艦 甲型22隻 乙型12隻
アメリカ海軍 レイモンド・スプルーアンス中将
旗艦 レキシントンⅡ
空母 ホーネット、レキシントンⅡ、ヨークタウンⅡ、エセックス、エンタープライズ
軽空母 ベロー・ウッド、インディペンデンス、プリンストン
戦艦 アイオワ、ミズーリ、ニュージャージー、ウィンシスコン、ワシントン
テネシー、カリフォルニア、ペンシルベニア、ネバダ、オクラホマ
重巡洋艦 チェスター、ソルトレイクシティ、ペンサコラ、ウィチタ
軽巡洋艦 ヴィンセンス、マイアミ、ビロクシー、アトランタ、サンタフェ、モービル、
リノ、バーミングハム
駆逐艦 フレッチャー級34隻
ハワイ奇襲や上陸支援のために日本艦隊は艦載機を消耗しており、航空戦力は数的に不利な状況といえた。
水上艦部隊についても、新鋭のアイオワ級4隻を揃え、旧型とはいえワシントンを筆頭に14インチ砲搭載戦艦5隻全て参加していた米海軍の方が数的には優位な戦いだった。
しかし、質の面から見ると戦いの実相は大きく違っていた。
1941年12月13日、ハワイ西方120kmの地点で激突した日米艦隊は、双方が偵察機を飛ばしてほぼ同時にお互いを発見した。
スプルーアンス艦隊からはただちに攻撃隊が発進したが、角田艦隊は西進を続けて距離を詰めることに終始した。
角田艦隊の装備する零式艦上戦闘機は、41年末になるとタービンロケットエンジンの信頼性をようやく確保したが、航続距離は海軍機としては落第の500km程度しかなかった。
実用上の限界進出距離は200km程度しかないので、スプルーアンス艦隊のアウトレンジ攻撃が成立した。
日本側もこの欠点は承知しており、角田艦隊は防御を固めて敵の先制攻撃をしのいで逆襲する作戦を立てていた。
このため、スプルーアンス艦隊から発進した米攻撃隊198機は、艦隊上空に配置された分厚い零戦隊の要撃を受け、大損害を受けることになった。
巡航速度ですら100km以上高速の零戦に襲われては、F4Fでは全く勝負にならず、日本側は戦闘機との戦いを避けて攻撃機のみを選択攻撃する余裕さえあった。
日本艦隊上空にたどり着いた米攻撃機は全体の10%足らずであった。
しかも彼らは前衛に配置された戦艦大和、武蔵、信濃、甲斐と装甲空母加賀を攻撃したため、何の戦果もあげることなく全滅することになった。
一応、加賀にはSBD艦爆の自爆攻撃が命中し、甲板で1,000ポンド爆弾が炸裂したが装甲区画だったことから損害は軽微で、消火後は何事もなく作戦行動を継続した。
また、これまでの戦訓を反映した対空砲火は全く次元の異なるものへと発展しており、米軍攻撃機を寄せ付けなかった。
この作戦のために日本海軍は電波信管と呼ばれる新兵器を投入していた。
これは高射砲弾に小型のレーダーを仕込んで、砲弾を最適な位置で起爆させるという優れものであり、電探射撃と組み合わせるとその命中率は在来の対空砲火の10倍に達した。
電探射撃と長10サンチ砲、電波信管を組み合わせた乙型駆逐艦(秋月型)の対空砲火は、尋常ではない命中精度を発揮し、空母に接近する攻撃機を次々に撃墜した。
この高射砲弾幕をかいくぐったとしても、これもまた電探射撃を行う37mm3連装機銃の弾幕が待ち構えており、それを突破できたとしても25mm単装機銃による近接防御射撃の雨を浴びることになる。
また各空母には、近接防御用に対空多連装噴進砲を装備していた。
電波信管付のロケット弾を多量発射するというあまり類例の帝国海軍独自の対空兵装は、見た目の派手さの割には実効性が乏しかったが、攻撃回避の威嚇兵器としては効果的であり、米軍機の接近を阻んだ。
「可哀想に、まるでアレでは自殺じゃないか」
対空砲火に阻まれ、爆発炎上して墜落するSBD艦爆を見た源田実中佐はそう漏らした。
続く米軍の第2次攻撃隊177機も零戦隊の攻撃で撃墜されるか、爆弾を捨てて逃げるしかなく、艦隊に接近した攻撃機は対空砲火で撃退された。
先手必勝を信じて送り出した攻撃隊の7割が未帰還となると思っていなかったスプルーアンス艦隊はその損害に恐怖すると共に、日本艦隊にかなりの打撃を与えたと誤認することになる。
「これほどの大損害を受けたのだから、敵にも相当の打撃を与えたに違いない」
と思ってしまうのは、その目を背けたくなるような大損害を考えれば止む得ない発想だったかもしれないが、この場合は致命的な判断ミスだった。
このような判断ミスに至ったのは、米海軍パイロットの練度低下が大きかった。
これまでの戦いは米軍が侵攻側であり、敵地で戦う以上、被撃墜された場合パイロットの生還率は低かった。
いくらか合衆国とはいえ、経験豊富なパイロットを工場で量産化することはできない。
そのため、米軍のパイロットの大半がこの海戦が初陣という状態で、一方的な滅多打ちにされたことからショック状態であり、その報告の信憑性は雨の日の革靴ほどでしかなかった。
また、日本艦隊の反撃が無かったことも判断ミスを助長した。
スプルーアンス提督は先制攻撃で日本艦隊の空母を壊滅させたと信じたのである。
実際には航続距離の短い零戦を使うために間合いを詰めているだけで、角田艦隊の空母は全く無傷の状態だった。
スプルーアンス提督は艦載機を消耗した空母に護衛をつけて退避させると共に戦艦を使って残敵掃討する決意を固めた。
午後4時を過ぎて夕暮れも近いこともあって、もう空襲はない考えたのである。
そのため日暮れ間近に角田艦隊の空襲が始まったとき、
「なぜか空母が艦隊の外にいたので驚いた」
と空中指揮官の渕田中佐が語るとおりの展開となった。
艦隊中央にいるはずの空母が僅かな駆逐艦の護衛だけで輪形陣の外でウロウロしていたのだから、これはもう沈めてくださいと言っているようなものだった。
艦隊直掩のF4Fは零戦隊の攻撃から逃げる術はなく呆気なく全滅。直掩機もなく、護衛艦もない米空母に78機の攻撃機が殺到するという悪夢のような展開となった。
攻撃隊は既におなじみとなっていた九九式艦爆や九七式艦攻に加え、新鋭の一式艦上攻撃機も加わっていた。
一式艦上攻撃機は、九七式艦攻の後継機として開発された万能攻撃機だった。
一見すると水冷レシプロエンジン機に見えるが、実際はタービン・プロップエンジンという新方式のエンジンを搭載した新世代攻撃機だった。
タービン・プロップエンジンとは、タービン・ロケットエンジンの軸出力を減速機を介してプロペラを回す機構を持つエンジンを指し、タービンロケットエンジンに比べて燃費に優れていた。
あまりにも高燃費のNTR-004BはC型に発展し、燃費が改善していたがそれでもまだレシプロエンジンに比べて高燃費であり、長距離飛行用のパワープラントには不適だった。
そのため、河城重工は早くから、燃焼効率の優れたタービン・プロップエンジンの開発に取り組んでおり、NTR-004BをベースにNTP-001Aが開発された。
NTP-001Aは小改良を施され、馬力換算で2,200馬力に達するNTPー001Bとして一式艦上攻撃機に採用された。
一式艦攻は当初は水冷レシプロ攻撃機として開発中だったためエンジン換装には手間取り、葉号作戦に間に合ったのは24機に過ぎなかった。
だが、急降下爆撃も雷撃もできる一式艦攻は高い運用柔軟性を持ち、零戦と同じ灯油で飛べるという利点から、大量生産が決定した。
その強大な攻撃力故に切り札として温存されていた一式艦攻はその期待によく応え、逆ガル翼のいからせ米空母に突進、米空母に次々と爆弾と魚雷を叩きつけた。
新鋭のエセックス級空母は、前級のヨークタウンの拡大発展型だったが、500kg徹甲爆弾がバイタルパートで炸裂したら無事では済まない。
ましてや、前級のホーネットがその攻撃に耐える余地など全くなかった。
空母レキシントンⅡ、ヨークタウンⅡ、ホーネット、エセックスは立て続けに急降下爆撃を浴びて大破炎上。動けなくなったところに、雷撃機が殺到した。
エンタープライズやベローウッドは艦隊分離が早かったので攻撃を免れた。しかし、艦載機が払底しており生き残ってもできることは何もなかった。
夕日よりもなお紅く燃えるレキシントンⅡを見たスプルーアンス提督はようやく判断ミスに気がついたが、全ては後の祭りだった。
だが既に日暮れが近い時刻であり、角田艦隊の空襲はこれで終わりだった。
そして日米艦隊の距離が極めて接近していたことから、スプルーアンス提督は夜戦での敵艦隊撃滅に全てを賭けることになる。
ホワイトハウスは、
「如何なる犠牲を払ってでも」
と前置きした上でハワイ防衛を命令しており、撤退は許されなかった。
それに水上部隊では、特に戦艦の数ではスプルーアンス艦隊は角田艦隊に勝っており、両艦隊の距離が極めて接近していたことから、戦いは夜間砲雷撃戦にもつれ込んだ。
角田艦隊もまた夜戦は望むところであり、艦隊から空母を分離してハワイ沖で日米水上艦隊が激突することになった。
この時、角田中将は座乗艦の大和を第一戦速で敵がいる方向へ突進させ、
「全艦ワレ二続ケ、遅レルモノハ置イテイク」
という闘志の塊のような電文を発した。
戦闘は、お互いの水上偵察機による索敵、さらに前衛の駆逐艦同士の衝突から、それを支援する巡洋艦同士の砲撃戦を経て、戦艦同士の砲撃戦へと移行した。
この時、米海軍戦艦部隊は2つに分かれていた。
高速のアイオワ級戦艦4隻と旧式低速戦艦部隊6隻とである。
ワシントンやオクラホマといった軍縮条約時代の旧型艦はどれだけ急かしても20ノットが限度であり、33ノットのアイオワの展開速度についていけなかった。
撃沈されたレキシントンⅡから戦艦アイオワに移って指揮を執るスプルーアンス提督は、ジェットランドスタイルで戦うつもりだった。
高速の巡洋戦艦部隊を使って主力の前に敵艦隊をおびき寄せ、包囲殲滅するのである。
戦艦の数では、4対10であり、戦力差は2倍以上だった。
速度差を踏まえつつ数の有利を最大化する戦術としては、極めて常識的な発想だった。
スプルーアンス提督に誤算があるとしたら、彼の敵が帝国海軍最強最大の戦艦部隊である第一戦隊”大和戦隊”だったことだろう。
戦力誘引のため戦艦アイオワ、ミズーリ、ニュージャージー、ウィンシスコンは第一戦隊の戦艦大和、武蔵、信濃、甲斐に砲撃を開始。
時刻は現地時間22時52分のことだった。
海戦において個艦の性能の優劣はさほど意味がないとされる。
しかし、同数で正面から激突したハワイ沖夜戦では、大和とアイオワの性能差がストレートに反映されることになった。
46サンチ砲に対する対応防御を持った大和型を相手に、同数で挑むことになった16インチ砲搭載艦のアイオワ級は、鉄の壁か何かに激突したかのようにボロボロにされていった。
長砲身16インチ砲と大重量弾(SHS)の組み合わせは、相手が自艦と同じ16インチ砲搭載戦艦なら有効だったかもしれないが、18インチ砲に耐える大和には通用しなかった。
逆に大和の主砲はどこに命中しても、必ずアイオワの装甲を貫通し、艦内に何らかの大損害を齎した。
また、両者の電子戦装備にも格差があった。
アイオワ級は米戦艦で初めて水上レーダーを搭載し、夜間レーダー射撃が可能となっていたが、大和型もまた夜間レーダー射撃が可能であり、しかも自動追尾式というより高度なものを搭載していた。
トランジスタ電算機によって高度な砲術計算を瞬時にしかも正確に行える大和型に対してアイオワのレーダー射撃は、レーダーと砲システムが分離しており、人力でレーダーから得た情報を機械式アナログ計算機に入力して射撃諸元に使用するものだった。
当然、情報伝達の際に誤差やタイムラグが生じることになる。
結果として砲撃の命中率において、日米の格差は3倍に達しており、しかもその全てが確実に相手の装甲を貫通する18インチ砲弾なのである。
16インチ砲弾を跳ね返しながら突進する大和戦隊は角田中将の闘志が乗り移ったかのように攻撃的で、荒々しく、暴力的だった。
大和などは航路を横切る形で現れた米駆逐艦を体当たりで引き裂き、押しつぶして撃沈している。
大和戦隊にとって、この戦いは長年に夢見てきた艦隊決戦の晴れ舞台であり、同時に卑劣な騙し討ちで殺された姉達の復讐を果たす最初で最後の機会だった。
戦意と復讐心の塊となった大和戦隊は遮二無二に突進し、近づく全てを18インチ砲で薙ぎ払って退避するアイオワ戦隊を追撃した。
だが、それこそスプルーアンス提督の思惑どおりであり、半壊しながらもアイオワ戦隊は主力部隊の前に大和戦隊を引き釣りだすことに成功した。
大和戦隊の前に完全な丁字を書いた戦艦ワシントン以下主力戦艦部隊が出現した。
包囲網は完成した。
「勝った!」
と戦艦アイオワの司令塔でスプルーアンス提督は叫んだとされる。
だが、大和戦隊はそのまま正面の主力戦艦部隊へ直進し、14インチ砲弾の釣瓶撃ちを弾き返しながら中央突破に成功。
反撃で戦艦オクラホマとネヴァダを爆沈させ、カルフォルニアを大破させた。
これが海戦史に名高い、
「カクタ・チャージ」
である。
突破時点で、米戦艦部隊はミズーリ、ニュージャージー、オクラホマ、ネヴァダ、カルフォルニアを失っていた。
対して大和戦隊から戦没艦も、それどころか落伍艦さえなく、全艦がまんべんなく米国製14インチ或いは16インチ砲弾を浴びていたが、主砲も主機関も全力発揮可能だった。
戦隊旗艦の大和は大量の砲弾を浴びて、高角砲群や機銃座が全滅し、大火災が生じていたが、主砲発射には全く問題がなかった。
大和戦隊の中央突破成功により、米戦艦部隊は分断され、各個撃破の危機に陥った。
突破成功の12分後に戦艦テネシーが袋叩きにあい、22分後に戦艦アイオワが機関停止させられ戦列から落伍した。
大傾斜した戦艦アイオワから撤退命令が出されたのは、突破成功から35分後のことである。
そして、それがスプルーアンス提督の出した最後の命令となった。
もしもこの時、スプルーアンス提督の手元に条約時代の旧式艦6隻ではなく、大和対抗艦であるモンタナ級5隻があったのなら、大和戦隊の中央突破は成功しなかっただろう。
高速戦艦のモンタナ級5隻、アイオワ級4隻の艦隊であったのなら、大和戦隊はもっと早い段階で壊滅しており、ハワイ攻略作戦は失敗に終わった可能性が高かった。
だが、モンタナは未だに東海岸で建造中であり、この戦場にはいなかった。
速度差が大きすぎて連携がとれない低速戦艦と高速戦艦の連携には無理があり、最終的に各個撃破に終わったのである。
それがジェットランドスタイルの結論であり、それが繰り返されただけだった。
仮にアイオワが低速戦艦部隊と歩調を併せて大和部隊と戦っていたのなら、もう少し違った展開があったとされる。
しかし、その場合は電探射撃などで優勢を築いていた日本軍水雷部隊により、米水雷戦部隊が壊滅し、大和部隊と撃ち合う米戦艦部隊に酸素魚雷が突き刺さっていた公算が高い。
米艦隊の残存部隊がなんとか戦場から脱出できたのは、アイオワ戦隊が早期に巡洋艦同士の砲撃戦に介入し、日本重巡部隊が大打撃(鳥海、摩耶が大破)を受けていたからであった。
ただし、低速の戦艦ワシントンの撤退は不可能だった。
殿を引き受ける形になったワシントンの抵抗は凄まじいものだった。
長く米海軍最強の座を誇ってきたワシントンは10発以上の46サンチ砲弾に耐え、大火災により全ての弾薬庫を注水して戦闘不能になるまで砲撃を続けた。
比較的早期に戦闘能力を喪失したアイオワに比べてワシントンのタフネスはその長い艦歴の最後を飾るにふさわしいものであった。
なお、このような異常なタフネスが発揮できた理由としては、旧型のワシントンは設計技術が未熟だったゆえに、過剰なまでに強度を与えられていたことが大きかった。
新世代のアイオワ級は洗練された防御構造を持っていたが、そうであるがゆえに設計限界を越えるダメージには耐えられなかった。また、耐える必要もなかった。
そもそも実質的には巡洋戦艦であるアイオワには、大和型戦艦との正面戦闘は本意ではなく、それはモンタナ級の役割であった。
つまるところ、日米の建艦計画の優越こそが勝敗を決したといえる。
ハワイ沖海戦において、米太平洋艦隊は最終的に正規空母6隻、戦艦10隻を失う大敗を喫し、壊滅。ハワイ救援は絶望的となった。
損害を顧みない日本軍の猛攻によりダイヤモンドヘッドまで追い詰められた米陸軍部隊が降伏し、ハワイが陥落するのは1941年12月25日のことである。
米海軍主力艦隊は壊滅し、ハワイが陥落したことを受け、イギリス政府は遂に対米宣戦布告を決意した。




